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シナリオ
奔走・Ⅲ
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瓊紅保に来るのはナナミさんの見合いがあった日以来だった。
電車の中では十鳥オガミも羽二生も誰も喋らなかったし、俺も積極的に話しかけることはしなかった。
妙な組み合わせだなと自分でも思う。於牟寺へは電車通学である十鳥オガミは地元へ帰るだけだが、羽二生も俺も於牟寺市民だ。たかだか数百円、缶コーヒーと週刊漫画雑誌が買えるか買えないかギリギリの金額だが、学生には決して小さい額ではない。菓子パンやおにぎりならチョイス次第で三つは余裕で買える。
「無理について来なくてもいいのだけれど」
券売機で思案していたときに十鳥オガミからそう声をかけられ、意地になったわけでもないが、けっきょくこうして電車に乗り、瓊紅保へ来る羽目になった。
羽二生はすっかり落ち着きを取り戻している。こいつがナギを罵るきっかけになった話の信憑性があやしくなったことが大きいのだろう。
問題はその出所、そしてその内容だ。今思い出しても胸糞が悪くなる。
◇
ただひたすら泣く一方でこちらが知りたい真相を語ろうとしない羽二生に突如現われた十鳥オガミはフェンスに沿うように並べられている長椅子のひとつに座るように促した。
こういう気遣いは女子だよなあ。
読書をしていたのだろう、海外文学らしき厚めの小説を手にしていた。〈上〉とあるので続きがあるようだ。小説、それも海外文学、さらにこの厚さで続編ありとか俺には苦行以外の何ものでもない。昼食後に屋上で優雅に海外文学とかいい趣味をしてらっしゃる。
「そうね。昼休みに屋上で女子を泣かせる誰かさんよりは有効な時間の使い方、有意義な趣味だと思う」
俺の周りの女連中はなぜこうも皮肉や嫌味を口にするやつばかりなんだ。
「それとこれは小説ではなく、対話篇。小説的な面白さは感じるから間違ってはいないけれども、やはり小説といういい方は個人的に引っかかるの」
そいつは失礼。てかタイワヘンってなんだ。
十鳥オガミはフェンスを背にうな垂れて座る羽二生を立ったまま黙って見ていた。
「……えぇっと、十鳥さん? なだめてくれたのはありがたいけど、こっから先はこいつと俺の話だから、さ」
当たり前のように話の輪に加わっている十鳥オガミに、極力気を悪くしないよう、退去を促したつもりだったが通じなかった。
「一君のことでしょう」
急に辺りの温度が下がった気がした。
沈着な態度が生み出すその鋭利な表情に険しさが差し込む。
「関係ないとは誰にも言わせない。彼が休んでいる理由なら私にも聞く権利はあるもの」
有無をいわせぬ物言いでそこまでいうと、一瞬で陰を拭い、挑発気味にもっとも、と継いだ。
「本当にあなたたちの色恋に関わるトラブルならば、お望み通り立ち去るつもりだけれど」
まあ俺としては羽二生がナギに何をいったのか、そしてなぜそんなことをしたのかが知りたいだけだ。冷やかし目的ではなさげだし、妨害するというのでなければいてもいなくてもかまわないか。
それ以上何もいわない俺の態度を同座することへの許可と受け取ったのか、十鳥オガミは羽二生に事の経緯、説明を求めた。
「……彼、一君と……お姉さん、が……」
お姉さん、か。さっきのあの人発言といい、あれだけナナミさんに入れ込んでいたやつとは思えない呼び方に違和感と落胆を覚える。
……ん? どうしてレズ女のナナミさんへの呼称が変化しただけで落胆するんだ。ライバルの脱落は喜ぶべきことだろう。いや、それ以前にライバルってなんだ。
思わず漏れる苦笑をよそに途切れ途切れに押し出される羽二生の言葉の断片によってナギの被った三日前の出来事が明らかにされ……
……………は?
