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第3章 歳月には雲雀の血が滲み

5.煙幕のむこう

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 里琴りこはあいかわらず屈託がなかった。
「夫を紹介するよ。斎川彰浩さいかわあきひろ。大学で文学の先生をやってる。アッキー、彼は境一有さかい いちう君。キョウの友達で、僕がむかし迷惑をかけた人」

 配偶者だというアルファにあっさりそんな風に紹介され、一有は面食らったが、なんとかとりつくろって挨拶をした。仕事でここにいるというと、里琴は急に残念そうな顔になった。
「そうなの? てっきりキョウに連れてこられたのだと思ったのに」
「彼ならもちろんそのへんにいますよ。今は上司だし」
「上司ぃ?」
 里琴は素っ頓狂な声を出す。
「どういうこと?」
「どういうことって……俺の職場についこのあいだ、異動してきたんです」
「異動? イチウ君って何してるの? お洒落すぎてカタギにみえないけど」

 あけすけな口調に一有は思わず笑ってしまった。あの時からずっと、心の奥底で里琴にわだかまりを持っていたのに、こうして直接話してみるとそんなものは完全にどうでもいいことのように思えた。

「カタギですよ。アウクトスで働いています」
「アウクトスってあのアウクトス? 今日は何の仕事?」
個人警護エスコート担当でしたが、もう終わりました」
「エスコートなんて、あまりカタギに思えないけど?」
「俺はふだん裏の事務方なんです。今日はたまたま適任ということで」
「ふーん」
 里琴は頭のてっぺんからつま先まで、なぞるような視線をむけた。

「キョウとおなじだから三十五か。昔より美形に磨きがかかってない? アッキーもそう思うでしょ」
 いきなり話を振られた夫のアルファが苦笑いする。一有もあいまいな笑みを浮かべた。
「リコさん、どうでもいいんですが、俺、三十六です」
「あれ? そうだっけ?」
「子供の頃事情があって、高校入学が一年遅れたんですよ。キョウとは同じ学年だけど、トシは一歳ちがい――」
「じゃあ年下のくせにキョウはいきなりきみの上司になってるってこと? これだからアルファってのは」
「まあまあ」アルファが里琴の肩に手を置く。
「そろそろ出番じゃないか?」
「あ、そうだ! ごめんね! またあとで!」

 どうやら、いまホールで進行中の題詠に出演するらしい。慌ただしく里琴が中へ消え、目礼をしながら夫のアルファも消え、一有は毒気を抜かれた気分で芝生の広場に戻った。里琴の容貌は昔の記憶とたいして変わらず、表情は生き生きとして幸せそうだったし、夫だというアルファの様子も悪くなかった。
 いい雰囲気のアルファとオメガのカップルを続けざまにみると、世間とはやはりこういうものだと思えてくる。脩平や一有のようにおなじベータの男同士でフラフラしている存在など、こんな場所には似つかわしくない。

 いつのまにか芝生を電灯が照らしている。秋の日はすばやく傾き、このあとは花火がはじまるのだろう。人々が庭園の方へ移動している。一有はなんとなくギャラリーの方向へ足をむけた。叶にメッセージを入れてひとりで帰社し、報告書を書いてしまおう。
 顔をあげたとき、ギャラリーの裏手、庭園に面した方向で何かチカっと光ったような気がした。訓練された人間の本能で一有はそちらへ向かおうとしたが、横からいきなり声をかけられ、足をとめた。

「サカイさん……ですか?」
 ドレッドヘアにかこまれた卵型の眸がまっすぐに一有の顔をみつめていた。彫りの深い顔立ちと浅黒い肌をしたベータの女性。鮮やかな民族衣装風のモチーフがついたドレスは出席者の中でもきわだっていたから、一有も数時間まえに気づいていた。ただし自分の知りあいではないはずだ。

