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上四元クシナ
強襲
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目当ての文庫本は面陳されていた。昔からのクセで下の方から取ってしまう。五十棲君は常識だというけれど、未だに気が引けるのも事実だ。
業界でいうところの居抜き出店だという駅前の書店はいつも込み合っている。
去年晩春に惜しまれつつ撤退してしまった、子供の頃から馴染みだった書店が閉店のお知らせを貼り出したときの衝撃はけっこうなものだった。もちろん、当事者には当事者の都合があり、消費者には知りえない苦渋だの葛藤だのがあったのだろうけれど、あとに入る店も書店だと聞いたときにはホッとしたというよりもだったら閉めなくてもいいだろうという疑問というか腹立ちの方が先立った。愛着のあった店を追い出したようにも思えたため、新しい店には行くものかと誓ったのに今や行きつけの一つだ。店舗や設備をそのまま使っているので、違和感はあまりないけれど、一角にあるトレカの販売及びプレイスペースが異彩を放っている。純然たる書店という形態ではやっていけない時代なのだろう。
レジでカバーを掛けるか訊かれたけれど、前にペットボトルのオマケで付いてきた布製のブックカバーもあるので辞退した。
何のキャンペーンだったのかもう忘れてしまったけれど、文庫についている応募券で貰えるプレゼントが欲しくて、なんとなく手にしてからずっとこのシリーズを買い続けている。学園が舞台の、いわゆるミステリーに属するのだろうけれど、気負わず読めるから新刊をチェックしてるだけで、僕はミステリーマニアではない。手にした最大のポイントでもある、舞台が舞台なだけあって表紙に使われている教室や下駄箱など写真もいい。ハードカバーで出てから文庫化されるまでタイムラグがあるけれど、表紙や手軽さからいって文庫の方が自分向きだ。新刊は見上げるように写り込んだ校舎と左側を占める青空の対比が素晴らしかった。
駐輪場の端に並ぶ自販機でお気に入りのナタデココ飲料を買って、表紙を眺めながら一息ついていると、ドンと軽い衝撃が背中に走った。何事かと泡を食っていると、にゅっと両腋から手が生えてきて、まだ飲み始めのナタデココと文庫本を奪い去った。微かに鼻腔を刺激するほの甘く柔らかい匂いはいとも簡単に仮眠中の記憶を呼び起こし、答えを導き出す。あからさまに押しつけられたふたつのふくらみはその柔軟さとは正反対に強固で執拗な意志のなによりの証しであった。
「ふうん、ナナギってこういうの好きなんだ」
甘えたようなその響きには知計が忍ばせてある気がして、心身に否応なく緊張を強いる。
僕から収奪した文庫本とナタデココを手に前に躍り出たコバルトブルーの制服に身を包んだ少女は当たり前のように缶に口をつけていた。
「ミステリー、か……」
文庫の裏表紙に視線を落としながら、もごもごと口を動かす。貴重なココナッツの塊のいくつかが彼女の口腔に吸い込まれてしまったようだ。
「上四元……さん」
「クシナでいいってば」
器用な手つきで文庫をパラパラとめくると、「はい」と押しつけるように返してきた。
「今日はどうしたの」
バッグに文庫本を慎重に仕舞いながら訊くと、ナナギに会いに来たに決まってるじゃないと当たり前のように笑った。未だに彼女の手中にある缶が振られ、液体とスチールの内部で転がる固体がしゃこしゃこと猥雑な音を立てる。こちらは返す気はないらしい。
「昨日、一緒に居た子って、ナナギのなんなの」
突然、声音に険が宿った。背けられた横顔には戯れ言の一切を許さない頑なさがあふれている。
