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第5章 雉は忘れられないために啼く

2.萌ゆる木々の門

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 新緑の森が左右に広がるなだらかな上り坂の途中で、カーナビが『まもなく到着します。前方百メートル右側、目的地です』と告げた。
 午後の日差しのなか、一有は無意識に目をこらしたが、案内板のたぐいは出ていない。だいたい国道を離れてこの道に入ってから、高原の観光地にありがちなペンションやレストランの看板にも一切お目にかかっていない。バックミラーに後続車がうつることも、対向車がやってくることもなかった。
「まるで私道だな」

 ひとり言をいったときには小さなログハウスの前にいた。きちんと舗装された脇道が森の奥へ続いているが、ログハウスの前にいるカーキ色の制服を着た男は守衛だろうか。右隣には砂利を敷いた駐車場があるが、あいかわらず看板のたぐいはない。叶には電話で確認したから、問題はないはずだが。

「境といいますが」
 車の窓を下げてカーキ色の制服に告げると、にこりともせずに「伺っております」という返事があった。
「お車はあちらの駐車場へお入れください。叶様にご連絡いたします」

 キョウ様だって? 思わず顔がにやけた。叶が鷲尾崎様と呼ばれるのは何度か耳にしているが、キョウ様呼びは初めてだ。さすが鷲尾崎家のお坊ちゃま――といいたいが、高校生のころ何度か訪ねた実家で、叶はこんなふうに呼ばれたりはしていない。

 口笛を吹きたくなるのをこらえながら一有は駐車場に車を停める。リゾートに堅苦しい格好も変だろうと、薄手のマウンテンパーカーにコットンパンツとシャツというラフな服装を選んだ。キャリーには念のためにスーツと革靴も入れてある。森の奥に伸びる道を眺めていると、見慣れた車がやってきた。サイドウィンドウが下がったときには自然に笑顔が浮かんでいた。
「イチウ」
「キョウ、この先はあれか? 登録車以外立ち入り禁止ってやつ」
「そうだ。すまん」

 名族の私有地では珍しいことではないが、叶は申し訳なさそうな表情になった。守衛がトランクにキャリーを入れ、一有は助手席にすべりこむ。
「いったいどのくらい広いんだ」
「森をはさんでいるから錯覚するんだ。それほどでもない」
 叶はあっさり答えてアクセルを踏んだ。道の上には緑のトンネルのように木々が枝を差し出している。

 五月五日。ゴールデンウィークも残りわずかだが、一有にとっては七日ぶりの休日だった。それも丸一日休みなのは今日だけで、明日の午後早々帰路につかなければならない。大型連休は名族の子女の警護が必要とされることも多く、CP部門は何かと忙しいのである。
 いっぽう叶の休日はカレンダー通りで、一有が正面から叶の顔を見たのも七日ぶりだった。そのせいだろうか、叶の横顔が妙に新鮮に感じる。いや、さっき聞いた「キョウ様」呼びのせいかもしれない。

 警察、法曹、それに政治とも縁の深い鷲尾崎家は、派手なやり口でゴシップ誌を賑わせるようなことはまずしないが、セレブであることに変わりはなかった。叶は別荘村と呼んだが、ここは要するにゲーテッドコミュニティだ。選ばれた人間だけが休暇に訪れて交流する場所。

 といっても、名族の系譜で叶がどの位置にいるのかなど一有は知らなかったし、知りたいと思ったこともなかった。法曹志望だったせいもあるのかもしれない。大学では誰もが平等だった。重要なのは成績だけ。一有はそこから落ちこぼれたのに、今はまた叶の横にいる。

 左右の森が切れ、前方に石畳の広場があらわれた。赤い三角屋根をのせた木造建築をさして、叶が「オーディトリアムだ」という。
「オーディ……なんだって?」
「講堂だ。サマーセミナーのような企画をやることもある。今夜は演奏会だ」
「へえ」

 広場からさらに奥へつづく道の左右にはさまざまなスタイルの別荘が立ち並んでいる。立ち並ぶといっても、首都圏ではおよそ考えられない面積の芝生の庭や明るい木立にそれぞれ囲まれているから、公園のなかに家が建っているような雰囲気である。塀や柵のたぐいが見当たらないのは建築制限でもあるのだろうか。
 きょろきょろあたりをみまわしていると、車は右折して巨大な針葉樹の並木道にすべりこんだ。行く手にモダンなデザインの山荘がみえる。
「コテージはあの向こうなんだが、そのまえに平良に顔を出してもらってもいいか?」と叶がいった。
「いいよ」

 山荘の前に車が止まったとたん、また制服があらわれた。今度は紺色のスーツに金ボタンだ。ホテルマンのような帽子をかぶっている。
「叶様、お帰りなさいませ」
「ああ。荷物はコテージに運んでくれ」
 叶は慣れた様子でキーを渡した。手袋をはめた手がキャリーケースを丁重にもちあげて運んでいく。車の外の空気はさわやかで、風が吹くとすこし肌寒い。首都圏ではもう夏日が続いているが、ここはまだ春の気候だ。

