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パラサイト
散会
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祭りのあとの静けさとはよくいったものだと思う。
イベントは本番よりもそこに向かうまでの道程、準備期間がいちばん楽しいとはよくいうけれど、はっきりしてるのはすべてが終わったあとの侘しさは間違いなくやって来るということ。
その寂寥感にこそ本懐を見出すという人もいるかもしれないけれど、僕はセンチメンタルに嬉々として身を委ねられるほどの余裕は今のところ持ち合わせてはいない。
針のむしろを地で行くような、でも同じ空間、それも僕の家に羽二生さんと居るというそれなりに心が華やぐような時間が過ぎ、そろそろ姉が帰宅しようかという頃、その姉から電話があった。
仕事が定時に終わりそうにないため、今日は帰らず地元に住んでいる同僚の家に泊まることにしたという連絡であった。
姉が目当てでやって来た羽二生さんが脳裏をよぎる。落胆する姿が容易に想像できるだけに伝えるのがつらい。
シギたちが遊びに来たことを告げると、ずいぶんもてるのねと小さな笑い声が漏れ聞こえてきた。
姉は彼女たちの帰宅の心配をしていたけれどそこは大丈夫だと答えて受話器を置いた。
たった今あった姉からの電話の内容を伝えると、羽二生さんの表情が華やぎ、やがて見ているこちらが痛ましく感じられるほど気落ちしていくのが分かった。
「残念です」
左衛門三郎のお嬢様が目を閉じてつんとあごを上げる、いつものポーズをして見せる。
姉が帰って来ない家に用はないというわけでもない、と言い切れないのが悲しいところだけれど、羽二生さんがそろそろ失礼しますと腰を上げた。
それを合図のように左衛門三郎のお嬢様と三苫さんも立ち上がり、お茶会はお開きの流れになった。
玄関まで見送りに出ると、左衛門三郎のお嬢様が羽二生さんに送って行きますよと声を掛けていた。
「……あ、私は大丈夫だから」
そうやんわりと左衛門三郎のお嬢様の申し出を辞退する羽二生さんに自分が送って行こうかといえたらどんなにいいだろうと考えるけれど、それが言葉になることなど当然あるわけもなく、かといってこのまま成り行きに任せるわけにもいかない。
「左衛門三郎さん、僕からもお願いできるかな」
そういいながら羽二生さんを見やる。
「姉さんも羽二生さんのこと心配していたから……送って貰った方がいいと思うんだ」
姉は個人単位ではなく全体の心配をしていたのだけれど、これは許容範囲であろう。
羽二生さんはいたく感激した様子で目を潤ませ、ナナミさんが心配してくれていたのと噛み締めるように頷いていた。
「お任せ下さい。責任を持って羽二生さんをご自宅まで送り届けさせて頂きます」
そんな左衛門三郎のお嬢様の頼もしいセリフを聞いていると、いつの間に連絡を入れたのだろうか、家の前に左衛門三郎家のものであろう一台の高級車が狙い澄ましたように静かに、しかし威厳を容赦なく放ちながら滑り込んできた。
良くも悪くも最先端のデザインとは無縁のクラシカルな雰囲気はこの辺りの住宅街には不釣合いでかなり浮いていた。停車したメタリックシルバーの後部座席ドアは我が家の門扉の真正面を的確に捉えており、熟練の技を感じさせる。
運転手さんがドアを開けて悠然と待ち構えている図を想像したけれど、それはなかった。噂では左衛門三郎のお嬢様がそれを嫌がって制していると聞いたことがある。
「今日は大変楽しかったです」
今度はぜひ、わたくしの家にもいらして下さいというお約束の言葉を残しながら左衛門三郎のお嬢様は三苫さんと羽二生さんと共に車に乗り込んだ。
「それでは、おやすみなさい」
深々とお辞儀をする左衛門三郎のお嬢様たちを見送って戻ると、リビングにはシギと十鳥さんだけで上四元クシナの姿はなかった。
「上四元さん、もう寝るって」
シギはどこか残念そうな口調だった。
「彼女、ずいぶん機嫌はよさそうだったけれど」
十鳥さんの皮肉めいた声が続いた。上四元クシナからすれば予想外の訪問者たちが去ったからなのだろう。姉が帰宅しないことで頭をもたげてきた問題がそこにある。
「シギはいつ頃帰るの?」
当初はロクを含めて泊まる予定ではあったけれど、ロクは不参加、そして姉もいない状態ではいくら互いに泊まり合った幼なじみの間柄とはいえ泊まるというのはないであろう。
「今日はお泊まりするよ」
こともなげにいう。
「……いや、でも」
「だめ?」
確かに元々そういう約束ではあったけれど、姉のいない状況では気が引ける。
「十鳥さんはどうするの?」
こちらの思惑など構うことなくシギは十鳥さんに向き直る。
