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第2章 傷つけるのをおそれ

3.迷路の行く先

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 宇田川うだがわ里琴りこは屈託のない快活な人物だった。ゼミの教授との面談がおわってすぐ、一有いちうはカフェテリアで彼と再会した。

 年上のオメガはリラックスした様子でカフェテリアの椅子に腰をおろしていた。きょうがその向かいに座り、両肘をついている。
 なぜか叶の表情に深刻な雰囲気を感じ、一有は近づいていいのかすこし迷った。ところが、手を振ったのは向かいに座る相手の方だ。

「イチウ君! 間に合った?」
「間に合いました。さっきはありがとうございます」
「いやいや。面談の調子はどう?」
「大丈夫です。なんとか」

 自分をおいて進む会話に叶が怪訝な表情をしている。文書館で会ったことを説明しようとしたとたん、先を越された。
「僕の職場でたまたま会ったんだよ。かっこいい子だなあと思ったら、学生証を拾ったものだから。名前をみてしまってさ、あ、キョウがこのまえ話していたイチウ君じゃないかって」
 叶は肘をつくのをやめて顔をしかめた。

「リコ、その呼び方……」
「あっ! ごめん! なれなれしくて。サカイ君だ、そうだった」
「イチウでいいですよ」一有は椅子を指さした。「俺もいいですか?」
「もちろん。イチウ君みたいな美形はもちろん大歓迎――キョウ、なんでそんな怖い顔するの」
「どこが怖いんだ」
 ハハハ、とオメガは笑った。

「イチウ君――あ、僕のことはリコでいいよ。キョウもそう呼ぶし、たいして年も変わらない」
 また叶がじろりとみたが、里琴は意に介さない。
「大学じゃ三年や五年の差はどうってことないからね。小学生と中学生のあいだには永劫の溝があるし、高校生と大学生も百万光年くらい離れているが、大学は世界がちがう」

 里琴は言葉に迷うことなく、はきはきと話した。まぶたはぱっちりして、ながいまつ毛にふちどられている。表情ゆたかに動く眸や嫌味を感じさせない仕草のために、ただでさえ整った顔立ちがさらに明るく華やいでみえる。先日の歌会で五年ぶりに叶に会い、同じ大学にいると知ったという。

 キャンパスのあれこれについてすこし話をしたあと、一有は講義の準備があるからといって立ち上がった。叶は空のカップを前に動かない。年上のオメガとまだ話があるらしい。
 離れていく一有に「またね」と里琴はいった。




 文書館に行く用事はそれほど多くない。にもかかわらず、一有はそれからたびたび里琴と話すようになった。彼には大学のキャンパスだけでなく、近くの古書店の店頭や、昼食にカレーを食べに入った店でもよく鉢合わせた。

 ワゴンセールをする古書店は決まっているし、ランチが人気の店だってたくさんあるわけではないから、顔を見ること自体は不思議な話ではない。里琴に出くわすのは、叶と一緒の時もあったし、一有ひとりの時もあった。叶が一緒にいるときは軽いあいさつ程度しかしなかったが、一有がひとりでいるときは里琴のほうから話しかけてくる。そうはいっても共通の話題はあまりなく、最後は叶の話題になる。

「僕は中学生、キョウは小学生だった。はじめての歌会うたかいで大人に囲まれていたんだ。当時は僕よりこのくらい背が低くて、ほんと可愛かった。次に会った時はもう僕と同じ背丈になってたけどさ」
 里琴はジェスチャーをまじえて生き生きと話す。一有は自分の知らない子ども時代の叶を想像した。

「俺が高校で会った時、キョウはもう今くらいの身長でしたよ」
「うわ、高一で? これだから巨人族はさぁ」
「巨人族って」一有は苦笑する。
「俺はいまより背が低くて、ちょっと腹が立ちましたね。いらない対抗意識があって」
「そうなの? イチウ君は何センチだった?」
「高校のあいだに十五センチくらい伸びたんです」一有は適当に鯖を読んだ。
「牛乳毎日飲んでました」
「そうかぁ。でもイチウ君なら背が伸びなくてもカッコよかったんじゃない? いや、じつは歌会で会う前、ネットや電話で話すたびに、キョウのやつ、イチウがイチウがって何度もいうの。同居してるベータの友達で親友だってのはわかったけど、いったいどんな子だろうって思ってた。いざ実物に会ったらびっくり美形なんだもの。キョウがこんなに面食いとは思わなかった」

 返事に困った一有はあいまいな笑みをうかべる。里琴こそ綺麗とか美人という言葉がぴったりくる美形だと思うのだが、年上のオメガにそんなことをいっていいのか一有にはわからない。