「このむこうにコテージ村があって、庭づたいに歩いていける。平良も庭にいるはずだ」
 叶は目の前の玄関ではなく、壁に沿ってのびる敷石の小径を歩いていく。壁のむこうからかすかなざわめきが聞こえる。小径を右に曲がって蔓がからまるアーチをくぐると、テラスに面した広い庭に出た。ベンチに座ったり、立ったまま話している人々が十五人ほどいて、奥には樅の木が四本並んでいる。
 小径は樅の木の方へつづいていたが、叶はテラスの段をあがった。

「平良。イチウを連れてきた」

 呼ばれた相手がふりむく。体格のいいアルファ――鷲尾崎家の現当主、鷲尾崎平良だ。半年前にすこし話した時も叶に似ていると思ったが、あらためて向きあってもやはりそうだった。日焼けした顔がほがらかに崩れて、真っ白の歯がこぼれた。
「キョウ、やっとか! いや、失礼した。イチウ君、ひさしぶりだね」

 声はあまり叶に似ていない。差し出された手を握るとやけに強い力で握り返された。
「いまや佐枝零の絵を救った恩人でもあるだろう? 来てくれて嬉しいよ」
「ありがとうございます。でもあれは職務でしたし、幸運もあって……」
「いやいや、幸運なんてものじゃないぞ。何か飲むかね? ビール? ウィスキー? コーヒー?」
「平良、イチウは着いたばかりだから……」
「もう運転はしないってことだろう。取ってくるからそこに座って」

 庭には心地よい午後の日差しが降りそそいでいる。一有は平良のすすめを断りたくなかった。叶が焦っている様子を面白がっていたのもある。
「じゃ、お言葉に甘えてビールを」
「よし。叶は自分でとってこい」
 平良は叶の背中をどやしつけ、何かささやきながらガラス戸の向こうに消えた。一有は日よけの下の藤椅子に座った。
 明るい庭の向こうに樅の大木の暗がりがある。枝から下がっているのはブランコか。CMに出てきそうな避暑地の景色だ。

「悪くない眺めだろう」
 ビール瓶を片手に平良が戻ってくると、すぐ前のテーブルに置いた。すぐうしろに盆を持った叶がつづく。一有がひとこともいわないうちに平良は三つのグラスにビールを注いだ。テーブルを囲む他の椅子に叶を座らせて、自分も腰をおろす。
「よけいな儀礼はなしだ。乾杯しようか。今日はもっと話ができるな、キョウの相棒君」
 相棒? 一有はまたもまばたきして叶をみた。照れているような、あるいは拗ねているような、妙に子供っぽい表情にふと笑いがこみあげてくる。

「どうも、こちらこそ光栄です」
「このあたりに来たことは?」
「いえ、まったく」
「このあたりは戦前から鷲尾崎の土地なんだ。私もキョウも、小さな子供の頃は毎年ここで遊んだものだよ。山荘は建て直したが、庭の様子はあまり変わってない」
 平良はビールグラスを持った手で四本の樅の木をさした。
「台風で何本か倒れたが、真夏はハンモックを吊るすと昼寝や読書にちょうどいいんだ。昔は薪ストーブを庭に出して、コーンを焼いて食べたこともある。バターを塗ってかじるんだよ。塩気と甘味がちょうどよくてうまい。叶がまだこのくらいのチビのとき――」
 平良は肘のあたりに手のひらをかざし、にやりと笑った。
「思い切りコーンにかじりついている写真を撮ったよ。オーディトリアムで仮装パーティをやったこともある。そうそう、肝試しも。あの頃の写真はまだどこかに残って」
「平良!」
 叶があわてたようにさえぎったが、平良は声をあげてすこし笑った。
「なんだ、恥ずかしいのか?」
「……わかってるならやめてくれ」
「いいじゃないか。おまえのイチウ君だぞ」

 おまえの。
 一有はふとひっかかった。相棒、という呼び方といい、叶は俺のことを――昔のことも、この半年のことも――この人にどこまで話しているのだろう。

「オーディトリアムって、赤い屋根の建物ですね。今夜は演奏会があるとか?」
 水を向けたのは叶を助けようと思ったのではなく、会話の行き先に不穏なものを感じたせいだ。平良は一有の意図を感じとったかどうか。
「ああ、カルテットの夕べをやる。音楽は?」
「……その、クラシックなんかはうとくて。よく知らないんです」
「なに、四つの楽器から音が流れてくるだけだ。それぞれがどっちへ行くか注意して聞いていればいい」

 鷲尾崎家の当主は本気なのか冗談なのかわからない口調でいい、ビールを飲みほした。視線が庭へ動いたので、一有も自然にそちらへ顔を向けた。小径をやってきた初老の男が平良に会釈する。
「うるさがたが登場だ。気楽な時間も終わりだな」
 平良はぼそっとつぶやき、グラスを置いて立ち上がった。
「イチウ君、夜にまた会おう」