彼女はじっとシギを見つめていたけれど、やがてこちらに顔を向けた。
「迷惑じゃないかしら」
幼なじみという立ち位置からシギはギリギリありだけれど、十鳥さんの場合、当事者同士で納得したとしても世間的に問題がある。
「迷惑ではないけれど」
ご両親、といいかけて言葉を飲み込む。彼女は祖母たるイワさんと二人暮らしであった。
「今日は祖母は不在で帰っても誰もいないの」
どこか楽しそうにそんなことをいう。
「じゃあ、十鳥さんもお泊りだね」
シギは決定とばかりに十鳥さんに微笑みかける。
姉が今夜帰って来ないこと自体は特に問題はない。ただ、現在一階の寝室を根城にしている同居人の存在を思えば彼女たちの申し出はありがたいのも事実だったりする。
あとは彼女たちの寝床をどこに置くかなのだけれど、シギが家に泊まりに来たときにはふつうに僕の部屋で寝起きしていた。
ただ当時は両親が揃っていたし、幼なじみのシギだけだったけれど今日は十鳥さんもいるわけし、そうアバウトに済ませるわけにもいかないであろう。
来客用の寝具一式は幸い鬼門ともいえる寝室以外にもある。
二階の姉と僕の部屋の向かいにある、父や母の友人が宿泊する際に使用しているサンルームへのアクセスも兼ねた十二帖の洋間から布団を運び出し、シギたちがテーブルを除けてくれていたリビングに並べる。
「ナギちゃん、十鳥さんと買い物に行って来るね」
布団を敷き終わったあと、シギがそんなことをいい出す。
そういえば姉の電話でばたばたしていたけれど、そろそろ夕餉時である。自分一人だったら適当に見繕うのだけれど、今夜はそうもいくまい。
「夕飯なら私が作るよ」
シギはそういう。じゃあどうして。
「十鳥さんが替えの下着欲しいって」
思わず十鳥さんに視線を移すと、期せずして彼女と目が合ってしまう。ただそれだけのことなのに、愚行のように思えて居た堪れない気分になった。
「ナギちゃんも行こうよ」
「……う、うん」
シギの誘いにこれ幸いとばかりに乗った。
平穏な町内とはいえ黄昏時。女子ふたりよりは男がいた方がいいだろうという紳士然とした気持ちよりも寝室に引っ込んでいる上四元クシナとひとつ屋根の下にいたくないという理由から付き合うのだから、我ながら情けない。
児童公園の近くにある数年前にできたコンビニへ入って行くシギに躊躇のそぶりを見せたのは十鳥さん。どうやらコンビニで下着を売っているのは知らなかったらしい。
「こういうところはあまり利用しないから」
彼女たちに張りついて売り場に臨場するのも気が引けるので飲料コーナーへ逃げるように足を向ける。
「種類が多い方がよかった?」
シギがスーパーや衣料チェーンへ行くことを提案したようだけれど、十鳥さんはじゅうぶんだと下着が入っていると思われるプラケースをいくつか手にレジに向かっていた。
僕は見たことのない缶コーヒーがあったので甘味料が入っていないことを確認してカゴに入れる。
お菓子を手にしたシギがカゴを覗き込んだ。
「お姉ちゃんの?」
「うん」
普段から買っておくようにいいつけられているわけではないけれど、缶コーヒーの新作を見つけるとつい買うくせがついてしまっている。
「それも一緒に会計しよう」
両手いっぱいのお菓子を入れるように促すと、シギは嬉しそうにカゴに流し込んだ。
家では両親も姉もお菓子を食べないし、僕も自分で買ったりはしないのでこの手のものはよそ様におじゃました際や今日みたいにお土産を頂いたときにに食べるくらいだ。母がおもてなしをするときは手作りのお菓子が振舞われる。カップ麺もシギの家で食べたのが最初だった。別にそういう教育方針というわけではなく、親が食べないから買っていないだけなのだけど、初めてカップ麺を食べたときは素直においしいと思った。ただ、それを聞いたおばさんは我が家がそういうものを摂らせない方針なのだと勘違いして顔を青くしながら母に必死に謝っていたときには子供ながらに気の毒にすら思った。もちろん母は何の問題もありません、むしろありがとうございましたと鷹揚に対応していたけれど。
家に帰ると、さっそくシギは料理に取り掛かっていた。小さい頃から料理好きなシギはこういうことは進んでする。学校ではけっきょく家庭部に入ったそうでいかにもシギらしいと思った。元々は別々で活動していた家政部と手芸部とが合併して出来たばかりの部らしく、編み物好きでもあるシギにとってはこれ以上ない部活動であろう。
そんなシギが学校に弁当を持参しないのは憧れだった学食を楽しみたいからであり、何より朝が弱いからである。
「十鳥さんは苦手なものある?」
シギの問いに十鳥さんは一瞬、虚を衝かれたようにしていたけれど特にないと答えると、何か手伝えることはないかとキッチンに立った。