「はい?」
「まちがっていたらごめんなさい」
 女性は独特なアクセントの混じる口調でいった。
「サカイヒカルさんの関係の方ではありませんか?」
「サカイヒカル……は、父ですが」
 一有は困惑しながら言葉を返した。
「父は二十年以上前に亡くなりました」
「息子さんですか!」
 ドレッドの女性は急に早口になった。
「やっぱり、あなたはイキウツシです! 私はアレックスといいます。私はむかし、サカイヒカルさんと知り合いでした。おなじ大学のプロジェクトに所属していました」
「はあ……」
 一有はあっけにとられて女性と目を見かわした。薄闇のなかで白目と黒目の境界がきわだつ。

「どうも、その……びっくりして……両親のことなんて、ずっと……」
「あの事故から何十年経ったでしょうか?」
 流暢な日本語の発音なのに不自然で、一有は即座に意味をくみとれなかった。

 ヒューッと空気を切るような音が聞こえた。
 一有は反射的に空をみあげた。
 空にパッと光の輪がひらき、遅れてドンッと音が鳴り響く。

「花火。きれいですね」
 隣でアレックスがいった。
「ええ……」
 一有は周囲をみまわした。帰ろうとしていた人も足を止め、みな空を見上げている。あるいは花火がよく見える場所へ、樹木や建物を避けて歩いている。大多数のそんな動きに逆らうような影に気づいたのは、アウクトスでの研修といくらかの現場経験のたまものだろうか。

「アレックスさん、あとでまた」
「はい?」

 一有はモバイルを片手にギャラリーの裏手へ足を踏み入れた。また花火がドンッとなる。誰かが急ぎ足で芝生を踏んでいく。一有は後ろ姿に向かってすばやくカメラのシャッターを押し、警備室の番号を押した。
「アウクトス・コーポレーションの境です。ギャラリーの裏手で不審な人物を見ましたので、ビデオ映像の確認をお願いします」

 手っ取り早くそれだけ伝えて、撮ったばかりの写真を送信しながらギャラリーの中をあらためて観察する。こちら側からはガラス越しに藤野谷零の絵がはっきりみえた。外が暗くなったせいか、間接照明のなかに浮かぶ作品は昼間より幻想的な雰囲気を漂わせている。明かりの行き届かない部分はよく見えない。
 一有はポケットに手をつっこみ、小型懐中電灯の明かりをつけた。

 ガラスの内側に以前はなかったものがある。ブドウの粒のような丸い塊がずらりと細い線で繋げられ、何列もならんでいるようだ。

 また警備室にかけようとして思いとどまった。叶の番号にかけたが、三回コールしても出ない。六回目のコールでやっと出た。
「キョウ、ギャラリーに何か仕掛けられてる」
『何?』
 屋外のせいか、いつもとかなりちがう声色にきこえた。一有はくりかえした。

「何かギャラリーに仕掛けられてるんだ。見た目は煙玉のようだが、時限装置につながっているらしい。警備室に不審者を通報した。いまどこにいる?」
『すぐいく』
 キョウの声は切れ切れで、よく聞き取れない。また花火が鳴った。
「俺は中に入ってみる。平良氏に連絡してくれ」
『イチウ、危険なことは――』
「早く平良氏と警備室に連絡を頼む」

 監視カメラは何をしているのか。そう思いながらギャラリーの正面まで走り、中へ駆けこんだ。懐中電灯をガラスに沿って動かす。ブドウ粒めいた塊の正体はひと目でわかった。夏なら玩具屋で簡単に手に入る煙玉だ。しかし数十個――下手すると百個はある。球につながれた線が床を這い、四角い装置に集まっている。煙玉ひとつなら、点火されても炎があがるようなものではないが――

