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3章 約束

#4-3.眠り落ちる皇女のゆらめき

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 怒りの中わずかに生まれた沈黙。
ギィ、と静かに音がなる。
それはとても小さく、その一瞬がなければ聞き落としていたような些細なものであった。
「姉様……?」
小さな声が聞こえ、二人は振り向く。
トルテがそこに居た。ドアの隙間から恐る恐る顔だけを覗かせ、様子を窺っていた。
「トルテ……」
「あぁ、やっぱり。姉様!! 良かった、私ずっと心細くて!!」
エリーシャがその名を呼ぶと、トルテは部屋から出て駆け出し、エリーシャに抱きついてきた。
「わっ、と……」
「もう、中々帰ってきてくださらないし、変な男の人が部屋の前にずっといるし……」
「へ、変な男の……人……?」
愕然としたのは王子である。
愛する相手に名前すら覚えられていなかった事実に、真っ白になっていった。
「大丈夫よトルテ。大丈夫だから。それから、流石に変態呼ばわりは可哀想だわ。仮にも貴方の元婚約者よ?」
さりげなく追撃する事も忘れない。
「えっ? そうなのですか? 婚約者って……サラバン王子……でしたっけ?」
薄っぺらそうな名前であった。
「さ、サバランです。あの、タルト様、こうして会うのは初めてですが、その――」
とはいえ、偶然なりとも顔が見られ、王子のテンションは上がっていた。
同時にのぼせあがり、噛み噛みでアプローチしようとする。

「あ、あの……ごめんなさい。私、男性苦手ですので。結婚する気もないので、もう二度とこないで下さい」

 エリーシャの後ろに隠れながらトルテが放った言葉は、再び王子を白化させた。
「そんな事より姉様、姉様のお話を聞かせてください。ずっと会えなかったのだから、その分だけいっぱいいっぱい聞かせてくださいね」
言いながらぎゅう、と背中から抱きついてくる。スキンシップが過剰気味であった。
「ああ、うん、解ったわ。それじゃ、殿下、そういうわけですから、失礼しますね」
突然フラれた王子に若干同情しながらも、とりあえずトルテがまずい事になっているらしいのを感じ取り、部屋に入ることにした。
一見いつものトルテに見えなくも無いが、精神的にかなり余裕がないらしいのは表情や言葉の容赦のなさで見て取れた。
スキンシップが激しい時は特に危険域で、対応を間違えれば突然癇癪を起こしたりしかねない狂気を秘めているのだ。
どれだけ彼女が追い詰められていたのかを察するには十分すぎる材料であった。


「た、タルト皇女……」
一人残された王子は、しかし妙にそわそわとしながら、トルテが去った後のドアを眺めていた。
「あんなに美人になっていたなんて……どうしよう」
惚けていた。顔を真っ赤にしながら、トルテの困ったような表情を思い出し、熱くなっていた。
「『もう二度とこないで』って……でも、この気持ちはどうすればいいんだ。変人呼ばわりされてショックなはずなのに、この胸の鼓動は何だ……?」
わなわなと震える肩。信じられない感情に気づき、それを否定したいと思いながらも無視しきれない現実。
愛情とは別の、全く違う新しい感情に戸惑いながら、王子は立ち尽くしていた。




「ねえトルテ、貴方の為に本を買ってきたのだけれど、読む? リーヴェの詩集の新作なんだけど」
あふれ出かけていた狂気で興奮気味になっていたトルテをなだめながら、エリーシャはバッグから本を取り出す。
「まあ、リーヴェのですか? 姉様、私の為に……」
頬に手を当て、嬉しそうに微笑む。渡された詩集を受け取り、大切そうに胸に抱きしめた。
「いや、抱きしめてないで読みなさいよ」
その様に、エリーシャは思わずツッコミを入れてしまった。
「ふふっ、ごめんなさい。姉様から頂いたものだから、嬉しくてつい」
等と可愛らしい事を言ってはにかみ、トルテは詩集を開いた。
「『リーヴェ・時の詩』」
わざわざ音読する必要も無いのだが、トルテは声を出し読み始めた。
注意するのも疲れ、エリーシャはそのまま音読会を受け入れる。


