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シナリオ
喫茶
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今年もこの日がやって来る。
七月七日。姉と僕の誕生日。
毎年、忘れることなく、家族でお祝いされる日。
去年から姉弟ふたりでの生活になったあとも電話で両親からおめでとうコールは来るし、律儀にプレゼントも送ってくる。
元々プレゼントが発生するイベントには興味のある向きではないので、誕生日といえどももう貰う歳でもないからと辞退を申し出ても、子供は黙って祝われなさいとイベント好きの母に押し切られて、けっきょく未だにケーキとご馳走とプレゼントを前に祝福されるバースデーから卒業できないでいる。
子供の頃、それこそシギが近所に住んでいた当時は素直に楽しめていた気がしたけれど、いつからだろう、なんとなく避けたいと思うようになったのは。
誕生日といえば昔からずっと不思議に思っていることがある。
同じ日が誕生日のはずの姉がプレゼントを貰った記憶がないこと。
その疑問に母は「お姉ちゃんはもう貰ったからいいの」といっていた。しかし、毎年誕生日は来るわけでプレゼントが一回貰っておしまいということもないと思うのだけれど、やはりその後も僕がプレゼントを貰う一方で姉は両親とともに笑顔で「おめでとう」といってくれるだけで、自分は何も貰っていないのだった。
しばらくのち、思い切って姉に直接訊いたら、子供の頃にとってもいいもの貰ったから、お姉ちゃんは何もいらないのと笑うだけであった。
なんでも「一生分の素敵なプレゼント」だそうだけれど、いったい何なのかまったく分からず、そして分からないもどかしさから、姉や両親に嫉妬混じりの不信感を抱いたりもしたけれど、そういうとき母は「ナナギにはあげられないものなのよ」と苦笑するのだった。
姉弟揃って同じ日に生まれたことについては「狙い通り」だそうで、
「パパの精子は優秀だから」
両親が揃っていた頃はことあるごとに母が父に寄り掛かりながらそうのろけていた。
あけっぴろげな子作り話をされるたびに姉はすごく機嫌よさげに微笑み、僕は居た堪れない気持ちになるのだった。
カレンダーをめくる。あと二週間もない。
高校生になったこともあるし、ある目的のためにアルバイトを考えていた。
於牟寺学園はよほどのことがない限り申請すればアルバイトは許可されるらしい。問題はどこでするのか。
なんとなく地元は避けたかったので、春以降何度か行くようになった瓊紅保辺りで、と考えていた。
行くとなれば電車ということになるから運賃出費は痛いけれど、その以上稼ぐ(予定)なのでそこは我慢のしどころ。
いろいろと考えては見たもののいざ働くとなると、見当もつかない。
何の経験もない高校生なのだから当たり前ではあるけれど、とりあえず知り合いの社会人たるアツミさんを頼ってみることにした。
彼女が出ないことを願いつつ、コールを十回、二十回と待つけれど、家人はみな出払っているのか、むなしくコール音が響くだけであった。
考えてみれば、今は勤務中の可能性が高い。受話器を置いたあと、勤務先に直接、とも思ったけれど、さすがに図々しいかなとも思い直した。
じっくり考えてみれば、こんな短期にそれも目的の日までお金が手元に入るような都合のいいアルバイトなどあるわけもない。父が学生のとき、クリスマスも終わった年末の魚市場で四日間働いて五万円を稼いだことがあったそうだけれど、あいにくとそんなところはこの辺りにはないし、時期も違う。とはいえ、もっと早く動いていればと後悔しても時間が巻き戻るわけでもないし、不言実行、瓊紅保へ行ってみることにした。
*
