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第2章 傷つけるのをおそれ

4.畳の染み

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 週末が来た。
 土曜日の朝、一有いちうは久しぶりにスーツに着替えた。入学式のために買った一張羅のスーツで、試験監督のアルバイトをする時に何度か着ただけ、まだ新品同様だ。サイズも問題なかったが、鏡をみるとなんだか高校生みたいだった。
 洗面所の鏡の前でネクタイを締めているときょうが上の部屋から下りてきた。一有は聞かれる前にいった。
「出かけてくる」
 叶は洗面所に顔をのぞかせる。「スーツなんか着て、何があるんだ?」
「就職セミナー」

 ネクタイがうまく結べない。聖騎士学園の制服にネクタイはなかった。大学の入学式の時も、鏡の前で何度も結びなおしたおぼえがある。もう一度やり直していると叶がうしろから手を出した。
「曲がってる」
「おい、キョウ」
「どうしてセミナーなんか」
「最近ぱっとしないからさ。三年のうちに他の選択肢を考えてもいいかなって」
「イチウは大丈夫だ」
 断定するような口調に一有はため息をつきたくなったが、かわりに叶にむきなおり、ほどいたネクタイを押しつけた。
「結んでくれよ」




 急な思いつきで参加をきめたのに、セミナーも合同説明会も意外なほど収穫が多かった。他の業種や進路についてこれまで真面目に考えてこなかった反動というべきか。
 業界研究の方法や情報収集について一有は熱心にメモをとり、昼食後の合同説明会の前には好奇心丸出しで企業ブースをのぞいてまわった。どのブースの担当者も親切だったし、同じようなスーツを着た学生たちに混じって広い会場をうろついていると、とにかく前に進むために何かをやっている気分になれた。

 アウクトス・コーポレーションもブースを出していた。後見人の神宮寺が企業弁護士インハウスローヤーとして勤めている会社だ。一有は動画紹介をひととおり眺め、募集職種が多岐にわたっているのを初めて知った。関連会社には製造開発から教育関係まで含まれている。思っていたよりはるかに規模の大きい企業だ。自分がどのくらい世間の物事に無知なのかを自覚して、一有は多少の気まずさを味わった。

 夕方になって、一日がかりのイベントが終わるとすっかり疲労していたが、朝起きたときよりはるかに前向きな気分だった。予備試験やロースクールがうまくいかなくても、他にも道はある。今やっている勉強も、たとえ法曹の道に行かなくとも役に立つときはある――そんなことを思いながら一有はマンションに戻った。

 鞄はセミナーの資料や企業ブースでもらったパンフレットで重くなっていた。玄関の鍵をあけると、叶の革靴とスニーカーのあいだに焦茶のローファーが並んでいた。一有は眉をひそめた。里琴が履いていたような気がする。

 叶はここにあまり人を呼ばない。ふたりで住むにも広すぎるマンションなのに、たまにゼミ仲間を集めて勉強したり宅飲みする程度だ。一有が留守のときに誰か来ているとは知らなかったし、叶は一度もそんな話をしなかった。

 怪訝に思いながら一有は靴を脱ぎ、手を洗った。リビングをのぞいても誰もいない。鞄を置いて階段を上りながら声をかけた。
「キョウ、リコさんが来てるのか?」

 部屋の扉は開いていたが、誰もいなかった。パソコンの真っ黒なディスプレイの下で電源ボタンが緑に光った。一有はスーツの上着を脱ぎながら階段を降りた。リビングの奥、和室の引き戸をあけると同時に、叶の声が聞こえた。

「リコ……」

 一有はその場に立ち尽くした。自分のソファベッドのうえで、里琴と叶が重なっている。

 ふたりとも服を着たままだ。仰向けになって膝を立てた叶の股間に里琴が顔を寄せている。叶のそそり立つ陽物がはっきりみえ、里琴の唇が尖端にかぶさった。一有の位置からは叶の顔はよくみえない。かわりにクチュクチュと卑猥な音がきこえ、里琴の顔が上下する。スパイスのような香りがかすかに匂い、里琴の頭があがる。
「ああ、キョウ、可愛い……好き……ねえ」
 赤い舌が亀頭をぺろりと舐める。叶の手が動き、里琴の髪をつかんでぐいっと股間におしつける。叶は眉を寄せ、目を閉じていた。里琴がささやいた。
「せかさないで、ちゃんとしてあげる……僕ももう待てない」

 一有のなかで、何も考えられない数十秒がすぎ、そのつぎにめまいがした。ふたりはそこに一有がいるのに気づいていない。激しい怒りがわきあがった。
 ――俺の部屋。俺のベッドで。

