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番外編SS

言葉が足りない

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 アウクトス・コーポレーションの本社は巨大な建物で、二十四時間眠ることがない。従業員向けの施設も、カフェテリアはもちろん託児所、歯科、クリーニングサービスに理髪店、仮眠室つきのトレーニングジムもあり、数年間本社から一歩も出ずに暮らしていた社員もいるとかいたとか、一部で噂されている。

 労務管理システム上そんなことはありえず、ある種の都市伝説なのだが、境一有はこういった伝説が誕生する原因を知っている。CP部門の現業組が本社にあらわれるのは業務に必要な研修単位取得のときか、非常対応のときだけだ。
 後者の場合、現場から急行した警護人の中には、ブラックスーツを着ているくせに山籠もりでもしていたような髭面蓬髪で理髪店に入ったり、あるいはTシャツとジャージ姿で廊下をうろついている者がいて、これを一般社員が目撃して想像をたくましくしたりすれば――何しろCP部門の業務について詳しく知るのは上層部に限られているのだから――そんな伝説が生まれることもあるだろう。

 現業組は一般社員のいるカフェテリアには足を踏み入れず、セキュリティ上の理由で廊下で談笑することもほぼない。終業時刻が来て退勤する社員たちは、木谷脩平のように絵に描いたような強面とすれちがうと必ずぎょっとした表情をみせる。
 三月に入ってスギ花粉が飛びはじめ、脩平はクライアントの前に出るとき以外は黒いマスクをつけている。強面にさらに凄みが追加されているから、CP部門と無縁な社員の反応は大いに理解できる。しかし脩平の隣を歩く自分まで、妙な目つきで見られるのは解せない。

 ガラス張りのオフィスの扉をあけながら一有が何気なくそういうと、脩平は呆れた目つきでこっちをみて、わざとらしくためいきをついた。
 脩平は二か月以上に渡る個人警護の任務を終えたばかりだが、ペースはいつもとまったく変わらない。トップクラスの警護人は精神がいつも安定している。

「いっちゃんってばまた、しらじらしいこといって。俺よりもいっちゃんの方が目立ってるに決まってるでしょうが。というか、並ぶと俺はいっちゃんの引き立て役になるのよ」
「なぜだ? 俺なんか脩平にくらべれば平凡だろ」
「たまにはアクション映画やドラマを見なさいって。美形と強面が横並びでいたら、主役はどっち」
「強面だろ、そりゃ」
「あーあ。鷲尾崎部長に聞いてみなさいよ。絶対逆だって答えるから」
「部長? なぜ部長に聞くんだ」
「たぶんこういうぜ」脩平は声を低めた。
「『誰と並んでも一有が主役だ。ほかの全員が引き立て役だ』」

 せりふの内容はさておき、叶そっくりの口調があまりに可笑しく、一有はつい吹き出してしまった。
「脩平、馬鹿な真似はやめろって」
「どうよ、部長さんとは。俺が不在のあいだにもっと甘々になった? バレンタインは? 特大のハートチョコあげた? それとも貰った?」
「何をいってるんだまったく。そんなわけあるか」
「いやいや、クリスマス、バレンタイン、ホワイトデーとね、想いを確かめあうイベントが続くのはいいことですよ。部長さんもきっとほくほく――おっと」

 唐突に脩平の表情が変わった。ガラスの壁ごしにいまや見慣れたと言っていいスーツの肩が通りすぎ、大柄な姿が開けっ放しの入口で立ち止まる。脩平はさっとそちらを振り向いた。
「鷲尾崎部長、境係長に今後の行事予定を確認したところでした。失礼します!」

 無駄話を言い換えるにしても「行事」だって? 一有は内心呆れたが、脩平はのほほんとオフィスを出て行った。叶は怪訝な顔をして一有を見た。

「行事というのは社内の? それともクライアントの話か?」
「単なる事務処理です」
 一有はそっけなく答えたが、叶は業務上のことと納得したのか、軽くうなずいただけだ。
「いつ終わる?」
「いつでも終われますが」
「それなら行こう」

 叶はすでにコートを腕にかけていた。ロッカーからコートを取り出し、帰り支度をしているあいだ、叶は黙って待っている。なぜか熊に見守られているような気分になる。今日のような日の帰宅手順はマニュアルに書けそうなくらい毎度同じだ。並んでオフィスを出て駐車場行きのエレベーターに乗るまで、ふたりとも無言。叶の車の助手席に一有が乗り、シートベルトを締める。叶がハンドルを握り、車がするりと駐車場を抜け出したとたん、一有の言葉遣いは自動的に変わる。

「ずいぶん早かったな」
 叶は信号をにらんだまま答えた。
「気になって早く出た」
「何が?」
「……昨日無理をさせたんじゃないかと」
「無理? そりゃまた――」

 何の話だと聞こうとして、一有は相手の頬がかすかに赤らんでいるのに気づく。やれやれ、何なのだこの男は。
「キョウ、俺はそんなにやわじゃないぜ。寝坊はしたけどな」

 つまりこういうことだ。叶が一有をオフィスに迎えに来るとき、一有は叶の車で出社していて、かつ叶のマンションの駐車場には一有の車が停めてあるということ。そして翌朝、社外へ行く用事がないかぎり、叶は一有を自分の車で送ろうとする。