グラスの中に沈んでいる氷と緑色が外から差し込む夕暮れの陽を受けて当たりに艶かしい輝きを放っていた。
ひとくち啜って、雑誌に目を落とす。
魅力的な時給やページ隅の囲みコラムに載っている体験談など、目に入る単語や記事がいちいち新鮮だった。
こういう非フランチャイズの喫茶店でひとり、本を捲るひとときというのはこんなにも落ち着いた気分に浸れるとは思わなかった。
あまりの気分のよさにちょっとにやけそうになる。
とりあえず来ればなんとかなるような気がして、いざ瓊紅保に乗り込み、街中に佇んでみた途端になんともならない気がして唖然としたのは数分前。
そこかしこでアルバイト募集の貼り紙は見かけるのだけれど、条件(特に年齢)が合わなかったりする。
ただ歩いても何だしと初めての求人誌を買い求めて、手近な喫茶店に入った。
「コーヒー、アイスで」
などと常連さん気取りでいってみたい気もしたのだけれど、飲めないのでクリームソーダになった。
席は奥のテーブルが空いていたのでそこにした。外食など店に入ると奥、隅、窓際などなぜか真ん中や入り口付近を回避する自分がいる。
ふたたびソーダを啜ってページを捲り、ページを捲ってバニラをすくっていると、賑やかな声がいくつも入ってきた。
夏服に身を包んだ女子高生。半袖のブラウスにリボンの組み合わせはめずらしいものじゃないけれど、袖の折り返しとリボンに配されたチェックには見覚えがある。数年前まで姉が今頃の時期に着ていたもの。瓊紅保女子の生徒のようだ。
ヘアバンドをしたずば抜けて背の高い女子がこちらを見た。驚いたように両眼を見開いたあと恥ずかしそうにうつむく仕草がなんだか胸をざわつかせる。それに気づいた隣のちょっとキツい感じのする髪をハーフアップにした女子が釣られるようにこちらに視線を寄越した。途端にリップグロスがたっぷり塗られた厚めの口唇が歪む。混血っぽいくっきりとした顔立ちとボリュームのある胸はさぞかし道行く人々の耳目を集めていることだろう。
ふたりを見ているうちにピースがほとんど揃った、妙な感覚に襲われる。
「クシナ、クシナ」
ハープアップの女子が振り向きながら発したその名前にすべてが氷解する。
先月、瓊紅保女子高前で上四元クシナに会いに行った際、一緒にいたふたりだ。
上四元クシナは顔に何の変化も乗せることなく、あくまでも風景に溶け込む調度品のひとつといった体でこちらを一瞥すると、興味もなさげにずいずいと店内を横切っていた。
ハーフアップの子が「いいの?」と不思議そうな表情で彼女を追いかけ、さらにヘアバンドの子に意味ありげな体当たりを何度も食らわせる。そのたびにカールした毛先や胸が快活に揺れ、大きな子はいいように弄ばれる。
やめてよ、小さな抗議らしきする中、ちらっ、ちらっと何度かこちらを窺っては目を恥ずかしげに瞬かせる。その所作はどこか三苫さんを髣髴とさせた。背丈はパッと見、三、四十センチくらいの差はありそうだけど。
ハーフアップの子はカウンターに向かって「いつもの」と僕の憧れる常連さん口調で注文を済ませると、僕のそばまでやって来て、相席の申し出をしてきた。
確かに4人が座れるけれど、他に空いてる席はぽつぽつあるのに、なぜ。
「ほら、シーナ。向かい、向かい」
ハーフアップの子は長身のヘアバンドの子にそう促し、自分は僕を奥へ押しやるようにちゃっかり隣りをキープ。
「……ティナ、図々しいよ」
シーナと呼ばれた長身の子は眉を顰めるけれど、そのたしなめには別の意味が隠されているような気がした。
「好位置を与えてあげたんだけどな。隣りがよかった?」
シーナさんは一瞬、困惑を見せたけれど、すぐに頬を膨らませて、うつむいてしまった。
必然的にその隣りに座ることになった上四元クシナはチラッと僕の手元の求人誌を認めるとじっと考えるような素振りを見せ、すぐにそっぽを向いてしまった。