久々のシギの手料理は大葉と大根おろしが食欲をそそる豆腐ハンバーグとひじきの煮物、昆布だしの効いたはまぐりのお吸い物。以前から洋風料理は得意だったけれど、最近は和風もいけるようだ。
「七ツ役さんって器用なのね」
十鳥さんはシギの料理の腕前に感心しきりであった。
「そうかなあ」
力を入れることなく箸で簡単に切れるふわふわの和風ハンバーグを頬張りながらシギが首を傾げる。シギにとっては日常的なことなので、謙遜ではないだろう。
シギは寝室にこもっている上四元クシナを呼びに行ったけれど、寝ているのか反応がなかったという。起こすのも悪いということでそのままにしていたというけれど、実際のところは狸寝入りをしながら様子を窺っているのではないかという疑念も拭えないでいる。
「ナギちゃん、おかわりは?」
空の茶碗を手にぼんやりしていると立ったシギが炊飯ジャーを開けてこちらを見ていた。
「……ああ、うん。貰おうかな」
和風なおかずに合わせたのだろうか、今晩の主食は多種多様な穀物の風味や歯応えが楽しい雑穀ご飯だ。
「十鳥さんは雑穀は大丈夫だった?」
僕の茶碗に雑穀をよそいながら、シギが気遣うように訊くと、彼女はむしろ大好きなのと笑った。
「ただ祖母は白米を好むからなかなか食べる機会がなくて」
世代によっては雑穀類は敬遠されると聞いたことがある。幼い頃に散々食したであろうものを白米が普通に流通している現代社会においてわざわざ食べるということが理解できないのかもしれない。
「うちのお母さんも白いお米が大好きだよ」
おばさんはそうだろうなあとは思う。逆におじさんは進んで雑穀を摂取してるらしい。
シギの手料理を堪能したあとは、買い込んだお菓子をお供に恒例の恐怖系DVDの鑑賞会となった。
シギは相変わらず怯えながらもしっかりと次々飛び出す恐怖映像に食いついていた。十鳥さんはこの手のはどうかと思ったけれど、特に好きでも嫌いでもないのか顕著な反応は見られなかったけれど、的確で容赦のない感想を述べていた。
黄昏の海岸に突如現れた人影の首が落ちる映像には、
「誰かが人形を置いたのではないのかしら」
境内に居並ぶ無数の絵馬の合間から突然女の顔が現れる映像には、
「そこに人がいただけではないのかしら」
投稿者が病院の廃墟に行った際、ロッカーで見つけたというビデオが紹介されたときには、
「つまりは不法侵入よね。しかも物を持ち帰ったりしたら、窃盗だわ。明らかな犯罪行為なのだけれど、罰せられないのかしら」
あいにく、この映像は差出人不明で送られてきたモノらしいので、投稿者に罪を償わせることは不可能であろう。
そういった犯罪行為を経て入手、公開されたその映像はダンサーがひとりスタジオでクラシックバレエの練習していると突然暗転、画が復帰した途端に同じ衣装を着た人物が背後から近づき、再び暗転し、ダンサーの抵抗するような声とともにお経が流れるといったものであった。
「実際にいた誰かが近づいただけではないのかしら」
表情ひとつ変えることなく万事この調子であった。
ただ、手品の練習中にノイズが入って顔が歪む携帯動画だけは興味を抱いたようだ。
「ヤッピバーンって、なにかしら。すごく気になるわ」
*
「可愛らしい方ね」
鑑賞会終了後。
お風呂が沸いたのでまずシギからということになった。十鳥さんは先ほどコンビニで買ったペットボトルのお茶を飲んでいる。
「お料理も上手だし、それによく気が利く」
お茶が注がれたグラスをやさしく見つめる。天井から零れ落ちる光を受けて琥珀色が辺りに品のいい輝きを煌かせた。
ペットボトルのお茶を選んだのはシギだった。めずらしいなと思ってはいたけれど、十鳥さんがやって来てすぐに日本茶を望んだことを考えたのであろう。
シギとは今日初めて話をしたそうだけれど、人懐こい彼女の性格もあって十鳥さんとはすぐに打ち解けたようである。
「私と上四元さんが揉めたときも場の空気を慮って割って入ってくれた」
やはり十鳥さんもあのときのシギの態度を同じように捉えたようだ。
「七ツ役さんっていいお嫁さんになると思うの」
なぜかこちらをじっと見ながらいう。そういうことは考えたこともなかったけれど、なるほどその指摘は的を射ていると思う。
「お先にいただきました」
頭にタオルを巻いたシギが入ってきた。スモックパジャマを着込んだシギはピンクのチェックと胸元のリボンのせいで幼さが漂ってはいるものの、体つきは年頃のそれだった。
予め決めていた順番通り、次は十鳥さんが浴室に向かう。
「十鳥さんと何を話してたの?」
冷凍室からコンビニで買った大判のバニラソーダバーを出しながらシギが訊いてきた。
「シギの話」
私の? と首を傾げる。
「うん。十鳥さん、シギのこと褒めてた」
何のことだろうと見るからに涼しげな水色をひとくち齧る。