口の中ではまだ弾力を伴った咀嚼が繰り返されているようだった。
「彼女がいってた通りだよ」
ごくんと上四元クシナの喉が淫靡に鳴った。
「友達?」
疑心を隠すこともなく、嘲笑する。
「君がどう思うとも、それが事実だよ」
いってから、後悔した。上四元クシナは目を見開き、口角を釣り上げて嬉々と顔を寄せてきた。
「怒っちゃった?」
初めて会ったあの日に理解したはずだ。感情的な態度はすなわち彼女に戯れのきっかけを与えるだけだ、と。
「かわいい」
ひとさし指で僕の頬をつつくとバッグを一瞥する。
「遊びに行こうかと思ったんだけど……早く帰って読みたいのよね」
ダストボックスに空き缶を放ると、ごちそうさま、またねと微笑んで上四元クシナは身を翻して去って行った。
久しぶりの新刊に高揚していた気持ちも上四元クシナの登場で萎んでしまい、帰宅してからも文庫を開く気にはなれなかった。
*
またね、の言葉通り、翌日から上四元クシナは僕の前に現れるようになった。
放課後、校門に数人の生徒が固まってさざめいていた。
一年のニノマエ君が、とか二組のニノマエが、とか漏れ聞こえてくる。
この学園にニノマエ姓は僕しかいないはずだ。一年のニノマエ君も二組のニノマエも僕であろう。
生徒と生徒の合間、見慣れた緑の制服に混じってちらりと青が顔を覗かせた。
とくんと胸が――悪い意味で――高鳴る。
於牟寺学園高等部の生徒に囲まれた彼女はシチュエーションに加えて端正な顔立ちも手伝ってさながら芸能人のようであった。
「あ、ナナギ!」
古い映画だったか、海が割れるがごとく、ざっと人の群れが左右に分かれ、上四元クシナがその姿を現した。児童公園のときといい、今日といい、目標を的確に感知するセンサーでも備えているだろうか。そういえば見合いのときも二階にいるロクたちをピンポイントで捉え、ずっと睨みつけていたらしい。早すぎず遅すぎず、周りのざわめきを一身に受けながら泰然たる足取りでこちらにやって来る。まるでキャットウォークを闊歩するモデルみたいに。
「今日は間に合った」
ということは昨日、僕の下校後にでも顔を出したのだろうか。
瓊紅保の制服いいなあとかニノマエの彼女なのかよとかささやく声が上がる中、ごく自然な流れで僕の腕にしがみつき、取り巻いていた生徒たちに辞儀をしてみせる。
「じゃあ、行こう」
どこに、という問いかけは当然、意味をなさないのだろう。
絡められた腕に引っ張られるまま、上四元クシナの気の向くままにつき合わされた。
入ったことのないコーヒーチェーンではコーヒーというよりデザートみたいなクリームが異様に盛られたモノをつつく上四元クシナをよそにコーヒーが駄目な僕はジュースにした。
「ナナミさんはよく飲んでいるのに」
確かに姉は普通に飲む。インスタント用のコーヒーサーバーまで買い込み毎日飲んでいるようだし、女性には縁遠そうな缶コーヒーも――甘味料入りは除き――好きで飲んでいる。
缶よりは女性受けがよさそうなカップ型のチルドコーヒーも逆に女性受けはイマイチ悪そうな紙パックなどは外ではどうか分からないけれど、ストローも使わずに直接口をつけて飲んでいる。
「はい」
ホイップをすくって僕の口元に寄せてきた。小刻みに顔を振ると、遠慮しなくていいのにとあっさり引っ込めた。
「じゃあ、こっちは?」
その手元には白と黒の穀物系のパンに挟まれたサンドイッチがふたつあった。
「これもいらない?」
説明によると、ローストチキンと野菜、マスタードを合わせたチキンサンドとベーコンやほうれん草、きのこ、卵、チーズなどをぎっしり詰めたほうれん草サンドの二種類らしい。学食でシギにバケットサンドを五百旗頭君にベーグルサンドを勧められるままに手を伸ばしたように、僕はサンド系に弱い。
「ねえ、一緒に食べよ?」
