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年上のひと

慮外

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「にーのーまーえーくーん」
 スイングドアから顔を出したのは、アイカワさんだった。
「お客さんだよー」
 そうそう起きるはずのない奇跡がまた起こったことに感謝しつつも、すぐにお客という単語に不安がよぎった。
 ここで働いているのを知っているのは紹介してくれた上四元クシナとシーナさん、そしてたぶんティナさんだと思うけれど、それ以外の誰かに見られたのではないか、けっきょく姉に知られることを警戒して、学校には届け出なかったので、先生にばれたのではないかという最悪の事態に身が縮む思いがした。
「彼女さんかなー? ちょっとお姉さんみたいだけど、年上の彼女とかやるじゃない」
 投げやりないい方にも聞こえるけれど、なんとなく後方の――モチヅキさんが入ってきたとき同様、すばやく背を向けて何ごともなかったように仕事をしている――ニカイドウさんに向かって当てつけているような気もした。
 息を呑む気配を後ろから感じた。なぜか睨まれているような気がする。
 一瞬、お姉さんというから姉が浮かんで緊張したけれど、もしばれたとしてわざわざ呼び出すようなことはしないだろう。いや、知らない振りをする方がしっくりくる。少なくとも怒られることはないはずだ。……たぶん。
 アイカワさんのあとに付いてお客さんが待っているというエントランスの前まで行くと、そこにいたのはアツミさんだった。
「お仕事中にごめんね、ナギ君」
 入院したと聞いて以降、久しぶりに見るアツミさんは健康そうで、とても病院のお世話になっていたとは思えない。
 店内で雑誌でも買ったのか、紙袋を持っている。
「……もう、大丈夫なんですか」
 アツミさんは小さく頷くとやさしく微笑み、そして目線を僕の後方にずらして丁寧な辞儀を見せた。
 いたのはニカイドウさん。今まで見たことのないようなすごくいい笑顔を浮かべながら、アツミさんにお辞儀し返す。その仕草になぜか総毛立った。
「今日は送るつもりで来たの。車はファミリーレストラン前に止めてあるから、終わったらいっしょに帰ろう」
 そういうと成り行きを見守るようにこちらを注視していたアイカワさんといつの間にか僕の隣りにおさまっているニカイドウさんにアタマを下げ、じゃあねと小さく手を振って車へ戻っていった。
「で、誰? ずいぶんきれいな人じゃない」
 店を出てゆくアツミさんを目で追いながら、アイカワさんはうっすらと相貌を覆っていた警戒心を解き、満面の笑みを向けてきた。
「まさと思うけど、人妻じゃないよね」
 と、勝ち誇ったかのように露骨な腐し方を嘲り交じりにしていたアイカワさんの表情から色が消えた。
「………な、なんですか」
 蒼ざめたアイカワさんの視線の先にいたニカイドウさんは顔のみならず全身に憤怒を漲らせるように佇んでいた。
「………………」
 アイカワさんを凄まじい形相で睨めつけていたニカイドウさんはなにも言葉を発することもなく、バックルームへ戻っていった。
「なによ、あれ!」
 周りのお客さんがびっくりするような声を上げて憤然と持ち場へ戻って行くアイカワさんの言動はどこか今までいじめていた相手から思わぬ反撃されたときのいじめっ子のようなものだった。
 おそるおそるバックルームに帰ると、ニカイドウさんは黙々と返本作業をこなしていた。
 いつものゆったりとした顔と動きですでに険はどこにも残っていない。
「彼女じゃないでしょう」
 手を動かしながら、こちらも見ずに訊く。
「さっきの人、いつかお店にいた人たちのひとりよね」
 十鳥さんの買い物帰りに入ったファミレスで遭遇した見合いを終えた姉たち一行のことをいっているのだろう。
「ええ、姉の親友です」
 ニカイドウさんはそっかと頷くと、手を止めた。そして大きく長く、そしてゆっくりと息を吐く。
「今日は私とは帰らないんだ」
 それなりの距離があるのに、耳元ではっきりと囁かれたような錯覚を覚えて血の気が引く思いがした。
 さっきのアツミさんに向けたすごくいい笑顔といい、言い知れぬ不安感に逃げ出したい衝動に駆り立てられるけれど、それはできない強制力みたいなものが足にまとわりついて動くことはできなかった。
「……ごめんなさい、またお世話になりますから」
 恐怖からそんなことを口走ってしまい、後悔するも、もう手遅れだった。
「そっか、また明日からはいつもみたいに送ってあげられるね。私、一君と行ってみたいところがあるんだ。今度いっしょに行こうね」
 約束だからね、とニカイドウさんは目に情欲を滾らせて僕の手を強く強く握った。