「料理が上手くて、よく気も効くって」
夕飯時に本人から直接指摘された感想に再度、そうかなあとつぶやく。
「十鳥さんってすごいね。怖いDVD観ても全然平気そうだった」
先ほどの冷静沈着な彼女の一連の返しのことらしい。シギからすれば料理ができることよりもこちらの方が尊敬に値するのだろう。ああいうものをまったく怖がらない人はいるだろうけれど、あそこまで毅然とした態度だとあのときのリビングに漂う不穏当な空気からすれば非常に浮いているわけで、思い出すとちょっと笑ってしまう。
「ナギちゃん、何かおかしいの?」
「……い、いや」
ガムでも噛んでいるかのように口元を忙しなく動かす。ごまかしの動作にしては思慮が足りないなと自分でも思う。
「十鳥さんって何が苦手なんだろうなと思って」
う~んと唸りながら考え込むシギをぼんやりと見ながら、さっき十鳥さんがいっていた言葉が自然に重なる。
「七ツ役さんっていいお嫁さんになると思うの」
いつも見ているはずの張りのあるつるんとした肌がまぶしく感じられる。風呂上りのシギを見るのは中学以来だ。
「虫とかかな」
シギのあどけない声で我に返る。不思議そうな表情していたのか、十鳥さんの苦手なものだよとシギが補足する。
虫か……あまりピンと来ない。
ちなみにシギは虫が苦手ではない。以前、シギがまだ近所に住んでいた頃に中秋の名月を愉しむべくリビングを開け放していたら、大きめの蛾が入り込んで家族でパニックになったことがあった。たまたま遊びに来ていたシギは動じることもなく左右の翅を摘むと、名称や雌雄の区別まで冷静に口にし、庭から外へ出て逃がしていた。家族揃って虫、特に鱗翅目がダメな父も母も、もちろん僕もシギにいたく感謝したことはいうまでもない。
姉などはいち早く察知したのか、阿鼻叫喚の渦中と化する前に姿を消していた。苦手なものなどなく、つけ入る隙などないようでいて、けっこうありまくりだったりする。
ちなみに昼間に飛んで翅を閉じるのが蝶で、夜間に飛んで翅を広げているのが蛾だと認識していたけれど、それは違うと教えてくれたのはシギだった。さらに蛾の方が蝶よりもずっと種類が多いということや光に集まる習性を走光性ということとか。もっともシギは昆虫博士の類ではなく、ただ知っていただけのようだけれど。
「あのときはナギちゃんのお父さんやお母さんにすごくほめられた」
実際、平然と招かれざる客を外へ連れ出す様は大げさではなく勇者そのものであった。
「ナギちゃんは何が苦手だと思う?」
ひとしきりあの夜の話で盛り上がったのち、シギが話を戻す。
「そうだなあ……」
あらためてそう問われると、なかなか思い浮かばない。上四元クシナともども苦手なものなどないようにすら思えてくる。
「お饅頭とか」
落語の演目じゃないんだから。
「十鳥さんには苦手なものとかないんじゃないのかな」
「そうでもないわね」
率直な意見を述べたつもりだったけれど、速攻で本人に否定されるとは予想外であった。
……本人?
「十鳥さん」
シギの視線が僕の後方へと向けられている。どうやら湯浴みが済んだ本人が入ってきたようだ。
「っと……」
といいかけて息を呑む。彼女は先ほど買ったものであろうキャミソールとショーツを着用していた。黒のフライス編みのそれは健康的で、組み合わせ的にはごくありふれた、それこそ姉が日常的に見せている格好だ。
とはいえ、下着には変わりはなく、何より相手は家族ではなく同級生の女子である。瞬く間に顔全体が熱を帯びていくのがはっきりと分かった。
「どうしたの?」
咄嗟に下に向けた頭にシギの声が降ってくる。暗闇だったとはいえ寝室に引っ張りこまれた際に上四元クシナが身につけていた扇情的なランジェリー姿ほど露骨ではないけれど、目のやり場に困ることこの上ない。
パジャマか何か、といいかけて彼女の宿泊は突然に決まったことを思い出す。予め泊まるつもりだったシギとは違ってそういったものの用意はあるわけもない。
「十鳥さんは何が苦手なの?」
こちらの苦悩などよそにシギの声は弾んでいる。しかし今はそれがありがたい。
「ルマンドかしら」
それが答えであった。十鳥さんの家にお呼ばれした際に出された菓子群、いわゆるばあちゃん菓子が鮮明に甦る。彼女は実においしそうに、最小限の口の動きでもってそれらを品よく消化していた。
「おばあちゃんのお家によく置いてあるお菓子のこと?」
シギが不思議そうにしている横で十鳥さんは静かに微笑んでいた。つまり彼女にとっての饅頭がルマンドなのだろう。
「あと熱い日本茶もあれば完璧ね」
シギはいまいち意味が分かっていないのか、どうしてそれらが苦手なのか十鳥さんに真剣に問い詰めていた。
楽しそうに話をするふたりを残し、逃げるように浴室に向かった。
