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本編

22.凧が飛ぶ午後(前編)

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 壁の上方にかけられた大型液晶にカラーやモノクロの写真があらわれては消える。外国の街を背景に撮られた印象的なショット。抱きあって再会を喜んでいる男女のそばで犬が首をかしげていたり、ショーウィンドウに映った老人の顔の接写、道端に転がるボール、かしこまってドレスをつまみ、見上げている幼女など。
 クレジットには「葉月」とある。佐枝さんの実の親だ。

「ランチはいいの? 二時までだよ」
 声に振り向くと、CAFE NUITカフェ ニュイのマスターが柔らかく微笑んでいる。カフェラテを置くと「キノネの頃のメニューも作ってるよ」といった。
 そういえば、彼が以前いたカフェ・キノネのランチは絶品だったのに、たべるんぽにレビューを書いていなかった。

「このあとギャラリーで待ち合わせなんですよ。ランチは次回で」
「そう。ゼロが前にキノネのランチを喜んでたっていってたからさ」
「すごく美味しかったです。あの店はどうなっているんですか?」
「今はギャラリーやライブ利用、撮影会用の貸切がメインになってるよ。少し改装したんだ。喫茶の営業はイベントの時だけで、結婚式の二次会はケータリングを使っているから、僕の出番はもうなし」

 マスターは眼をきょろっとさせ、そうするとなんだか可愛くてひょうきんな表情になる。この人は他人に気を許させるのがうまいな、と僕は思う。

「写真展、見た? どう?」
「良かったです。瞬間的にというか、ふりむきざまに撮ったような写真が多い気がしました」
「そうだね。でも、たまたま撮れたのか作りこんだのかわからないのもあるよね? 気に入ったならゼロも喜ぶよ。こんなにたくさんの写真があったなんて知らなかったらしいから」
「そうなんですか?」
「長いこと行方不明だった藤野谷家の人が保管していたんだって」

 写真を撮った「葉月」と藤野谷家の関わりについては、僕もマスコミの報道を読んでいた。ということは、写真を持っていたのは葉月が最初に結婚した藤野谷家の長男だろうか? でもマスコミ報道では、葉月はその長男から逃げて、佐枝さんのもうひとりの父親と外国へ駆け落ちしたのではなかったか。
「ゼロのお父さんが亡くなったときに一緒にいたらしいんだ」

 僕の疑問を見てとったかのようにマスターは説明を加えた。いつもの通り佐枝さんのことを「ゼロ」と呼ぶ。
「藤野谷家と縁を切って外国で暮らしていたという話で、このギャラリーに写真が来たのも最初は藤野谷家と無関係のルートからでね。その後いろいろ事件が起きてからは、うちがTEN‐ZEROの発表会をやったせいで繋がったりもしたけど」

「なんだか運命的ですね」
「何がどう繋がっているかなんてわからないものだよ。ゼロと知り合って何年もたつけど、家族についてはたまに叔父さんの話を聞くくらいで、こんなにややこしい背景を持っていたなんて思わなかった」

 またカフェの扉が開く音がきこえ、じゃあね、とうなずいてマスターは厨房の方へに戻った。日曜の昼間なのでテーブル席は埋まっていて、僕が座る壁沿いのデスク席(読書用のライトがついている。ここはブックカフェでもある)も空席は少ない。
 僕は腕時計を眺め、そろそろかなと腰を浮かせた。店を出るときに画面に映された写真がちょうど切り替わった。夏空を背景に笑っている男。いい笑顔だ。このひとは何度も葉月の写真に登場する。佐枝さんの動画にも何度も同じ人物が登場したものだった。彼が匿名で発表していた頃のことで、僕をふくめたファンはその人物を「Dandy」というひどいコードネームで呼んでいたのだ。

