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母との訣別
しおりを挟むその翌日、仕事中の私に受付から内線が回ってきた。
「英さん、受付にお母様がいらしてます」
(……会社に来たの? てっきり帰りを待ち伏せすると思ってた)
大丈夫、こういう場合も何度も脳内シミュレーションしてある。向こうがどう出るかわからないけどやってみよう。
「ごめんなさい、母とは会わないことにしているんです。会わない、と伝えてもらえますか?」
「……わかりました。そう伝えます」
ふう、とため息をつくと隣の席の先輩社員が心配そうに尋ねてきた。
「英さん大丈夫? お母さんと会わないって聞こえたんだけど……」
「ええ……親同士はとっくに離婚してますし、私も縁を切ろうと思ってるんです。だから会いたくなくて」
「そう……わかるわ。私も親に悩まされているから」
いつも優しくてきちんとしている先輩にもそんな悩みが? 意外だったけれど、優しいからこそつけ込まれてしまっているのかも、と感じた。
再び内線が鳴る。
「ごめんなさい英さん。お母さん、会わせろって騒いでるんです。どうしましょう?」
(やっぱり、顔を出さなきゃだめね)
深呼吸して立ち上がる。
「待って、英さん。私が代わりに行くわ」
「えっ」
「あなたは会ってはだめ。会えば取り込まれるから、私が行ってくる」
「そんな、そんなこと先輩にさせられません!」
「いいから。たまには先輩に頼りなさい」
「先輩……」
「だったら、上司にも頼ってほしいもんだな」
「課長!」
いつの間にか経理課長が後ろに立っていた。課長は昔ラグビーをやっていただけあって背が高くがっちり。かなり圧の強い外見をしている。
「なんとなく事情は伝わってきた。どうせならゴツい男が出て行ったほうがいいんじゃないか」
先輩は顔を輝かせて、そうよ、その手があったわと喜んでいる。
「英くん、もうお母さんは出禁ということでいいんだな」
「はい。お願いします」
私は深く頭を下げた。課長は軽く手を上げて受付に向かう。その後ろ姿を見送って、先輩にも頭を下げる。
「……先輩、ありがとうございます」
先輩は柔らかく微笑んだ。
「英さんはいつも一人で何でもやってしまおうとするから……まあ仕事ができるからしょうがないけど、困った時くらい、周りを使えばいいのよ?」
「はい……」
人に迷惑をかけないことばかり気にして、浅い付き合いしかして来なかった。こんなに素敵な人たちに囲まれていることに気がついていなかったなんて、私は馬鹿だ。
しばらくして課長は首を振りながら戻ってきた。
「課長、すみません……! どうでしたか……?」
「いやぁ、なかなか強烈なお母さんだったよ。君に会わせろ、これは誘拐だ権利侵害だと、思いつく限りの暴言を吐いていたね」
「……っ、申し訳ありません!」
「いや大丈夫。本人が会いたくないという意思を示している以上、社としては社員を守る義務がある。これ以上騒ぐなら警察を呼ぶと言ったら、ようやく帰ったよ」
先輩が私の背中をゆっくりと撫でてくれた。落ち着いて、と囁きながら。
「本当にありがとうございます。私が言わなければならないことなのに」
「いやあ、あれはダメだね、話にならないよ。受付の子にも言っておいた。もう今後は内線を繋ぐ必要ないってね」
「……ありがとう……ございました……」
たくさんの人に協力してもらって社内に入ることは阻止できた。あとは、帰り道だ。きっと来る。絶対に。
定時に会社を出て辺りを見回す。とりあえず、見える範囲には母はいない。
(早くけりをつけないと、毎日これでは身が持たないわ)
駅に向かって歩き始めると、どこにいたのか突然母が目の前にあらわれた。
「月葉。あんたいい加減にしてちょうだい」
「お母さん……」
