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上四元クシナ

誘引

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 瓊紅保ぬぐほ女子高等学校は瓊紅保市の中心部の高台に位置する私立の進学校である。
 同校は駅から若干、離れているため、他市から通学して来る生徒はバスや於牟寺市と繋がる幹線とは別の、西へ伸びる地方交通線、瓊紅保線に乗り換える必要がある。
 瓊紅保線の最初の停車駅である上瓊紅保かみぬぐほ駅を降りると、今は散ってしまった桜の木々が真っ先に目に飛び込んでくる。満開時には桜のトンネルなどと地元のニュースに毎年のように取り上げられるくらいの名所で、どこからやって来るのかカメラを抱えた大勢の見物客があちらこちらでシャッターを切っているという。
 もっとも、桜ではなく、明らかにトンネルの先にある学び舎に通ううら若き女子生徒にレンズを向けている輩も少なくないらしく、季節柄も手伝って変質者のメッカという不名誉なレッテルを貼られたりもしている。
 なだらかな高台に向かう途中、桜のトンネルから吐き出されたばかりであろうたくさんの青とすれ違う。
 場所柄、僕ぐらいの男がうろついているのは非常に目立つ。すれ違いざまに何やら話す声が漏れ聞こえてくるたびに、途方もない場違い感に苛まれる。
 姉が目に鮮やかなナポレオンカラーの藍色を纏っていた頃、よくロクに忘れ物を届けるのを口実に瓊紅保女子に行こう、ついでに(もちろんこっちがメイン)校内を覗いて行こうと奸計を持ち掛けられたことがあったけれど、姉は学生時代に忘れ物などをするようなことはなどは一度たりともなく、第一、小学生が電車に乗ってまで行くような場所でもないのでけっきょくここはロクのいうところのユートピアのままであった。今日までは。
 散在する青の塊のうち、見覚えのある女子を真ん中に従えた三人組が目に止まった。
 両隣にいる女子も――類は友を呼ぶのか――彼女に負けず劣らず容姿端麗を地で行くタイプだった。
 異質な制服に気づいたのか、三人のうち、右隣のヘアバンドの女子が立ち止まった。三人の中ではいちばん背丈がある。おそらく僕よりも高い。
 引っ張られるように左隣のハーフアップっぽくしたパッと見、キツそうな女子も気づく。こちらは目鼻立ちがくっきりしていて混血を思わせる雰囲気を漂わせていた。
 間に友人を挟んだ状態でこちらを見遣りつつ、ひそひそを始めるけれど、例のシャギー&ミス・ポンパドールとは違って不快な感じはない。
 うつむいていた上四元クシナが顔をゆっくりと上げた。それはまるでスローモーションのようで、今置かれている立場も相俟って演出がかって見えた。
 ヘアバンド女子の耳打ちに頷き、ハーフアップ女子の囁きに頭を振る。
 視線をこちらに固定させたまま、顔に表情は乗せずに友人たちの問いかけに首だけの動きで答える様はいかにも彼女らしくみえた。
 二人は頷き合うと、上四元クシナと別れ、僕に会釈をして去って行った。
 取り残されたカタチになった彼女の、あの喜怒哀楽を取り払ったような何色も浮かんでいない顔を眺めていると、いっそのこと責めるなり、無視するなりしてくれた方がいい気さえしてくる。
 上四元クシナが無言で歩き出した。慌てて後を追う。
 話しかけようか逡巡する中、速くもなければ遅くもないペースで住み慣れているのであろう瓊紅保の街を進んでゆく彼女の背中はとても華奢に映った。
 ふと、歩みが止まる。
 児童公園の入り口、アーチタイプの車止めを器用に縫うように入っていくと、最後の一本を抜けたところで止まった。
 設置間もないと思われるステンレスがこれ以上ついて来るなと威嚇するみたいに狡猾で無遠慮な光を放っている。
「ごめんね」