 時とは取り返しのつかないもの
幸せな時 辛い時 哀しい時 色々な時がある
失敗したと感じる事があるかもしれない
やり直したいと思う事もあるかもしれない
けれどそれは決して無駄なものではなく
いずれそれを乗り越える誰かの為の一本の道に過ぎない

 時とは運命であり 運命とは数ある中の もっとも長く続く道への選択肢
時は留まる事の無い水のようなもので 気がつけば流れてしまい 気が付けば溢れそうになる
時とは川のようなもので 儚く 優しく そして恐ろしいもの
人を癒す事もあるだろう 人を傷つける事もあるだろう そうして 人は時に飲まれていく

 時とは取り返しのつかないもの 変えたいと願っても変えられず やがて人は消え往く
けれどそれは決して無駄な事ではなくて
川は その時を乗り越える誰かの為に流れる一本の道に過ぎない

 自分の運命は変えられない 自分の時は巻き戻せない けれど 水は水と混じり分かれる
幸せな時 辛い時 哀しい時 色々な時が混じり 誰かの時は変わっていく
失敗すら成功に変えて やり直したいと感じない時を過ごせるように 私は眠る

 目が覚めたら きっと私は幸せになっていると願いながら


「『水は水と混じり分かれる』」
「何か気になったの?」
読み終わり、何か腑に落ちないのかぼそりと呟いたトルテ。
しかし、「いいえ」と首を振り、次のページを捲った。

 それからしばらくの間音読会は続いたが、ふとした所でトルテは詩集を閉じ、終わりを告げた。
「眠くなりましたわ。お昼寝しませんか?」
小さく欠伸などしながら、トルテは小さく背伸びし、震えた。
エリーシャもただ聞いているだけであまり話さなかったので眠くなっていて、それには同意であった。
「中々甘美な誘いね。私も眠くなってきたから丁度良いけど」
椅子から立ち上がり、トルテのベッドに腰掛ける。
「侍女の人呼ぶ? ドレスのままで横になる訳にも行かないでしょ?」
「んぅ……このまま脱いで、裸でもいいですよ?」
「侍女の人呼ぶわね」
よほど眠いのか、なりふり構わなくなってきているので、早急に侍女を呼ぶことにした。
幸い部屋の外には侍女が控えていたので、一声かけるとすぐさま部屋に入り、トルテの着替えは完了したのだった。

「姉様、私、色々勉強しようと思うんです」
二人、横たわりながらさあ寝ようかと静かにしていると、トルテがぽそりと呟いた。
「何の勉強? 必要な本があるなら買ってきたり借りてきたりするけど」
一応真面目なものらしいと思ったので、エリーシャは茶化さずに応えた。
「ん……世界のこととか、歴史の事とか……色々、知りたいです」
「そう、じゃあ今度グレープの図書館に行ってこようかしらね」
引きこもりがちなトルテが、書物とはいえ世界に興味を持つのは決して悪い事ではない。
広い世界を知り、少しでも興味を抱いてくれたらと、それを元に少しでも前向きになれたらという願いもあって、エリーシャは快く引き受けることにした。
「ありがとうございます姉様。やっぱり姉様は頼りになりますわ」
幸せそうに微笑むのが見えて、エリーシャもわずかばかり心が癒された。
「私、姉様の役に少しでも立ちたいのです。だから、まずは自分の住んでいる、この世界の事を知らないといけないと思って」
世間知らずな自分をある程度自覚しているのか、はたまたそれすらも不安定な彼女が夢うつつな中口ずさんだだけなのか。
姉が髪をそっと撫でていると、トルテはほどなく、夢へと落ちていった。

 こうして共に寝るのも久しぶりね、などと思いながらエリーシャも眠りに落ちる。
そうかからず、再び戦地に行かなくてはいけないのを思い出しながら。
それをいつ伝えようか考えるのはとりあえず後にして、彼女は、今はただ、のんびりと過ごしていたかったのだ。
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