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第3章 歳月には雲雀の血が滲み
2.感情の匂い
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藤野谷零は今年四十一歳。画家・メディアアーティストとしての名前は結婚前の旧姓「佐枝零」。夫は名族の藤野谷家の跡取り、藤野谷天藍。
藤野谷家は医薬系の企業グループを率いることで著名な名族である。当主は天藍の父親で、天藍は自分の会社、TEN-ZEROを経営している。個人の体質とおかれた環境を分析した上で調合するオーダーメイド香水の成功で、一躍有名になった企業だ。
かくいう一有もここのオーダーメイド香水を使っていた。申し込むと皮膚ガスの採集キットや問診票、心理テストが送られてくる。所定の項目に答えて返送すると、AIが分析した結果をもとにサンプルが調合される仕組みだ。一度登録すれば何度でも再調合が可能で、定期購入によりアフターケアが受けられる。
TEN-ZEROの香水が人気を博したのは、香りが自分の体臭と一体化し、香水をつけているとわからないほど微妙に個人の匂いを変える点にあった。たとえば性周期による体臭の変化に悩むオメガは、この香水を使えば発情期が近いことを周囲に悟られずに済む。アルファは特有の押し出しの強さを香りで和らげることができる。そしてベータは、匂いに敏感なオメガに抗して、自分の体臭に「膜」をつくることができる。匂いは感情を語るからだ。
しかしこの家はそんなハイテク香水などまるで連想させない、のどかな雰囲気を漂わせていた。どうもその原因は、目の前の藤野谷零がどことなくぽうっとした、独特の空気を漂わせているせいかもしれなかった。
身長は一有とおなじくらいで、顔立ちは繊細で端正なつくりだが、美貌というほどではない。しかしどこか惹きつけられるところがあって、オメガに接するのがあまり得意でない一有もつい、ずっとみていたくなってしまう。
靴を脱いであがり、勧められるままスリッパを履いた時「サエ―――!!!!」と叫びながら男の子が走ってきた。小学生――低学年くらいだろうか。
「こら、ライ! お客さんだぞ!」
零は笑いながら男の子の手をつかんだ。その子の威勢がよかったのは一瞬のことで、今度は知らない大人を前に固まった――と思うと二秒ほどでその表情がわかりやすくぶわっと崩れ、今度は涙をぽろぽろこぼしはじめる。
「あーあー」
そういった零の表情にはまだ余裕があった。
「どしたのライ。ソラチとケイは?」
「ケイが……ケイが……」
子供は泣きながら繰り返すが、その先は言葉にならないらしい。
「なに、また意地悪されたの?」
ぶんぶん、と頭を振ったところで廊下に影が刺した。
「零さん、ライがどっか――あーあー」
さっきの「あーあー」とはまた違う口調だ。どことなく、いや、かなりうんざりしている声だった。
顔をあげて一有はハッとする。恐ろしく印象的な美貌のオメガが立っている。背はそれほど高くないが、文字通り絵に描いたような、雑誌のモデルか俳優かといった顔立ちだった。
「あ、三波。どうしよう」と零がいった。「また泣かされたらしい」
「ケイがクッキー隠したって。ソラチが白状しました」
「三波んとこ、いつもこんなに喧嘩してんの?」
「うちで三人ならそうでもないんですよ。ふたりで妹の面倒みてくれるし。ただソラチがいると……」
美貌の主はそこで言葉を切った。多少声を低めて「佐枝さん、お客さんいいんですか?」とたずねている。思い出したように零は一有をふりむいた。
「あ、すみません! 騒がしくて。えっと……どうしよう」
「アトリエがいいんじゃないですか?」と美貌のオメガが口を出した。「ボスはいったい何してるんです?」
「書斎で電話会議。そろそろ終わるはず」
「出てきたらアトリエにいるっていっときます」
「ありがとう。あっ、待って三波」
零はまたふりむき、そこでやっと一有と叶をまともに見た。
「来週のガーデンパーティでお世話になる鷲尾崎さんと、アウクトス・コーポレーションの――」
視線が自分の上で泳いだので、一有は先回りして答えた。
