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第4章 いつか帆を歌う日が
2.有為転変の最初の文字
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フロントガラスに雨粒がぽつぽつ落ちる。
台風通過のあとの秋雨前線停滞とかで、一週間ほどはっきりしない天気が続いていた。とはいえ、今日の午後おそくには雨があがり、そのあと晴れるという予報だった。
ワイパーがガラスを拭い、水滴が半円形に拭われる。一有は仕事用のスーツを着てハンドルを握っている。シダーの香りが鼻につく。助手席に叶が座っているせいだ。そういえば雨の日の方が匂いは強く感じるのだったか。
「スーツなんだな」と叶がいった。
「今日は業務だろう」と一有は返す。
スーツ姿を非難されたのだろうか。しかし叶もいつものスーツにネクタイ姿だ。だいたい、前回の藤野谷家訪問の際は私服と指定があったから一有はノータイで行ったのに、この男はその時もきちんとタイを締めていた。
「明日藤野谷家へ行く」といわれたのは昨日の終業間際だ。一有は即座に「それは業務で?」と聞き返した。
「そう考えてもかまわない」
叶はまっすぐ一有をみつめて答えた。一有の居心地悪さなどお構いなしの視線だった。
「先日の件について、知らせておきたいことがあるという話だった。イチウも来てくれと」
そう考えてもかまわない、か。だったらそう考えるとも。というわけでスーツとタイなのだが、その日の夜、帰宅後にズボンをプレスしながら一有は奇妙な落胆を感じてもいて、そんな自分にさらに腹を立てていた。
まったく、叶のやつ。いったいどういうつもりだ。
CP部門は今週になって配置換えをした。一有はあいかわらず後方支援事務だが、兼務として部門長補佐が加わった。叶の異動前は空席になっていたポジションだ。叶が現業班出身ではないため、裏方のシステムに通じていて現場ヘルプにも入れる一有が不明点を補うという名目である。そう説明されればおかしなところは何もない。一有の席は事務職の島から部長室の前になり、脩平はあまり寄りつかなくなった。
現業班の脩平がオフィスにいる時間など短いものだから、実質的なちがいはほとんどないのだが、包囲網が狭まった気がして一有は落ちつかなかった。配置換えをしたあと、叶は一有を待ち伏せしたり、終業後に誘ったりするのをやめ、おかげでアウクトス社内での一有の腫れ物扱いはいくらか下火になった。
もし業務でなければ自分はどう感じたのか。折り目をつけたズボンをハンガーにかけながら一有はうっかり自問し、またも腹を立てた。そもそも一有は里琴のおせっかいにずっと腹を立てていたのだった。だから俺はあの人が嫌いなんだ。なにが、キョウは正直になった、だ。正直になって、それで次にどうするというのか? 俺と結婚しようとでも?
プロの独身、あるいは一人暮らしのプロを自認する一有を脩平は以前笑ったが、一有は大真面目だった。もちろん叶とおなじ部屋、おなじ建物で共同生活をしたことはあるが、一有にとってあれは単なる同居にすぎなかった。だいたい、あいつは発情してなくても俺に勃つのか?