風呂から上がった後、就寝の挨拶を彼女たちにして床に就くと程なく眠りに落ちた。
こうして怒涛の一日は終わったのだった。
イベントは本番よりもそこに向かうまでの道程、準備期間がいちばん楽しいとはよくいうけれど、はっきりしてるのはすべてが終わったあとの侘しさは間違いなくやって来るということ。
その寂寥感にこそ本懐を見出すという人もいるかもしれないけれど、僕はセンチメンタルに嬉々として身を委ねられるほどの余裕は今のところ持ち合わせてはいない。
針のむしろを地で行くような、でも同じ空間、それも僕の家に羽二生さんと居るというそれなりに心が華やぐような時間が過ぎ、そろそろ姉が帰宅しようかという頃、その姉から電話があった。
仕事が定時に終わりそうにないため、今日は帰らず地元に住んでいる同僚の家に泊まることにしたという連絡であった。
姉が目当てでやって来た羽二生さんが脳裏をよぎる。落胆する姿が容易に想像できるだけに伝えるのがつらい。
シギたちが遊びに来たことを告げると、ずいぶんもてるのねと小さな笑い声が漏れ聞こえてきた。
姉は彼女たちの帰宅の心配をしていたけれどそこは大丈夫だと答えて受話器を置いた。
たった今あった姉からの電話の内容を伝えると、羽二生さんの表情が華やぎ、やがて見ているこちらが痛ましく感じられるほど気落ちしていくのが分かった。
「残念です」
左衛門三郎のお嬢様が目を閉じてつんとあごを上げる、いつものポーズをして見せる。
姉が帰って来ない家に用はないというわけでもない、と言い切れないのが悲しいところだけれど、羽二生さんがそろそろ失礼しますと腰を上げた。
それを合図のように左衛門三郎のお嬢様と三苫さんも立ち上がり、お茶会はお開きの流れになった。
玄関まで見送りに出ると、左衛門三郎のお嬢様が羽二生さんに送って行きますよと声を掛けていた。
「……あ、私は大丈夫だから」
そうやんわりと左衛門三郎のお嬢様の申し出を辞退する羽二生さんに自分が送って行こうかといえたらどんなにいいだろうと考えるけれど、それが言葉になることなど当然あるわけもなく、かといってこのまま成り行きに任せるわけにもいかない。
「左衛門三郎さん、僕からもお願いできるかな」
そういいながら羽二生さんを見やる。
「姉さんも羽二生さんのこと心配していたから……送って貰った方がいいと思うんだ」
姉は個人単位ではなく全体の心配をしていたのだけれど、これは許容範囲であろう。
羽二生さんはいたく感激した様子で目を潤ませ、ナナミさんが心配してくれていたのと噛み締めるように頷いていた。
「お任せ下さい。責任を持って羽二生さんをご自宅まで送り届けさせて頂きます」
そんな左衛門三郎のお嬢様の頼もしいセリフを聞いていると、いつの間に連絡を入れたのだろうか、家の前に左衛門三郎家のものであろう一台の高級車が狙い澄ましたように静かに、しかし威厳を容赦なく放ちながら滑り込んできた。
良くも悪くも最先端のデザインとは無縁のクラシカルな雰囲気はこの辺りの住宅街には不釣合いでかなり浮いていた。停車したメタリックシルバーの後部座席ドアは我が家の門扉の真正面を的確に捉えており、熟練の技を感じさせる。
運転手さんがドアを開けて悠然と待ち構えている図を想像したけれど、それはなかった。噂では左衛門三郎のお嬢様がそれを嫌がって制していると聞いたことがある。
「今日は大変楽しかったです」
今度はぜひ、わたくしの家にもいらして下さいというお約束の言葉を残しながら左衛門三郎のお嬢様は三苫さんと羽二生さんと共に車に乗り込んだ。
「それでは、おやすみなさい」
深々とお辞儀をする左衛門三郎のお嬢様たちを見送って戻ると、リビングにはシギと十鳥さんだけで上四元クシナの姿はなかった。
「上四元さん、もう寝るって」
シギはどこか残念そうな口調だった。
「彼女、ずいぶん機嫌はよさそうだったけれど」
十鳥さんの皮肉めいた声が続いた。上四元クシナからすれば予想外の訪問者たちが去ったからなのだろう。姉が帰宅しないことで頭をもたげてきた問題がそこにある。
「シギはいつ頃帰るの?」
当初はロクを含めて泊まる予定ではあったけれど、ロクは不参加、そして姉もいない状態ではいくら互いに泊まり合った幼なじみの間柄とはいえ泊まるというのはないであろう。
「今日はお泊まりするよ」
こともなげにいう。
「……いや、でも」
「だめ?」
確かに元々そういう約束ではあったけれど、姉のいない状況では気が引ける。
「十鳥さんはどうするの?」
こちらの思惑など構うことなくシギは十鳥さんに向き直る。
彼女はじっとシギを見つめていたけれど、やがてこちらに顔を向けた。
「迷惑じゃないかしら」
幼なじみという立ち位置からシギはギリギリありだけれど、十鳥さんの場合、当事者同士で納得したとしても世間的に問題がある。