 里琴と話をしていると見知らぬ人にふりむかれることがよくあった。叶とふたりでいるときにはついぞ気にならなかったことである。里琴がひとめをひくのか、ふたりでいるからそうなのか。

「キョウ!」
 里琴が片手をあげる。カフェテリアに入ってきた叶がまっすぐこちらをみる。最近の叶はすこし変だ。ふたりでマンションにいて話をしていても、急に黙りこくってしまうことがある。それとも変なのは一有の方だろうか。これまでは叶とふたりだけですごしていた講義やゼミのあいだの時間に里琴が加わるようになってから、なんだか調子が狂うのだ。

「リコ。これ」
 叶はテーブルに大ぶりの封筒を取り出して置いた。
「母が原稿をよろしくと」
「こちらこそ光栄ですって、お伝えして。もちろん返事は別に出すよ」
「そうだ、中の――」

 叶は封筒をあけて紙の束を取り出す。一有は出版社らしきロゴが入った封筒を眺めて、これも例の「歌会」とか、鷲尾崎家に関わることなのだろうか、と思った。いつだったか叶が説明した話によれば、里琴は新進気鋭の歌人としてその界隈では有名らしい。すでに何冊も歌集を出し、うちふたつは賞をとったとか、短歌の批評もするのだとか。

 一有にはまったく想像できない世界だった。自分の感覚に照らせば本を出版できるというだけでも大変なことだと思うのだが、叶も里琴もそんな一有に口をそろえて「そんなすごいことでもないから」というのだ。
「歌集の出版っていうのは業界の慣習だから。もちろん、僕の歌はキョウよりずっといいけどね」
「うるさい」

 正直にいえば、そんな風に話している叶と里琴の前にいるのはあまりいい気分ではなかった。ふたりは一有が名族の鷲尾崎家だの、歌会だの、そういう事情に疎いことはもちろんわかっている。里琴はイチウが話に置いていかれたときは素早く気づいてフォローの説明を入れた。基本的に親切で、他人の様子に気が回る性格らしい。

「イチウ君、ごめんね。内輪話ばかりで」
 里琴がちらっと一有をみる。
「俺、先に帰るよ」
「イチウ」
 うしろで叶が呼ぶのがきこえたが、一有はふりむかなかった。

 里琴があらわれてからそんなことが何度も起き、一有はやがて、叶が里琴とふたりで話しているところには近寄らないようになった。でもひとりでいるときに里琴と出会えばふつうに話をした。世事に長けた年上の里琴は学内のシステムにすぐ詳しくなり、学生に親切な職員としても人気になった。

 一有にとって、叶のマンションとキャンパスを中心にした生活はあいかわらずだ。コツコツ勉強したおかげで法学部の単位をとるのは簡単だった。学部のゼミを終えたあとはロースクールや予備試験に向けた仲間との自主ゼミ、マンションでは叶とふたりでやる勉強、さらに語学。

 法曹の道に進むための準備は着々と進んだ――といいたいが、大学三年も終わりに近づく頃、一有は迷うようになった。指導教授とそりがあわないとか、思ったように答案が書けないとか、うまくいかないことが積み重なりつつあった。

 叶にはそんな迷いはないようだ。一有も叶とふたりでマンションで勉強しているときは、迷ったりしなかった。時間を決めて過去問を解き、その後それぞれの答案をくらべて議論するのだ。楽しいと思ったこともある。

 ところが一歩外に出ると一有の心には迷いがあふれた。同級生が続々と就職活動をはじめたせいもある。スーツを着てネクタイを締め、会社訪問やOB訪問にむかう同級生や、就職課に貼りだされた説明会のポスターをみるたびに一有は迷った。しかし神宮寺に相談するのも、叶に相談するのも気がひけた。

「元気ないね。どうしたの?」
 里琴にそういわれたとき、一有は判例評釈のコピーをとっていた。
「そんなに元気ないですか?」
「憂鬱な顔してるよ。アンニュイな美形も素敵だけど、大丈夫?」
「ええ、まあ。この先どうしようかなって」
「進学?」

 コピー機に雑誌を広げながら一有は状況を説明した。大学のゼミと自主勉強だけでいいのか、予備試験を受けるにせよロースクールへ行くにせよ、対策のために予備校へ行くか、迷っていること。あるいは就職活動をするか。

「費用は心配いらないっていわれているんです。後見人には、予備試験じゃなくてローへ行ったほうがいいともアドバイスされていて、そのつもりだったんですけど」
「でもイチウ君、キョウと一緒に勉強してるでしょ?」
「あいつは計画通り一直線に進んでる感じですけどね。俺はどうも……自信がもてなくて」
「ガチ法曹志望者ってガツガツしてるからなぁ」