無視されること自体は別に構わないけれど、いちばん最後に会話を交わした二週間くらい前の変化、僕を「一君」と呼び、すごく機嫌よさげに帰宅していった日のことを思い出すと、やっぱり何かがあったんだろうと予測はつく。何より帰り際のあのセリフは一連の騒動と何らかの関連を否応なく連想させるにじゅうぶんである。
「何よ、クシナったら、さっきから感じ悪いなァ。一さんに失礼でしょう」
ねえ? とティナと呼ばれていたハーフアップの巨乳さんはすごく嬉しそうに腕を取って身体を押しつけてくる。こちらの思惑とは関係なしに、豊かな膨らみが僕の右腕でたわわに弾んでいるのが分かる。ごく自然な流れで現在由々しき事態が起こっていると思われる我が右腕を確認しようと斜めに視線を落とすと、ティナさんの嬌声が上がった。
「よかったら触ってもいいですよ、いくらでも。なんだったら直で。あ、どうせなら、吸引してみます?」
キュウインの意味を不思議がってるとシーナさんがいい加減にしてよと低めた声でティナさんを睨み出した。
友人に窘められたティナさんは肩をすくめると、そういえばまだ自己紹介してませんでしたね、とおかしそうに鼻を鳴らし、私はクシナの友人のティナですと頭を下げた。
続くようにシーナさんも会釈を見せる。ふたりともあだ名なのか本名なのか判然としないけれど、ここは僕も名乗らないわけ――知っているようだけど――にはいかない。
「一です。……えっと、おふたりとも、学校の前でお会いしてますよね」
「よかったね、シーナ、覚えててくれてたよ、一さん」
シーナさんは小さく頷いたまま、身体を縮こませていた。
徹底的に話に混ざるつもりがない上四元クシナを除き、軽い自己紹介が終わると、三人の「いつもの」メニューが運ばれてきた。ティナさんはアイスコーヒーとプリンアラモード、シーナさんはストロベリーパフェ、上四元クシナはコーヒーフロートだった。
横長のパフェグラスに盛られたプリン、バニラアイス、クリームとともに所せましと並んでいるフルーツが実に艶やかなプリンアラモードも、おしゃれな細長いグラスに詰まった苺ジャム、バニラアイス、ストロベリーソース、ストロベリーアイスをホイップクリームとたくさんの苺で飾ったストロベリーパフェも見るからに贅沢で旨そうな一品であった。
シーナさんはおもむろに端末を取り出し、ブログにでもアップするのか、目の前のパフェを撮り始めた。
「はい、一さん、あーん」
茶色のぷるぷるした固体をすくってこちらに差し出してきたのは果たしてティナさん。
息を呑む気配を感じて意識を向けると、シーナさんが端末を持ったまま怒りと悲しみをミックスしたような表情でこちらを凝視していた。
「そんな顔する前にシーナもほら、ストロベリーパフェを一さんに!」
いいながら、ほとんど有無をいわさない状態でプリンを口の中にねじ込まれた。
――――旨い。
シーナさんは躊躇を見せつつ、苺とホイップクリーム、ストロベリーアイスの部分を器用にすくってどうぞと差し出してきた。それをティナさんは必死に笑いをかみ殺しながら世話焼きの姉のような表情で見ている。
断るのもなんなので、口を開けると、苺やクリーム、アイス、ソースの複雑にして濃厚な甘みと酸味が口いっぱいに広がる。これも、旨い。
「クシナもいい加減に知らん顔やめて、一さんにあーん、しようよ」
「彼、コーヒーはダメなのよ」
ティナさんの誘いに上四元クシナは即答する。相変わらず顔は背けたままだ。
「……へえ、さすがは何度もデートしたり同じ屋根の下で寝食を伴にした仲ねえ」
誤解を受けそうないい回しはやめて欲しいけれど、間違ってはいないのがなんとも。
「クシナと喧嘩でもしたんですか?」
ティナさんが耳元で囁くように訊くけれど、そういうのではもちろんない。原因は不明だけれど、彼女のこういう態度の変化はめずらしいものではない。
