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年上のひと

三人

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 今日もアルバイトは休みだった。
 だけど昨日と今日、いつもと変わらずに瓊紅保へ出かけている。
 昨日はクツワダさんに誘われ、そして今日は―――。
「こっち」
 上四元クシナの後について向かった先は駅前のバスターミナルだった。
 一時間ほど前、校門にその姿を認めたときは正直、肝を冷やした。
 アツミさんにはアルバイトのある日を事前に教えていたので、今日休みなのは知っていたのだろう、どこか負の感情を必死に押し殺しているような彼女は一緒に行って欲しいところがあるとだけ口にすると、駅に向かいだした。
 昨日のこと、おそらくヤエガキさんが関係しているんだと思う。それは僕も知りたいことであったので、彼女に従うのはやぶさかではない。ただ、十五夜さんとファミリーレストランに行った夜を境にごく普通に接してくれていた上四元クシナがふたたび、以前のような態度に変わったのが引っかかっていた。気まぐれな彼女のことだから、さほど気にやむ必要はないのかもしれない。しかし、校門前からずっと必要なこと以外は何も話さないといった体で目を合わせようとはしない彼女の背中や横顔を見ていると、やはり居た堪れない気分になってくる。
 バスの窓から流れる景色はよく見慣れたものであった。でも、降りて向かった先は当たり前だけれど、国道沿いにあるアルバイト先ではなかった。
 そこは因縁の場所であった。
 見覚えのある噴水。
 見覚えのあるベンチ。
 明るさも手伝ってあのときと表情こそ違うけれど、あの夜に足を踏み入れた公園だ。人妻さんに誘惑され、その現場をシーナさんに見られた場所。そして―――。
「昨日、ヤエガキに会ったんでしょ」
 思い出ともいえないような未成熟な感傷に浸っていると、渇いた上四元クシナの声が聞こえてきた。
「ウチの学校の女子が友達らしくて、僕を呼ぶように君に頼まれたって聞いたんだ」
 上四元クシナの貌は微動だにしなかった。
ナスコン・・・・には入ったの」
 突然飛び出した奇妙な単語を訝ってると、それまで事務的だった彼女の態度にわずかな動揺が顔を出した。しまった。いかにもそんな感じで言葉を継げないでいる上四元クシナの動向を注視していたけれど、ここは素直に疑問を口にした方がいいような気がして、彼女に問いかける。
「ナスコン……ってなに?」
 観念したようにフッと息をつくと、彼女はナスコンデグリオ、といった。
「イタリア語。意味は隠れ家。ヤエガキたちがたむろしているマンションの部屋のことをそう呼んでるみたい」
 意味は分かったけれど、なぜにイタリア語なのか。顔に出ていたのか、上四元クシナはそのまま続けた。
「シーナはイタリア人の血が入ってるの。それを面白がったヤエガキがいろいろと聞いて符丁気取りで使っているのよ。でも血が流れているっていってもワンエイスだし、そもそもシーナはイタリア語に明るいわけじゃない」
 そこまでいうと、言葉を切った。シーナさんとヤエガキさんの関係はなんとなく分かった。上四元クシナの態度と合わせて考えれば、良好なものではないのだろう。それにしてもシーナさんにイタリアの血が流れていたというのは驚きだった。
「入ったんでしょ、マンション」
 脇道に逸れた苛立ちなのか、上四元クシナはふたたび言動に険を宿らせた。
 頷くと、部屋に上がったのかと訊いてきた。
「ヤエガキさんに上がってっていわれたんだけど、いるはずの君の靴がなかったから怪しいなと思ったんだ。特徴的じゃない、そのローファー。そしたらあとから見たことのない制服の人がやって来て、帰らせてもらえたんだ」
 一瞬。ほんの一瞬、彼女が微笑んだ気がしたけれど、錯覚だったとあっさり納得できるくらいにそれはすぐに立ち消えてしまった。
「絶対上がってないのね」
「上がってないよ。それは本当」
 上四元クシナは大きく息を吸い込むとヤエガキは、と語気を強めた。
「友達じゃないから」
 吐き捨てるようにいうと、背中を向けて続ける。
「私はいいけど、シーナやティナがヤエガキたちにバカにされるのは我慢できない。それを分かっててヤエガキはちょっかいをかけてくるのよ。散々あなたを振り回したり酷いことをした私がいえた立場じゃないのは分かってる。でも、自分が大事にしている友達を傷つけられるのは黙ってられない」
 上四元クシナは怒っていた。ただその怒りがどこに向いているのか判然としない。僕に向けられているようで、友達じゃないといい切ったヤエガキさんのようにも思える。あるいはまったく別の誰か、あるいは何かに向いている気もする。
「あなたの人のよさは長所でもあり、短所でもある。それがトラブルを呼び込む要因になっていると思う。ヤエガキのことも、あの人のことも」
 あの人というのがニカイドウさんのことだというのはすぐに分かった。
「今回はあなたの注意深さが危険を回避できたけれど、次も上手く行くとは限らない。たぶんもう大丈夫だとは思うけれど、ヤエガキやその友達だっていうあなたの学校の何某さんには気を許さないで。於牟寺そっちには親しい友人は……いないから」
 どこか躊躇いを含んだ物言いは彼女が垣間見せた弱さにも見えた。
「あの人、人妻さんとはどうなったの」
 牽制するみたいに言葉を重ねてくる。まるで今見せた小さな変化を取り繕うかのように。だけど、彼女の正直な気持ちに思われたし、僕も話すときがくるならそうするつもりでもあったのは事実だ。
 彼女をじっと見つめると、あの日、先週末に学校までやって来たニカイドウさんとの間に起こったささやかな――そう、本当にささやかな事の顛末を話すべく、口を開いた。