「……おい、今なんていった」
羽二生の口からたった今紡がれたばかりの発言にめまいに似た不快さを覚える。それは怒りを乗せた言となり、目の前でふざけたことを抜かしている同級の女にぶつけられる。
「そんなわけねえだろう、寝ぼけたこといってんじゃねえぞ、お前!」
ようやく気分が落ち着いたはずの羽二生はいきなり浴びせられた俺の暴言に目を見開き、怯え切ったその両眼からはふたたび感情の雫が滴り、くちびるは小刻みに震えていた。
冗談で済まされる話ではなかった。少なくとも俺には。
ナギとナナミさんが男女の仲になってるだ? いかなる理由があろうとも許される妄言ではない。ふざけろ。
「誰に吹き込まれてそんなゴミみたいな話、信じてるんだお前。それを鵜呑みにした挙句にナギを罵ったってか。どこまでバカなんだお前は! 聞いてんのか、ええっ? おい聞いてのかってつってんだよ、バカ女!」
ぶっ飛ばすぞ、てめえ、までいい切らないうちに十鳥オガミに割って入られた。
「少し、いえだいぶ熱りすぎね。せっかく話してくれている彼女に対して無礼な仕打ちだと思わないのかしら」
「無礼だ? そりゃこっちのセリフだろ。親友やその姉さんが愚弄されてるんだ。黙って聞いてろってのかよ!」
「愚弄しているのは彼女ではないでしょう。彼女は私たちに乞われてなぜ一君に酷いことをいうに至ったのか、その説明をしているにすぎない」
十鳥オガミの冷静さは今はただただイラつくだけであった。羽二生ともどもぶっ飛ばしたい感情に駆られる。
「とにかく黙っててくれ、今こいつと話をしている最中なんだ」
「その発言は矛盾しているわね。あなたが感情的になったせいで彼女はすっかり怯えて話ができる状態ではなくなっている。何よりさっきのあなたの態度は一方的に怒鳴り散らしているだけで会話になっていない。話をしているとはいえないわね」
もう我慢の限界であった。
「ぐだぐだうっせえんだよ! あんたは他人だからそんなにのん気に構えてられるんだ。邪魔だからどっかへ行ってくれ、いや、行け! じゃねえと何するか分かんねえぞ!」
「行け、という指示に対しては断固拒否するわ。何をするか分からないという脅しに対してはこう答えるわ。"好きにすればいい"」
十鳥オガミの返事は明朗で無駄がなかった。
「ただ、消えるとするならばあなたでしょう。こんな状況で彼女と二人きりにしたらどんな惨事を招くか分かったものではないもの」
「お前、マジでぶっ飛ばすぞ!」
「どうぞ」
この女の不動心は完璧で付け入る隙など微塵もない。畏怖すら感じるレベルだ。それが更なる怒りに火を注ぐ結果になるのだが、頭のてっぺんからつま先まで覚悟を決めたかのようなその冷然たる面持ちの前ではけっきょく燃え上がることもなく、跡形もなく消え去るのだった。いい返そうものなら、手を出そうものなら強烈な反駁、反撃が何十倍にもなって己に返ってくるかもしれない恐怖に我が身が硬直する。たかが女子ひとりに、だ。
「どうぞ」
十鳥オガミはもう一度重ねた。
「あなたが私に罵詈雑言を浴びせるのはあなたの自由。あなたが私を殴るのもあなたの自由。あなたが私を殺すのもやはりあなたの自由」
何をいっているんだ、この女は。
「同じように私にもあなたに対して罵詈雑言を吐き返す自由、殴り返す自由、殺し返す自由がある」
……殺されたら、返すことはできないだろう。ひょっとして冗談のつもりだったのか。
「その覚悟があるのなら好きなようにしたらいい」
そこまでいわれたらもう何もいえない。というかここまで感情がぶれない相手にこれ以上何をいっても無駄だろう。徹底して昂ぶった気持ちを押さえ込まれ、言動を封じられた惨めさを噛み締めながら、長椅子から離れた。