「ティナさんは心当たり、ないんですか」
思わず名前で呼んでしまって少し後悔に襲われる。別におかしなことではないのに。
「ティナって呼んでくださいよ。恋人みたく」
ふたたび息を呑む気配。発信源はもちろんシーナさん。
「そんな怒ってないで、一さんにいろいろ訊きなさいよ」
せっかくのチャンスなのに、とティナさんが促すけれど、シーナさんはうつむいて何かひとりごとをもごもごと繰り返すだけであった。
「シーナは身体の大きさが性格にちょっとでも反映されていれば、ね。どう思います、身体の大きな女子って」
びくんとシーナさんの肩が跳ねる。
「この子、けっこう気にしてるですよ。可愛い服見つけてもサイズで諦めることが多いから、せめて小道具で勝負しようって、それでヘアバンドしてるですよ」
どうですか、似合ってます? とティナさんは友人を腐しているのかのフォローしているのかよく分からないおしゃべりを展開する。
シーナさんのダウンスタイルの黒髪を彩っているオフホワイトで幅広なヘアバンドはご令嬢といった雰囲気を醸していた。
「よく似合っていると思いますよ、すごくチャーミングです」
自分でいっておいて、顔が熱くなる。「おお……っ」というティナさんの感嘆で顔面にはびこる熱はさらにいや増す。
「シーナ、泣いちゃった? ねえ、泣いちゃった?」
さっきからずっとうつむきっぱなしのシーナさんにそんな声をかけ続けるティナさんは成り行きを面白がっているのか、友人を心配しているのかその意図が掴めない。
「チャーミングかあ、イマドキの男子が知らないような、知ってても恥ずかしくて使わないようなことをさらっといってくれちゃってまあ。一さんってけっこう普段から女子泣かせちゃってたりしてます?」
どっちかっていうと泣かされる側よね。
そんな声が聞こえた気がして、上四元クシナに視線を向けたけれど、そんな発言などしていないといった風にアイスの上に盛られた生クリームをすくっていた。アイスやクリーム、氷の他にも何かがグラスの中に浮かんでいる気がしてよく見てみると、それはキューブ型のコーヒーゼリーだった。
「これから一さんって暇してますか? 私たちこれから遊び行くつもりなんですけど」
友人を翻弄したかと思えば、遊びの誘い。上四元クシナに負けず劣らず、ティナさんも言動が読めない女子だ。
「忙しいんじゃない?」
たった今、正体が分かったコーヒーゼリーを口に運びながら、上四元クシナは極力、声に感情を込めないようにいった。そのもごもごさせる仕草は放課後に強襲され始めた最初の日、書店前でほとんど楽しむことなく奪われた飲むナタデココを頬張るシーンを思い出させた。
「どういうことよ」
ティナさんに答える代わりに上四元クシナはテーブルの脇に避けていたものを指し示す。
「……? 一さん、アルバイト探してるんですか。瓊紅保で? お住まい、於牟寺ですよね」
ティナさんの疑問ももっともだ。
「私たちは目障りだっていうこと」
そんなことは思ってなどいないけれど、こういう皮肉は彼女らしい。
「どうするシーナ、私ら、邪魔だって」
ティナさんのシリアスぶった口調に恵まれた体躯のシーナさんは複雑な表情を見せた。
いってる方も受け取った方も冗談だと理解していると願うばかりだ。
上四元クシナの皮肉がきっかけでもないだろうけれど、三人は先に店を出た。
「一さんが奢ってくれたりします?」
「……ティナ!」
ティナさんの諧謔にシーナさんは最後まで振り回されっぱなしだった。
「今度一緒に遊びましょうよ、一さん。約束ですよ」
いかにも遊びなれたといった風格漂うティナさんの芝居がかったウインクと投げキッスに気圧されながら、三人を見送ったあと、求人誌の下に小さくたたまれた紙片のようなものがあることに気づいた。