 最初、唐突に飛び出したその言葉を理解するのに数秒ほど要した。
「ごめんね、ナナギ」
 間に髪を容れずにいう。この間の思慮の浅い僕の発言に対する侘びなのだろう。そこには邪気の類もいつもの快活さも感じられなかった。
 今日は彼女の謝罪を受けに来たのではない。むしろ、謝るのは僕なのだ。
 あの日姉から訊いた、事件の発端は辿れば僕にある。彼女は今回のことを詳細に話してはいないようだけれど、それしか思い当たる要因はない。あのあと、別の何ごとかがきっかけになった可能性ももちろんあるだろうけれど、どのみち、無関心でいられるはずもない。
 大事に至ることもなく、すぐに彼女は通常の生活に戻ったとは訊いていたけれど、会いに行こうと決心して行動に移すまでにけっきょく一週間要することになってしまった。
「あの日のことだけど」
 いつもより小さく感じる背中に声をかける。いつもは網膜を否応なく刺激する鮮烈な青色もなんとなくくすんで見えた。
「違うの」
 言葉を継ごうとした瞬間、上四元クシナが遮った。
「ナナギは何も悪くない。悪いのは私だから」
 いや、といいかけたのに声にならない。こういうのを卑怯者というのだろう。
「私、ナナギがいってたようにナナミさんの親友の妹だから我慢して遊んでくれているんだと自分でも分かってた。それでもナナギと一緒にいると楽しいし、たとえ本心じゃなくても笑ってくれていたから、それだけで満足だった」
 そこまでいうと、大きく息を吐いた。辺りの空気が波打っているようにも思える。
「ナナギには感謝しているの。迷惑だって、はっきりいってくれて」
 彼女はいったい何をいっているんだろう。
「じゃないと、私ずっと勘違いしたまま、調子に乗っちゃって……」
 そこまでいうと、声を詰まらせて押し黙ってしまった。いや、声が継げないだろう。
「だから、ナナギにはっきり近づくなっていわれたあと、消えようって思ったの」
 だけど、と続けたあと、何事かを考えているのか、顔を上に向けてまた黙った。こぼれる涙を我慢しているようにも見える。
上手くいかなかった・・・・・・・・・
 上四元クシナがそう口にしたとき、それ以外の周りの音すべてが途切れた気がした。
 耳元で囁かれたかのようなクリアさに全身が硬直し、粟立つ。
「ごめんね、ナナギ。今度はちゃんと死ぬから。もう迷惑かけないから……ありがとう」
 最後のありがとうをいい切らないうちに彼女は走り出していた。
 このまま彼女を一人には出来ない。
 厚いラバーソールがカーキ色の舗道を抉るように蹴り上げる。予想以上に彼女は健脚の持ち主であった。
 自分ではあまり気にしたことはないけれど、中等部の頃、陸上部に誘われたり、体育祭のときトップでゴールしかけたことはあったので、決して遅い方ではないはずだけれど、それでも彼女は速かった。ゴールしかけたというのは、直前で転んだからだ。痛さや悔しさなどより恥ずかしさの方が大きく、体育祭終了まで姿を消していたのもいい思い出だ。
 息が切れたのか、彼女のストライドが徐々に狭まる。
 いったいどれくらい走ったのだろう。
 気がついたらそろそろ瓊紅保駅前と思われる繁華街近くにいた。こんなに足を使ったのはどれくらいぶりだろうか。
 跳ねていた彼女の長い黒髪が収束し、脚が止まった。
 すかさず手を掴む。
 抵抗されることも覚悟したけれど、上四元クシナはじっとしていた。
「どうして追いかけて来たの」
 抑揚を極力削いだかのような声だった。
「放って、おけないよ」
 こんな状況でも返答次第では何事もなかったかのように飛びついてくるのではないかと警戒する自分がいて、イヤになる。
「私が消えた方が、死んだ方がナナギは都合いいじゃない」
 発言に反して拗ねた物言いではなかった。
「そういうこというのやめようよ」
「だって」
 そこで切ると、自嘲気味に首を振ってみせた。相変わらず背を向けたままなのでどんな表情なのか分からない。
