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第5章 雉は忘れられないために啼く
7.夜の裾を踏む
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愚痴るな、はわかる。だが、素直になれっていうのは?
一有は自宅のドアを開け、真っ暗な玄関に靴を脱ぎ捨てた。洗面所で手を洗ってから、短い廊下のつきあたりにあるドアをあけた。
明かりをつけると雑多なものが散らばった一人暮らしのリビングがあらわれる。すぐ隣は寝室、もうひとつの小さな部屋はクロゼット代わりに使われて久しい。独身三十代の部屋にすぎないが、一有にとっては悪くない巣だ。叶と再会する前は初対面の男を連れてきたこともあるし、脩平も時々やってきた。
一有は他人を家に入れるのを嫌だと思ったことはない。叶のマンションに居候していた時期も含め、寄宿舎やシェアハウスなど、見知らぬ人間のあいだで生活するのには慣れているから、そのせいか。あるいはどこだろうと仮住まいだと思っているせいか。ここにはもう六、七年住んでいるはずだが、しょせんは賃貸だ。
冷蔵庫をあけて缶ビールを取り出したが、すこし考えてもとに戻した。本棚の奥からウィスキーの瓶をひっぱりだして、氷を入れたタンブラーに注ぐ。つまみになりそうなものを目で探したとき、スマホが鳴った。一有はひとくちウィスキーをあおってから、スピーカーに切り替える。
『イチウ』
やっとか、という思いと、たかが何日か声を聞かなかったくらいで? という思いがまざりあって、すこし返事が遅れた。
「……元気か?」
『取りこんでいて連絡するタイミングがなかった。先代と縁の深い先生が亡くなられて……平良の代理で様子を見に行っただけのはずが、すぐ戻れなくなった』
いつもの電話とちがって、声をひそめている様子だった。一有はウィスキーを片手に椅子に座った。
「ああ、ニュースで見た。残念だったな。今はホテルに?」
『いや、親族の家だ』
鷲尾崎の本拠地はもともと九州にあり、かの黒幕が政界引退後に九州で隠居したのもそれと無関係ではないらしい。叶は平良の代理で九州へ行った経緯を淡々と説明し、一有は黙って聞いていた。叶の声を聞いているだけでピリピリした気分がおさまっていることに自分では気づいていなかった。
『俺は平良の結婚式で話したことがあるだけだから……しかし影響力の大きい方だったし、今年のはじめに入院したときはうちが便宜を図った事情もある』
「告別式は日曜だって?」
『ああ。当初は公表せずにすませるはずが、メディアに抜かれてそうもいかなくなった。このくらい想定しているべきだったが』
「どうせそっちで仕事もしていたんだろう? 疲れている感じだぞ」
『……そうでもない』
「やせ我慢するなよ」
スピーカーの声がすこし大きくなった。
『今は疲れていないぞ。日曜の夜に帰る。イチウの方はどうだった?』
「俺? 俺は……」
ふと西條の顔が頭に浮かび、一有は答えに迷った。
「そこそこ忙しかった。代休を取り損ねたが、明日と明後日は久しぶりに暇だ」
『……だったら』
叶が何かいいかけてやめた。
「なんだ?」
『……いや。うちでのんびりしてかまわないといいたかった』
「おまえの留守に?」
『もともと住んでいただろう』
「あの頃は今みたいにピカピカじゃなかったぞ」
『建物自体はヴィンテージなんだ。しかたない』
ヴィンテージ。ものは言いようだと一有は突っこもうとしたが、ふと西條の顔が頭に浮かんで黙った。あの家に叶が彼を「お持ち帰り」するシーンを倍速で想像したのだ。もっともそのディティールは一有自身の経験にもとづいたものだった。持ち帰るほうにせよ、されるほうにせよ。
西條は告別式へ出席する水瀬真弓についていく。水瀬は叶に気づけば挨拶くらいするだろうし、西條はそのうしろにいるのかもしれない。あいつは叶に興味はないといったが……。
急に胃の中が熱くなったのはウィスキーのせいにちがいない。
『イチウ?』
「あ……いや。ちょっと考えていた」
『何を?』