同席中ずいぶん積極的だったティナさんかなと思ったけれど、そこに書かれた素っ気ない小文は彼女のものだった。
「ジムで待つ」
七月七日。姉と僕の誕生日。
毎年、忘れることなく、家族でお祝いされる日。
去年から姉弟ふたりでの生活になったあとも電話で両親からおめでとうコールは来るし、律儀にプレゼントも送ってくる。
元々プレゼントが発生するイベントには興味のある向きではないので、誕生日といえどももう貰う歳でもないからと辞退を申し出ても、子供は黙って祝われなさいとイベント好きの母に押し切られて、けっきょく未だにケーキとご馳走とプレゼントを前に祝福されるバースデーから卒業できないでいる。
子供の頃、それこそシギが近所に住んでいた当時は素直に楽しめていた気がしたけれど、いつからだろう、なんとなく避けたいと思うようになったのは。
誕生日といえば昔からずっと不思議に思っていることがある。
同じ日が誕生日のはずの姉がプレゼントを貰った記憶がないこと。
その疑問に母は「お姉ちゃんはもう貰ったからいいの」といっていた。しかし、毎年誕生日は来るわけでプレゼントが一回貰っておしまいということもないと思うのだけれど、やはりその後も僕がプレゼントを貰う一方で姉は両親とともに笑顔で「おめでとう」といってくれるだけで、自分は何も貰っていないのだった。
しばらくのち、思い切って姉に直接訊いたら、子供の頃にとってもいいもの貰ったから、お姉ちゃんは何もいらないのと笑うだけであった。
なんでも「一生分の素敵なプレゼント」だそうだけれど、いったい何なのかまったく分からず、そして分からないもどかしさから、姉や両親に嫉妬混じりの不信感を抱いたりもしたけれど、そういうとき母は「ナナギにはあげられないものなのよ」と苦笑するのだった。
姉弟揃って同じ日に生まれたことについては「狙い通り」だそうで、
「パパの精子は優秀だから」
両親が揃っていた頃はことあるごとに母が父に寄り掛かりながらそうのろけていた。
あけっぴろげな子作り話をされるたびに姉はすごく機嫌よさげに微笑み、僕は居た堪れない気持ちになるのだった。
カレンダーをめくる。あと二週間もない。
高校生になったこともあるし、ある目的のためにアルバイトを考えていた。
於牟寺学園はよほどのことがない限り申請すればアルバイトは許可されるらしい。問題はどこでするのか。
なんとなく地元は避けたかったので、春以降何度か行くようになった瓊紅保辺りで、と考えていた。
行くとなれば電車ということになるから運賃出費は痛いけれど、その以上稼ぐ(予定)なのでそこは我慢のしどころ。
いろいろと考えては見たもののいざ働くとなると、見当もつかない。
何の経験もない高校生なのだから当たり前ではあるけれど、とりあえず知り合いの社会人たるアツミさんを頼ってみることにした。
彼女が出ないことを願いつつ、コールを十回、二十回と待つけれど、家人はみな出払っているのか、むなしくコール音が響くだけであった。
考えてみれば、今は勤務中の可能性が高い。受話器を置いたあと、勤務先に直接、とも思ったけれど、さすがに図々しいかなとも思い直した。
じっくり考えてみれば、こんな短期にそれも目的の日までお金が手元に入るような都合のいいアルバイトなどあるわけもない。父が学生のとき、クリスマスも終わった年末の魚市場で四日間働いて五万円を稼いだことがあったそうだけれど、あいにくとそんなところはこの辺りにはないし、時期も違う。とはいえ、もっと早く動いていればと後悔しても時間が巻き戻るわけでもないし、不言実行、瓊紅保へ行ってみることにした。
*
グラスの中に沈んでいる氷と緑色が外から差し込む夕暮れの陽を受けて当たりに艶かしい輝きを放っていた。
ひとくち啜って、雑誌に目を落とす。
魅力的な時給やページ隅の囲みコラムに載っている体験談など、目に入る単語や記事がいちいち新鮮だった。
