恋愛ショートショート

桜風のリセット

彼女の名前は、桜井美咲。いつも通りの土曜日、彼女は少し鬱々とした気持ちで公園のベンチに腰掛けていた。周りには桜の木が満開で、花びらが風に吹かれて舞い落ちてくる。美咲はその一枚の花びらを摘み上げ、指先で軽く触れた。まるで、彼女の心の中で何かが触れ合うような感覚だった。

「どうしたの、美咲？」と、突然声が掛かった。振り向くと、彼女の幼馴染、佐藤健が立っていた。彼はいつも明るく、少しお調子者で、彼女の心の支えでもあった。しかし、今はその笑顔が美咲には少し重たい。

「なんでもないよ。ただ、考え事してたの」と美咲は答える。彼女の心の中には、前世の記憶が蘇る夢のことがあった。夢の中で、彼女は「莉子」という名前の女性で、恋人の「翔」という男と出会った。美咲はその夢を何度も見ていた。翔の笑顔、優しい声、そして彼との恋の思い出が、どこか現実のように感じられる。

「美咲、最近変だよ。何かあったの？」健は心配そうに訊ねる。彼の目には、いつもと違う美咲の表情が映っていた。彼女は、彼に自分の心の内を打ち明けることができなかった。「私、前世の記憶があるかもしれないの」と言ったら、彼はどう思うだろうか。笑われてしまうのが怖かった。

美咲は再び視線を桜の花に戻した。花びらが風に舞い、まるで彼女の心の中の混乱を象徴するかのようだった。思い出すのは、莉子と翔が過ごした穏やかな日々。彼らは公園でピクニックをしたり、夜空を見上げて星を数えたりしていた。まるで、今の美咲と健のように。

「美咲、桜がきれいだね。お花見でもしようか？」健の提案に、美咲は微笑んだが、その心の奥で何かがもやもやしていた。彼女は、今の自分と前世の自分が交わる瞬間を求めていた。しかし、現実の健は、前世の翔とは全く違う人だった。

それでも、彼女は無理に笑顔を作った。「そうだね、行こうか」と言い、彼の手を取った。彼の手は温かく、彼女は一瞬、前世の翔の手を思い出した。あの温もり、優しさ。彼女は、どうしても翔のことを忘れることができなかった。

公園の中央には、大きな桜の木が立っていた。その下には、他のカップルや家族連れが楽しそうに笑い合っている。美咲は、その光景に心を奪われた。彼女も、あの頃の莉子のように、翔と一緒にいる自分を想像し、心が痛むのを感じた。

「美咲、何か悩みがあるなら、いつでも話してよ。俺が力になるから」と健が言った。その言葉に、彼女の心が揺れた。彼は本当に良い友達で、彼女を気遣ってくれている。しかし、前世の思い出が彼女を縛り付けていた。

花びらが風に舞う中、美咲は一歩踏み出す決意をした。「健、私、前世の記憶があると思う」口に出してみた。言葉が彼女の心を軽くし、同時に緊張が走る。健の反応を期待しながら、美咲は彼の目を見つめた。

「それがどうしたの？」思いもよらぬ健の返事に、美咲は驚いた。「俺にとっては、美咲が今ここにいるのが一番大事なんだ。過去のことなんて気にしないで、今を楽しもうよ！」

その瞬間、美咲は健の真意を理解した。彼は、過去の記憶に縛られず、今を生きることの大切さを教えてくれたのだ。彼女は、前世の翔のことを思い出しても、今の健と過ごす時間が一番大切なんだと気づいた。

「ありがとう、健。私も、今を大切にするよ」と美咲は微笑んだ。彼女の心には、少しずつ光が差し込んできた。過去を手放すことができるかもしれない、そう思えた。

桜の花が舞い散る中、美咲は健の手をしっかりと握りしめた。彼女が求めるのは、翔のような恋ではなく、今の自分に寄り添ってくれる健との関係だった。やがて、彼女は過去の記憶にさよならを告げ、今の幸せを見つけることができるだろう。

彼女は、確かな一歩を踏み出した。桜の花びらが舞う中で、彼女の心は新たな恋の始まりを感じていた。過去の記憶は消えないかもしれない。でも、今の彼と共に生きることが、彼女にとっての新しい人生の始まりだった。美咲は、未来を見つめる目を輝かせながら、健と共に歩き出した。