「迷惑ではないけれど」
ご両親、といいかけて言葉を飲み込む。彼女は祖母たるイワさんと二人暮らしであった。
「今日は祖母は不在で帰っても誰もいないの」
どこか楽しそうにそんなことをいう。
「じゃあ、十鳥さんもお泊りだね」
シギは決定とばかりに十鳥さんに微笑みかける。
姉が今夜帰って来ないこと自体は特に問題はない。ただ、現在一階の寝室を根城にしている同居人の存在を思えば彼女たちの申し出はありがたいのも事実だったりする。
あとは彼女たちの寝床をどこに置くかなのだけれど、シギが家に泊まりに来たときにはふつうに僕の部屋で寝起きしていた。
ただ当時は両親が揃っていたし、幼なじみのシギだけだったけれど今日は十鳥さんもいるわけし、そうアバウトに済ませるわけにもいかないであろう。
来客用の寝具一式は幸い鬼門ともいえる寝室以外にもある。
二階の姉と僕の部屋の向かいにある、父や母の友人が宿泊する際に使用しているサンルームへのアクセスも兼ねた十二帖の洋間から布団を運び出し、シギたちがテーブルを除けてくれていたリビングに並べる。
「ナギちゃん、十鳥さんと買い物に行って来るね」
布団を敷き終わったあと、シギがそんなことをいい出す。
そういえば姉の電話でばたばたしていたけれど、そろそろ夕餉時である。自分一人だったら適当に見繕うのだけれど、今夜はそうもいくまい。
「夕飯なら私が作るよ」
シギはそういう。じゃあどうして。
「十鳥さんが替えの下着欲しいって」
思わず十鳥さんに視線を移すと、期せずして彼女と目が合ってしまう。ただそれだけのことなのに、愚行のように思えて居た堪れない気分になった。
「ナギちゃんも行こうよ」
「……う、うん」
シギの誘いにこれ幸いとばかりに乗った。
平穏な町内とはいえ黄昏時。女子ふたりよりは男がいた方がいいだろうという紳士然とした気持ちよりも寝室に引っ込んでいる上四元クシナとひとつ屋根の下にいたくないという理由から付き合うのだから、我ながら情けない。
児童公園の近くにある数年前にできたコンビニへ入って行くシギに躊躇のそぶりを見せたのは十鳥さん。どうやらコンビニで下着を売っているのは知らなかったらしい。
「こういうところはあまり利用しないから」
彼女たちに張りついて売り場に臨場するのも気が引けるので飲料コーナーへ逃げるように足を向ける。
「種類が多い方がよかった?」
シギがスーパーや衣料チェーンへ行くことを提案したようだけれど、十鳥さんはじゅうぶんだと下着が入っていると思われるプラケースをいくつか手にレジに向かっていた。
僕は見たことのない缶コーヒーがあったので甘味料が入っていないことを確認してカゴに入れる。
お菓子を手にしたシギがカゴを覗き込んだ。
「お姉ちゃんの?」
「うん」
普段から買っておくようにいいつけられているわけではないけれど、缶コーヒーの新作を見つけるとつい買うくせがついてしまっている。
「それも一緒に会計しよう」
両手いっぱいのお菓子を入れるように促すと、シギは嬉しそうにカゴに流し込んだ。
家では両親も姉もお菓子を食べないし、僕も自分で買ったりはしないのでこの手のものはよそ様におじゃました際や今日みたいにお土産を頂いたときにに食べるくらいだ。母がおもてなしをするときは手作りのお菓子が振舞われる。カップ麺もシギの家で食べたのが最初だった。別にそういう教育方針というわけではなく、親が食べないから買っていないだけなのだけど、初めてカップ麺を食べたときは素直においしいと思った。ただ、それを聞いたおばさんは我が家がそういうものを摂らせない方針なのだと勘違いして顔を青くしながら母に必死に謝っていたときには子供ながらに気の毒にすら思った。もちろん母は何の問題もありません、むしろありがとうございましたと鷹揚に対応していたけれど。
家に帰ると、さっそくシギは料理に取り掛かっていた。小さい頃から料理好きなシギはこういうことは進んでする。学校ではけっきょく家庭部に入ったそうでいかにもシギらしいと思った。元々は別々で活動していた家政部と手芸部とが合併して出来たばかりの部らしく、編み物好きでもあるシギにとってはこれ以上ない部活動であろう。
そんなシギが学校に弁当を持参しないのは憧れだった学食を楽しみたいからであり、何より朝が弱いからである。
「十鳥さんは苦手なものある?」
シギの問いに十鳥さんは一瞬、虚を衝かれたようにしていたけれど特にないと答えると、何か手伝えることはないかとキッチンに立った。
久々のシギの手料理は大葉と大根おろしが食欲をそそる豆腐ハンバーグとひじきの煮物、昆布だしの効いたはまぐりのお吸い物。以前から洋風料理は得意だったけれど、最近は和風もいけるようだ。
「七ツ役さんって器用なのね」
十鳥さんはシギの料理の腕前に感心しきりであった。