晩春というには遅く、初夏にもまだ早い季節が醸す草木の匂いを孕んだ風に頬を撫ぜられながら、住み慣れた於牟寺の街並みをじっと眺めていると、十鳥オガミに促され、ふたたび話し始める羽二生の声がかすかに聞こえてきた。
その内容は低めた声とは対象的に先ほど以上に負の感情を迸らせるには充分であった。
男女の仲になったナギとナナミさんは結果的に懐妊、許されざる関係のふたりは悩み抜いた末に堕胎したのだという。もちろんそれは聞くに堪えない腹立たしいものであったが、視線は街並みに落としたままとりあえず聞き入ることにした。
十鳥オガミにがつんとやられたせいか、あるいは久しぶりの憤激に気力を使い果たしてしまったせいでもはや気持ちが追いつかないのかもしれない。
……いや、あまりに現実と乖離した巷談以下の内容ゆえ怒りが行動に直結しないのだろう。冷静に考えればナギとナナミさんがそういう仲になったとか笑い飛ばせるレベル、愚劣極まりない話。いわゆる噴飯ものというやつだ。
「そんな幼稚な空言を信じたからには決定的な何かがあったのね」
十鳥オガミの言葉に息を呑む気配を感じた。羽二生が頷いたのかもしれない。
写真が、とか細い声が答えた。
「当人同士、一君とお姉さんが病院にでも連れ立って行く姿でも捉えていたのかしら」
まるですべてをお見通しといった風に羽二生の統制の取れていない発言の欠片を的確に理解し答えを導き出していくその様はさながらアームチェア・ディテクティブだ。
問題は、と肘掛け椅子の女名探偵の声が一気に厳しさを増す。
「誰が羽二生さんにそんな情報をもたらしたのかということなのだけれど」
なんとなく十鳥オガミはその情報提供者に心当たりがありそうないい回しであった。
振り返ると、羽二生はひざの上で握り込んだ拳を見つめていた。あっさり戯れ言に踊らされた己を恥じ入っているのだろうか。
黒幕がいったい誰なのか、というところで狙ったかのように昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴った。
「せっかくの休み時間を割いてくれてありがとう」
十鳥オガミは羽二生に頭を下げると、放課後に時間があるか尋ねていた。
「もう答えは出たようなものだし、ここで終わりにしてもよいのだけれど、どうせなら近親者から明確な証言、言質を取っておいて損はないでしょう」
勝手に話を進める十鳥オガミに思考が追いつかない。
「誰に会いに行くんだよ。てか俺だけハブるとかないだろ」
「場も弁えずに一時的な感情で動く人とは行動を共にする趣味は今のところないの」
さっきの仕返しか。
「悪かったよ」
親友に対する悪意の塊のようなデマにムカついたとはいえ、さっきの発言、態度は完全にこちらが悪い。
「謝る相手が違うんじゃないのかしら」
十鳥オガミは愛想の「あ」の字も込めずにそんなことをいう。
「さっきは……悪かった」
羽二生に向かって限りなく丁寧に頭を下げる。角度は30度。これがぎりぎり譲歩し得る俺の誠意の証である。
「全然、悪そうに見えないわね」
ダメ出しは十鳥オガミから飛んだ。頭を下げさせた当の羽二生は謝罪を端から受け入れるつもりがないのか、無反応であった。元からのこいつとの関係や一方的で攻撃的な先ほどの言動を鑑みれば、こういう態度を取られても文句がいえる立場とはいえないであろう。
「許してくれとはいわない。全面的に俺が悪かったのは間違いない。本当に申し訳ない」
今度は大盤振る舞いの45度である。
「謝るくらいならああいう態度は最初から取るべきではないわね」
謝罪を要請しておいてこの仕打ち。ひょっとしてこれも冗談のつもり、十鳥ジョークとでもいうのだろうか。
「どうするのかしら、羽二生さん」
羽二生はゆっくりと立ち上がると、私も行きますと頷いていた。表情に幾分かの余裕が戻っていた。