こういう非フランチャイズの喫茶店でひとり、本を捲るひとときというのはこんなにも落ち着いた気分に浸れるとは思わなかった。
あまりの気分のよさにちょっとにやけそうになる。
とりあえず来ればなんとかなるような気がして、いざ瓊紅保に乗り込み、街中に佇んでみた途端になんともならない気がして唖然としたのは数分前。
そこかしこでアルバイト募集の貼り紙は見かけるのだけれど、条件(特に年齢)が合わなかったりする。
ただ歩いても何だしと初めての求人誌を買い求めて、手近な喫茶店に入った。
「コーヒー、アイスで」
などと常連さん気取りでいってみたい気もしたのだけれど、飲めないのでクリームソーダになった。
席は奥のテーブルが空いていたのでそこにした。外食など店に入ると奥、隅、窓際などなぜか真ん中や入り口付近を回避する自分がいる。
ふたたびソーダを啜ってページを捲り、ページを捲ってバニラをすくっていると、賑やかな声がいくつも入ってきた。
夏服に身を包んだ女子高生。半袖のブラウスにリボンの組み合わせはめずらしいものじゃないけれど、袖の折り返しとリボンに配されたチェックには見覚えがある。数年前まで姉が今頃の時期に着ていたもの。瓊紅保女子の生徒のようだ。
ヘアバンドをしたずば抜けて背の高い女子がこちらを見た。驚いたように両眼を見開いたあと恥ずかしそうにうつむく仕草がなんだか胸をざわつかせる。それに気づいた隣のちょっとキツい感じのする髪をハーフアップにした女子が釣られるようにこちらに視線を寄越した。途端にリップグロスがたっぷり塗られた厚めの口唇が歪む。混血っぽいくっきりとした顔立ちとボリュームのある胸はさぞかし道行く人々の耳目を集めていることだろう。
ふたりを見ているうちにピースがほとんど揃った、妙な感覚に襲われる。
「クシナ、クシナ」
ハープアップの女子が振り向きながら発したその名前にすべてが氷解する。
先月、瓊紅保女子高前で上四元クシナに会いに行った際、一緒にいたふたりだ。
上四元クシナは顔に何の変化も乗せることなく、あくまでも風景に溶け込む調度品のひとつといった体でこちらを一瞥すると、興味もなさげにずいずいと店内を横切っていた。
ハーフアップの子が「いいの?」と不思議そうな表情で彼女を追いかけ、さらにヘアバンドの子に意味ありげな体当たりを何度も食らわせる。そのたびにカールした毛先や胸が快活に揺れ、大きな子はいいように弄ばれる。
やめてよ、小さな抗議らしきする中、ちらっ、ちらっと何度かこちらを窺っては目を恥ずかしげに瞬かせる。その所作はどこか三苫さんを髣髴とさせた。背丈はパッと見、三、四十センチくらいの差はありそうだけど。
ハーフアップの子はカウンターに向かって「いつもの」と僕の憧れる常連さん口調で注文を済ませると、僕のそばまでやって来て、相席の申し出をしてきた。
確かに4人が座れるけれど、他に空いてる席はぽつぽつあるのに、なぜ。
「ほら、シーナ。向かい、向かい」
ハーフアップの子は長身のヘアバンドの子にそう促し、自分は僕を奥へ押しやるようにちゃっかり隣りをキープ。
「……ティナ、図々しいよ」
シーナと呼ばれた長身の子は眉を顰めるけれど、そのたしなめには別の意味が隠されているような気がした。
「好位置を与えてあげたんだけどな。隣りがよかった?」
シーナさんは一瞬、困惑を見せたけれど、すぐに頬を膨らませて、うつむいてしまった。
必然的にその隣りに座ることになった上四元クシナはチラッと僕の手元の求人誌を認めるとじっと考えるような素振りを見せ、すぐにそっぽを向いてしまった。
無視されること自体は別に構わないけれど、いちばん最後に会話を交わした二週間くらい前の変化、僕を「一君」と呼び、すごく機嫌よさげに帰宅していった日のことを思い出すと、やっぱり何かがあったんだろうと予測はつく。何より帰り際のあのセリフは一連の騒動と何らかの関連を否応なく連想させるにじゅうぶんである。
