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年上のひと

会偶

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 ロクがいうところの学生最大のイベントである夏休みも間近に迫り、わざとらしいくらいの忙しない空気が学校のそこここに充満するある日、意外な人物に呼び止められた。
 声の主はいつぞやの糞ビッチーズの片割れ、シャギー女だった。内側に跳ねている毛先は相変わらず甲殻類の腹を連想させる。
「久しぶりね」
 同じ学校の同じ棟を日々往来する仲なのだから、時折り見かけてはいた。ただ、こうやって話しかけられるのは確かに久しぶりではある。
「今日さ、友達と遊ぶんだけど一緒に行かない?」
 唐突な誘い、ということもだけれど、あれだけのことをしておいて何にもなかったようによくそんなことがいえたものだと感心する。
「……ひょっとして怒ってる?」
「君たちが十鳥さんにしたことは許されることじゃないよ」
「けっこう執念深いのね」
 どうすればそんなことをしれっと口にできるんだろう。
「いっとくけど、先に手を出したのは向こうよ」
「発端は君にあると思うけど」
「ああ、あのメモ?」
 鼻で笑うと、毛先を弄びながら「で、返事は」と訊いてくる。あの騒動は本気で気にしていないようだった。
「行く理由がないよ」
「そうかなあ」
 視線を合わせずに、勝ち誇ったように尊大さを言に乗せる。
「今日一緒に遊ぶのって瓊紅保の子たちなんだ。知ってるでしょ、カミヨモトって女子。あとツボミとかシホウドウとか」
 意外な名前が出てきた。上四元クシナはともかく、あとのふたりはその上四元クシナから本名を教えられていなかったら、誰それ状態だったはずだ。
「上四元さんたちとは知り合いなの」
「瓊紅保女子に行ってる友達がね。で、その彼女がカミヨモトさんからあなたを呼んでおいてって頼まれたらしいのよ」
 完全に彼女のペースだった。
「で、行くんでしょ」
 こちらの返事も聞くことなく、ぐいっと腕を絡めると、うすいくちびるを歪めた。
「あたし、クツワダっていうの。よろしくね、ニノマエさん」

               *

 シャギー女ことクツワダさんに連れられて向かった先は瓊紅保市にある新築の高級と呼んで差し支えのないマンションであった。駅前でタクシーに乗り込んだとき、十鳥さんを追ってここのやって来た日がフラッシュバックして、ちょっと苦いものが込み上げた。
 エントランスに備え付けられたオートロックに番号を入力、住居者と短い会話を交わして目の前のドアが開かれるというフィクションではよく見かける情景を視聴者のように眺めていると、クツワダさんに急き立てられた。
「来たよー」
 エントランス、エレベーター、そしてドア前とトリプルロック仕様だという高級マンションに似つかわしい強固なセキュリティーをくぐり抜けて着いた先にいたのは、なるほど瓊紅保女子の夏服に身を包んだ女子であった。切れ長で若干釣り上がった目と毛先がバネみたいにらせん状になった髪型、挑発するかのような口元と組まれた腕が印象的で威圧感たっぷりであった。
「……へえ、あなたがニノマエさんか。こんにちは、私、ヤエガキ」
 アタマのてっぺんからつま先までそれこそ品定めされるような視線を浴びせながら、ヤエガキと名乗った女子は身体を寄せてきた。
「か、上四元さんたちの友達なの?」
「クシナは、ね。シホウドウは子供の頃から知ってる。ツボミとは……ライバル関係って感じかな」
 上四元クシナに限定しているのが気になった。
 ヤエガキさんの挑発的なは言動は少しでも油断すれば自分の世界に一気に引きずり込みそうな危うさを感じる。
「なーに考えてるのかなー」
「ヤエガキを警戒してるんでしょ」
 クツワダさんの嘲笑にヤエガキさんの表情に陰が差した。
「……そういうこというわけ」
 するどい眼光で声を落としている友人にクツワダさんが焦っているのが手に取るように分かった。ふたりの力関係を垣間見た気がする。
「ニノマエさん、上がって」
 さっと不穏な陰を消し去り、こちらに微笑みかける。
「上四元さん、いるの?」
「ええ」
 怖いくらいの即答だった。三和土にはいくつかの革靴がある。しかし上四元クシナ愛用の特徴的な厚底ローファーは見当たらない。
 視線を感じて顔を上げると、ヤエガキさんがこちらを見つめていた。
「アガッテ」
 拒否することは許さないといった暴力的な目だった。