「境です。境一有」
零はほっとした表情でうなずいた。
「サカイさん、名刺はあとで。わざわざご足労ありがとうございます。彼は佐枝朋晴、俺の義弟――いや、義兄か。兄……の峡のつれあいです。で、この子は朋晴の息子で佐枝頼。そこにシッターさんもいるんだけど……」
そういったとたんにバタバタっと足音がして、また男の子がふたりあらわれた。叶と一有をみたとたん、凍りついたようにその場に止まる。顔は似ていないが兄弟のように息があっている。
どことなく疲れた声で零が紹介した。
「息子の空知と、頼の兄の慧です」
空知はアルファか。慧はベータだ。そろって顔をみあわせた子供の様子に、一有は妙な既視感をおぼえた。
「はいはい。俺と天はこれからお客さんと大事な話があるから、みんなはリビングで仲良くしてて。空知も慧も、また頼を泣かしたら落書き八卦の刑に処すからね。じゃ、こちらへどうぞ」
零の最後の言葉は叶と一有に向けられたものだった。落書き八卦の刑とはなんだと思いつつ、一有は廊下の奥へ進んだ。
案内された「アトリエ」はコンクリート打ちっぱなしの土間で、二面の壁沿いに木で組んだ棚がずらっと並び、もう二面は折り重なる線で塗りたくられていた。隙間に子供の落書きらしいでたらめな絵がいくつも描いてある。
しばらく眺めたあとで、一有は壁全体がホワイトボードに仕立てられているのに気がついた。落書きし放題というわけだ。藤野谷零は白木のテーブルの周囲に椅子を並べている。いまは子供たちの声が窓の外から響いていた。どうやら庭にいるらしい。
「いやほんと、すみません。今日は子供たちが興奮してて騒がしくて。とにかく座ってください」
「ありがとうございます。大丈夫ですよ」
叶が如才なくいい、一有は黙ったまま叶と同時に腰をおろした。テーブルも椅子も手作りのようだった。腰を下ろしたとたんアトリエの戸がガラッと開く。影が土間におち、そのあとに長身のアルファがあらわれた。
「すまない。遅くなった」
すばやく叶が立ち上がり、一有もすぐに続いた。
「藤野谷さん。ご無沙汰しています」
「鷲尾崎さん、今日はわざわざありがとう――」
アルファの視線が一有の方へ流れる。
「アウクトス・コーポレーションCP部門の境一有です。よろしくお願いいたします」
「藤野谷天藍です。はじめまして」
一有は零と天藍にそれぞれ名刺を渡した。ありきたりな顔写真入りの名刺だが、零はしげしげと眺めている。
夫婦がならんだ様子はみるからに仲睦まじいアルファとオメガのカップルだった。つがいのオメガが隣にいるだけで、長身のアルファから醸し出される威圧的な雰囲気が中和されていく。名族の御曹司とつれあいのオメガということで、やや構えていたベータの一有にすら、絆が目に見えるようだ。
零は落ちついた口調で話しはじめた。
「あらかじめお知らせした通り、お願いしたいのは来週日曜のガーデンパーティでのエスコートです。ただその……いわゆる警護人にみえないようにしてほしいんです。友人のふりをして、他の来客に混じってほしい。人選もこれを念頭に置いていただくようお願いしました。会場のセキュリティは万全だと聞いているので、警護人なんて大げさだと思ったんですが――」
藤野谷零はちらっと横に目をやり、その動作だけで一有は納得した。きっと夫のアルファが個人警護をつけるよう押し通したのだ。叶がうなずいていった。
「警護対象は零さんだけですね。警護人にみえないようにしてほしいという、その理由はなんですか? 通常は護衛がみえるだけでも抑止力になりえます」
こたえたのは藤野谷天藍だった。
「パーティ会場は鷲栖記念庭園のホールだ。ビュッフェ形式で、晴天の場合は庭園が開放される。出席者は約三百名。鷲尾崎さんはご存知のように、今年は恒例の秋のガーデンパーティというだけでなく、鷲尾崎平良氏へ代替わりした記念の会でもあって、サエはここで新作の発表を予定している」
サエ。藤野谷天藍がさらりと漏らした言葉を一有は心に留めた。佐枝零だからサエ、か。なるほど。
「作品はあとで鷲尾崎家が購入することになっている」
天藍の説明は続いた。