「そうかなあ」
力を入れることなく箸で簡単に切れるふわふわの和風ハンバーグを頬張りながらシギが首を傾げる。シギにとっては日常的なことなので、謙遜ではないだろう。
シギは寝室にこもっている上四元クシナを呼びに行ったけれど、寝ているのか反応がなかったという。起こすのも悪いということでそのままにしていたというけれど、実際のところは狸寝入りをしながら様子を窺っているのではないかという疑念も拭えないでいる。
「ナギちゃん、おかわりは?」
空の茶碗を手にぼんやりしていると立ったシギが炊飯ジャーを開けてこちらを見ていた。
「……ああ、うん。貰おうかな」
和風なおかずに合わせたのだろうか、今晩の主食は多種多様な穀物の風味や歯応えが楽しい雑穀ご飯だ。
「十鳥さんは雑穀は大丈夫だった?」
僕の茶碗に雑穀をよそいながら、シギが気遣うように訊くと、彼女はむしろ大好きなのと笑った。
「ただ祖母は白米を好むからなかなか食べる機会がなくて」
世代によっては雑穀類は敬遠されると聞いたことがある。幼い頃に散々食したであろうものを白米が普通に流通している現代社会においてわざわざ食べるということが理解できないのかもしれない。
「うちのお母さんも白いお米が大好きだよ」
おばさんはそうだろうなあとは思う。逆におじさんは進んで雑穀を摂取してるらしい。
シギの手料理を堪能したあとは、買い込んだお菓子をお供に恒例の恐怖系DVDの鑑賞会となった。
シギは相変わらず怯えながらもしっかりと次々飛び出す恐怖映像に食いついていた。十鳥さんはこの手のはどうかと思ったけれど、特に好きでも嫌いでもないのか顕著な反応は見られなかったけれど、的確で容赦のない感想を述べていた。
黄昏の海岸に突如現れた人影の首が落ちる映像には、
「誰かが人形を置いたのではないのかしら」
境内に居並ぶ無数の絵馬の合間から突然女の顔が現れる映像には、
「そこに人がいただけではないのかしら」
投稿者が病院の廃墟に行った際、ロッカーで見つけたというビデオが紹介されたときには、
「つまりは不法侵入よね。しかも物を持ち帰ったりしたら、窃盗だわ。明らかな犯罪行為なのだけれど、罰せられないのかしら」
あいにく、この映像は差出人不明で送られてきたモノらしいので、投稿者に罪を償わせることは不可能であろう。
そういった犯罪行為を経て入手、公開されたその映像はダンサーがひとりスタジオでクラシックバレエの練習していると突然暗転、画が復帰した途端に同じ衣装を着た人物が背後から近づき、再び暗転し、ダンサーの抵抗するような声とともにお経が流れるといったものであった。
「実際にいた誰かが近づいただけではないのかしら」
表情ひとつ変えることなく万事この調子であった。
ただ、手品の練習中にノイズが入って顔が歪む携帯動画だけは興味を抱いたようだ。
「ヤッピバーンって、なにかしら。すごく気になるわ」
*
「可愛らしい方ね」
鑑賞会終了後。
お風呂が沸いたのでまずシギからということになった。十鳥さんは先ほどコンビニで買ったペットボトルのお茶を飲んでいる。
「お料理も上手だし、それによく気が利く」
お茶が注がれたグラスをやさしく見つめる。天井から零れ落ちる光を受けて琥珀色が辺りに品のいい輝きを煌かせた。
ペットボトルのお茶を選んだのはシギだった。めずらしいなと思ってはいたけれど、十鳥さんがやって来てすぐに日本茶を望んだことを考えたのであろう。
シギとは今日初めて話をしたそうだけれど、人懐こい彼女の性格もあって十鳥さんとはすぐに打ち解けたようである。
「私と上四元さんが揉めたときも場の空気を慮って割って入ってくれた」
やはり十鳥さんもあのときのシギの態度を同じように捉えたようだ。
「七ツ役さんっていいお嫁さんになると思うの」
なぜかこちらをじっと見ながらいう。そういうことは考えたこともなかったけれど、なるほどその指摘は的を射ていると思う。
「お先にいただきました」
頭にタオルを巻いたシギが入ってきた。スモックパジャマを着込んだシギはピンクのチェックと胸元のリボンのせいで幼さが漂ってはいるものの、体つきは年頃のそれだった。
予め決めていた順番通り、次は十鳥さんが浴室に向かう。
「十鳥さんと何を話してたの?」
冷凍室からコンビニで買った大判のバニラソーダバーを出しながらシギが訊いてきた。
「シギの話」
私の? と首を傾げる。
「うん。十鳥さん、シギのこと褒めてた」
何のことだろうと見るからに涼しげな水色をひとくち齧る。
「料理が上手くて、よく気も効くって」
夕飯時に本人から直接指摘された感想に再度、そうかなあとつぶやく。
「十鳥さんってすごいね。怖いDVD観ても全然平気そうだった」