 無意識のうちに手があがり、一有は拳で右手の壁を殴りつけていた。物音にこちらを向いた里琴の表情はぼんやりして、上気した頬は赤く、眸はうるんでいる。艶めいた声が唇から漏れる。
「あ……イチウ……くん……?」
「出て行け!」

 叫んだ直後、一有はここが誰の家なのかを思い出した。出ていくなら自分の方だ。それでも一有は壁を殴りつづけた。拳で何度か殴りつけると壁にはあっさり穴が開いたが、一有は部屋の中から顔をそむけ、壁だけをみつめてさらに殴った。うしろから誰かが一有をつかもうとする。一有はもがき、背後を蹴りつけたが、空気をかすっただけだった。スパイスのようなきつい匂いがそばを通り抜けた。

 我にかえると一有が殴った建材には直径三十センチはある穴が開いている。いつのまにか人の気配は消えている。怯えながらふりむいても誰もいない。くしゃくしゃになったソファベッドがあるだけだ。
 床にローションの瓶が転がっているのがみえた。ベッドに挟んで隠していたものだ。

 目の奥がつんとして痛かった。指も痛かった。畳のうえに手をついたとたんぽたっぽたっと雫がおちた。一有は畳の上にうずくまった。ずっと昔のことを思い出していた。おなじような姿勢で畳をみつめて、言葉にできない痛みのようなものに耐えたときのことだ。あの時はやがて大人がやってきて、一有を立ち上がらせ、車に乗せ、葬儀場に連れて行った。

「イチウ」
 叶の声がきこえた。一有はまだ畳をみつめていた。
「早かったな。もうすんだのか?」
 涙と鼻水でろくな声が出なかった。
「イチウ……」
「それとも忘れ物でもしたのか?」
「イチウ、ちがうんだ。説明する。リコは帰した。車を呼んだ」

 帰した?
 一有は笑いたい気分だった。そんな馬鹿な。実際笑ったつもりだったのに、顔をあげたとたんに意図しない涙が流れた。叶が一有のまえに膝をついている。顔をみたくなくてまたうつむく。

「ちがうって何が? そんなわけないだろう。ベータの俺にだってわかる。キョウはこれからリコとやりまくるんだろ? あんな綺麗なオメガが発情してるのにほっとくわけないだろ? リコはおまえが好きだし、おまえもリコが好きだもんな」
 また雫がぽたぽたと畳におちる。視界がにじんでよくみえない。
「おまえが誰と何をしたっていい、でもなんで俺の――俺の部屋なんだ! 俺のベッドで……あんな……あん……」

 口に出したとたんにまた怒りで体がふるえた。一有は拳をにぎり、畳を殴りつけたが、即座に肩をつかまれた。強引にふりむかされ、もがくと叶の腕が巻きついてきた。
「イチウ、やめて――きいてくれ」
「離せよ!」

 なんだってこいつはこんなに馬鹿力なのか。もつれあいになると完全な力負けで、一有は畳に仰向けに転がされている。上に乗った叶の顔はさっきの里琴のように上気している。沸騰する怒りで頭がはじけそうだ。ふいに叶の股間に目がいった。傍目にもわかるほど大きくもりあがっている。また笑いがこみあげてきた。

「キョウ。おまえまだ勃ってんの?」
 笑いながらそういったとたん、叶の耳が真っ赤になった。一有はかまわず頭に浮かんだ言葉を口走った。

「大変だよな。アルファって……オメガはここにいないのに。おまえの発情ラットはオメガの発情ヒートのあとでくるんだろ? 早くやりまくらないと大変だよな。誰でも連れてこいよ……リコでも誰でも……俺のベッド以外なら……ああ、ちがうんだよな。アルファとオメガはどこでもパコパコやるんだ。おまえも一緒に見たもんな。いったんはじめたらまわりなんて見えない情熱的なセックスってやつ――」

 突然視界が暗くなり、頬に衝撃を感じた。
 拳で殴られたのだ。この馬鹿力め。反動で畳に頭をうちつけ、喉の奥が締まってひゅっと変な音がでた。一有の怒りは急速に鎮まった。このまま意識がなくなればいい。ここから永遠に消えてしまいたい。目を閉じて次の衝撃を待ちかまえた。

 何も来ない。

 一有はまぶたをおしあげた。自分の肩に触れた叶の手が震え、鼻と鼻がぶつかった。叶の息を顎で感じた。あまりにも近すぎて動けない。かさなった叶の唇が一有の言葉を飲みこんでいく。



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