               ◇

 話を聞き終えたシーナはしばらくフロアを黙って見つめていた。ホッとしているようにも疑心暗鬼に苛まれているようにも、取りようによってどうとでも取ることができるすごく微妙な顔で。ティナはリングの上、赤コーナーにもたれかかってじっと聞き入っていた。
 ヤエガキの思惑通りショックで休んだシーナは今日、登校してきた。ずっと沈んだ表情ではあったものの、放課後にジムに行くことを承諾してくれた。問題はティナだったけれど、彼女も鬱憤が溜まっていたからだろう、終始無言で不機嫌オーラ全開ではあったけれどついてきてくれた。サンドバッグを凶悪な表情と拳でもって気の済むまで激しく殴りつけ、シャワーで汗を流し終える頃にはだいぶ落ち着いているようだった。
「あいつら、たこつぼに一さん誘いこもうとしたのかよ」
 ティナはコーナーから跳ねるように離れると、こちらを向いた。不愉快そうないつもの・・・・ティナだった。ナスコンをたこつぼ呼ばわりするのはヤエガキたちに対する反発、いや単純にあそこを忌み嫌っているからかもしれない。
「……わ、私たちがいつも一さんのことを話しているから、こんなことになっちゃったんだよね」
 自分のことを差し置いて、一ナナギを思いやる。人がいいのは目の前でしょんぼりしている親友も同じ、か。
「シーナも一さんも犠牲者じゃない。悪いのはヤエガキのバカだ」
 吹っ切れたようにリングから飛び降りる。まだ渇き切っていないティナの髪からはいい匂いがした。
「バカはともかく、あっちの人妻さんは本当にあきらめたのかね」
 昨日、一ナナギとの別れ際に聞いた件の人妻との情事とも呼べない一連の騒動の結末は、あっさりしたものだった。