叶に何をいう必要もないという判断と、口に出してしまいたいという気持ちがぶつかって、ついに負けた。
「……西條卓という人を?」
『誰だ?』
叶は西條の名前にまったく反応せず、怪訝な声で聞き返した。
「別荘で会った、おまえの親戚の水瀬……さんの秘書だ。告別式のために九州へ行くから、その前に話をしたいと」
『なぜイチウに連絡を?』
「名刺を渡したからな。眼鏡をかけたベータだ。おまえは気づかなかったらしいが」
『気づかなかった?』
「何年か前におまえに会ったといっていた」
叶は考えこむように黙った。やはり覚えていないのか。眼鏡をとったらまったく印象が変わったせいかもしれない。あるいは叶の家に行ったという話は西條のまったくの嘘かもしれない。
そう考えると急に胸からすっとつかえが落ちたような気分になった。自分でも意外なほどだ。いや、俺はこんなこと、気にしていないんじゃなかったか。
『どうしてそんな話をわざわざイチウに?』
「たぶんおまえみたいな名族にぶら下がりたいのさ」一有は叶と関係をもったという西條のほのめかしは省略し、簡潔にまとめた。「名族の周りにはよくいるんだろう? どうやって俺がおまえに取り入ったか聞いてきた」
叶の声が急に剣呑な響きを帯びた。
『取り入った?』
「名族のアルファのお気に入りになると色々なメリットがあるからと。俺にはあまりそうも思えないが、それを自覚しろってさ」
『イチウにそんなことをいったのか?』
「この通りじゃないけど、そんなところだ。気にするな」
『イチウ――』
「ま、ベータがおまえの横にいたら、こういう話をする人間がこれからも現れるんだろうな」
スピーカーからため息のような声が一瞬もれて、遠くなる。
「キョウ、疲れているんだろう?」一有はスマホに向かっていった。
「もう寝ろ。切るぞ、ほら」
『わかった。おやすみ』
「おやすみ」
ウィスキーの氷がとけ、タンブラーについた水滴がテーブルに丸い輪を描いていた。いつもよりかなり長い電話になった気がする。おまけにいつもなら面と向かっては話さないことも口にしてしまった可能性もある。
西條のことなど話すのではなかった、と今さら思った。一有は残ったウィスキーを飲み干し、さっさと寝てしまうことにした。
一有は自宅のドアを開け、真っ暗な玄関に靴を脱ぎ捨てた。洗面所で手を洗ってから、短い廊下のつきあたりにあるドアをあけた。
明かりをつけると雑多なものが散らばった一人暮らしのリビングがあらわれる。すぐ隣は寝室、もうひとつの小さな部屋はクロゼット代わりに使われて久しい。独身三十代の部屋にすぎないが、一有にとっては悪くない巣だ。叶と再会する前は初対面の男を連れてきたこともあるし、脩平も時々やってきた。
一有は他人を家に入れるのを嫌だと思ったことはない。叶のマンションに居候していた時期も含め、寄宿舎やシェアハウスなど、見知らぬ人間のあいだで生活するのには慣れているから、そのせいか。あるいはどこだろうと仮住まいだと思っているせいか。ここにはもう六、七年住んでいるはずだが、しょせんは賃貸だ。
冷蔵庫をあけて缶ビールを取り出したが、すこし考えてもとに戻した。本棚の奥からウィスキーの瓶をひっぱりだして、氷を入れたタンブラーに注ぐ。つまみになりそうなものを目で探したとき、スマホが鳴った。一有はひとくちウィスキーをあおってから、スピーカーに切り替える。
『イチウ』
やっとか、という思いと、たかが何日か声を聞かなかったくらいで? という思いがまざりあって、すこし返事が遅れた。
「……元気か?」
『取りこんでいて連絡するタイミングがなかった。先代と縁の深い先生が亡くなられて……平良の代理で様子を見に行っただけのはずが、すぐ戻れなくなった』
いつもの電話とちがって、声をひそめている様子だった。一有はウィスキーを片手に椅子に座った。
「ああ、ニュースで見た。残念だったな。今はホテルに?」
『いや、親族の家だ』
鷲尾崎の本拠地はもともと九州にあり、かの黒幕が政界引退後に九州で隠居したのもそれと無関係ではないらしい。叶は平良の代理で九州へ行った経緯を淡々と説明し、一有は黙って聞いていた。叶の声を聞いているだけでピリピリした気分がおさまっていることに自分では気づいていなかった。