甘えたような口調に負けたというよりも、純粋に美味しそうだった。
「……じゃあ、こっちを貰うよ」
黒パンに挟まれたほうれん草サンドに手を伸ばすと、上四元クシナはつまみやすいようにトレイをこちらに滑らせてきた。
よかった、と微笑む彼女はとても可憐で優麗だった。
そのあと普段は何をしているのかとか、取るに足らない話題で時間を潰し、次に向かったデパートではブティックや雑貨店、ゲームコーナーをそぞろ歩いた。服や靴、アクセサリーを手にしてはしゃぐ様は無邪気そのものであった。
公園での初対面以降、ファミレスや昨日の書店での言動を鑑みるにずいぶんと殊勝な感じがしたけれど、失礼ながらこういう一面もあるのかもしれない。
その翌日は学校帰りのスーパーで買い物の最中に現れた。
朝、姉が今夜はイタリア料理のスープを食べたいといい出し、聞きなれない名前の小麦の買い出しで普段は来ないちょっとお高いけれど他では見かけない商品が揃うスーパーで事前に調べていたレシピ通りの材料を集め回っていたときのこと。
急にカゴに重みを感じ、何ごとかと顔を上げたら上四元クシナがそこに立っていた。
見ると、小麦や野菜に混じってベーコンの塊が入ってる。
「パンチェッタよ、それ」
彼女は当たり前のように僕からカゴを奪う。
「……これ、ベーコンとなにが違うの」
生肉っぽいツヤを放つ豚肉の塊を見やる。
「ベーコンの工程を省略したのがパンチェッタ。使うならこっちの方がいいでしょ」
ひょっとして何を作るのか知っているのだろうか。
彼女はちらとカゴを一瞥すると、ズッパ・ディ・ファッロじゃないのという。
「違った?」
確かに姉が口にした食べたい料理はそういう名前だった。
「でしょ? サラダかなとも思ったけれど」
今度は黄金色に輝くさまざまな瓶の並ぶ棚の前で止まった。
「オリーブオイルはどっち使ってるの」
戸惑っているとスープならピュアでいいと思うけれど、と値段が安い方を手にする。
高いオリーブオイルと安いオリーブオイルってなにが違うんだろう。
「名前の通りよ。高い方はまだ純粋でオトコを知らないけれど、安い方はいろいろ手を出されて不純なの」
その譬えに困惑していると、頬をつついて「かわいい」と唇を動かした。
「一般的に前者は生食向きで後者は火を使う料理向きかな。ただサラダにかけたりパンに塗ったりするような本当のエクストラバージンって値も張るし、風味も強いから好き嫌いは分かれると思う」
確かにいつもは高いからいいのだろうとよく考えもしないで買っていたけれど、クセはあった気もする。
カゴの中身で作る料理を判断したり、オリーブオイルの違いに言及したり、こういうところはやはり女子なのかなとも思う。
買い物が終わると、店内にあるフードコートに誘われた。
食事は避けた方がいいということでふたりでシェイクを飲んだ。
彼女はもっと一緒にいたいけど、といいながら買い物袋にチラッと目をやり、またねと去って行った。
帰ってから作った姉がご所望のズッパ・ディ・ファッロはなるほど具だくさんのどちらかというと食べるスープで一緒に作ったボンゴレ・ビアンコともども好評であった。
もっとも姉は出された食事に文句などいったことがないのだけれど。
「パンチェッタを使ったりして本格的なのね」
後片付けを終え、くつろいでいるとき姉が感心したようにいった。
「上四元さん……が、その方がいいって」
「クシナちゃんに会ったの? 彼女、かわいいでしょ」
口ごもると、ずいぶんあなたにご執心みたいねと笑った。
「あんなにきれいなのに彼氏いないらしいわよ」
「……彼女って、どういう子なの?」
まるで興味があるみたいないいかたで冷やかされると思ったけれど、姉は見た目通りの元気な女の子よと答えた。