そこまで考えて不愉快さが頂点に達したので、昨夜の一有は早い時間に無理やり眠った。そして明け方ごろ、叶に抱かれる夢をみた。
まったく。
雨は降り続いているが、空はすこし明るくなっている。
「車はコインパーキングに?」
叶にたずねると「停められるという話だ」と答えた。坂の下まで来ると、前の来訪時に目印のように咲いていた白い花はもうまったく見えなかった。一有は坂の上へ車を進めた。
藤野谷家のカーテンゲートが開いている。サンダル履きの藤野谷零が軒下に立って、中へ入れろと合図していた。バックで入れてエンジンを切る。叶はシートベルトをはずし、先に車から下りた。一有はシダーの残り香を追い出すように一度ドアを全開にした。家の中から子供の声が聞こえてくる。
「ソラチのばか!」
「ケイは僕のいうことをきくの! 僕のだから!」
「ケイもソラチもやめなさい! お客様だから!」
雨は小降りになっていた。ソラチが零の息子で、ケイは従兄弟だったか。名前を思い出しながら玄関の軒下に入ると零が困ったような表情で「今日も子供が多いから」といった。
「あの子たち、仲がいいくせに喧嘩も多くて」
「どうぞお気遣いなく」と叶がいう。
「電話で話したように、先日の件で続報があるんだ。それとイチウ君に会ってほしい人がいる」
玄関には様々なサイズと色の靴が散らばっていた。あざやかな空色に水鳥を刺繍したモカシンが目についた。子供がふたり、以前通されたアトリエの方向へバタバタと走っていったが、一有と叶は逆方向へ通された。広いリビングに入ると窓際にいたドレッドヘアの女性がふりむき、ソファから藤野谷天藍が立ち上がった。
「サカイさん。こんにちは」
「アレックス――さん」
一有は途惑いながら零をふりむく。
「えっと……?」
「アレックスは朋晴のお兄さん――千歳さんの奥さん。お二人とも研究者なんだけど、いま夫婦で一時的にこっちにいてね。鷲尾崎家のパーティでイチウ君に会ったんだって? ご両親が知りあいだとか」
「ご両親?」叶がつぶやいた。
「イチウの?」
「サカイヒカルさんとキョウコさん。私が若かったころ、同じプロジェクトで働いていました。サカイさんがヒカルさんによく似ていたので、あの日は声をかけてしまいました。驚かせてごめんなさい」
アレックスは歯切れのよい口調でいい、零がつけくわえた。
「アレックスと千歳さんも招待されていたんだよ」
「私たちは到着が遅れました。レイとテンが帰ったあとだったので、会えなかった。レイの絵を見にギャラリーへ行ったら、ヒカルがいると思って、びっくりして話しかけてしまいました」
顔じゅうに疑問符を描いている叶の視線を一有は無視した。
「あのときは……どうも。俺も驚きました。後見人以外で両親を知っている人に会ったのは初めてで」
「海の事故でお二人が亡くなったとき、私はその場にいなかったのですが、サカイさんはあの頃のヒカルさんにとても似ています。イチウさんとおっしゃるのですね。どう書くのですか」
「漢数字の一に有ると書きます。共有の有」
「なるほど、有為転変の最初の文字ですね」
アレックスが即答した言葉を理解するのに数秒かかった。一有の顔をみて零が微笑んだ。
「座って話そう。この前のパーティの件だけど、犯人がわかった」
零はてぎわよく紅茶とクッキーを出した。全員がソファにおさまると、藤野谷天藍が煙玉を仕掛けた犯人について手短に説明をはじめた。零の主要取引先であるギャラリーに一年前勤めていた人物だという。あの時間は搬入口に不審な車両が停まっていたのもあとでわかった。一有はあの時、消火作業で絵を台無しにするつもりで仕掛けたのかと思ったが、火災にみせかけた隙に作品を盗むつもりだったのかもしれない、という話だった。
犯人は脅迫状の送り主に情報を流していたが、共謀は否定しているという。たしかに、脅迫状がなければ藤野谷家がアウクトスにエスコートを依頼することもなかっただろうが、全体に行き当たりばったりで杜撰な犯行ではあったようだ。