「それとも」
 ふいに振り向いた。端正な顔立ちが驚くくらいくしゃくしゃだった。
「私が死んだら後味悪いから? ずっと罪悪感抱えて生きていくのがつらいから?」
 即座に否定しない、あるいはできないのは図星なのか。情けないことに判然としない。
 やっぱり僕は卑怯者だ。
「今日はどうして来たの? とりあえずカタチだけでもお見舞いしておけってこと? それとも死にぞこないを笑いに来たの?」
 彼女に何をいわれてもしょうがない。思い返せばとても些細なことかもしれないけれど、あの幼稚な八つ当たりのせいで彼女は橋の上から身を躍らせたのだ。
 再び背を向けると、彼女は歩き出した。走るでもなく、ただ、ゆっくりと。
 それは追従を求めているようにも、拒絶しているようにも見えたけれど、前者を選んだ。
 程なく繁華街に出た。
 上四元クシナは大小さまざまな建物が乱立するうちの一つ、白いビルに消えた。
 不信感が拭えないままついて行くと、管理人室と思しき小部屋から顔を覗かせている初老の男性と話をしている。
 彼女をクシナちゃんと呼んでいることからも顔馴染みなのだろう、上四元クシナも笑みを見せていた。
 挨拶を済ませると、彼女は正面のエレベーターではなく階段で上階へ向かった。
 男性と目が合った。人懐こい笑顔につられて思わず頭を下げる。
 入り口にあったプレートによれば全部で九階ある貸しビルのようだ。
 何階上ったのか、踊り場右手の扉が口を開いていた。
 入ってすぐ右側に小さな部屋――よく見るとそれはエレベーターだった――があり、左手奥に張りついているドアの前に彼女は佇んでいた。
 空室なのか何も掲げられていない。
 小さな金属音がした。その手には鍵が握られている。
「やっぱりナナギはやさしいね」
 どこかまだ不安が揺らぐような、浮揚感を感じさせる話しぶりだったけれど、その横顔はなぜか笑っているように思える。
「いちいち口でいったり、引っ張ったりしなくても、こうやってついて来てくれる」
 ガチャッと鍵が差し込まれる。
 自らみすみす罠に飛び込むような危うい感覚に陥りながらも動けずにいると、鍵穴を回す硬質な音が何かの宣告のごとくエレベーターホールに響いた。
 上四元クシナが中へと身を滑らせるように消える。
 ドアは開きっ放し。選択権はないのだろう。
 足を踏み入れた途端、自分がどこに来たのか、何をしようとしているのか、現状を整理するのに若干の時間を要した。
 部屋の中央にリングがある。
 ロープの数からボクシングのそれだろう。実物は初めて見る。組まれた土台にキャンバスを張った威圧感あふれるリングの両コーナーとニュートラルコーナーにきちんと階段が備えつけてある本格的なものだった。
 リングの奥、窓際には真っ赤なサンドバッグが釣り下がっており、左手にはシャドーボクシングとかに使うフォームチェック用の大型ミラー、右隅にはトレッドミルが一台設置され、右手の壁一面に並んでいるオープンロッカーにはボクシンググローブやリングシューズ、スニーカーが点々と置かれていた。
 上着とタッセルローファーを脱いだ上四元クシナはロッカーから取り出した、白地にピンクのラインの走るリングシューズを履いていた。真新しいシューズを足に馴染ませるかのように数回飛び跳ねると、合わせるように普段はナポレオンカラーの厳しい制服の下に隠れている清潔なブラウスの白が挑発するような光沢を見せ、襟元では水色のリボンがふわふわと揺れた。
 軽い屈伸運動を終えると、グローブを一組つかみ、それをこちらに放ってくる。ぽんと胸に当たって腕の中に落ちたグローブを見ると、すでに紐はメーカータグが縫いつけられている手首の周りに巻きつき固く結んであった。ご丁寧にグローブの中にはバンテージが入っている。