 里琴はコピー機の横のベンチに座り、さらりといった。
「独自メソッドのある予備校に行くのも手だよ。僕は予備校からロースクール受験した。やめちゃったけど」
「え?」思わず声が出た。
「リコさん、法曹志望だったんですか?」
「みえない?」里琴はくすくす笑った。
「親も兄も法曹でさ、周りを囲まれてたからその気になってた。これは僕の場合だけど……ねえ、イチウ君。予備校なんか必要ないって、キョウがいったんじゃない?」
 またも意外な言葉に一有の手は止まった。
「え?」
「一緒に住んで、俺と勉強すればいいって。予備校なんかいらないって。ちがう?」

 そんなことがあっただろうか? 考えてみると、ずっと前に似たような話はしたかもしれない。
 里琴は手をとめたままの一有をみあげた。

「ひょっとしたらって思っただけだよ。あいつもアルファだからさ、無意識に人を動かそうとするところがあるだろう? 自分に都合がいいように。イチウ君、ほんとはそこまでやりたくないのに、キョウの意見で流されたことってない?」
 思いもかけない話に一有はぽかんと口をあけていた。

「キョウはべつに……」
「ふたりがすごく仲がいいのはわかってる。ただ今の話を聞いてすこし、心配になってね。本当にやりたいわけでもないのに、キョウが――悪気はないんだろうけど、そう仕向けているのに気づかないで乗っていたら、まずいかもって思っただけ」
「そんなことないです」
「アルファは独占欲が強いからさ。イチウ君が本来出会うべき人や、進むべき道から、遠ざけていることだってあるかもしれない」
「そんなことないですよ」

 一有は同じ言葉をくりかえしたが、心のどこかに疑念が生まれたのは否定できなかった。ほんとうにそうだったか?

「それならいいけど」
 里琴はたちあがり、一有の指の隙間からコピーボタンを押した。
「得意なことに取り組んでるアルファは周りを置き去りにしてることに気づかない。だから苦手なこともさせないと」
「苦手って……」
「苦手なことやってるキョウ、可愛いだろ?」
「カワイイ?」
 里琴はいたずらっぽく笑った。
「うん、可愛い。歌会で困った顔してるのって、ほんと可愛いんだよ」
 一有はぼそぼそとつぶやいた。

「俺はそんなの、みたことないですよ。短歌のことなんかずっと知らなかったですし」
「イチウ君に下手な歌を見せたくないんだ。ベータにはいい顔をしたがる。見栄があるからさ」

 チクリと棘を刺されたような気がしたが、年上のオメガはいつものように綺麗に微笑んでいるだけだった。この人はオメガだから――と一有はぼんやり考えた。たぶんそのせいで叶のちがう側面を知っているのだ。自分ベータには見せない顔を。

「アルファにはどうしてもそんなところがある。そこが僕には可愛い。数年ぶりに会ったけど、やっぱり好きだと思った」

 言葉は自然に里琴の口から吐き出され、また一有を刺した。一有は黙ってコピー機の蓋をあけ、雑誌をめくり、セットしなおした。できるだけさりげなく訊ねた。

「リコさん、キョウとつきあってるんですか?」
 コピー機が唸り、複写された紙が吐きだされる。里琴の声は穏やかだ。
「どうして知りたいの?」
「キョウはぜんぜんそんな話をしないから」
「親友なのに?」

 一有は黙った。訊ねなければよかったと思った。どうせ関係ないのだから。
 その時まさに話題にしていた人物があらわれて、一有も里琴も同時にびくっとした。
「イチウ、遅いけど大丈夫――リコ」
「キョウ!」
 叶は面食らった表情になった。
「どうしたんだ?」
 一有は雑誌とコピー用紙をまとめて鞄に押しこんだ。
「べつに」
「キョウの秘密主義がイチウ君に負担かけてるって話、してただけ」
「秘密主義?」
「俺はもう行く。教授に会わないと」
「イチウ」
「急ぐんだ」

 一有は鞄を腕にかかえて建物を出た。胸の奥がおかしなくらい動悸をうち、ほんとうに刺されたような痛みを感じた。歩きながら、里琴に嫉妬するなんて馬鹿げていると自分にいいきかせた。里琴は叶が好きなんだし、叶だって里琴が好きなのかもしれない。たぶんそうなのだろう。

 アルファが幼馴染のオメガをつがいにするのはよくある話だ。つがいだの結婚だの、そんなのは自分には関係ない。俺が痛みを感じる必要はない。

 一有はキャンパスをずんずん歩き、就職課に寄ってキャリア相談を申し込んだ。ついでに、まだ空きがあるという週末の就職セミナーと合同説明会にも申し込んだ。



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