「無理強いはよくありませんね」

 突然、かけられた声に全身が硬直するのが分かった。
 立っていたのは一人の女子、というよりも女性と呼んだ方がしっくりくるような人だった。於牟寺のでも瓊紅保女子のでもない、見たことのないその制服は身体のラインにきれいに沿った黒い三つボタンのブレザーでチェンジポケットの付いた上品な仕立てだった。真ん中から左右に分けた胸元まである手入れの行き届いた黒髪はリッチウェーブというのか、軽いカールがかったもので涼しげな目元と相俟ってちょっと大人っぽい印象の人だった。
「……アオイさん」
 リッチウェーブの人が現れたときの驚いた表情、そしてその名を呼ぶヤエガキさんの声音から察するに年長なのかもしれない。その言動には畏怖すら感じられる。しかし、クツワダさんがきょとんとした表情をしていたのが引っかかった。
「あなた、ここまで何でいらしたの」
 アオイという人は極限まで感情を抜き取ったような声で僕に話しかけてきた。見た目や話しぶりは確かに上品だけど、同時にどこか危険な匂いも漂わせている気がした。
「で、電車です。駅からはタクシーで」
 相槌を打つでもなく、じっと聞き入っていたアオイという人はヤエガキさんに目顔で合図を送ると、部屋には入らずそのまま通り過ぎていった。
 他の階へ行くのだろうか、通路を曲がろうとしたそのとき。こちらにチラッと視線を寄越したアオイさんの目はぞっとするほど冷たく、そして美しかった。さっき身体に緊張が走った理由が唐突にかけられた声のせいではなく、その相貌、まとっている雰囲気にあるような気がした。
「送るわ、ニノマエさん」
 けっきょく何のためにここに来たのか分からないまま、ヤエガキさんとマンションを出るとタクシーを呼ぼうかと訊かれた。アオイさんが原因なのか、挨拶を交わした際の余裕はもうどこにも見当たらず、どことなく気落ちしていた。
「また遊びに来てね、ニノマエさん」
 いきなり腕を組むと、明るい声で笑みを見せた。
 態度の急変に戸惑う暇もなく、両腕を掴まれて対面する格好になる。
「……えっ、あの」
「本当は部屋に上がって欲しかったけど、また今度、ね」
 妙に機嫌のいい笑顔で左右に身体を揺すられる。
 しばらくその状態で僕を凝視してきたけれど、そのふたつの瞳に知計は揺らめいているようでそうでもなく、次第に微妙な空気が流れはじめる。
 背後で車がやって来てそっと停まる気配がした。
「きたきた」
 ヤエガキさんは腕を組んだまま車内に半分、身体をねじ込ませて「本当にまた来てね」と念を押していた。
「はい、これ」
 親戚のおばさんみたく手にお金を握らせる。来たときもクツワダさんがごく自然な流れで料金を払っていたけれど、さすがにここまでされる所以はない。
「……いえ、これは」
「いいから、こっちの都合で呼び出したんだし」
 アルバイト料ってことで、と押し切られた。なるほどその額は駅までのタクシー代金にしては多すぎる。
「じゃ、またねー」
 こちらの問い掛けを文字通り遮断するかのようにドアが閉められ、比喩ではなく本当に取り残されたかのような錯覚に陥る。
 リアウィンドウからどんどん遠ざかって行くヤエガキさんを眺めながら、不吉な予感が拭えないまま、車は駅に着いた。
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