「というわけです。あの時はどうもありがとう。平良氏にはむろんお伝えしたけど、鷲尾崎家にもご迷惑をおかけしました」
そういって零が話を締めた。するとアレックスが目をみひらき「あの日のイチウさんはとても格好良かったです」という。
「私は走っていくイチウさんをみていました。その時は理由がわかりませんでしたが、あとで事情を聞いて、あなたはヒーローだと思いました」
一有は柄にもなく照れた。
「夢中だったんです」
「お仕事はいつもあんな感じですか? 冒険をする仕事」
「いいえ。いつもは後方支援の係ですから」
またパタパタと足音がした。さっきアトリエの方に駆けていった子供たちが戸口の両側から覗いている。天藍が「ソラチ、どうした」というと、くすくす笑っていなくなった。
「まるで兄弟みたいですね」と叶がいった。
「ソラチはね、ケイが大好きなんだ」零が嬉しそうにいった。「ライの方が年はちかいのに。ケイも自分の家ではライと下の妹と仲良くやってるらしいけど、ここに来るとソラチとくっついてばかりだから、ライがふてくされてね。でもさっきみたいに喧嘩もするし、そのくせすぐ仲直りするし、子供って不思議だよ」
「ソラチ君はアルファですか?」
「そう。すぐに生意気になりそうだな」零は笑った。
「天みたいに態度がでかくならないか、心配だ。王様みたいにベータを従えたりして」
「俺はそんなことはなかったぞ」天藍がすかさずいう。
「不本意だ、といいたいのですね」
天藍のとなりでアレックスが腕を組み、表情を真似た。
「『オレハソンナコトハナカッタゾ』零さん、どうですか?」
零は声をあげて笑った。
「王様かどうかはともかく、ベータなら従えていたな。つまり俺を」
「ちがう。逆だ」天藍がいいつのった。「俺がサエに従っていたんだ」
あれ、おかしいぞ、と一有は思った。彼らは誰のことを話しているのだろう。零はオメガだ。ベータではない。
たぶん一有の怪訝な表情に気づいたのだろう。
「ごめん、イチウ君にはわけがわからないね」
零が自分の胸のあたりを指さした。
「俺はね、事情があってずっとベータに偽装していたんだ。初めて天に会った頃もそうだった」
オメガなのに、ベータに偽装? そんなことができるのか?
「でも……ベータならともかく、アルファやオメガは匂いでわかってしまうんじゃないんですか?」
一有は半信半疑でたずねた。
「裏技があるんだ。薬とか。天は何年も騙されていた」
さらりとそういった零の肩に天藍が腕をのばす。
「そう、俺は何年も騙されていた。そしてベータのサエに振られつづけた」
零は天藍の手に自分の指をからめた。
「ベータの、じゃないさ。俺は俺だから。だいたい、俺がベータだろうがオメガだろうが、天がめんどくさいやつだってことに変わりはない」
「サエ」
天藍の口調はなぜか笑いを誘うもので、一有だけでなく、叶とアレックスも笑った。
「俺は俺だから」笑いながら、ついこの前も似たような言葉をきいたと一有は思った。そう、里琴がいったのだ。自分以外のものにはなれないと。そして一有のことを、自分がベータなのにこだわっていると指摘した。
俺はこだわっている――のだろうか。
叶はアルファだ。アルファにはオメガがいる。セックスも子供もオメガのもの。俺はちがう。ベータの男だ。でも叶は俺のことを好きだといって……。
「イチウ?」
はっとして横をみた。叶がじっとみつめている。
「どうした?」
一有は首をふった。「悪い。考え事をしていた」
「そろそろお暇しよう」
雨はあがっていた。ふたりが玄関へ出ると家の中にいた全員が見送りに出てきた。天藍と零、アレックスのほか、子供たち四人――空知、慧、頼と小さな育――それに朋晴と、彼の夫だという峡。家族たち。
「キョウ、このあとは?」
坂の下を過ぎてから一有は助手席の叶にたずねた。
「予定があるならそこまで送る」
「いや、帰るだけだ」