 あれだけのことを仕出かしておいてアルバイト先まで押しかけ、さらに学校までやってきたという人妻さんは自分の気持ちを一ナナギに徹底的にぶつけたという。あの夜、お姉ちゃんとファミレスで話し合いをした内容は聞いてはいなかったけれど、口も表情も重かったお姉ちゃんを見れば、だいたい内容は想像できる。
 聞く耳持たず、を地でいくような態度で反省の色も見せなかった人妻さんは車で人気のないところまで連れ出し、相変わらず一ナナギに子作りを哀願し続け、しかしきっぱりと拒否されると一転、今度は逆ギレし、彼を言葉と暴力でもって徹底的に甚振ったという。
「君みたいな強烈なパンチは持っていなかったから、問題なかったよ」
 他人事みたいに笑う一ナナギを見ていると、今、彼のことで煩悶中のシーナのことが思い出されて当人公認の強烈なパンチを味わわせてやりたくなった。
「いいように暴言を浴びせられた挙句、手まで出されて腹が立たないの」
「……それで気が済むなら、かまわないよ」
 刺客まで放たれて、命を狙われた人間のいうセリフじゃない。やっぱり一発、きついのをお見舞いしてやろうか。
「もう彼女がまとわりつかないって確証はあるの」
 一ナナギはたぶん、と気まずそうにうつむいた。
「ニカイドウさんはアルバイト先を辞めることになったから、おそらく」
 辞めたからといっても、待ち伏せがなくなる保障などない。それは一ナナギ本人だって分かっているはずだ。とはいえ、止める手立てがないのも事実。だからこそ口ごもったのだろうし、責めるのは酷というものかもしれない。
 本当は騙されたとはいえ、ナスコンにのこのこ現われて、シーナに余計な心労を与えた一ナナギに文句の一つでもいってやろう、場合によっては鬱積した気分を拳に乗せて思う存分吐きだしてやろうととさえ考えていたけれど、いざ、当人を目の前にすると、そんな気も失せてしまった。

「どう考えてもストーカー一歩手前の状況じゃない」
 互いに聞きたいこと、いいたいことを終えて、一ナナギと別れた昨日のことをぼんやり思い返していると、ティナの呆れた声がした。
「本当に……一さんのことが好きなんだね」
「好きだから子作り迫って、断られたら切れて暴れるって普通じゃないって」
 どこか同情しているようなシーナにティナがため息をついてみせる。
「に、一さんってやっぱりやさしいよね、それでも人妻さんのこと許すなんて」
「……まあ、そうなんだけどさ。そこをつけ込まれるのも事実じゃない」
 親友たちの一ナナギ評を微笑ましく聞いているうち、週明けの昼休みから私たちの間に流れていたささくれ立った空気は一掃されたような気がしていた。
「なーにニヤついてんだよー」
 そういうティナだってニヤついている。
「すっかり機嫌が直ったなって」
「なによそれ。まるでずっと不機嫌だったみたいないい方」
 ……実際そうだったくせに。
「アツミさんが送るんだし、一さんはきっと大丈夫よね。クシナもいるんだし」
 ヤエガキのことがあってからは同乗していなかった。一ナナギ自身もアルバイトは連休みたいだけれど、次からはどうしようか。
「本当は自分が一さんを守りたいでしょ」
「……そ、それはティナだって」
 意地の悪いティナの言葉にシーナが身を縮こませる。本当にシーナは分かりやすい。
「じゃ、いっそチームでも結成しちゃうか。瓊紅保女子ガーディアンズ、みたいな」
 なんだろう、そのセンス。
「だったらクシナはどういうのがいいのよ」
 名前以前の問題だと思う。
「でも、きっと一さんは迷惑だよね」
 乗り気のティナにいちばん立候補したいはずのシーナが冷や水を浴びせる。
「でも、たまにならいいんじゃない? 近くに食べるところもあるし、彼が仕事終わるまで一緒に待ってさ。お姉ちゃんの車なら五人乗れるし、シーナとティナで後部座席に座って、仲よくサンドイッチしたら?」
「おおー!」
「ええー?」
 同時に上がった驚嘆の声はその響きこそ違えど、歓喜のそれであった。
 私の提案にふたりからは異議の申し立てはもちろん、なかった。
「ねえ、これから何か食べにいかない?」
「いいねー。久しぶりにサンドバッグ相手に汗かいたから何か入れたい」
「私、パスタがいいな。カルボナーラとか」
「太るぞー」
「ティナと違ってシーナは大丈夫でしょ、体質的に」
「なんだと」
 すごく久しぶりの、なんてことのない会話がすごく心地いい。
 ティナの狡猾なジャブを避けながら、シーナと逃げるようにジムを出た。
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