「控え目なアツミと違って言動が率直だから、誤解されたり目立って見えるけれど、よく気が利くし、友達も多いのよ」
そこまでいうと姉は、本当にいい子だから仲良くしてあげてねといった。
業界でいうところの居抜き出店だという駅前の書店はいつも込み合っている。
去年晩春に惜しまれつつ撤退してしまった、子供の頃から馴染みだった書店が閉店のお知らせを貼り出したときの衝撃はけっこうなものだった。もちろん、当事者には当事者の都合があり、消費者には知りえない苦渋だの葛藤だのがあったのだろうけれど、あとに入る店も書店だと聞いたときにはホッとしたというよりもだったら閉めなくてもいいだろうという疑問というか腹立ちの方が先立った。愛着のあった店を追い出したようにも思えたため、新しい店には行くものかと誓ったのに今や行きつけの一つだ。店舗や設備をそのまま使っているので、違和感はあまりないけれど、一角にあるトレカの販売及びプレイスペースが異彩を放っている。純然たる書店という形態ではやっていけない時代なのだろう。
レジでカバーを掛けるか訊かれたけれど、前にペットボトルのオマケで付いてきた布製のブックカバーもあるので辞退した。
何のキャンペーンだったのかもう忘れてしまったけれど、文庫についている応募券で貰えるプレゼントが欲しくて、なんとなく手にしてからずっとこのシリーズを買い続けている。学園が舞台の、いわゆるミステリーに属するのだろうけれど、気負わず読めるから新刊をチェックしてるだけで、僕はミステリーマニアではない。手にした最大のポイントでもある、舞台が舞台なだけあって表紙に使われている教室や下駄箱など写真もいい。ハードカバーで出てから文庫化されるまでタイムラグがあるけれど、表紙や手軽さからいって文庫の方が自分向きだ。新刊は見上げるように写り込んだ校舎と左側を占める青空の対比が素晴らしかった。
駐輪場の端に並ぶ自販機でお気に入りのナタデココ飲料を買って、表紙を眺めながら一息ついていると、ドンと軽い衝撃が背中に走った。何事かと泡を食っていると、にゅっと両腋から手が生えてきて、まだ飲み始めのナタデココと文庫本を奪い去った。微かに鼻腔を刺激するほの甘く柔らかい匂いはいとも簡単に仮眠中の記憶を呼び起こし、答えを導き出す。あからさまに押しつけられたふたつのふくらみはその柔軟さとは正反対に強固で執拗な意志のなによりの証しであった。
「ふうん、ナナギってこういうの好きなんだ」
甘えたようなその響きには知計が忍ばせてある気がして、心身に否応なく緊張を強いる。
僕から収奪した文庫本とナタデココを手に前に躍り出たコバルトブルーの制服に身を包んだ少女は当たり前のように缶に口をつけていた。
「ミステリー、か……」
文庫の裏表紙に視線を落としながら、もごもごと口を動かす。貴重なココナッツの塊のいくつかが彼女の口腔に吸い込まれてしまったようだ。
「上四元……さん」
「クシナでいいってば」
器用な手つきで文庫をパラパラとめくると、「はい」と押しつけるように返してきた。
「今日はどうしたの」
バッグに文庫本を慎重に仕舞いながら訊くと、ナナギに会いに来たに決まってるじゃないと当たり前のように笑った。未だに彼女の手中にある缶が振られ、液体とスチールの内部で転がる固体がしゃこしゃこと猥雑な音を立てる。こちらは返す気はないらしい。
「昨日、一緒に居た子って、ナナギのなんなの」
突然、声音に険が宿った。背けられた横顔には戯れ言の一切を許さない頑なさがあふれている。
口の中ではまだ弾力を伴った咀嚼が繰り返されているようだった。
「彼女がいってた通りだよ」
ごくんと上四元クシナの喉が淫靡に鳴った。
「友達?」
疑心を隠すこともなく、嘲笑する。
「君がどう思うとも、それが事実だよ」
