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上四元クシナ

掩護

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 演劇は古代ギリシアの大衆にとって娯楽であった。
 コロスと呼ばれる合唱隊を率いてオルケストラなる半円形の舞台で悲劇や喜劇が上演されていたという。
 その演劇において収拾のつかなくなった展開になるとある手法が使われた。
 テオス・アポ・メーカネースと呼ばれたそれはいつしかデウス・エクス・マキナ、機械仕掛けの神といわれて広まることになる。
 いわゆるどんでん返し。
「ずいぶんと演技がお上手なのね」
 意を決して開かれた僕の口から上四元クシナへの謝罪という名の敗北宣言はカタチになることはなかった。
 停止していたかのような時間や混濁していた思考が本来の流れに乗って整然と動き出す。
 涙でくしゃくしゃになっている上四元クシナが通路側を唖然と見ていた。つられて僕も視線を横に流した。
 この状況をどんでん返しと呼ぶのならば、彼女・・は神ということになるのかもしれない。
「上四元クシナさん」
 今度ははっきりと自分が泣いているのが分かった。理解できた。人前で女子に泣かされている不穏当な立場とかもうどうでもよかった。この涙は違う。
 左右に品よく並んでいる切れ長の瞳も冗談の一切を受け付けない頑なさにあふれた固く結ばれているくちびるも、出会ったあの日と何ら変わっていない。差異があるとすれば凜然たる表情が向けられている対象が僕じゃないことだろう。
 混沌が支配するオルケストラならぬファーストフード店の二階に現れた機械仕掛けの神は片方のつま先だけの動きで切れのいいターンをし、僕ら同様、呆気に取られているお客に向って辞儀をしてみせる。
「お食事中のところ、お騒がせてして大変申し訳ございません。彼女とは知己と呼ぶには程遠い関係なのですが、ここは代わってお詫び申し上げます」
 その恭しいまでの辞儀は今さっきまで充満していた狂気を一掃するのにじゅうぶんな力強さがあった。
「行きましょう、一君」
 そう僕を促すと、十鳥さんは歩き出した。
 しかし、足が出なかった。まだ足首には上四元クシナ印の足枷ががっちりとはまっているかのようだ。
 小さな息を感じ、前を見る。
 上四元クシナは怯えたような顔で僕を眺めていた。演技の延長なのか彼女の素の表情なのか今の僕には理解し得ない。
 居た堪れずに顔を逸らし、息苦しさに煩悶しながら鞄を掴む。
「……行かないで」
 十鳥さんの後ろ姿を目で追いながら、動き出そうとする僕にか細い声がかかる。その縋るような目にはさっきまで僕を攻撃していた覇気は微塵も感じられない。風が吹けば飛んでしまうような脆さだけが浮かんでいた。
 このまま行ってしまったら、後悔することになるんじゃないのだろうか。そう躊躇する僕に凜とした声が平手打ちのように浴びせられる。
「一君」
 こちらを振り向くことなく、十鳥さんは情を意図的に排したひと言で僕のおぼつかない態度を修正する。
 重く苦い感情をむりやり押し戻し立ち去ろうとすると、力なくへたり込んだ上四元クシナの手が伸びてきた。
 彼女の白く細い指が上着の袖を掴んでいた。無理に引っ張らなくても簡単に振り解けそうな柔弱さが逆に怖い。
 くちびるをかすかに動かし、何事かをいい終えると、彼女の方から指を離した。
 伏せられた顔からは何も読み取ることはできない。
 演目は悲劇なのか喜劇なのか分からないまま、拍手の代わりに未だに飛んでくる好奇の視線を掻い潜りながら十鳥さんと僕は舞台ならぬ店を後にした。