 ちなみに今日は月曜日。週末を叶のマンションで過ごした翌日はだいたいそうなるのだった。叶のマンションは独身男の夢みたいな環境で、ホームシアターや高級家電が完備しているが、いったん玄関を入ったら最後、独占欲の強いアルファに引っ張られて、ソファと風呂とクイーンサイズのベッドを往復するだけになるのが常だった。三十代も後半戦に入るというのにこのスタミナは何事だと思わなくもないが、毎週というわけでもないし――叶は鷲尾崎家の用事で週末が埋まっていることも多い――一有もこの状況をそれなりに楽しんでもいた。

 実際、今がいちばん楽しい時期なのかもしれなかった。学生時代からひきずったあれこれに一応の決着がついたのが去年の秋で、それからようやく半年ほど。離れていたあいだに変わったところ、変わらないところ、お互いに知らなかった性癖の探求など、馴染んでいる事柄と意外な事柄がほどよく混ざりあって、マーブル模様になっている。

「それならいい。ちょっと……気になっただけだ」
 叶がぼそっとつぶやいた。信号が青に変わる。

 まあ、たしかに昨夜の叶は(いつも以上に)しつこかった。前日の土曜に遠方で誰ぞの結婚式があったとかで、一有が玄関に立ったのは日曜の夕方。入るなり待ちきれないようにキスを仕掛けられ、ろくに話もしないままベッドに引きずりこまれた。ソファには冠婚葬祭用のブラックスーツが投げ出されたままで、夜になって一有がレンジで夜食を温めている隙に、叶はスーツをクリーニングバッグに押しこんでいた。引き出物のカタログギフトは雑誌の上に無造作に重ねられていた。

 何かあったのかたずねるべきなのか、名族のプライベートに関わることは避けるべきなのか。夜食のグラタンを前に一有はすこしばかり考えはしたが、こういったことも今の時点では「完全に混ぜ合わせられないマーブル模様」だったし、夜食が終わる前から次の一戦がはじまってしまったので、結局なにも話さずに終わった。それに昨夜の叶は一有が泣き出すまで責め立ててきたから、終わったあとは泥沼にひきずりこまれるように眠ってしまったのである。

 まあ、これだって別に悪くはない。

 これが脩平相手なら、相手がどんな状況だろうと自分には完全に無関係だと思い、単にセックスを楽しんだことだろう。同僚にもかかわらず、脩平とつかず離れずのセフレ関係が続けられたのは、踏みこむことが許されない境界線をおたがいはっきりさせていたからである。

 しかし一有は叶に対してそんな線を引くことができなかった。だからこそここまで引きずって、ようやく一応の決着はついた。それでも完全に混ざりあえるわけはない。そもそも他人同士で、おたがい「プロ独身」を標榜しているのでもあり……。

(クリスマス、バレンタイン、ホワイトデーとね、想いを確かめあうイベントが続くのはいいことですよ)

 脩平が語った「行事予定」が頭の中をよぎる。二月十四日の週はふたりとも忙しく、実をいうと一有はバレンタインデーのことをすっかり忘れていた。叶からもべつだん何もなかったし、だから向こうも気にしていないのだと思いこんでいたが、確かめたわけではないから、もちろん違った可能性もある。

 たぶんおたがいに言葉が足りないのだ。叶も公的な場面ではけっして無口な人間ではないのに、自分に対しては言葉が足りない。とはいえそれは、たいして話をしなくても二人でいるのが心地いいから、ということでもある。昔からそうだった。だが心地よさに甘えすぎると、時にしっぺ返しがあるのも学習はした。

 車は叶のマンションの駐車場にすべりこんでいく。独り暮らしなのに二台分のスペースを契約しているのは家事スタッフや警護人が必要になったときのためだ。こんなささいな事柄に気づくたび、叶は名族の一員なのだと一有はあらためて思い出す。
「大人になるってのも面倒くさいな」
 思わずひとりごとをつぶやくと、叶はびくっとして一有を見た。
「どうした?」
「いや、何でもない。考えごとをしていた」

 車が止まるまえに一有はシートベルトを外している。すぐ横に停車している自分の車に乗り換えるのがいつもの手順だ。ウイークデイは部屋までいかない。この半年のあいだ、なんとなくそんなルールができあがった。

 きっと歯止めがきかなくなるのをおたがいに恐れている。ほぼ毎日職場で会っているのに、妙な話だ。

「叶、来週の週末は? 用事があるか?」
 運転席の窓をあけてたずねると、叶の目尻がかすかにゆるんだ。
「ああ」
「土曜も日曜も?」
「たぶん大丈夫だ」
「じゃ、どこかに行こう。たまにはドライブもいいだろう? 迎えに来てやるよ」

 叶の口もとがふっと緩み、すると十代の面影が重なる。おたがいおっさんになったというのに、おかしなものだ。二人きりですごすための手順をこうして作っているのも、おかしな話だ。

「じゃあな。また明日」
 一有は手を振る。
 今はこれでいい。
 まだ、これでいい。


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