「だったらマンションまで送ろう」
予報通りこれから晴れるのだろう。層になった白い雲が切れ、水色の空がのぞいている。オフィス街と学生街のはざま、ウイークデイなら渋滞ばかりの道路も土曜の今日は空いている。一有は高架をくぐり、大通りから大学の敷地沿いの道を走り抜ける。むかしは毎日のように歩いた道だ。
叶は黙ったまま振動に揺られていた。信号が黄色から赤になる。
「マンション、あのままか?」一有はたずねた。
「あのままって?」
「俺が殴って穴をあけたところ」
「ああ、あれなら……」叶は妙にぼんやりした声でいった。
「リフォームした」
「そうか。悪かったな」
「穴だけじゃない。あの部屋もない。全面改装したから」
え? あっけにとられたとき、信号が変わった。マンションは以前と同じ場所にあったが、周囲の店は様変わりしている。
「よければ、寄っていかないか」叶がいった。
「そこにコインパーキングがある」
昔はここに駐車場なんてなかった。無言のまま一有の手はハンドルを切った。
「ああ。寄らせてもらうよ」
台風通過のあとの秋雨前線停滞とかで、一週間ほどはっきりしない天気が続いていた。とはいえ、今日の午後おそくには雨があがり、そのあと晴れるという予報だった。
ワイパーがガラスを拭い、水滴が半円形に拭われる。一有は仕事用のスーツを着てハンドルを握っている。シダーの香りが鼻につく。助手席に叶が座っているせいだ。そういえば雨の日の方が匂いは強く感じるのだったか。
「スーツなんだな」と叶がいった。
「今日は業務だろう」と一有は返す。
スーツ姿を非難されたのだろうか。しかし叶もいつものスーツにネクタイ姿だ。だいたい、前回の藤野谷家訪問の際は私服と指定があったから一有はノータイで行ったのに、この男はその時もきちんとタイを締めていた。
「明日藤野谷家へ行く」といわれたのは昨日の終業間際だ。一有は即座に「それは業務で?」と聞き返した。
「そう考えてもかまわない」
叶はまっすぐ一有をみつめて答えた。一有の居心地悪さなどお構いなしの視線だった。
「先日の件について、知らせておきたいことがあるという話だった。イチウも来てくれと」
そう考えてもかまわない、か。だったらそう考えるとも。というわけでスーツとタイなのだが、その日の夜、帰宅後にズボンをプレスしながら一有は奇妙な落胆を感じてもいて、そんな自分にさらに腹を立てていた。
まったく、叶のやつ。いったいどういうつもりだ。
CP部門は今週になって配置換えをした。一有はあいかわらず後方支援事務だが、兼務として部門長補佐が加わった。叶の異動前は空席になっていたポジションだ。叶が現業班出身ではないため、裏方のシステムに通じていて現場ヘルプにも入れる一有が不明点を補うという名目である。そう説明されればおかしなところは何もない。一有の席は事務職の島から部長室の前になり、脩平はあまり寄りつかなくなった。
現業班の脩平がオフィスにいる時間など短いものだから、実質的なちがいはほとんどないのだが、包囲網が狭まった気がして一有は落ちつかなかった。配置換えをしたあと、叶は一有を待ち伏せしたり、終業後に誘ったりするのをやめ、おかげでアウクトス社内での一有の腫れ物扱いはいくらか下火になった。
もし業務でなければ自分はどう感じたのか。折り目をつけたズボンをハンガーにかけながら一有はうっかり自問し、またも腹を立てた。そもそも一有は里琴のおせっかいにずっと腹を立てていたのだった。だから俺はあの人が嫌いなんだ。なにが、キョウは正直になった、だ。正直になって、それで次にどうするというのか? 俺と結婚しようとでも?
プロの独身、あるいは一人暮らしのプロを自認する一有を脩平は以前笑ったが、一有は大真面目だった。もちろん叶とおなじ部屋、おなじ建物で共同生活をしたことはあるが、一有にとってあれは単なる同居にすぎなかった。だいたい、あいつは発情してなくても俺に勃つのか?
