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年上のひと

融合

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 かばんからボールペンを出すと、彼女に手渡した。エンピツみたいな細めのペンを眺めた上四元クシナはセンスいいねと感心したようにつぶやいた。
「ナナミさんの趣味でしょ」
 正解。姉が愛用しているものをあなたも使う? と最近手渡されたものだ。
 さらさらとシーナさん、ティナさんの名前やナンバー、アドレスをナプキンに淀みなく記してゆく。
 四方堂椎那、これがシーナさんの名前らしい。
 四月朔日帝子、これはティナさんか。なんだかずいぶんと堅苦しい名前にイメージが被らない。
「つぼみ、っていうの。下はていこ。本名、特に苗字で呼ばれるの嫌うから、本人の前で口にしない方がいいわよ。それと、どうしてティナって呼ばれてるのか、由来を訊くのは絶対NG。最悪、ティナの凶悪な一発の餌食……ううん、間違いなく撲殺されるから」
 くすくすと可笑しそうに笑う。こんな彼女は初めて見る。
「シーナさんもティナさんもボクシング……してるんだよね」
 上四元クシナは上目遣いで僕を見つめると、小さく頷いた。
「店でシーナに会ったとき、彼女に何か話さなかった?」
 あの日、店の前でシーナさんとした会話の内容を思い出そうと試みる。ひょっとしてどこかで傷つけるような発言があったのかもしれない。
「責めているんじゃないのよ。シーナ、あなたに会ったこと喜んでいたし。ただの興味本位で訊いているだけだから、話したくなかったら話さなくていい」
 何気ない会話の流れでシーナさんがあの専用ジムに通っていることが判明し、ティナさんも含めてボクシングの鍛錬に励んでいること、男子相手に拳を揮っていること、フォローするつもりで女子がボクシングをしてても気にしないといったこと……。
「……あ」
 シーナさんはスタイルがいいからボクシングも様になっていると軽口を叩き、微妙な空気になってごまかすみたいに食事に誘ったのだった。
 オレンジフロートのアイスを掬った上四元クシナはやっぱりねという風に相槌を打っては笑っていた。
「シーナは恥ずかしがり屋だから、褒めたつもりでもそうは見えないかもしれない。だから誤解したのね。まあ結果的によかったんだろうけど」
 友人の話になって以降の上四元クシナは初めて出会ったときの挑発的な彼女でもなければ、ついさっきまでの素っ気ない彼女でもなかった。自然な笑顔を絶やさず、とても楽しげなその様は――失礼な物言いだけれど――ごくごく普通の女子高生であった。
「シーナって本当に強いのよ。大人しそうに見える分、余計そう感じるみたい」
「……男子と闘うこともあるって聞いたけど」
「少ない動きでじりじりと相手を追い込む闘い方をするの。気がついたら負けていたって感じかな、相手からすれば。逆にティナはゴングがなる前に本気で殺すとか物騒なこといってはいつも一発で終わらせてる。ティナってもてるのをいいことに勝ったらデートっていう約束で釣って誘い込むのよ。もっとも今まで誰も勝ったことないけど。まさに殺人パンチ」
 それは君にもいえるんじゃないかといいそうになり、飲み込む。お供はクリームソーダ。
「なにかいいたそうじゃない」
 すごくフレンドリーな彼女のその言動はなんだか古くからの付き合いのような気さえしてくるから不思議だ。
「君だって同じ、とかいいたそうね」
 やはり彼女には敵わない。
「実際、君のパンチは女子高生のレベルじゃないよ」
「経験者の発言は重みが違うわね」
 まるで他人事のようにいう。
「でも」
 上四元クシナはグラスを置くと、両肘を掴むように腕を組んで顔を寄せてきた。
「ショックだったのよ、本気の一発で倒れなかったのはあなたが初めてだった」