「俺も行くぞ、俺も最後までつき合う」
大体デマの情報源とか最大の謎が解けていないのだ。
「ついて来る来ないはあなたの自由。止める権利は私にはないわね」
十鳥オガミは拒絶こそしないものの、歓迎も徹底的にするつもりはないようだった。
電車の中では十鳥オガミも羽二生も誰も喋らなかったし、俺も積極的に話しかけることはしなかった。
妙な組み合わせだなと自分でも思う。於牟寺へは電車通学である十鳥オガミは地元へ帰るだけだが、羽二生も俺も於牟寺市民だ。たかだか数百円、缶コーヒーと週刊漫画雑誌が買えるか買えないかギリギリの金額だが、学生には決して小さい額ではない。菓子パンやおにぎりならチョイス次第で三つは余裕で買える。
「無理について来なくてもいいのだけれど」
券売機で思案していたときに十鳥オガミからそう声をかけられ、意地になったわけでもないが、けっきょくこうして電車に乗り、瓊紅保へ来る羽目になった。
羽二生はすっかり落ち着きを取り戻している。こいつがナギを罵るきっかけになった話の信憑性があやしくなったことが大きいのだろう。
問題はその出所、そしてその内容だ。今思い出しても胸糞が悪くなる。
◇
ただひたすら泣く一方でこちらが知りたい真相を語ろうとしない羽二生に突如現われた十鳥オガミはフェンスに沿うように並べられている長椅子のひとつに座るように促した。
こういう気遣いは女子だよなあ。
読書をしていたのだろう、海外文学らしき厚めの小説を手にしていた。〈上〉とあるので続きがあるようだ。小説、それも海外文学、さらにこの厚さで続編ありとか俺には苦行以外の何ものでもない。昼食後に屋上で優雅に海外文学とかいい趣味をしてらっしゃる。
「そうね。昼休みに屋上で女子を泣かせる誰かさんよりは有効な時間の使い方、有意義な趣味だと思う」
俺の周りの女連中はなぜこうも皮肉や嫌味を口にするやつばかりなんだ。
「それとこれは小説ではなく、対話篇。小説的な面白さは感じるから間違ってはいないけれども、やはり小説といういい方は個人的に引っかかるの」
そいつは失礼。てかタイワヘンってなんだ。
十鳥オガミはフェンスを背にうな垂れて座る羽二生を立ったまま黙って見ていた。
「……えぇっと、十鳥さん? なだめてくれたのはありがたいけど、こっから先はこいつと俺の話だから、さ」
当たり前のように話の輪に加わっている十鳥オガミに、極力気を悪くしないよう、退去を促したつもりだったが通じなかった。
「一君のことでしょう」
急に辺りの温度が下がった気がした。
沈着な態度が生み出すその鋭利な表情に険しさが差し込む。
「関係ないとは誰にも言わせない。彼が休んでいる理由なら私にも聞く権利はあるもの」
有無をいわせぬ物言いでそこまでいうと、一瞬で陰を拭い、挑発気味にもっとも、と継いだ。
「本当にあなたたちの色恋に関わるトラブルならば、お望み通り立ち去るつもりだけれど」
まあ俺としては羽二生がナギに何をいったのか、そしてなぜそんなことをしたのかが知りたいだけだ。冷やかし目的ではなさげだし、妨害するというのでなければいてもいなくてもかまわないか。
それ以上何もいわない俺の態度を同座することへの許可と受け取ったのか、十鳥オガミは羽二生に事の経緯、説明を求めた。
「……彼、一君と……お姉さん、が……」
お姉さん、か。さっきのあの人発言といい、あれだけナナミさんに入れ込んでいたやつとは思えない呼び方に違和感と落胆を覚える。
……ん? どうしてレズ女のナナミさんへの呼称が変化しただけで落胆するんだ。ライバルの脱落は喜ぶべきことだろう。いや、それ以前にライバルってなんだ。
思わず漏れる苦笑をよそに途切れ途切れに押し出される羽二生の言葉の断片によってナギの被った三日前の出来事が明らかにされ……
……………は?