「警護を依頼することにした直接のきっかけは、この新作に関係している。問題は情報が漏れたことだ。新作が手に入れられないと事前に知った人間から、ギャラリーあてに脅迫状が届いた」
藤野谷家は医薬系の企業グループを率いることで著名な名族である。当主は天藍の父親で、天藍は自分の会社、TEN-ZEROを経営している。個人の体質とおかれた環境を分析した上で調合するオーダーメイド香水の成功で、一躍有名になった企業だ。
かくいう一有もここのオーダーメイド香水を使っていた。申し込むと皮膚ガスの採集キットや問診票、心理テストが送られてくる。所定の項目に答えて返送すると、AIが分析した結果をもとにサンプルが調合される仕組みだ。一度登録すれば何度でも再調合が可能で、定期購入によりアフターケアが受けられる。
TEN-ZEROの香水が人気を博したのは、香りが自分の体臭と一体化し、香水をつけているとわからないほど微妙に個人の匂いを変える点にあった。たとえば性周期による体臭の変化に悩むオメガは、この香水を使えば発情期が近いことを周囲に悟られずに済む。アルファは特有の押し出しの強さを香りで和らげることができる。そしてベータは、匂いに敏感なオメガに抗して、自分の体臭に「膜」をつくることができる。匂いは感情を語るからだ。
しかしこの家はそんなハイテク香水などまるで連想させない、のどかな雰囲気を漂わせていた。どうもその原因は、目の前の藤野谷零がどことなくぽうっとした、独特の空気を漂わせているせいかもしれなかった。
身長は一有とおなじくらいで、顔立ちは繊細で端正なつくりだが、美貌というほどではない。しかしどこか惹きつけられるところがあって、オメガに接するのがあまり得意でない一有もつい、ずっとみていたくなってしまう。
靴を脱いであがり、勧められるままスリッパを履いた時「サエ―――!!!!」と叫びながら男の子が走ってきた。小学生――低学年くらいだろうか。
「こら、ライ! お客さんだぞ!」
零は笑いながら男の子の手をつかんだ。その子の威勢がよかったのは一瞬のことで、今度は知らない大人を前に固まった――と思うと二秒ほどでその表情がわかりやすくぶわっと崩れ、今度は涙をぽろぽろこぼしはじめる。
「あーあー」
そういった零の表情にはまだ余裕があった。
「どしたのライ。ソラチとケイは?」
「ケイが……ケイが……」
子供は泣きながら繰り返すが、その先は言葉にならないらしい。
「なに、また意地悪されたの?」
ぶんぶん、と頭を振ったところで廊下に影が刺した。
「零さん、ライがどっか――あーあー」
さっきの「あーあー」とはまた違う口調だ。どことなく、いや、かなりうんざりしている声だった。
顔をあげて一有はハッとする。恐ろしく印象的な美貌のオメガが立っている。背はそれほど高くないが、文字通り絵に描いたような、雑誌のモデルか俳優かといった顔立ちだった。
「あ、三波。どうしよう」と零がいった。「また泣かされたらしい」
「ケイがクッキー隠したって。ソラチが白状しました」
「三波んとこ、いつもこんなに喧嘩してんの?」
「うちで三人ならそうでもないんですよ。ふたりで妹の面倒みてくれるし。ただソラチがいると……」
美貌の主はそこで言葉を切った。多少声を低めて「佐枝さん、お客さんいいんですか?」とたずねている。思い出したように零は一有をふりむいた。
「あ、すみません! 騒がしくて。えっと……どうしよう」
「アトリエがいいんじゃないですか?」と美貌のオメガが口を出した。「ボスはいったい何してるんです?」
「書斎で電話会議。そろそろ終わるはず」
「出てきたらアトリエにいるっていっときます」
「ありがとう。あっ、待って三波」
零はまたふりむき、そこでやっと一有と叶をまともに見た。
「来週のガーデンパーティでお世話になる鷲尾崎さんと、アウクトス・コーポレーションの――」
視線が自分の上で泳いだので、一有は先回りして答えた。
「境です。境一有」
零はほっとした表情でうなずいた。
「サカイさん、名刺はあとで。わざわざご足労ありがとうございます。彼は佐枝朋晴、俺の義弟――いや、義兄か。兄……の峡のつれあいです。で、この子は朋晴の息子で佐枝頼。そこにシッターさんもいるんだけど……」
