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第三幕〜空白の5年間 リュカ〜

86 【リュカ】ノックの音

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どれほど後悔しても、時をさかのぼることはできない。
幼子でも知っている。
だが、誰もがねがう。
時をもどしたいと。

それは車窓から見る景色に似て、まがりかどではゆっくりと、障害物がなければぐんぐんと勢いをまし、振りかえれば、もうそれは過去になっている。
もういちど戻ってやりなおすことは、できない。

あのとき、別の選択をしていれば。
そうすれば、いまはもっと良い未来になっていたのかもしれない。
目のまえを勢いよく流れていく風景は夢みた未来と同じものだろうか。

そうであればよかったのに。
風が吹けば壊れるほどもろい、胸に咲いた花は、まるでガラスのように粉々に砕け散り、時の流れとともに後ろへ、後ろへと風に飛ばされ去っていく。
必死で手を伸ばし、くだけたかけらをつかむと、指先から入り込んだ痛みは全身に広がり、涙となって俺を苦しめた。

見ないふりをするべきだったんだろうか。
それとも理解できるふりをすべきだったんだろうか。
いままでと同じように。
頭ではわかっているつもりだった。兄は、唯一の嫡男であり、後継者を残さなければならない。
そして、俺は産めない。
産めたとしても血が繋がった兄弟だ。お話にならない。
でも。

よそゆきの兄の顔も、優しげに笑う表情も。
俺だけのものなのに。
だが、誰もが二人を祝福する。
公爵家の優秀な嫡男と美しい伯爵家のご令嬢。
絵に描いたような美しい二人。

笑顔で祝福し、いつでもイネスを歓迎するふりをつづけるべきだった?
そうすれば、いまでも「幸せ」でいられた?

絶対にいやだ。

一寸先は闇か。それとも極楽か。
誰にも、わからない。

ただ、いつも切り立った崖に指先だけでつかまっているような、海の中、寄る辺もなく溺れ続けているような、不安と怖れとわずかな期待の混沌にあり続けることはあまりにもつらい。


兄の遠慮がちなノックの音はまだ耳に残っている。

「リュカ、リュカ」

兄の声は懇願するように、時にいらだちをこめ、そして悲しそうに響いた。
兄に会いたい。
でも、二度と会いたくない。

相反する気持ちに引き裂かれ、心は迷いつづけた。
このまま、兄の元に戻りたい。兄は喜んで受け入れてくれるだろう。だきしめて、口づけてくれるだろう。
でも、その先は?

考えてみれば、弟妹たちと兄としていたようなキスをしたいと考えたことはいちどもない。
兄弟の親愛の情を示すには、兄との口づけはあまりにも親密で、そして秘密めいていた。
ゾクゾクするほど刺激的で、その先が知りたい。

何よりも、兄が同じことを他の人間とすると想像するだけで、身体中が切り裂かれたように思えた。
この、からだのまんなかに、ぽっかりと空いた真っ暗な空洞を抱えたまま。これから、どうやって生きていったらいいのかわからない。
あいつさえいなければ。
イネスに飛びかかり、顔に爪を立て、その幸せそうな笑顔を引き裂いてやりたい。

でも、できない。
兄が望まないから。
イネスは、誰もが認める、兄のパートナーで、未来の配偶者だから。

これからの長い未来、兄とイネスの姿を見せられ続ける?
まるで、完璧な一対の人形のように美しい二人を?
世界がひっくり返ったとしても、自分がそうはなり得ないと知りながら?
いつか時が経ち、兄の右腕になれたとしても、夜はイネスの元に送り出すのだ。
平静な顔を装いながら、心は血を流すに違いない。

その未来はあまりにもつらい。

俺は、逃げた。
兄と共にいる未来から。
兄とイネスが光り輝く婚約者同士として過ごすであろう学園生活から。
兄とイネスは毎日ともに昼食をとるのだろうか。まさか同席させられたりはしないよな?
考えただけでも、ゾッとする。

兄のノックの音はしばらくつづいたあとしずかになり、そして、遠ざかる足音さえも聞こえなくなった。

もう、来ないでほしい。
明日も来てほしい。

俺は、ベッドにもぐりこみ、頭を抱えた。

会いたい。
会いたくない。

心と体がバラバラになってしまいそうだ。
両手で耳をふさぎ、体を丸めて両肘と膝をよせた。
ぎゅっと目を閉じ、時間が経つのを待つ。

学園に行く日が来れば忙しくなれるだろう。
早く、早く、時が流れますように。
ただそれだけ。


「リュカ、開けてくれ。話をしよう」

その後も兄は忙しい日常の中、時間を見つけて通ってくれた。
とりつくろったように明るい兄の声は、むなしく廊下にひびく。

「リュカ・・・」

明るいはずの兄の声が震えた。

「ごめん」

ドアに耳をくっつけて、耳をすましていないと聞こえないほどの小さな声。
にいちゃん、まさか、泣いてる?
俺、にいちゃんを悲しませたかったわけじゃないんだ。
ただ、悲しくて、つらくて、未来が怖くなっただけなんだ。
にいちゃんが嫌いなわけじゃない。きらいになんて、なるわけない。

「にいちゃん?」

そっとドアを開けると、そこにはもう、誰もいなかった。
ただ、冷たいがらんどうの廊下だけが、やけに俺を拒絶するように感じられた。
窓の外からは湿った土の匂いが雨の訪れを伝えていた。

その日から、兄が俺の部屋を訪れることはなくなった。




****************************************************


大変お待たせいたしました。最終章始まります。
お待ちいただいた方、五体投地でお礼申し上げます!!
ここからは、多少視点が変わりながら一本の時間軸で進んでいきます。

そして、ラストへのご意見もありがとうございました。
貴重なご意見をいただき感謝感激です!

笑えるほど、意見が真っ二つに別れまして、どうなることやら。お楽しみに。
すごく迷っていたんですけど、自分の中では最後まで固まりました。
これも女神様(コメントをくださった読者様)のおかげです。

ただ、長くなってしまいそうなので、長くなりすぎないように、エピソードをそぎ落としたりしないといけないんですけどね。(こねすぎです)
あと、すでに公開していた分の書き直しもできていないので、これから加筆・削除を進めたいと思います。
ストーリーには影響ありませんので、ご安心ください。

これ以上のおしゃべりは、拙作エッセイ「藍音のたわごと」にて!

女神様、コメントありがとうございました。とても元気付けられましたし、最後納得してうなってくれるといいな、と思ってます。非公開扱いのため、直接お礼が申し上げられませんので、この場をお借りして、感謝させていただきます!!
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