「……おい、今なんていった」
羽二生の口からたった今紡がれたばかりの発言にめまいに似た不快さを覚える。それは怒りを乗せた言となり、目の前でふざけたことを抜かしている同級の女にぶつけられる。
「そんなわけねえだろう、寝ぼけたこといってんじゃねえぞ、お前!」
ようやく気分が落ち着いたはずの羽二生はいきなり浴びせられた俺の暴言に目を見開き、怯え切ったその両眼からはふたたび感情の雫が滴り、くちびるは小刻みに震えていた。
冗談で済まされる話ではなかった。少なくとも俺には。
ナギとナナミさんが男女の仲になってるだ? いかなる理由があろうとも許される妄言ではない。ふざけろ。
「誰に吹き込まれてそんなゴミみたいな話、信じてるんだお前。それを鵜呑みにした挙句にナギを罵ったってか。どこまでバカなんだお前は! 聞いてんのか、ええっ? おい聞いてのかってつってんだよ、バカ女!」
ぶっ飛ばすぞ、てめえ、までいい切らないうちに十鳥オガミに割って入られた。
「少し、いえだいぶ熱りすぎね。せっかく話してくれている彼女に対して無礼な仕打ちだと思わないのかしら」
「無礼だ? そりゃこっちのセリフだろ。親友やその姉さんが愚弄されてるんだ。黙って聞いてろってのかよ!」
「愚弄しているのは彼女ではないでしょう。彼女は私たちに乞われてなぜ一君に酷いことをいうに至ったのか、その説明をしているにすぎない」
十鳥オガミの冷静さは今はただただイラつくだけであった。羽二生ともどもぶっ飛ばしたい感情に駆られる。
「とにかく黙っててくれ、今こいつと話をしている最中なんだ」
「その発言は矛盾しているわね。あなたが感情的になったせいで彼女はすっかり怯えて話ができる状態ではなくなっている。何よりさっきのあなたの態度は一方的に怒鳴り散らしているだけで会話になっていない。話をしているとはいえないわね」
もう我慢の限界であった。
「ぐだぐだうっせえんだよ! あんたは他人だからそんなにのん気に構えてられるんだ。邪魔だからどっかへ行ってくれ、いや、行け! じゃねえと何するか分かんねえぞ!」
「行け、という指示に対しては断固拒否するわ。何をするか分からないという脅しに対してはこう答えるわ。"好きにすればいい"」
十鳥オガミの返事は明朗で無駄がなかった。
「ただ、消えるとするならばあなたでしょう。こんな状況で彼女と二人きりにしたらどんな惨事を招くか分かったものではないもの」
「お前、マジでぶっ飛ばすぞ!」
「どうぞ」
この女の不動心は完璧で付け入る隙など微塵もない。畏怖すら感じるレベルだ。それが更なる怒りに火を注ぐ結果になるのだが、頭のてっぺんからつま先まで覚悟を決めたかのようなその冷然たる面持ちの前ではけっきょく燃え上がることもなく、跡形もなく消え去るのだった。いい返そうものなら、手を出そうものなら強烈な反駁、反撃が何十倍にもなって己に返ってくるかもしれない恐怖に我が身が硬直する。たかが女子ひとりに、だ。
「どうぞ」
十鳥オガミはもう一度重ねた。
「あなたが私に罵詈雑言を浴びせるのはあなたの自由。あなたが私を殴るのもあなたの自由。あなたが私を殺すのもやはりあなたの自由」
何をいっているんだ、この女は。
「同じように私にもあなたに対して罵詈雑言を吐き返す自由、殴り返す自由、殺し返す自由がある」
……殺されたら、返すことはできないだろう。ひょっとして冗談のつもりだったのか。
「その覚悟があるのなら好きなようにしたらいい」
そこまでいわれたらもう何もいえない。というかここまで感情がぶれない相手にこれ以上何をいっても無駄だろう。徹底して昂ぶった気持ちを押さえ込まれ、言動を封じられた惨めさを噛み締めながら、長椅子から離れた。
晩春というには遅く、初夏にもまだ早い季節が醸す草木の匂いを孕んだ風に頬を撫ぜられながら、住み慣れた於牟寺の街並みをじっと眺めていると、十鳥オガミに促され、ふたたび話し始める羽二生の声がかすかに聞こえてきた。