そこまで考えて不愉快さが頂点に達したので、昨夜の一有は早い時間に無理やり眠った。そして明け方ごろ、叶に抱かれる夢をみた。
まったく。
雨は降り続いているが、空はすこし明るくなっている。
「車はコインパーキングに?」
叶にたずねると「停められるという話だ」と答えた。坂の下まで来ると、前の来訪時に目印のように咲いていた白い花はもうまったく見えなかった。一有は坂の上へ車を進めた。
藤野谷家のカーテンゲートが開いている。サンダル履きの藤野谷零が軒下に立って、中へ入れろと合図していた。バックで入れてエンジンを切る。叶はシートベルトをはずし、先に車から下りた。一有はシダーの残り香を追い出すように一度ドアを全開にした。家の中から子供の声が聞こえてくる。
「ソラチのばか!」
「ケイは僕のいうことをきくの! 僕のだから!」
「ケイもソラチもやめなさい! お客様だから!」
雨は小降りになっていた。ソラチが零の息子で、ケイは従兄弟だったか。名前を思い出しながら玄関の軒下に入ると零が困ったような表情で「今日も子供が多いから」といった。
「あの子たち、仲がいいくせに喧嘩も多くて」
「どうぞお気遣いなく」と叶がいう。
「電話で話したように、先日の件で続報があるんだ。それとイチウ君に会ってほしい人がいる」
玄関には様々なサイズと色の靴が散らばっていた。あざやかな空色に水鳥を刺繍したモカシンが目についた。子供がふたり、以前通されたアトリエの方向へバタバタと走っていったが、一有と叶は逆方向へ通された。広いリビングに入ると窓際にいたドレッドヘアの女性がふりむき、ソファから藤野谷天藍が立ち上がった。
「サカイさん。こんにちは」
「アレックス――さん」
一有は途惑いながら零をふりむく。
「えっと……?」
「アレックスは朋晴のお兄さん――千歳さんの奥さん。お二人とも研究者なんだけど、いま夫婦で一時的にこっちにいてね。鷲尾崎家のパーティでイチウ君に会ったんだって? ご両親が知りあいだとか」
「ご両親?」叶がつぶやいた。
「イチウの?」
「サカイヒカルさんとキョウコさん。私が若かったころ、同じプロジェクトで働いていました。サカイさんがヒカルさんによく似ていたので、あの日は声をかけてしまいました。驚かせてごめんなさい」
アレックスは歯切れのよい口調でいい、零がつけくわえた。
「アレックスと千歳さんも招待されていたんだよ」
「私たちは到着が遅れました。レイとテンが帰ったあとだったので、会えなかった。レイの絵を見にギャラリーへ行ったら、ヒカルがいると思って、びっくりして話しかけてしまいました」
顔じゅうに疑問符を描いている叶の視線を一有は無視した。
「あのときは……どうも。俺も驚きました。後見人以外で両親を知っている人に会ったのは初めてで」
「海の事故でお二人が亡くなったとき、私はその場にいなかったのですが、サカイさんはあの頃のヒカルさんにとても似ています。イチウさんとおっしゃるのですね。どう書くのですか」
「漢数字の一に有ると書きます。共有の有」
「なるほど、有為転変の最初の文字ですね」
アレックスが即答した言葉を理解するのに数秒かかった。一有の顔をみて零が微笑んだ。
「座って話そう。この前のパーティの件だけど、犯人がわかった」
零はてぎわよく紅茶とクッキーを出した。全員がソファにおさまると、藤野谷天藍が煙玉を仕掛けた犯人について手短に説明をはじめた。零の主要取引先であるギャラリーに一年前勤めていた人物だという。あの時間は搬入口に不審な車両が停まっていたのもあとでわかった。一有はあの時、消火作業で絵を台無しにするつもりで仕掛けたのかと思ったが、火災にみせかけた隙に作品を盗むつもりだったのかもしれない、という話だった。
犯人は脅迫状の送り主に情報を流していたが、共謀は否定しているという。たしかに、脅迫状がなければ藤野谷家がアウクトスにエスコートを依頼することもなかっただろうが、全体に行き当たりばったりで杜撰な犯行ではあったようだ。
「というわけです。あの時はどうもありがとう。平良氏にはむろんお伝えしたけど、鷲尾崎家にもご迷惑をおかけしました」
そういって零が話を締めた。するとアレックスが目をみひらき「あの日のイチウさんはとても格好良かったです」という。
「私は走っていくイチウさんをみていました。その時は理由がわかりませんでしたが、あとで事情を聞いて、あなたはヒーローだと思いました」
一有は柄にもなく照れた。
「夢中だったんです」
「お仕事はいつもあんな感じですか? 冒険をする仕事」