「何よ、クシナったら、さっきから感じ悪いなァ。一さんに失礼でしょう」
ねえ? とティナと呼ばれていたハーフアップの巨乳さんはすごく嬉しそうに腕を取って身体を押しつけてくる。こちらの思惑とは関係なしに、豊かな膨らみが僕の右腕でたわわに弾んでいるのが分かる。ごく自然な流れで現在由々しき事態が起こっていると思われる我が右腕を確認しようと斜めに視線を落とすと、ティナさんの嬌声が上がった。
「よかったら触ってもいいですよ、いくらでも。なんだったら直で。あ、どうせなら、吸引してみます?」
キュウインの意味を不思議がってるとシーナさんがいい加減にしてよと低めた声でティナさんを睨み出した。
友人に窘められたティナさんは肩をすくめると、そういえばまだ自己紹介してませんでしたね、とおかしそうに鼻を鳴らし、私はクシナの友人のティナですと頭を下げた。
続くようにシーナさんも会釈を見せる。ふたりともあだ名なのか本名なのか判然としないけれど、ここは僕も名乗らないわけ――知っているようだけど――にはいかない。
「一です。……えっと、おふたりとも、学校の前でお会いしてますよね」
「よかったね、シーナ、覚えててくれてたよ、一さん」
シーナさんは小さく頷いたまま、身体を縮こませていた。
徹底的に話に混ざるつもりがない上四元クシナを除き、軽い自己紹介が終わると、三人の「いつもの」メニューが運ばれてきた。ティナさんはアイスコーヒーとプリンアラモード、シーナさんはストロベリーパフェ、上四元クシナはコーヒーフロートだった。
横長のパフェグラスに盛られたプリン、バニラアイス、クリームとともに所せましと並んでいるフルーツが実に艶やかなプリンアラモードも、おしゃれな細長いグラスに詰まった苺ジャム、バニラアイス、ストロベリーソース、ストロベリーアイスをホイップクリームとたくさんの苺で飾ったストロベリーパフェも見るからに贅沢で旨そうな一品であった。
シーナさんはおもむろに端末を取り出し、ブログにでもアップするのか、目の前のパフェを撮り始めた。
「はい、一さん、あーん」
茶色のぷるぷるした固体をすくってこちらに差し出してきたのは果たしてティナさん。
息を呑む気配を感じて意識を向けると、シーナさんが端末を持ったまま怒りと悲しみをミックスしたような表情でこちらを凝視していた。
「そんな顔する前にシーナもほら、ストロベリーパフェを一さんに!」
いいながら、ほとんど有無をいわさない状態でプリンを口の中にねじ込まれた。
――――旨い。
シーナさんは躊躇を見せつつ、苺とホイップクリーム、ストロベリーアイスの部分を器用にすくってどうぞと差し出してきた。それをティナさんは必死に笑いをかみ殺しながら世話焼きの姉のような表情で見ている。
断るのもなんなので、口を開けると、苺やクリーム、アイス、ソースの複雑にして濃厚な甘みと酸味が口いっぱいに広がる。これも、旨い。
「クシナもいい加減に知らん顔やめて、一さんにあーん、しようよ」
「彼、コーヒーはダメなのよ」
ティナさんの誘いに上四元クシナは即答する。相変わらず顔は背けたままだ。
「……へえ、さすがは何度もデートしたり同じ屋根の下で寝食を伴にした仲ねえ」
誤解を受けそうないい回しはやめて欲しいけれど、間違ってはいないのがなんとも。
「クシナと喧嘩でもしたんですか?」
ティナさんが耳元で囁くように訊くけれど、そういうのではもちろんない。原因は不明だけれど、彼女のこういう態度の変化はめずらしいものではない。
「ティナさんは心当たり、ないんですか」
思わず名前で呼んでしまって少し後悔に襲われる。別におかしなことではないのに。
「ティナって呼んでくださいよ。恋人みたく」