『俺は平良の結婚式で話したことがあるだけだから……しかし影響力の大きい方だったし、今年のはじめに入院したときはうちが便宜を図った事情もある』
「告別式は日曜だって?」
『ああ。当初は公表せずにすませるはずが、メディアに抜かれてそうもいかなくなった。このくらい想定しているべきだったが』
「どうせそっちで仕事もしていたんだろう? 疲れている感じだぞ」
『……そうでもない』
「やせ我慢するなよ」
スピーカーの声がすこし大きくなった。
『今は疲れていないぞ。日曜の夜に帰る。イチウの方はどうだった?』
「俺? 俺は……」
ふと西條の顔が頭に浮かび、一有は答えに迷った。
「そこそこ忙しかった。代休を取り損ねたが、明日と明後日は久しぶりに暇だ」
『……だったら』
叶が何かいいかけてやめた。
「なんだ?」
『……いや。うちでのんびりしてかまわないといいたかった』
「おまえの留守に?」
『もともと住んでいただろう』
「あの頃は今みたいにピカピカじゃなかったぞ」
『建物自体はヴィンテージなんだ。しかたない』
ヴィンテージ。ものは言いようだと一有は突っこもうとしたが、ふと西條の顔が頭に浮かんで黙った。あの家に叶が彼を「お持ち帰り」するシーンを倍速で想像したのだ。もっともそのディティールは一有自身の経験にもとづいたものだった。持ち帰るほうにせよ、されるほうにせよ。
西條は告別式へ出席する水瀬真弓についていく。水瀬は叶に気づけば挨拶くらいするだろうし、西條はそのうしろにいるのかもしれない。あいつは叶に興味はないといったが……。
急に胃の中が熱くなったのはウィスキーのせいにちがいない。
『イチウ?』
「あ……いや。ちょっと考えていた」
『何を?』
叶に何をいう必要もないという判断と、口に出してしまいたいという気持ちがぶつかって、ついに負けた。
「……西條卓という人を?」
『誰だ?』
叶は西條の名前にまったく反応せず、怪訝な声で聞き返した。
「別荘で会った、おまえの親戚の水瀬……さんの秘書だ。告別式のために九州へ行くから、その前に話をしたいと」
『なぜイチウに連絡を?』
「名刺を渡したからな。眼鏡をかけたベータだ。おまえは気づかなかったらしいが」
『気づかなかった?』
「何年か前におまえに会ったといっていた」
叶は考えこむように黙った。やはり覚えていないのか。眼鏡をとったらまったく印象が変わったせいかもしれない。あるいは叶の家に行ったという話は西條のまったくの嘘かもしれない。
そう考えると急に胸からすっとつかえが落ちたような気分になった。自分でも意外なほどだ。いや、俺はこんなこと、気にしていないんじゃなかったか。
『どうしてそんな話をわざわざイチウに?』
「たぶんおまえみたいな名族にぶら下がりたいのさ」一有は叶と関係をもったという西條のほのめかしは省略し、簡潔にまとめた。「名族の周りにはよくいるんだろう? どうやって俺がおまえに取り入ったか聞いてきた」
叶の声が急に剣呑な響きを帯びた。
『取り入った?』
「名族のアルファのお気に入りになると色々なメリットがあるからと。俺にはあまりそうも思えないが、それを自覚しろってさ」
『イチウにそんなことをいったのか?』
「この通りじゃないけど、そんなところだ。気にするな」
『イチウ――』
「ま、ベータがおまえの横にいたら、こういう話をする人間がこれからも現れるんだろうな」
スピーカーからため息のような声が一瞬もれて、遠くなる。
「キョウ、疲れているんだろう?」一有はスマホに向かっていった。
「もう寝ろ。切るぞ、ほら」
『わかった。おやすみ』
「おやすみ」
ウィスキーの氷がとけ、タンブラーについた水滴がテーブルに丸い輪を描いていた。いつもよりかなり長い電話になった気がする。おまけにいつもなら面と向かっては話さないことも口にしてしまった可能性もある。
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