 あのとき食らったとてつもなく重い左フックが右の頬に鮮明に甦るようであった。続けざまに受けた右ストレートは首から上が吹き飛ぶ感覚さえあった。とどめはボディアッパー。たった三発でキャンバスに沈んだのはもうむかしのことのように思える。
「よくいうわよ。ダウンするまで三発も打たせたのはあなたしかいなんだから」
 こういう褒められ方は素直に受け取っていいものか悩むところだ。いや、そもそも褒めているのだろうか。
「褒めているのよ」
 じっと僕を見つめる眼差しはとてもやさしかった。
「今度、ふたりと手合わせしてみない? ティナなんて最近じゃエッチよりボクシングの方が刺激的で楽しいっていってるの。毎回誘う男子は揃いも揃って1ラウンドももたないから欲求不満気味みたいなのよ。あなたならティナを楽しませてあげられそうだもの」
 直々のご指名は痛み入るけれど、誰が好きこのんでのこのこと殺人パンチの餌食になりに行くというのだろう。
「好きなんでしょう、女子のパンチを浴びるの」
「……それは、ないから」
 ほんとかな、と彼女はオレンジフロートに手を伸ばす。今、この会話を心底楽しんでいるようだった。
「そういえばモチヅキさんだったかな、帰って来ないわね」
 上四元クシナの言葉を聞くまですっかり忘れていた。行ったはずのサーバーの方を見ると果たしてモチヅキさんはこちらを眺めつつ、なにやらちびちびと飲んでいた。
 その佇まいはやはり、西部劇に出てくる用心棒そのもの。
 目配せをすると、待ってましたとばかりにグラスを上げ、戻ってきた。
「いやいやいや、盛り上がっていたようじゃないか」
「すみません、気を使わせたみたいで」
 アタマを下げる上四元クシナにモチヅキさんは人懐っこい、いつもの笑みで気にすることはないよと不思議な色の飲み物をひと口飲んだ。
「それは……なんですか」
「メロンティーだ」
 名前からしてメロンソーダとアイスティーを合わせたのだろう。
「そういうメスコラーレはシーナもよくしてる」
 ……め、めすこらーれ? 聞き慣れない名前だけれど飲み物だろうか。
「イタリア語かな。流れから察するに混ぜるって意味かい」
「はい」
 ついさっき知り合ったばかりとは信じられないくらいむかしからの親友のように笑い合うふたりを見ていると、アルバイト先での女性たちの些細な確執が別世界での出来事のように思えてくる。
 モチヅキさんの手にある混ざり合った飲み物を見てしみじみ思う。 
 人間関係というものはちょっとしたこと、それこそ目の前のメロンソーダとアイスティーみたいにまったく違う性格のモノ同士があっさりと打ち解けて良好になることもあれば、思いがけなく険悪になることもある。その難しさはわずかとはいえ、仕事を通して僕が学んだことの一つだ。
 やさしく僕を指導してくれたニカイドウさんが思い浮かんで、胸が苦しくなる。
「君は何も悪くない。気に病むな」
 顔に出ていたのか、モチヅキさんがメロンティーでくちびるを濡らしながら、テーブルを凝視していた。
「人妻までトリコにするなんてやるわよね」
「そうだな。そこは自慢していいぞ、一君」
 悪戯っぽい視線を送ってくる上四元クシナにモチヅキさんがすかさず追従するとふたたび笑い合う。
 さりげないないやり取りだけれど、気を使ってくれたのだろう。
 その後、意気投合したふたりは互いの連絡先を交換し合っていた。
十五夜もちづき……ナルさんっていうんですか。素敵な名前ですね」
「うむ。友人たちにはナルナルいわれている。一君もそう呼んでくれていいぞ」
 十五夜さんは歓迎するかのように手を広げる。ぴっちりと十五夜さんの身体を包み込んでいるTシャツの下で絶賛発育中の胸がぷるんと揺れる。
「いいカタチしてますよね、十五夜さんの胸」
「大きいといわないところに好感がもてるな。そんなことをいったらただの嫌味だ。明らかに君の方が大きい」
