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はじまり

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 特殊で専門的な知識を求められる吟味方は、世襲が暗黙の了解になっている。耳の聞こえない正太郎では、当然任務に就くことなどできるはずがない。
 そこで正太郎の代わりとして平一郎の姉である喜代きよの三男、寿三じゅさぶろう郎に白羽の矢が立った。そして、貞永家の養子となった寿三郎は、昨年から無足見習として奉行所に勤めている。
 喜代は例繰方与力の岡本半兵衛おかもとはんべえに嫁ぎ二男を設けた。長男が北町奉行所に仕え始めて二年が経った頃、寿三郎を身ごもる。既に夫婦揃って四十路手前、思いも寄らぬ妊娠に夫婦は大いに戸惑った。
 それでも女児ならば、と気持ちを入れ替えその日を迎える。ところが、生まれてきたのはまたもや男児。次男の行く先さえ悩みの種なのに、三人目の身の振り方まで考えなければならないとは頭が痛い。可愛いはずの我が子なのに、存在自体が疎ましくなっていく。いつの間にか寿三郎は恥かきっ子の厄介者になっていた。
 そんな両親の頭痛の種、寿三郎が六歳の頃に転機が訪れる。従兄正太郎の身に不運が起こり、岡本家に養子の申し出がきたのだ。諸手を挙げて両親は喜んだが、寿三郎の胸の内は少々複雑だった。
 人様の不幸の上に手前の幸せがある。そんな風に後ろめたく感じていたところ、それは全て思い込みだと気づかされる。平一郎も八重も耳が聞こえなくても、息子への愛情は変わらない。当の正太郎も己の運命を受け入れ、前向きに生きている。皆が寿三郎を快く養子に迎え入れ、我が子同然に可愛がってくれる。
 もちろん、正太郎も幼い寿三郎を実の弟のように接しているから、尚更に心強く思えたのだ。

 それから時が経ち、正太郎は二十歳になった。今では吟味方書物役見習いとして、吟味詰りの口書を作成する役目に就いている。父の跡目は義弟の寿三郎がしっかりと継いでいる。だから、肩の荷も降りて平穏な気持ちで仕事に打ち込めるというものだ。
 父親である平一郎は奉行所では「泣かせの平一郎」と呼ばれ、一目置かれるような存在だ。厳しい取り調べをせずとも言葉巧みに感情を揺さぶり、罪人を涙ながらに自白させるという手練れでもある。
 人情派として知られた父親の人徳や功績により、急遽与えられた役目は一代限り。それも一生見習いのままかもしれないし、いつ御役御免になるかもしれない。それでも正太郎の気質や能力なども考慮され、特別に奉行所に残ることを許されたと聞いている。
 もちろん、最初は周囲から反対の声も上がった。突然空いた役目に耳の不自由な正太郎を迎えるのはおかしいではないか。そう反論されても本当なので文句ひとつ言えなかった。
 だが、常日頃筆談を強いられるため、正太郎は速筆なうえ達筆だった。これでは耳が不自由でも、書記役ならば十分に務まるだろう。皆が口々に言い始め、今では周囲の誰もが認める存在になっている。
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