「ごめんなさい」
 歩き出して数十分経った頃だろうか、先に口を開いたのは十鳥さんだった。
 どこへ行くでもなくただひたすら歩き回り、辿り着いたのは市内を一望できる小高い丘にある公園。誰もいない小さな憩いの場は晩春の夕陽を浴びてとても綺麗だった。
「勝手なことだと思ったのだけれど、我慢できなかったの」
 十鳥さんは纏っていた張り詰めた空気を徐々に薄めながら、静かに、気持ちを落ち着かせるようにいった。
「軽蔑してくれてかまわない」
 そこまで思い詰めるようなことでもないだろうと思いはしたけれど、十鳥さんは懺悔でもするかのように、胸に手を当てていた。
「私、一君たちの後をつけたの」
 自らの愚行を恥じ入るようなその声には自分に対する嫌悪感が滲んでいた。
「校門のところで一君と彼女、上四元さんが見えて、考える前に動いていた」
 上四元クシナのことで話しかけられた日に嫉妬しているみたいねと笑った十鳥さんが思い出される。己の僭越さに苦悶しつつも自分に力になれることはないかと真剣な眼差しで訴えかけてきたあの発言は悩み抜いた末にようやく搾り出したのだろう。
「一君が彼女と親しい仲なら立ち入ることなどできないのだけれど、一君は否定した。そして一君はなにか、苦しんでいるように思えたの」
 十鳥さんは自分の込み上げる感情を必死に押さえつけているようだった。
「一君のことだから誰も巻き込みたくない一心で黙っていたのでしょうけれど、私はいって欲しかった。自分は他人の厄介ごとに首を突っ込むのに、そういうところは一君はずるいと思う」
 あの図書館裏の騒動のことをいっているのだろう。あのあとコンビニの前で吐き出された僕の身勝手な行動に対する十鳥さんの怒りが昨日のことのように思い出される。
「一君はやさしいからつけ込まれやすいとは思ったのだけれど、彼女の、上四元さんの態度はそれだけではないような気もするの」
 諭すように僕を見る。何かいいづらいことだったら聞かないと彼女は視線を落とした。
 隠すことではないけれど、いうことでもない気はした。でも、今は十鳥さんにすべてを話すことにしよう。
 僕のためにここまでしてくれているのだ。
 家の近くの公園で初めて会ってからのことをほぼ話したけれど、例の下着の件はさすがに端折った。
 十鳥さんはひとさし指の中節骨を唇にこすりつけるいつものポーズで聞き入っていた。
「女学生が橋から、という話は聞いていたのだけれど……そう、彼女だったのね」
 女学生、といういい回しが十鳥さんらしい気がした。
「無視をしたり邪険にすれば彼女はまた同じことをするかもしれない。一君はそう考えて腫れ物に触るような扱いをしてきたのね。そしてそれをいいことに一君を」
 そこまでいうと十鳥さんは乱れる気持ちを落ち着かせているように息を吸い、吐き出した。ぎゅっと拳が握り込まれる小さな音がする。
「本当、人がいいにもほどがあるわ」
 あきれたような笑顔を浮かべる。
「それとも」
 一瞬、十鳥さんの声が低くなる。
「一君は、その、女性に一方的に甚振られるのが好きなのかしら」
 そういうのが好きな男性もいるようだし、と十鳥さんは難解な問題に立ち竦む求道者のような面持ちでこちらをみた。
「………そういう趣味はないよ」
 しょっちゅう・・・・・・甚振られてはいるけれど、趣味ではないし、少なくとも満悦至極ということはない。ひょっとすると、今のは十鳥さんなりの冗談のつもりだったのだろうか。
「彼女、一君のことが本当に好きなのね」
 青春真っ只中の若者を眩しそうに見つめる物分かりのいい老人のような口調でいう。
「だからこそ、彼女は死ぬ気なんてないと思うの」
 眼下に広がる於牟寺の街並みを見つめながらそう話す十鳥さんはさながら友人の気持ちを代弁する賢者であった。
「だって死んでしまったら一君を追いかけられないし、困らせられない。……そう、大好きな一君とセックスだってできないもの」
 淀むなこともなく、さらっといい切るところが十鳥さんだった。
「それとももう彼女とは済ませたのかしら」
 諧謔とも本気とも取れるその眼差しは感情を読み取ることは不可能だ。
 もし上四元クシナとそういう関係になっていたら十鳥さんはどういう態度に出るのだろう、どういうことを口にするのだろうと悪趣味なことを思ったりする。
「彼女とは何もないよ」
 迫られたことは何度かあったけれど、それはさすがに過言だろう。なんとか飲み込むと、むりに笑顔を作った。ひょっとすると引きつっているかもしれない。
「飛び降りの件だけれど、目撃した人はいないそうなの。欄干のそばに彼女の靴が丁寧に並べてあって、騒ぎになったと聞いているわ」
 近所の人たち数人で捜索したところ川縁で倒れている女子学生を発見したのだという。
「精密検査の結果、奇跡的に身体のどこにも異常はなかったそうよ。外傷も皆無。よほど彼女は運がいいのね」
 それとも頑丈なだけかもしれないわね、と十鳥さんは感心しきりであった。おそらく皮肉なのだろう、少なくとも同情はしていないのは理解できる。
「あくまで推測でしかないのだけれど、一君は彼女の行動に囚われ過ぎるきらいがあると思うの。もちろん、一君の感情的な態度が引き金になって彼女がああいうことをしたとなれば、卑屈になっていいなりになるのも分かるのだけれど、それに関してもやはり今のところ憶測でしかない」
 確かにそうだとは思う。事件を知らされた日から女子高に赴いたあの日まで、いや今この時点でもそこは自問自答の繰り返しである。
「甚だ身勝手なお願いだけれど、一君には思い悩んで欲しくはないの。飛び降りの真相はともかく、一連の言動を鑑みるに彼女にとって最優先事項は一君とのコミュニケートだもの、上四元さんは自分から一君との接点を絶つような愚かなことはしない。失礼を承知でいわせて貰えれば、そこまでナイーブな人にはとても見えないの」
 十鳥さんは僕にとって懸念材料であった上四元クシナの切り札・・・をきっぱりとそして何度も否定してみせた。

