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吟味方与力貞永平一郎の訴え

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 正太郎の耳が不自由なのは、南町奉行所では知られた話。だが、聞き込み先では誰一人知らないはず。よくよく打ち合わせをして気取られないよう、筆談と仕草で会話を進めていく寸法でいる。
 貞永家の養子になってから寿三郎も、ずっと速筆の鍛錬をしてきた。その成果を見せる時が遂に来たのだ。二人にとって初めての聞き込み調査だが、何としてでも真相を掴みたいと、藁にも縋る思いでいた。
「煮売り屋で騒ぎが始まったと聞いて駆けつけたら、渡世人風の男が匕首を振り回していたんです」
 もう一度、万太郎に確認すると嘘はついていないようだ。しかも、手前が頼んだせいだと、涙を流し父の死を悼んでくれた。
 それならば、煮売り屋の店主はどうだろうか。店自体に怪しいところはなく、八つぁんが逃げ込んだ先も判明できた。
 更に聞き込みをすると、確かにその夜は騒ぎがあったと皆が口を揃えていう。それなのに、何故か平一郎が煮売り屋に入った様子は、誰一人として目にしていなかった。
「おかしなことに渡世人風の男が、いつ居なくなったのか誰も知らないようです。ましてや旦那が襲われたことも、誰一人知らないと言うんですよ」
「ふぅむ、誠におかしな話だなぁ」
 万太郎は狐につままれたようで、奇妙な事件だと首をかしげている。正太郎も寿三郎も腑に落ちない思いでいっぱいだった。
 それから、店で死人が出たとの噂が瞬く間に広まった。店主八つぁんにまであらぬ疑いがかけられ、人気だった煮売り屋の評判は一気に落ち込んでしまう。
 ちょうどその頃、待っていましたとばかりに、二、三軒ほど離れた先に飯屋ができた。八つぁんの悪い噂が広まる最中、あれよ、あれよという間に客が流れていったという。
 遂に常連客まで奪われた煮売り屋は、泣く泣く店を閉めてしまったそうだ。
「それじゃあ、まるで煮売り屋がなくなって、その飯屋は得をしたようじゃないか」
 理不尽な末路におとなしい寿三郎までが声を荒げた。
「本当にあれは棚から牡丹餅ですぜ、旦那。特に飯が旨いわけでもなく、主人だって愛想がない。八つぁんが店を閉めちまったから、余計に繁盛しているようなわけです」
「煮売り屋と飯屋か」
 似て非なるものだが、何か繋がりがあるかもしれない。正太郎の胸はざわめいていた。

 平一郎殺しの犯人が捕まらないまま、数日が過ぎた頃。大飯喰らいの牧方仁之助が、帰り際に一杯やろうと正太郎を誘ってきた。父親を亡くし気落ちしている友を慰めようとでも考えたのであろう。
 今時の飯屋は夕刻から酒も出すので、寿三郎を連れて出向くわけにもいかない。これは渡りに船だと、例の飯屋に立ち寄るよう勧めてみた。
「へぇ、ここかい? やけに繁盛しているなぁ」
 夕飯時だからだろうか、酒を飲みながらつまみらしきものをつつく男達で店は賑わっていた。仁之助が適当に惣菜や飯を頼むと、直ぐに皿が並んだ。
「どれどれ」
 さっそく仁之助が箸をつける。
「うへぇ、何だこりゃあ」
 たいして旨くもないし、米が古いのか時間が経ったのか、飯は少しばかり臭う。つまみや総菜も銭を取るには、味も見た目も今ひとつだ。その上、店主は愛想のひとつもなく、客と目を合わさず挨拶すらしない。
 それなのに、この繁盛ぶりはどうしたものか。呆れ果てた仁之助が隣に座っている男に尋ねてみる。すると、例の煮売り屋が店仕舞いしたので、仕方なく通っているだけと返ってきた。
「その煮売屋とは、確か平一郎殿が亡くなった店か?」
 仁之助は慣れた調子で正太郎に、身振り手振りを使って話を振ってくる。
「あぁ、父上が騒ぎに巻き込まれた八つぁんの店だろう」
「ほぉ、興味深いな。それならば、ちょいと探ってみようじゃないか」
 機転が効く仁之助は正太郎の代わりに聞き込みを始めた。
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