いってから、後悔した。上四元クシナは目を見開き、口角を釣り上げて嬉々と顔を寄せてきた。
「怒っちゃった?」
初めて会ったあの日に理解したはずだ。感情的な態度はすなわち彼女に戯れのきっかけを与えるだけだ、と。
「かわいい」
ひとさし指で僕の頬をつつくとバッグを一瞥する。
「遊びに行こうかと思ったんだけど……早く帰って読みたいのよね」
ダストボックスに空き缶を放ると、ごちそうさま、またねと微笑んで上四元クシナは身を翻して去って行った。
久しぶりの新刊に高揚していた気持ちも上四元クシナの登場で萎んでしまい、帰宅してからも文庫を開く気にはなれなかった。
*
またね、の言葉通り、翌日から上四元クシナは僕の前に現れるようになった。
放課後、校門に数人の生徒が固まってさざめいていた。
一年のニノマエ君が、とか二組のニノマエが、とか漏れ聞こえてくる。
この学園にニノマエ姓は僕しかいないはずだ。一年のニノマエ君も二組のニノマエも僕であろう。
生徒と生徒の合間、見慣れた緑の制服に混じってちらりと青が顔を覗かせた。
とくんと胸が――悪い意味で――高鳴る。
於牟寺学園高等部の生徒に囲まれた彼女はシチュエーションに加えて端正な顔立ちも手伝ってさながら芸能人のようであった。
「あ、ナナギ!」
古い映画だったか、海が割れるがごとく、ざっと人の群れが左右に分かれ、上四元クシナがその姿を現した。児童公園のときといい、今日といい、目標を的確に感知するセンサーでも備えているだろうか。そういえば見合いのときも二階にいるロクたちをピンポイントで捉え、ずっと睨みつけていたらしい。早すぎず遅すぎず、周りのざわめきを一身に受けながら泰然たる足取りでこちらにやって来る。まるでキャットウォークを闊歩するモデルみたいに。
「今日は間に合った」
ということは昨日、僕の下校後にでも顔を出したのだろうか。
瓊紅保の制服いいなあとかニノマエの彼女なのかよとかささやく声が上がる中、ごく自然な流れで僕の腕にしがみつき、取り巻いていた生徒たちに辞儀をしてみせる。
「じゃあ、行こう」
どこに、という問いかけは当然、意味をなさないのだろう。
絡められた腕に引っ張られるまま、上四元クシナの気の向くままにつき合わされた。
入ったことのないコーヒーチェーンではコーヒーというよりデザートみたいなクリームが異様に盛られたモノをつつく上四元クシナをよそにコーヒーが駄目な僕はジュースにした。
「ナナミさんはよく飲んでいるのに」
確かに姉は普通に飲む。インスタント用のコーヒーサーバーまで買い込み毎日飲んでいるようだし、女性には縁遠そうな缶コーヒーも――甘味料入りは除き――好きで飲んでいる。
缶よりは女性受けがよさそうなカップ型のチルドコーヒーも逆に女性受けはイマイチ悪そうな紙パックなどは外ではどうか分からないけれど、ストローも使わずに直接口をつけて飲んでいる。
「はい」
ホイップをすくって僕の口元に寄せてきた。小刻みに顔を振ると、遠慮しなくていいのにとあっさり引っ込めた。
「じゃあ、こっちは?」
その手元には白と黒の穀物系のパンに挟まれたサンドイッチがふたつあった。
「これもいらない?」
説明によると、ローストチキンと野菜、マスタードを合わせたチキンサンドとベーコンやほうれん草、きのこ、卵、チーズなどをぎっしり詰めたほうれん草サンドの二種類らしい。学食でシギにバケットサンドを五百旗頭君にベーグルサンドを勧められるままに手を伸ばしたように、僕はサンド系に弱い。
「ねえ、一緒に食べよ?」
甘えたような口調に負けたというよりも、純粋に美味しそうだった。
「……じゃあ、こっちを貰うよ」
黒パンに挟まれたほうれん草サンドに手を伸ばすと、上四元クシナはつまみやすいようにトレイをこちらに滑らせてきた。