 平良はさっさと庭へおりていき、一有はきちんとした返事をしそこねた。平良と入れ違うように、庭から上品な服装の男女がこちらへやってくる。アルファとオメガ。夫婦だろうか。叶がすばやく立ち上がり、二人の前に行くと何か話しながら庭へおりた。一有は日よけの下に座ったままでいた。
 ここにいるのはみな鷲尾崎家の関係者だろう。何者でもない自分が叶についていくのも変な気がするが、どうも勝手がつかめない。

 テラスの奥でガラス戸が開いた。一有は空のグラスを持ったまま手持無沙汰に座っていたが、日よけの下に見知らぬ男が顔をのぞかせたので、反射的に姿勢を正した。
「噂の親友君というのは君か?」
 唐突な声に顔をあげる。リゾート地の午後には不似合いな、グレーのビジネススーツを着たアルファだ。自分でたずねたくせに、そいつは一有をじろじろみて「まさか」といった。
「あのベータか? こんなところまで連れて来るとは、叶もたいがいに……」
 何を思ったか無遠慮に手を伸ばしてきたので、一有はさっと立ち上がった。払いのけこそしなかったが、アルファはムッとした表情になった。

「失礼ですが、初対面かと思います。どこかでお会いしましたか?」
「いや? 前に叶とバーで出くわしたとき、一緒にいただろう。三年、いや五年前かな?」
 三年? 馬鹿な。五年前でもありえない。
「いえ、彼に再会したのはつい最近ですよ。大学を出たあとは音信不通でしたから」
 しかしアルファは一有が嘘をついているかのようにじろりと睨みつけ、ふいときびすを返した。人違いを認めたくないのか。一有はわけがわからないまま、不愉快な気分とともに取り残された。

 叶はまだ庭でさっきの夫婦と話している。グレーのスーツのアルファは大股でそっちへ向かった。いったい誰と間違えたのかわからないが、本人と話せば誤解も消えるだろう。しかしどうにも居心地が悪い。みると叶の周囲にはスーツのアルファ以外にも人が増えている。挨拶ラッシュだ。どうやらしばらく空きそうにない。

 一有はテラスを下り、樅の木の方へ小径をたどった。すこし離れた木立のあいだにコテージが数棟見え隠れしている。屋根は鉄色、外壁は空色やレンガ色に塗り分けられていた。見覚えのある背格好の女性が眼鏡をかけたスーツの男をしたがえて小径を歩いてくる。

「あら、あなた、えっと――」
「境です。先月叶の家でお会いしました」
 親戚の水瀬さん。たしか叶はそういった。下の名前までは聞かなかった。
「そうそう、思い出したわ。叶さんといらっしゃったの? 彼はどこ?」
「そっちにいますよ」
「そう」
 水瀬はうなずいただけで行ってしまった。一有はすこしうんざりしてきた。だが連れの眼鏡の男はまだ一有の前にいる。
「はじめまして。水瀬の個人秘書の西條と申します」

 個人秘書? 怪訝に思ったとたん名刺を出されたので、一有も反射的にパーカーのポケットを探った。名族の別荘に行くから必要になることもあるかもしれないと、社名と名前と連絡先だけの簡素な名刺を持ってきていた。
「どうも。境一有と申します」
「アウクトス・コーポレーション……ということは鷲尾崎叶さんの?」
 ここには仕事で来ているわけでもないし、四月から叶は直属の上司でもない。部下だと答えるのもなんだか変だ。しかし西條は勝手に合点した様子で名刺をしまいこみ「ありがとうございます。ではまた」と水瀬のあとを追っていく。

 なぜ叶は一有にここに来るよう頼んだのか。そうしないとゴールデンウィークは一度も会えないから、というだけか? 西條のうしろ姿を見送っているとそんな疑問が浮かんできた。一有は並んで立つ樅の大木の周囲をぐるりとまわった。太陽の光は長い枝にさえぎられ、足もとには苔が厚いじゅうたんのようにびっしり生えている。空気はひなたよりひんやりとして、すがすがしい樅と苔の香りが漂っている。

 枝に下げられたブランコに尻をのせ、脚を地面につけたまま明るい中庭をみつめる。目だけで背の高いアルファのあいだに叶を探すが、みつからない。
 まったく、キョウのやつ。どこにいるんだ? どうして俺をここに連れてきた?

「イチウ」
「うわっ」
 背後から声をかけられて、われながら滑稽なほど驚いてしまった。
「キョウ、いつのまに?」
「こっちのせりふだ。ブランコにいるとは」
「座るのにちょうどよかったんだ」

 叶は妙に嬉しそうな顔で一有をみつめている。そのせいか、たった今まで感じていた居心地悪さはどこかへ消えてしまった。
「コテージに行こう。夕食はケータリングを頼んである。夜の演奏会まですこし落ちつけるさ」
「ああ」
 並んで木立の奥へ歩きはじめたとたん、一有は肩の力が抜けるのを感じた。思いのほか緊張していたのだと、その時わかった。



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