               *

「お待たせしてすみません」
 昨日、シーナさんと入ったファミレスの前にシトラスオレンジはあった。
 アツミさんは店で買ったばかりのファッション雑誌を眺めながら、缶入りのいちご牛乳を飲んでいた。
「ううん、お疲れ様」
 アツミさんは雑誌を閉じてドアを開けると、シートベルトを締めた。
「いきなり押しかけちゃってごめんね。ここで働いているの、クシナに聞いて最終電車には微妙な時間帯だから、行ってあげてっていわれたの」
 意外な経緯に驚きつつ助手席に身を沈める。
「……いつ、聞いたんですか」
「それがね、さっきなの」
 ゆっくりとアツミさんの愛車が動き出す。まだ点在する数多の車を縫うように国道に出ると於牟寺に向かって走り出した。
 どういう経緯かは分からないけれど、結果的にすごくいいタイミングだった。上四元クシナにはアルバイト紹介の件を含めて、何かお礼をして方がいいだろうか。
 と、ここで不安が一気に膨れる。
「……あ、あの、じゃあ、姉には働いていることはいっていないんですか」
「ええ、まだだけど、いわない方がいいんでしょう? クシナからはわざわざ瓊紅保こっちにまで来るくらいだから、きっと知られたくないだろうし、公言はしないでっていわれてるの」
 ……彼女の機転には感謝してもしきれない。
「か、上四元さん、クシナさんってなんていうかそういうのすごいですね。機微を感じ取る力というか」
 やはり、お礼は必要かもしれない。
「う~ん、勘働きがいいっていうのかな。好き勝手してるようで、気遣いはできるみたい。小さいころから大人、特に伯父さん経由なんだけど、そういう人たちに囲まれて育ったから、自然と学習しているのかも。だからお友達も多いのね、あの子」
 でも、ナギ君にずいぶん迷惑をかけたんじゃないのと、そこでトーンが沈んだ。
「それはないです。むしろお世話になりっぱなしで」
「アルバイトのこと? 詳しいことは聞いていないけれど、きっと伯父さんが口利きしたんでしょうね」
「すごく可愛がられているみたいですね」
「伯父さんは本当にあの子に甘くて」
 そうため息をつくアツミさんはとてもいいお姉さんの顔だった。
「すごいですよね、ジムまで彼女のために与えたりして」
「……ああ、小さいころに駅前のビルにテナントで入っていたジムのこと? 一度、伯父さんに連れて行ってもらって以降は友達のお家に遊びに行く感覚でしょっちゅうお邪魔していたみたい。数年前に栄転したとか聞いているけど……なにをしにいってたんだか」
 ひょっとすると、上四元クシナ専用ボクシングジムのことは横で呆れているアツミさんは感知していないのかもしれない。
「……あ、あの、伯父さんにお礼をした方がいいですよね」
 慌ててごまかすとアツミさんは、ジムのことには疑念を持たなかったのか、気を使わなくていいわよと笑った。
「私からナギ君が感謝していたって伝えておくから」
 そこまでいうとアツミさんは、ナギ君の後ろにいた人って親しいの? と訊いてきた。
 アイカワさんに呼ばれて、エントランスまで出向いた僕について来たニカイドウさんが瞬時に浮かぶ。
「ニカイドウさんですね。僕の教育係で仕事を教えてくれる人で、わざわざ家の近くまで送ってもらってます」
「……そっか、そうなんだね。見間違えでなければ、ナナミのお見合いのあった日にファミリーレストランでも働いていたわよね」
 女性はそういうことちゃんと見てるんだなと感心する。
「あと、瓊紅保市立図書館近くのコンビニでも働いていますよ」
「精力的なんだ。結婚されてる方みたいだけど」
「結婚一年に満たない新婚さんみたいです」
 うん、と頷くアツミさんはなにごとかをいいあぐねているように思えた。
「……気を、悪くしないでね。あのニカイドウさんって、すごくナギ君に執心しているように感じるの」
 アイカワさんもそんなことをいっていた。
「その……情念みたいなものをむき出しにしているっていうか、ナギ君のこと……」
 そこまでいうとアツミさんはなにをいってるんだろと自嘲してみせた。妙に乾いたその笑い声はどこか切なげで痛々しくもあった。
「……か、家庭のある人だからっていうことももちろんあるんだけれど、そういう関係になったら、やっぱりいけないと思うの」
 わずかな沈黙のあと、たどたどしくそんなことを吐きだしたアツミさんはちょっとらしくなかった。
 慎重なハンドル捌きでシトラスオレンジは国道を南下してゆく。
 流れては消えるさまざまなネオンを横目に、わざとらしいくらいの沈黙が重い。
「仕事は、馴れた?」
 どう返答したものかと考えていると、アツミさん自ら話題を変えてきた。何の脈絡もない、露骨な転換に思えたけれど、今は乗った方がいいだろう。
「接客は未だに緊張しますが、メインの返本作業はひと通り覚えました」
 ニカイドウさんが親切に教えてくれるので、といいかけてやめる。
 アツミさんはそう、と静かに微笑みながら頷いた。
 見慣れた景色が辺りに広が始め、ほどなくして家の数メートル前でシトラスオレンジがそっと停車をする。
「上がって行きませんか」
 気軽に誘う僕にアツミさんはありがとうと口にしつつも、ナナミに説明しづらくない? といたずらっぽく笑ってやさしく辞退した。
 停車位置といい、アツミさんは気を使ってくれたのだろう。
 今日の礼をいい、静かにドアを閉めると、アツミさんは手を振りながら去って行った。
 小さくなっていくシトラスオレンジを見送りながら、明日も迎えをお願いすればよかったと図々しくも都合のいいことを考えたりした。

 そしてその些細な後悔が面倒な事態を引き起こすことになるのだった。
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