母は額に青筋を立てて怒りの表情をしている。私が一番怖かった顔だ。
「ずいぶん恥をかかせてくれたわね。親子なのに警察呼ぶとまで言われて。あんたと同じであんたの上司も常識が無いったら。相手させられて疲れ果てたわ。早くお金を出しなさい。もう帰って休みたいのよ」
イライラした雰囲気を全身から漂わせているのもいつも通り。こうすれば私が怯えて言うことを聞くと思っているのだ。
「常識が無いのはお母さんのほうだと思うわ」
「な、何ですって?」
「娘の会社に押しかけて大騒ぎして。恥ずかしいのはこっちよ」
「あんた、いつからそんな口きけるようになったのよ!」
「もう、お母さんに対して我慢するのやめたの。今後一切会わないわ」
すると母はますます顔を真っ赤にして怒り出す。
「何て親不孝なんだろう! 大学まで出してやったのに、恩知らず!」
私ははーっと大袈裟なため息をついてみせた。
「学費を出してくれたのはお父さん。お母さんじゃない」
「あんたを大きくなるまで育ててやったわよ!」
「ご飯作ってくれてたのもお父さんだし、小学校高学年になってからは私が家事を担ってたよね。お母さんは何もしてなかった。産んでくれたことだけは感謝してるけど、それ以外はマイナスばかりだわ」
「つ、月葉!」
母が右手を振り上げた。平手打ちしようとしているのだ。殴られる、と思った瞬間私は左手を出して母の手を掴んだ。
(……えっ?)
母も、驚いた顔をしていた。こんなにあっさり私に防がれると思わなかったのだろう。
(急にお母さんが小さく見えてきた……今なら、言える。私の気持ち)
「お母さん。私は、ずっと陽菜に比べて可愛くないって言われて辛かった。愛してもらえなくて、離婚の時もあんたはいらないって言われて、自分に価値を見出せなくなってた。でももういい。お母さんの評価は必要ない。私の人生にもう金輪際関わってこないで」
「こっ、このっ……! 母親にこんな態度を取っていいと思ってるの! こっちこそ、あんたみたいな可愛げのない子はいらない! もう顔も見たくないわ!」
「どうぞご自由に」
それだけ言って母の横をすり抜け、駅へと歩き出した。追いかけてくるかと思って背中に神経を集中していたけれど、それはなかった。
足が震えている。涙も出そうだ。でも私は泣かない。
(言いたいことは言った。もう母のことは考えるのをやめよう。私は、私を大事にしてくれる人たちを大切にしていく)
お父さん、おばあちゃん、会社の人たち、そして悠李。私にとって必要で、大好きな人たち。
過去と離れ未来が明るくなった気がして、私は顔を上げて駅へと向かった。
「……月葉!」
「悠李⁈」
駅の方角から悠李が走ってきていた。人の流れをうまく避けながら私の目の前に現れる。
「大丈夫だった?」
「うん、今ね、ちゃんと別れてきたよ……」
私が笑うと、悠李がぎゅっと抱きしめてくれた。
「よく頑張った、月葉……」
「うん……ありがと……」
悠李はタクシーを拾い、そのまま家へと向かった。車内で私は今日のことを全て話して聞かせる。
「そうか……会社の人に感謝しなきゃいけないな」
「ええ。おかげですごく勇気が出たの。その後母に会った時も、強く言うことができた」
「ちゃんと断ることができたのは本当に良かった。搾取できると思っていた相手から反撃されるのは、きっとダメージが大きかったと思うよ」
「ありがとう、悠李。あなたがあの時ハッキリ言ってくれたから私も一歩踏み出せた。本当に感謝してる」
タクシーの中で手を重ね、私は悠李を見つめた。そして小声で囁く。(……愛してる……)
悠李も耳元で呟いた。(俺も、愛してるよ……)
街の灯りが流れていく。私たちは指を絡めお互いの熱を感じながら、早く家に帰ることだけを考えていた。
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