 手のこんだいたずらか。そう思ったときこれを仕掛けた意図に気がついた。同時にカチっという音が聞こえた。床を這う線をじりじりと火花が伝わっていく。

 最初の煙が流れ出すまでに数秒しかかからなかった。あいだをおいてポンッとはじけるような音が響き、煙が増えた。時間差で煙玉に点火するようになっているのだ。一有はタイマーを足で蹴りつけたが、すでに点火した煙玉からもくもくと白い煙があがり、けたたましい警報が鳴り響いた。
 一有のポケットでモバイルが鳴った。

『イチウ! どこだ!』
「キョウ、煙が――」

 怒鳴りながら壁の絵に走り寄ったとき、モバイルを落としてしまった。煙の臭いにむせながら一有は最初の一枚にとりついた。額縁は簡単に外れるものだろうか。念じながら左右に揺らすと背面にワイヤーで繋げられているのがわかった。ワイヤーカッターがなければ外せないのかとぞっとした時、真ん中あたりに回転金具があるのがわかった。
 なんとか一枚目を壁からおろし、さほど大きな絵でなくてよかったと思いながら二枚目にとりかかる。要領がわかったので今度はもっと楽だった。煙はまだ止まらない。三枚目をおろしたとき消防車のサイレンが聞こえてきた。警報と通報が連動しているにちがいない。外ではまだ花火が鳴っている。煙のおかげで喉が苦しい。

「イチウ!」
「早く出せ……」
 むせながら絵を指さすと、大柄なアルファは即座に理解した。一度に二枚抱えていったのに安心して、一有は三枚目と四枚目を両手に持つ。煙の勢いはすこし弱くなったようだ。煙玉とわかっていれば消防車も放水はしないだろう。そう思ったものの安心はできなかったし、煙にさらされた絵がどうなるのかはわからない。一有がやっと外に出ると、入れ替わりのように消防士が中へ飛びこんだ。




 煙幕花火によるたちの悪いいたずら。その場では一応そういうことになった。
 ギャラリーの中は煙で真っ白になったが、火災は起きず、運び出した絵に影響はなかった。藤野谷天藍がかけつけ、警察は一有の撮った写真の主を捜索している。煙幕花火はギャラリー内部を映す監視カメラの死角を狙って設置されていた。大規模火災とみなされて放水されれば絵は濡れただろうし、消火剤でめちゃくちゃになったかもしれない。

 一有は警察にひととおり事情を聴かれたあと解放された。なぜひと目で煙幕花火とわかったのかとか、時限装置を危険だと思わなかったのか、などと訊ねられたが、アウクトスCP部門の身分証と更新したばかりの資格証がものをいった。あとで参考人として呼びだされそうだが、ひとまずは感謝されて終わった。
 藤野谷天藍からも鷲尾崎平良からも礼をいわれたが、アドレナリンが出すぎていたのか、興奮した一有の頭はろくに話をきけなかった。

 駐車場へ歩きながらケホケホと咳きこんでいると、背中に手が伸びてくる。
「大丈夫か」
「大丈夫……煙がまだ残ってる気がするだけ」
「俺が運転する。キーは?」
 叶が手を突き出したので、一有はおとなしく渡した。
「家はどのあたり?」
 叶の質問にあわてて問い返した。
「まさか。会社に戻るだろ?」
「今から?」
「今晩中に報告書を書いておきたい」
 叶は顔をしかめた。
「上司命令でかえ――」
「ギャラリーの異常に気づいたのは俺だ。依頼の本旨は終了していたが、関連もある」

 キョウが来るのが遅いからだ、と付け加えたくなったがやめておいた。これは疲労によるやつあたりだ。一有が気づいたのだって偶然にすぎない。気づかずに火事とみなされていれば、エスコート自体に問題はなかったとしても、後味が悪かっただろう。

 自分の車の助手席に座るのは変な気分だった。シートベルトを締めたところで叶も具合が悪そうなのに気がついた。暗くて気づかなかったが、顔色もいつもとちがうようだ。叶も煙の中をうろうろしたのだから当然だろう。

