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第一幕〜リュカ〜

4 5歳 母

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そのとき、俺はたったの5歳だった。
母と弟と妹が俺の世界のすべてで、そしてその世界はとてもあたたかく、居心地がよかった。

だが、その日は違った。
ドアの向こうから聞こえてくるのは母のか細い泣き声。
ドアを開けることは禁じられていて、俺はかけよって母をなぐさめたいきもちと、迫りくるなにかにおびえる気持ちでどうしたらいいのかわからなくなっていた。

「どうか、もう少し・・・もう少しだけ、お許しいただけませんか」
「お前にはわからないだろうが、もう潮時だ。これ以上は待てない」

硬い声で答えるのは、母の「旦那様」だ。
「旦那様」が来たらすぐに子どもたちは寝室に移動し、旦那様が帰るまでは一歩も出てはならない。それが、この家のルールだ。だが、今日は不穏な気配を感じてこっそりと寝室を抜け出し、ドアの前で聞き耳を立てていた。

「でも、まだあの子には母が必要な年です」
「愚かなことを。町民であればあと2年もすれば奉公に出る年だ。これ以上遅れては教育が間に合わない。そのぐらいは分かってもいいはずだ」
「でも、まだあの子は甘えん坊で、一人では寝られないんです」

旦那様が何かを言ったが聞き取れなかった。部屋の中からは母の泣き声といらただしげな「旦那様」の声だけがきこえてきた。母が旦那様に反論したことは、いままで一度もなかった。
一体何が起きてるんだろう。

うちには「父親」はいない。だが、弟妹きょうだいはいる。毎日家に帰ってくる父親はいないが、家もある。
野菜も肉も配達され、困ることはない。
母はいつも家にいて、綺麗に着飾り、俺たちの世話だけをしている。
手伝いの女の人もいるし、それが当たり前だと思っていた。

ただ、「旦那様」はいた。

突然やってきてはいらただしげにドアを叩く。母は喜びと困惑の入り混じった複雑な表情になり、俺たちを子供部屋に押し込む。
俺たちが移動に手間取っていると、ドアを開けて入ってきた旦那様は俺たちには目もくれず、母の腕を掴み、引きずるようにして奥の部屋に消えていく。旦那様は、俺にとって恐ろしい存在だった。

母の泣き声はまだ聞こえていた。
旦那様はまだ帰らないんだろうか。俺が母を慰めてあげたいのに。不安で胸がどきどきした。
ドアに耳を寄せ、中の様子を聞こうとすると、突然ドアが開いた。

ピカピカに磨かれた革靴とステッキ。
そろそろと見上げると、背の高い男が俺を見下ろしていた。
突き出た頬骨とがんこそうな顎。濃い金髪と冷たい青い目が印象に残る。
金糸を織り込んだコートと仕立てのいいズボンは、このあたりでは見たこともなかった。

(殴られる・・・!)

貴族の前では俺みたいな平民の子どもは虫けらだ。
あわてて部屋の奥に後ずさると、旦那様は不快そうに口元をゆがめ、何も言わずにドアを出た。
同時に馬車が家の塀の前に横付けされる。
どれほど、偉い人なんだろう・・・俺はお叱りを受けないように、そっとドアを閉めた。

旦那様が来たときしか使わない部屋のドアを押すと、大きな乱れたベッドの上で、母は顔を両手にうずめて泣いていた。

「かあちゃん?」小さな声で話しかける。母は俺に気づくと、わっと大きな泣き声を上げた。
「・・・かあちゃん?大丈夫か?痛いことされたのか?それとも意地悪なことをいわれたのか?」
俺が母の手の甲に手のひらを重ねると、母は俺をぎゅっと抱きしめた。
「リュカ・・・かわいい、私の息子・・・」
母の涙が俺の頬をぬらし、俺はしがみつくようにして母を抱きしめた。


その日の夕食は俺の好きなチキンだった。
ただ焼いて塩と胡椒をかけただけの単純な料理に甘い人参。
そして母は俺に一番大きい肉を取り分けてくれた。

まだ涙の残る目に精一杯の笑みを浮かべながら、楽しげに話す母。

(もう、悲しくないのかな?)

幼い俺はホッと胸をなでおろした。

「リュカはショコラが好きだったわね?」

ショコラは甘いカカオの味がする贅沢な飲みものだ。めったに飲ませてもらえないけど、一度飲んだら忘れられない味だった。

「うわあ」

コトンと俺の前に置かれたショコラの入った椀を兄弟全員でのぞきこむ。

「今日は、リュカ一人で飲みなさい。いいのよ、リュカ」

気が引けてちらりと弟妹を見ると、母がにっこり笑って俺をうながした。



その日の夜。
いつものように、4人で並んで寝た。母の両隣に弟と妹が寝て、俺は一番小さい弟を守るようにベッドの端で寝る。
ただ、その日に限って、俺は妹と場所を交代して母の隣で寝るように言われた。
ショコラに母の隣に・・・嘘のような幸運に、ドキドキしながら床につく。
弟が生まれてから一度も母の隣で寝られたことなんてない。
俺は嬉しくて、母のいい匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
温かい母の体と優しい呼吸音・・・そのまま飲み込まれるように眠ってしまった。


幸せな時間だった。


今でも、忘れられないほど。




目を覚ますと、たったひとりだった。
それどころか、住み慣れた家ですら、なかった。
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