先ほどの冷静沈着な彼女の一連の返しのことらしい。シギからすれば料理ができることよりもこちらの方が尊敬に値するのだろう。ああいうものをまったく怖がらない人はいるだろうけれど、あそこまで毅然とした態度だとあのときのリビングに漂う不穏当な空気からすれば非常に浮いているわけで、思い出すとちょっと笑ってしまう。
「ナギちゃん、何かおかしいの?」
「……い、いや」
ガムでも噛んでいるかのように口元を忙しなく動かす。ごまかしの動作にしては思慮が足りないなと自分でも思う。
「十鳥さんって何が苦手なんだろうなと思って」
う~んと唸りながら考え込むシギをぼんやりと見ながら、さっき十鳥さんがいっていた言葉が自然に重なる。
「七ツ役さんっていいお嫁さんになると思うの」
いつも見ているはずの張りのあるつるんとした肌がまぶしく感じられる。風呂上りのシギを見るのは中学以来だ。
「虫とかかな」
シギのあどけない声で我に返る。不思議そうな表情していたのか、十鳥さんの苦手なものだよとシギが補足する。
虫か……あまりピンと来ない。
ちなみにシギは虫が苦手ではない。以前、シギがまだ近所に住んでいた頃に中秋の名月を愉しむべくリビングを開け放していたら、大きめの蛾が入り込んで家族でパニックになったことがあった。たまたま遊びに来ていたシギは動じることもなく左右の翅を摘むと、名称や雌雄の区別まで冷静に口にし、庭から外へ出て逃がしていた。家族揃って虫、特に鱗翅目がダメな父も母も、もちろん僕もシギにいたく感謝したことはいうまでもない。
姉などはいち早く察知したのか、阿鼻叫喚の渦中と化する前に姿を消していた。苦手なものなどなく、つけ入る隙などないようでいて、けっこうありまくりだったりする。
ちなみに昼間に飛んで翅を閉じるのが蝶で、夜間に飛んで翅を広げているのが蛾だと認識していたけれど、それは違うと教えてくれたのはシギだった。さらに蛾の方が蝶よりもずっと種類が多いということや光に集まる習性を走光性ということとか。もっともシギは昆虫博士の類ではなく、ただ知っていただけのようだけれど。
「あのときはナギちゃんのお父さんやお母さんにすごくほめられた」
実際、平然と招かれざる客を外へ連れ出す様は大げさではなく勇者そのものであった。
「ナギちゃんは何が苦手だと思う?」
ひとしきりあの夜の話で盛り上がったのち、シギが話を戻す。
「そうだなあ……」
あらためてそう問われると、なかなか思い浮かばない。上四元クシナともども苦手なものなどないようにすら思えてくる。
「お饅頭とか」
落語の演目じゃないんだから。
「十鳥さんには苦手なものとかないんじゃないのかな」
「そうでもないわね」
率直な意見を述べたつもりだったけれど、速攻で本人に否定されるとは予想外であった。
……本人?
「十鳥さん」
シギの視線が僕の後方へと向けられている。どうやら湯浴みが済んだ本人が入ってきたようだ。
「っと……」
といいかけて息を呑む。彼女は先ほど買ったものであろうキャミソールとショーツを着用していた。黒のフライス編みのそれは健康的で、組み合わせ的にはごくありふれた、それこそ姉が日常的に見せている格好だ。
とはいえ、下着には変わりはなく、何より相手は家族ではなく同級生の女子である。瞬く間に顔全体が熱を帯びていくのがはっきりと分かった。
「どうしたの?」
咄嗟に下に向けた頭にシギの声が降ってくる。暗闇だったとはいえ寝室に引っ張りこまれた際に上四元クシナが身につけていた扇情的なランジェリー姿ほど露骨ではないけれど、目のやり場に困ることこの上ない。
パジャマか何か、といいかけて彼女の宿泊は突然に決まったことを思い出す。予め泊まるつもりだったシギとは違ってそういったものの用意はあるわけもない。
「十鳥さんは何が苦手なの?」
こちらの苦悩などよそにシギの声は弾んでいる。しかし今はそれがありがたい。
「ルマンドかしら」
それが答えであった。十鳥さんの家にお呼ばれした際に出された菓子群、いわゆるばあちゃん菓子が鮮明に甦る。彼女は実においしそうに、最小限の口の動きでもってそれらを品よく消化していた。
「おばあちゃんのお家によく置いてあるお菓子のこと?」
シギが不思議そうにしている横で十鳥さんは静かに微笑んでいた。つまり彼女にとっての饅頭がルマンドなのだろう。
「あと熱い日本茶もあれば完璧ね」
シギはいまいち意味が分かっていないのか、どうしてそれらが苦手なのか十鳥さんに真剣に問い詰めていた。
楽しそうに話をするふたりを残し、逃げるように浴室に向かった。
風呂から上がった後、就寝の挨拶を彼女たちにして床に就くと程なく眠りに落ちた。
こうして怒涛の一日は終わったのだった。
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