よかった、と微笑む彼女はとても可憐で優麗だった。
そのあと普段は何をしているのかとか、取るに足らない話題で時間を潰し、次に向かったデパートではブティックや雑貨店、ゲームコーナーをそぞろ歩いた。服や靴、アクセサリーを手にしてはしゃぐ様は無邪気そのものであった。
公園での初対面以降、ファミレスや昨日の書店での言動を鑑みるにずいぶんと殊勝な感じがしたけれど、失礼ながらこういう一面もあるのかもしれない。
その翌日は学校帰りのスーパーで買い物の最中に現れた。
朝、姉が今夜はイタリア料理のスープを食べたいといい出し、聞きなれない名前の小麦の買い出しで普段は来ないちょっとお高いけれど他では見かけない商品が揃うスーパーで事前に調べていたレシピ通りの材料を集め回っていたときのこと。
急にカゴに重みを感じ、何ごとかと顔を上げたら上四元クシナがそこに立っていた。
見ると、小麦や野菜に混じってベーコンの塊が入ってる。
「パンチェッタよ、それ」
彼女は当たり前のように僕からカゴを奪う。
「……これ、ベーコンとなにが違うの」
生肉っぽいツヤを放つ豚肉の塊を見やる。
「ベーコンの工程を省略したのがパンチェッタ。使うならこっちの方がいいでしょ」
ひょっとして何を作るのか知っているのだろうか。
彼女はちらとカゴを一瞥すると、ズッパ・ディ・ファッロじゃないのという。
「違った?」
確かに姉が口にした食べたい料理はそういう名前だった。
「でしょ? サラダかなとも思ったけれど」
今度は黄金色に輝くさまざまな瓶の並ぶ棚の前で止まった。
「オリーブオイルはどっち使ってるの」
戸惑っているとスープならピュアでいいと思うけれど、と値段が安い方を手にする。
高いオリーブオイルと安いオリーブオイルってなにが違うんだろう。
「名前の通りよ。高い方はまだ純粋でオトコを知らないけれど、安い方はいろいろ手を出されて不純なの」
その譬えに困惑していると、頬をつついて「かわいい」と唇を動かした。
「一般的に前者は生食向きで後者は火を使う料理向きかな。ただサラダにかけたりパンに塗ったりするような本当のエクストラバージンって値も張るし、風味も強いから好き嫌いは分かれると思う」
確かにいつもは高いからいいのだろうとよく考えもしないで買っていたけれど、クセはあった気もする。
カゴの中身で作る料理を判断したり、オリーブオイルの違いに言及したり、こういうところはやはり女子なのかなとも思う。
買い物が終わると、店内にあるフードコートに誘われた。
食事は避けた方がいいということでふたりでシェイクを飲んだ。
彼女はもっと一緒にいたいけど、といいながら買い物袋にチラッと目をやり、またねと去って行った。
帰ってから作った姉がご所望のズッパ・ディ・ファッロはなるほど具だくさんのどちらかというと食べるスープで一緒に作ったボンゴレ・ビアンコともども好評であった。
もっとも姉は出された食事に文句などいったことがないのだけれど。
「パンチェッタを使ったりして本格的なのね」
後片付けを終え、くつろいでいるとき姉が感心したようにいった。
「上四元さん……が、その方がいいって」
「クシナちゃんに会ったの? 彼女、かわいいでしょ」
口ごもると、ずいぶんあなたにご執心みたいねと笑った。
「あんなにきれいなのに彼氏いないらしいわよ」
「……彼女って、どういう子なの?」
まるで興味があるみたいないいかたで冷やかされると思ったけれど、姉は見た目通りの元気な女の子よと答えた。
「控え目なアツミと違って言動が率直だから、誤解されたり目立って見えるけれど、よく気が利くし、友達も多いのよ」
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