「友人にもっとすごい子がいますよ。あれを見たらへこみます。ねえ、一君」
「……ほう。そんなにすごいのかい、一君」
 不意に振られて返答に窮する。確かにティナさんのはすごいけれど、同調するのもなんとはなしに憚られる。

「ずいぶん盛り上がってるのね」
 からっとした心地よい声が近づいてきた。
 膝上の黒いプリーツスカートに丸衿のノースリーブシャツを合わせたナチュラルメイクのアツミさんは服装と相俟って清潔感たっぷりであった。
 初対面の十五夜さんはスッと立ち上がると、丁重な辞儀を見せた。アツミさんもそれに応えると、彼女の足元を認めて微笑んだ。
「ブーツカット……ベルボトムかしら。すごいわね。どこで買ったの」
 十五夜さんは自分のファッションを分かってくれたうれしさからか、抱きつかんばかりにアツミさんに迫った。
「専門店があるんです。そこは通販もしているので定期的に買い揃えています」
 しばし十五夜さんのベルボトムに対する熱い想いを聞いた後、時間も時間だということで彼女もアツミさんの車で送って貰うことになった。
 十五夜さんの愛用の自転車はタイヤが8インチという非常に小さな面白い折りたたみ式で、アツミさんの車にかんたんに持ち込めることができた。
 ベルボトムを愛用する愛嬌たっぷりなアルバイト先の先輩は上四元クシナの姉であるアツミさんとも肝胆相照らす仲といった感じですっかり仲よくなっていた。
「面白い子ね」
 十五夜さんを送り届けたあと、アツミさんは思い出し笑いをしていた。
「彼女、本当に好きなのね。フレアーのボトムはめずらしくはないけれど、あそこまで広いのは初めて見たかもしれない」
「かっこいいわよね、私もチャレンジしてみようかな」
「クシナがパンツルックに興味持つなんてめずらしいじゃない」
 アツミさんと上四元クシナの会話は本当に仲のいい姉妹のそれであった。
 運転席と助手席の盛り上がりをよそに、ちょっと疎外感を感じ始めていた後部座席の僕に、ふいに声がかかる。
「明日からはお姉ちゃんが迎えに来た方がいいわよね、一君」
 顔を上げると、上四元クシナがこちらをじっと見ていた。
「……アツミさん、大変じゃないですか」
「私は別に構わないわよ」
「だって」
 姉から聞いた上四元クシナのアツミさんへの気持ちを思い返しながら息もぴったりな上四元姉妹を眺めていると、これが本来の彼女たちなんだなと感慨深くなってくる。
「それとも……ニカイドウさんだっけ、あの人が送ってくれるから来ない方がいい?」
 どこか意味深長な物言いが聞こえた。アツミさんはまだニカイドウさんとのことを知らないのだろう。
 期せずに訪れる沈黙。
 やはり説明した方がいいのかなと逡巡していると、大好きなお姉さんを気遣うように見ていた上四元クシナが話していい? と視線を送ってきた。
「……ええ、なによ~」
 アツミさんが拗ねたような声を上げた。
 自分で、とも思ったけれど、ここは上四元クシナに任せることにした。
 妹によるコンパクトにまとめられた事の顛末――例の哀願内容は省いていた――を聞き終えたアツミさんは一瞬、ハンドル操作を誤らんばかりに動揺を見せた。
「……ナギ君が襲われたって、そんな、何も悪くないのに」
「そう、完全に逆恨み」
 上四元クシナは怒りとも呆れとも取れる声音で吐き捨てた。
「だから、お姉ちゃんは堂々と一君を迎えに行けるよ」
 茶目っ気ある妹の言葉に、なにいってるのよと消え入るような声が聞こえた。
 せっかくだからとふたりを家に誘ったけれど、上四元クシナはまだ姉に蟠っているのか、ごめんと首を振っていた。結果、アツミさんも日を改めてお邪魔するわとやはり丁重に辞退されるのだった。
 よくも悪くも濃い一日だったなとひとりごちると、門扉に手をかけてため息をついた。
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