 自分のことにしか意識がむいていなかったのを後悔したものの、車が走り出すと振動のせいか眠くなった。起きていたかったのにいつのまにかうとうとして、次に気がついたときはアウクトスの駐車場にいた。

「悪い。寝てた」
「いや」

 叶の返事は短かった。もう夜もふけて、オフィスは暗かった。一有はさっさと自分のデスクへ行くと、スーツの上着を脱いで袖をまくり、パソコンのキーボードを叩きはじめた。ストックしておいたチョコレートバーをかじりながら報告書を八割がた書き終えたとき、あたりがしんと静まりかえっているのに気がついた。
 ガラス越しに部長室の電灯がみえるものの、何の気配も感じられない。そういえば途中でどこかへ行く足音を聞いた気がする。

 一有は部長室をのぞき、時計を見た。誰もいない。そのまましばらく待った。叶はどこへ消えたのか。
 唐突に、あの煙玉に気づく直前アレックスという女性に話しかけられたことを思い出した。彼女は死んだ父を知っているといった。一有が死に顔すらみることのできなかった父、今となっては記憶も薄れかけている父を知っていると。

「キョウ、どこにいる?」

 急にぞっとするような気分に襲われて、一有は叶を呼びながら通路を歩いた。たぶんトイレだろう。気分が悪そうだったじゃないか。案の定トイレには電気がついていて、個室がひとつ閉まっている。

「キョウ、そこにいるのか?」
 個室の奥から荒い呼吸の音が聞こえ、一有の不安は増した。
「キョウ、大丈夫か?」
「……大丈夫だ」

 布が擦れる音のあとに流水音が流れる。バタンと個室のドアが開き、ワイシャツ姿の叶が大股で出てくると、急ぎ足で洗面台に近寄った。
「いないから心配したよ」

 叶は首を振っただけで答えない。水を流したままソープで手を洗い、顔を洗い、髪まで撫でつけている。つられて一有も鏡をみた。煙で顔が汚れたかどうかなどいまのいままで気にしなかったが、ついでに自分も洗うことにした。隣の洗面台で手を洗い、口をすすいで顔をあげると、叶が睨みつけるような強い目つきでこちらをみていた。

「どうしたんだ?」
 叶は眉をひそめたまま首を小さく振った。
「いや。報告書は?」
「だいたい終わった」
「では先に帰ってくれ」
「何だ、偉そうに」自然と呆れた口調になった。「おまえこそさっさと仕事――」

 視線を下にずらしたのは、叶の姿勢が奇妙だと思ったからだ。何気なく叶の靴から足、膝の上をみて、一有は固まった。

「キョウ、おまえ――」
「帰れといっただろう」
 叶は洗面台に手をかけ、前かがみになっていた。
「キョウ……まさか」
「早く帰るんだ」
「……おまえ……発情ラットしてるな?」

 トイレの白い蛍光灯の下でもわかるくらい、さっと叶の頬が赤く染まった。
「帰ってくれ」
「キョウ、何があったんだ?」
「俺は抑制剤を飲んでいる。イチウは気にしなくていい」
「……アルファでもそんな薬があるのか?」
「ああ、一応。効き目に個人差がありすぎて……いまひとつ……」
「……ハニートラップ?」
「イチウ」

 叶は洗面台に手をついたままだ。声は喉から絞り出したようで、低く歪んで響いた。
「頼むから帰ってくれ。おまえがそこにいると……俺は……」

 叶の股間がはりつめている。服の上からでもはっきりわかる。また爆発する寸前なのだ。個室でなにをしていたのか合点がいくと同時に、一有の脳裏にはずっと昔の記憶がよみがえり、感情の大波が押し寄せてきた。パニックのような、何をどうしたらいいのかわからない、足元を押し流されるような波。

 一有の唇は勝手に動いていた。まるで他人の口のように。声は震えていなかったし、かすれてもいなかった。

「無理するな、キョウ。俺が抜いてやるよ」



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