「今日は、本当にありがとう」
 駅まで見送りに行く道すがら、十鳥さんに今日の礼を口にすると、一君は大事な友達だからと口元を引き締めた。
「一君は私の恩人だもの。一君が苦しむ姿は見たくないし、私がさせない」
 捉えようによっては強引で身勝手な発言にも取れるけれど、十鳥さんはいたって真面目な様子だった。
「それじゃ、一君」
 改札口で十鳥さんの後ろ姿を見送りながら、僕は未だに澱のような不安定で不可解な気持ちが払い切れずにいた。
 彼女は上四元クシナに囚われ過ぎだといっていた。切り札をちらつかせてはいるけれど、行動には移すことはない、と。
 その言葉を信じ、楽観視したところではあるけれど、今までの一連の行動を一つ一つ思い返すと、とてもこのまま終わるとは考えられないのだった。

               *

 翌日、上四元クシナは現れなかった。第一の関門たる校門にその姿は認められなかったし、買い物に出向いた先にも襲撃を受けなかった。正直、いつ現るかと戦々恐々としていたのだけれど、まるで杞憂であった。
 彼女にとって昨日の仕打ちは耐え難いものだったはずだ。迫真の演技を全否定されたのだ、専用ジムに連行し、一週間どころか一ヶ月は外出を躊躇うくらい徹底的にリングで僕を甚振らなければ気が済まないくらいに荒れていてもおかしくはないのだけれど、ひょっとすると、時間を置いて現れ、また何事もなかったように振り回すのかもしれない。
 しかし、それはそのとき考えればいいことだろう。
 ドアを開けようとノブに手をかけたとき、そういえば今日は姉が休みだったなと思い出し、リビングに向かって声をかける。
「おかえりなさい」
 基本、いつも機嫌のいい姉だけれど、今日はさらに声が弾んでいる気がする。
 友達でも来ているのだろうか、三和土に見慣れない靴があった。
 上品な艶を見せる黒いローファーを眺めながら、何か引っかかっていた。特に珍しいものではない。キルトタンや房飾り、ちょっと厚めで半透明なソール。安くはなさそうだけれど、変わった代物では決してない。
 リビングに向いながら、なぜ引っかかるのか自分でも不思議であった。
 三和土に行儀よく並べられた黒いローファーをもう一度見やる。なぜか妙に猥雑な光を放っているように感じた。身に覚えのある感覚。
 リビングに入り、買い物して来てくれたのねと姉が口にした瞬間、その感覚が鮮明に甦り、全身に鳥肌が立った。
「クシナちゃんが来てるわよ」
 姉の後ろでローファーの持ち主が組んだ両手の甲に顎を乗せて、艶然と微笑みかけてきた。
「ナナギ、おかえりなさい」
 姉は夕食の準備に取りかかりながら、今日からしばらくここから学校に通うからと年下の友人と笑い合っていた。
 軽いパニックに陥りながらもその意味を慎重に探っていると、彼女は立ち上がり、ゆっくりと近づき、今までのように無邪気な笑みを浮かべてごく自然な手つきで腕を絡めてきた。
「これから毎日、朝も夜もナナギの顔が見られる」
 腕の締めつけが一気にきつくなる。
 昨日、十鳥さんに促され、彼女を置いて立ち去る間際に微かに聞き取れるくらいの声音でつぶやいていた言葉が今、気持ち悪いくらい明瞭になって鼓膜の奥で甦った。
 ……そう、あのとき彼女は僕の裾を掴みながら、こう、いっていたのだ。

「このままじゃ、絶対、終わらないから」
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