ふたたび息を呑む気配。発信源はもちろんシーナさん。
「そんな怒ってないで、一さんにいろいろ訊きなさいよ」
せっかくのチャンスなのに、とティナさんが促すけれど、シーナさんはうつむいて何かひとりごとをもごもごと繰り返すだけであった。
「シーナは身体の大きさが性格にちょっとでも反映されていれば、ね。どう思います、身体の大きな女子って」
びくんとシーナさんの肩が跳ねる。
「この子、けっこう気にしてるですよ。可愛い服見つけてもサイズで諦めることが多いから、せめて小道具で勝負しようって、それでヘアバンドしてるですよ」
どうですか、似合ってます? とティナさんは友人を腐しているのかのフォローしているのかよく分からないおしゃべりを展開する。
シーナさんのダウンスタイルの黒髪を彩っているオフホワイトで幅広なヘアバンドはご令嬢といった雰囲気を醸していた。
「よく似合っていると思いますよ、すごくチャーミングです」
自分でいっておいて、顔が熱くなる。「おお……っ」というティナさんの感嘆で顔面にはびこる熱はさらにいや増す。
「シーナ、泣いちゃった? ねえ、泣いちゃった?」
さっきからずっとうつむきっぱなしのシーナさんにそんな声をかけ続けるティナさんは成り行きを面白がっているのか、友人を心配しているのかその意図が掴めない。
「チャーミングかあ、イマドキの男子が知らないような、知ってても恥ずかしくて使わないようなことをさらっといってくれちゃってまあ。一さんってけっこう普段から女子泣かせちゃってたりしてます?」
どっちかっていうと泣かされる側よね。
そんな声が聞こえた気がして、上四元クシナに視線を向けたけれど、そんな発言などしていないといった風にアイスの上に盛られた生クリームをすくっていた。アイスやクリーム、氷の他にも何かがグラスの中に浮かんでいる気がしてよく見てみると、それはキューブ型のコーヒーゼリーだった。
「これから一さんって暇してますか? 私たちこれから遊び行くつもりなんですけど」
友人を翻弄したかと思えば、遊びの誘い。上四元クシナに負けず劣らず、ティナさんも言動が読めない女子だ。
「忙しいんじゃない?」
たった今、正体が分かったコーヒーゼリーを口に運びながら、上四元クシナは極力、声に感情を込めないようにいった。そのもごもごさせる仕草は放課後に強襲され始めた最初の日、書店前でほとんど楽しむことなく奪われた飲むナタデココを頬張るシーンを思い出させた。
「どういうことよ」
ティナさんに答える代わりに上四元クシナはテーブルの脇に避けていたものを指し示す。
「……? 一さん、アルバイト探してるんですか。瓊紅保で? お住まい、於牟寺ですよね」
ティナさんの疑問ももっともだ。
「私たちは目障りだっていうこと」
そんなことは思ってなどいないけれど、こういう皮肉は彼女らしい。
「どうするシーナ、私ら、邪魔だって」
ティナさんのシリアスぶった口調に恵まれた体躯のシーナさんは複雑な表情を見せた。
いってる方も受け取った方も冗談だと理解していると願うばかりだ。
上四元クシナの皮肉がきっかけでもないだろうけれど、三人は先に店を出た。
「一さんが奢ってくれたりします?」
「……ティナ!」
ティナさんの諧謔にシーナさんは最後まで振り回されっぱなしだった。
「今度一緒に遊びましょうよ、一さん。約束ですよ」
いかにも遊びなれたといった風格漂うティナさんの芝居がかったウインクと投げキッスに気圧されながら、三人を見送ったあと、求人誌の下に小さくたたまれた紙片のようなものがあることに気づいた。
同席中ずいぶん積極的だったティナさんかなと思ったけれど、そこに書かれた素っ気ない小文は彼女のものだった。
「ジムで待つ」
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