そういったとたんにバタバタっと足音がして、また男の子がふたりあらわれた。叶と一有をみたとたん、凍りついたようにその場に止まる。顔は似ていないが兄弟のように息があっている。
どことなく疲れた声で零が紹介した。
「息子の空知と、頼の兄の慧です」
空知はアルファか。慧はベータだ。そろって顔をみあわせた子供の様子に、一有は妙な既視感をおぼえた。
「はいはい。俺と天はこれからお客さんと大事な話があるから、みんなはリビングで仲良くしてて。空知も慧も、また頼を泣かしたら落書き八卦の刑に処すからね。じゃ、こちらへどうぞ」
零の最後の言葉は叶と一有に向けられたものだった。落書き八卦の刑とはなんだと思いつつ、一有は廊下の奥へ進んだ。
案内された「アトリエ」はコンクリート打ちっぱなしの土間で、二面の壁沿いに木で組んだ棚がずらっと並び、もう二面は折り重なる線で塗りたくられていた。隙間に子供の落書きらしいでたらめな絵がいくつも描いてある。
しばらく眺めたあとで、一有は壁全体がホワイトボードに仕立てられているのに気がついた。落書きし放題というわけだ。藤野谷零は白木のテーブルの周囲に椅子を並べている。いまは子供たちの声が窓の外から響いていた。どうやら庭にいるらしい。
「いやほんと、すみません。今日は子供たちが興奮してて騒がしくて。とにかく座ってください」
「ありがとうございます。大丈夫ですよ」
叶が如才なくいい、一有は黙ったまま叶と同時に腰をおろした。テーブルも椅子も手作りのようだった。腰を下ろしたとたんアトリエの戸がガラッと開く。影が土間におち、そのあとに長身のアルファがあらわれた。
「すまない。遅くなった」
すばやく叶が立ち上がり、一有もすぐに続いた。
「藤野谷さん。ご無沙汰しています」
「鷲尾崎さん、今日はわざわざありがとう――」
アルファの視線が一有の方へ流れる。
「アウクトス・コーポレーションCP部門の境一有です。よろしくお願いいたします」
「藤野谷天藍です。はじめまして」
一有は零と天藍にそれぞれ名刺を渡した。ありきたりな顔写真入りの名刺だが、零はしげしげと眺めている。
夫婦がならんだ様子はみるからに仲睦まじいアルファとオメガのカップルだった。つがいのオメガが隣にいるだけで、長身のアルファから醸し出される威圧的な雰囲気が中和されていく。名族の御曹司とつれあいのオメガということで、やや構えていたベータの一有にすら、絆が目に見えるようだ。
零は落ちついた口調で話しはじめた。
「あらかじめお知らせした通り、お願いしたいのは来週日曜のガーデンパーティでのエスコートです。ただその……いわゆる警護人にみえないようにしてほしいんです。友人のふりをして、他の来客に混じってほしい。人選もこれを念頭に置いていただくようお願いしました。会場のセキュリティは万全だと聞いているので、警護人なんて大げさだと思ったんですが――」
藤野谷零はちらっと横に目をやり、その動作だけで一有は納得した。きっと夫のアルファが個人警護をつけるよう押し通したのだ。叶がうなずいていった。
「警護対象は零さんだけですね。警護人にみえないようにしてほしいという、その理由はなんですか? 通常は護衛がみえるだけでも抑止力になりえます」
こたえたのは藤野谷天藍だった。
「パーティ会場は鷲栖記念庭園のホールだ。ビュッフェ形式で、晴天の場合は庭園が開放される。出席者は約三百名。鷲尾崎さんはご存知のように、今年は恒例の秋のガーデンパーティというだけでなく、鷲尾崎平良氏へ代替わりした記念の会でもあって、サエはここで新作の発表を予定している」
サエ。藤野谷天藍がさらりと漏らした言葉を一有は心に留めた。佐枝零だからサエ、か。なるほど。
「作品はあとで鷲尾崎家が購入することになっている」
天藍の説明は続いた。
「警護を依頼することにした直接のきっかけは、この新作に関係している。問題は情報が漏れたことだ。新作が手に入れられないと事前に知った人間から、ギャラリーあてに脅迫状が届いた」
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