 それにしても家族の話で最初に「叔父さん」が出るのか……と僕は別のことに注意を傾けていた。近さでいえば兄弟や親のようなものかもしれない。僕は長兄の隆光や何かと世話を焼いてくる姉の美晴を思い浮かべる。オメガの「弟」という立ち位置は僕も佐枝さんも変わらないわけだ。願わくば僕が峡さんにとってそんな「弟」でないことを。

 カフェからギャラリーのロビーへ出て、写真展の隣で開かれている新人作家の展示を眺めていると、うしろから近づく人の匂いにどきっとした。

「朋晴」
 僕はふりむいた。
「お帰りなさい。写真展、見ました?」
「ああ。好評みたいだな。芳名帳もいっぱいだし、よかった」

 峡さんは僕の隣に立った。長袖のシャツの袖を折って肘まであげている。
「好きな絵はある?」
「いえ。零さんの絵がこういうところに出たら欲しいですけど」
「そう?」
「もちろん。ファンとしては当然です」

 その時ふいに指を握られた。あろうことか僕はびくっと反応してしまい、峡さんははっとしたように手を離した。僕はあわてて彼の肘に指をかける。
「行きませんか?」
「もう見た?」
「峡さんこそ」

 彼は首を振り、僕らは外に出た。歩き出すと肘にかけた指が離れてしまい、僕は内心、何をしているこの馬鹿! と自分をののしりたい気分だった。どうしてこんなにぎこちなくなってしまうんだろう。パールグレイの車で峡さんのマンションに向かうあいだも会話は途切れがちだった。

 彼は金曜の深夜に帰国したのだが、戻ったという知らせに僕が、日曜にギャラリー・ルクスの写真展に行くつもりと返したらこんな話になったのだ。お土産に新しい調味料を買ったから食べてみる? という文字の下に、まったく読めない文字ラベルが貼られた瓶詰めが映っていた。僕はふたつ返事で承知した。
 それなのにいざ車に乗ると、心臓がどきどき脈打つのを感じてしまう。例によってシートベルトの金具をはめるのに手間取り、カチャカチャやっていると、峡さんがふとこちらをみる。

「すいません」
「いや。その……何か変えた?」
「え?」
「いや、香りが」
 峡さんは困ったような顔をして首を振った。
「ごめん。気にしないで」
「香水を変えたんですよ。わかります?」
 僕はあわてていった。

「TEN‐ZEROでオーダーしているんですけど、変えた方がいいといわれて。気になります?」
「まさか。いい匂いだ。渡来さんから何かあった?」
 香水のアドバイスはまさしくかの人によるものだが、僕は黙っておくことにした。
「ええ、何か――手を回してくれたらしくて。昌行からはその後何もありません」
「他に何かあるのか?」
「いえ、何も。静かになりましたよ」

 僕はまたあわてていったが、百パーセント正しいわけではなかった。というのも、三日前に今度は秀哉から連絡があったからだ。一度は不在着信で、その後またかかってきたので今度は出た。内容はいつものやりとりで、元気かとか、最近どうしているかという、その程度だ。昌行の話は出なかった。

 この一度なら「静か」で済んだのだが、困惑したのは翌日も電話がきたことだ。話の中身はどうということもなかった――といいたいところだが、驚いたのは彼が「たべるんぽ」のレビューを知っていたことだ。僕は一度も秀哉に食レポのことを話していないし、アカウントも教えていない。
 どうしてわかったのかと聞くと「文章が朋晴っぽいと思ったからカマをかけたんだ」と彼は笑った。たしかに秀哉にはそういう勘のいいところがある。とはいえ、なんとなく嫌な感じがした。今度一緒にどこかへ行こうとさりげなく誘われたが、僕は適当にかわして電話を切った。

 このことは峡さんにはいいたくなかった。秀哉とはずっと会っていないが、昌行のような決裂には至っていない。第一、これ以上峡さんに心配されるのは嫌だった。彼が佐枝さんを長年心配してきたのと同じように扱われるのも。



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