その内容は低めた声とは対象的に先ほど以上に負の感情を迸らせるには充分であった。
男女の仲になったナギとナナミさんは結果的に懐妊、許されざる関係のふたりは悩み抜いた末に堕胎したのだという。もちろんそれは聞くに堪えない腹立たしいものであったが、視線は街並みに落としたままとりあえず聞き入ることにした。
十鳥オガミにがつんとやられたせいか、あるいは久しぶりの憤激に気力を使い果たしてしまったせいでもはや気持ちが追いつかないのかもしれない。
……いや、あまりに現実と乖離した巷談以下の内容ゆえ怒りが行動に直結しないのだろう。冷静に考えればナギとナナミさんがそういう仲になったとか笑い飛ばせるレベル、愚劣極まりない話。いわゆる噴飯ものというやつだ。
「そんな幼稚な空言を信じたからには決定的な何かがあったのね」
十鳥オガミの言葉に息を呑む気配を感じた。羽二生が頷いたのかもしれない。
写真が、とか細い声が答えた。
「当人同士、一君とお姉さんが病院にでも連れ立って行く姿でも捉えていたのかしら」
まるですべてをお見通しといった風に羽二生の統制の取れていない発言の欠片を的確に理解し答えを導き出していくその様はさながらアームチェア・ディテクティブだ。
問題は、と肘掛け椅子の女名探偵の声が一気に厳しさを増す。
「誰が羽二生さんにそんな情報をもたらしたのかということなのだけれど」
なんとなく十鳥オガミはその情報提供者に心当たりがありそうないい回しであった。
振り返ると、羽二生はひざの上で握り込んだ拳を見つめていた。あっさり戯れ言に踊らされた己を恥じ入っているのだろうか。
黒幕がいったい誰なのか、というところで狙ったかのように昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴った。
「せっかくの休み時間を割いてくれてありがとう」
十鳥オガミは羽二生に頭を下げると、放課後に時間があるか尋ねていた。
「もう答えは出たようなものだし、ここで終わりにしてもよいのだけれど、どうせなら近親者から明確な証言、言質を取っておいて損はないでしょう」
勝手に話を進める十鳥オガミに思考が追いつかない。
「誰に会いに行くんだよ。てか俺だけハブるとかないだろ」
「場も弁えずに一時的な感情で動く人とは行動を共にする趣味は今のところないの」
さっきの仕返しか。
「悪かったよ」
親友に対する悪意の塊のようなデマにムカついたとはいえ、さっきの発言、態度は完全にこちらが悪い。
「謝る相手が違うんじゃないのかしら」
十鳥オガミは愛想の「あ」の字も込めずにそんなことをいう。
「さっきは……悪かった」
羽二生に向かって限りなく丁寧に頭を下げる。角度は30度。これがぎりぎり譲歩し得る俺の誠意の証である。
「全然、悪そうに見えないわね」
ダメ出しは十鳥オガミから飛んだ。頭を下げさせた当の羽二生は謝罪を端から受け入れるつもりがないのか、無反応であった。元からのこいつとの関係や一方的で攻撃的な先ほどの言動を鑑みれば、こういう態度を取られても文句がいえる立場とはいえないであろう。
「許してくれとはいわない。全面的に俺が悪かったのは間違いない。本当に申し訳ない」
今度は大盤振る舞いの45度である。
「謝るくらいならああいう態度は最初から取るべきではないわね」
謝罪を要請しておいてこの仕打ち。ひょっとしてこれも冗談のつもり、十鳥ジョークとでもいうのだろうか。
「どうするのかしら、羽二生さん」
羽二生はゆっくりと立ち上がると、私も行きますと頷いていた。表情に幾分かの余裕が戻っていた。
「俺も行くぞ、俺も最後までつき合う」
大体デマの情報源とか最大の謎が解けていないのだ。
「ついて来る来ないはあなたの自由。止める権利は私にはないわね」
十鳥オガミは拒絶こそしないものの、歓迎も徹底的にするつもりはないようだった。
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