「いいえ。いつもは後方支援の係ですから」
またパタパタと足音がした。さっきアトリエの方に駆けていった子供たちが戸口の両側から覗いている。天藍が「ソラチ、どうした」というと、くすくす笑っていなくなった。
「まるで兄弟みたいですね」と叶がいった。
「ソラチはね、ケイが大好きなんだ」零が嬉しそうにいった。「ライの方が年はちかいのに。ケイも自分の家ではライと下の妹と仲良くやってるらしいけど、ここに来るとソラチとくっついてばかりだから、ライがふてくされてね。でもさっきみたいに喧嘩もするし、そのくせすぐ仲直りするし、子供って不思議だよ」
「ソラチ君はアルファですか?」
「そう。すぐに生意気になりそうだな」零は笑った。
「天みたいに態度がでかくならないか、心配だ。王様みたいにベータを従えたりして」
「俺はそんなことはなかったぞ」天藍がすかさずいう。
「不本意だ、といいたいのですね」
天藍のとなりでアレックスが腕を組み、表情を真似た。
「『オレハソンナコトハナカッタゾ』零さん、どうですか?」
零は声をあげて笑った。
「王様かどうかはともかく、ベータなら従えていたな。つまり俺を」
「ちがう。逆だ」天藍がいいつのった。「俺がサエに従っていたんだ」
あれ、おかしいぞ、と一有は思った。彼らは誰のことを話しているのだろう。零はオメガだ。ベータではない。
たぶん一有の怪訝な表情に気づいたのだろう。
「ごめん、イチウ君にはわけがわからないね」
零が自分の胸のあたりを指さした。
「俺はね、事情があってずっとベータに偽装していたんだ。初めて天に会った頃もそうだった」
オメガなのに、ベータに偽装? そんなことができるのか?
「でも……ベータならともかく、アルファやオメガは匂いでわかってしまうんじゃないんですか?」
一有は半信半疑でたずねた。
「裏技があるんだ。薬とか。天は何年も騙されていた」
さらりとそういった零の肩に天藍が腕をのばす。
「そう、俺は何年も騙されていた。そしてベータのサエに振られつづけた」
零は天藍の手に自分の指をからめた。
「ベータの、じゃないさ。俺は俺だから。だいたい、俺がベータだろうがオメガだろうが、天がめんどくさいやつだってことに変わりはない」
「サエ」
天藍の口調はなぜか笑いを誘うもので、一有だけでなく、叶とアレックスも笑った。
「俺は俺だから」笑いながら、ついこの前も似たような言葉をきいたと一有は思った。そう、里琴がいったのだ。自分以外のものにはなれないと。そして一有のことを、自分がベータなのにこだわっていると指摘した。
俺はこだわっている――のだろうか。
叶はアルファだ。アルファにはオメガがいる。セックスも子供もオメガのもの。俺はちがう。ベータの男だ。でも叶は俺のことを好きだといって……。
「イチウ?」
はっとして横をみた。叶がじっとみつめている。
「どうした?」
一有は首をふった。「悪い。考え事をしていた」
「そろそろお暇しよう」
雨はあがっていた。ふたりが玄関へ出ると家の中にいた全員が見送りに出てきた。天藍と零、アレックスのほか、子供たち四人――空知、慧、頼と小さな育――それに朋晴と、彼の夫だという峡。家族たち。
「キョウ、このあとは?」
坂の下を過ぎてから一有は助手席の叶にたずねた。
「予定があるならそこまで送る」
「いや、帰るだけだ」
「だったらマンションまで送ろう」
予報通りこれから晴れるのだろう。層になった白い雲が切れ、水色の空がのぞいている。オフィス街と学生街のはざま、ウイークデイなら渋滞ばかりの道路も土曜の今日は空いている。一有は高架をくぐり、大通りから大学の敷地沿いの道を走り抜ける。むかしは毎日のように歩いた道だ。
叶は黙ったまま振動に揺られていた。信号が黄色から赤になる。
「マンション、あのままか?」一有はたずねた。
「あのままって?」
「俺が殴って穴をあけたところ」
「ああ、あれなら……」叶は妙にぼんやりした声でいった。
「リフォームした」
「そうか。悪かったな」
「穴だけじゃない。あの部屋もない。全面改装したから」
え? あっけにとられたとき、信号が変わった。マンションは以前と同じ場所にあったが、周囲の店は様変わりしている。
「よければ、寄っていかないか」叶がいった。
「そこにコインパーキングがある」
昔はここに駐車場なんてなかった。無言のまま一有の手はハンドルを切った。
「ああ。寄らせてもらうよ」
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