 上四元クシナはすでに手のひらの武装を済ませており、同じような仕様と思われる紐式の赤いグローブを馴れた手つきではめていた。
 ばすんばすんとグローブを突き合せる音が室内に鈍く重く、執拗に響く。その貌には先ほどまで帯びていた悲壮感は欠片もない。
 ぐいとロープを上下に割ってリングに上がると、赤いコーナーマットに身をゆだね、両腕を伸ばしてロープを掴み、じっとこちらを睨めつけてきた。上がれ、ということなのだろう、寄り掛かっているマットの色も手伝ってその姿態はまるで王者そのものである。
 ビルに入ってからこっち、急展開で飲まれっ放しだったけれど、ようやく口を開いた。
「……これって、どういうこと」
「見たまま。ナナギは今から私と一戦交えるの」
 どうして、といいかけて言葉に詰まる。彼女の場合、その行動理念などあってないようなものだ。
「身体は大丈夫なの?」
「それ、今訊くこと?」
 確かにそうだ。
「大丈夫だからここでナナギを待っているんじゃない」
 そんなことはいいから早くグローブを着けてリングに上がれと醒めた目が促す。
「……ここ、ボクシングジムじゃないの?」
 我ながらつまらないことを訊いたと思ったけれど、看板は見当たらなかった。なにより置かれている状況を先送りにしたい。
「昔はそうだったのよ」
 彼女は辺りを見回しながらそう答えた。
「ここは伯父さんが持ってるビルのうちの一つなんだけど、私が小学生位の頃にテナントでジムが入ってたの」
 何でも練習生が増え、手狭になったからと数年前に出ていったのだという。
「私、よく遊びに来ては練習生のお兄さん達に混じって好き勝手させて貰ってたんだけど、それがなくなって寂しがっていたら、伯父さんがリングから用具一式を買い揃えてくれただけじゃなく、私のためにずっと空き状態にしてくれてるの」
 リングや貸しビル一室の家賃相場など知る由もないけれど、姪のためにボクシング用具を与えただけじゃなく、貸していればけっこうな収入になるであろうビルのワンフロアを遊ばせておくとか豪放にもほどがある。
「伯父さん、独り身で子供がいないから私たちにすごく甘いの」
 ジッとこちらに視線を固定させ、淡々と説明する。
「で、ナナギはどうするの。私の相手してくれる? それとも帰る?」
 選択を迫っているようで、実は選択肢などないのは分かり切っている。
 腕の中のグローブがやけに重く感じる。
 いつもの彼女の気まぐれ。適当に相手をすればいいだけだろう。でも。
「……女子相手にこんなことできないよ」
 醒めた目は何の反応も見せない。
「この間のことで君を傷つけたのなら」
「やるの、やらないの」
 口先だけの謝罪などけっこうだと生気を欠いたマットブラックのような瞳がいっていた。
 観念して上着と靴を脱ぐと、ロープに手をかける。でもグローブは着けなかった。好きなだけ殴ればいい。
 状況が状況なのに、いざリングに上がると、気分が否応なく高揚する。
「それって、一方的に殴れってこと?」
 僕の裸拳を見ながら鼻白んだ。
「そういうのってすっごく傷つくんだけど」
 不快さを隠さずに吐き捨てる。どこか芝居がかってるようにも思えるけれど、機嫌を損ねたのは間違いないようだ。
 ふと、姉との恒例行事であるコミュニケーションを思い出す。ああいう感じで相手をすればいいのかもしれない。こちらは手を出さないけれど、最大限パンチはかわし続ける。
 その提案に彼女はいつもの心の奥底まで探るような目線を送って寄越してきた。
「ま、いいけど」
 ぎゅっぎゅとグローブを執拗に何度も鳴らしながら、上四元クシナは息を小さく吐いた。
 このときはまだ、遊びでジムに出入りしていた女子によるただの思いつき、無邪気なきまぐれ、ぐらいにしか思っていなかった。
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