10 / 44
本編
10.遠くにある路地(前編)
しおりを挟む
僕は小走りにベンチの列を抜ける。離れたところから峡さんに向かって声をかけようとした時、隣に立つアルファの男が峡さんの腕に触れた。あの男はなんだ?
僕の足は一瞬止まったが、その時峡さんがこちらを見た。
「三波君」
彼の声は人混みの中でもちゃんと聞こえた。生身で会うのは佐枝さんの事件時以来だが、日頃のチャットでのやりとりのせいか、もっと頻繁に顔を合わせていたような気分だった。でも今日の彼はあの時のように疲れた表情はしておらず、僕はまずそのことに安心した。
「遅れてごめん」
「たった五分ですよ。遅刻に入りません」
モバイルで話したときと同じ、すこしかすれた響きだった。峡さんのスーツは艶感のある薄いグレーで、ライトブルーのシャツの首元から下がるタイはダークグレーだ。斜めに入れられた臙脂色のアクセントが効いている。
近づくとほのかに汗とほろ苦さのまじったシダーの香りが漂った。僕は無意識に近づこうとする自分にはっとして、抑える。犬じゃないんだから!
峡さんは僕より少し背が高いが、見上げるほどでもない。きれいに撫でつけた前髪のひと房だけが乱れてひたいにかかっているのがセクシー――いや、ダメだって。そんなことを考えるのをやめろ。
そうやって頭の中をめまぐるしく飛び交う考えにかかりきりだったせいで、上から降ってきた陽気な声に反応するのがすこし遅れた。
「佐枝さん、彼が待ち合わせの?」
「あ――そうです。今日はどうも、申し訳ない」
「まさか。俺も直帰にできて楽だった」
僕はあわてて峡さんの横に視線をやる。アルファの男が正面から僕をみた。見下ろすようにまっすぐに(不躾にといってもいい)こっちを見つめるのはアルファあるあるで、僕は反射的に睨みつけそうになって眼をそらす。
男はスーツのジャケットを片手に持ち、洒落たボタンデザインシャツにノータイ、ちらっと見えた足元はウイングチップの靴だ。うちのボスよりも年上だろうが峡さんよりは若造だ。僕は男に軽く会釈して、峡さんに「どっちの方向ですか?」と聞く。
「あっちなんだが――」
峡さんは手を軽くあげて公園の向こうを指しながら、すこし困ったように目尻を下げた。隣のアルファを見上げて「真壁さん、今日はどうも――」といいかけたところを、くだんの男が無邪気な声で遮る。
「佐枝さん、もう行きます?」
「何か?」
「せっかくお会いしたから、待ち人に紹介してもらえないかなって。だめですか?」
「ああ――そうですね……」
なんだこいつ。
屈託ないふりで自分の好きなように物事を運ぼうとするアルファの雰囲気に僕はいらついたが、おとなしく黙っていた。峡さんにそんな態度を見せるわけにもいかない。峡さんは困惑した表情で、それでもごく普通に僕とアルファを引き合わせた。
「上長の真壁さんだ。社用で二人で出ていたんだが、遅れそうだったので都合をつけてもらってね」
「上長はやめてくださいよ。佐枝さんが先輩ですから、さんづけで呼ばれるのも慣れませんよ。真壁英輔です」
真壁は爽やかな笑顔をみせる。
「俺は昔、佐枝さんが大学で研修していた頃に学生だったんです」
「それがいまやこちらを引き抜く立場だからな」
峡さんはかすかに肩をすくめた。アルファあるあるだな、とまた僕は思った。彼らの方が出世が早いのはトップダウンが得意なタイプが多いからだ。
「彼は三波朋晴君。甥と仲がよくて」
「三波です」
僕は真壁と眼をあわせた。真壁の喉仏が下がって、上がった。
「よく、モデルかタレントかって聞かれませんか?」
真壁の問いかけに僕は思わず笑った。
「ただの会社員です」
「三波君はブロガーでね。グルメサイトでとても楽しいレビューを書く人です」
峡さんはふと眉をあげた。「ごめん、話してよかったかな」
「かまいませんよ」
「それで今日はデートなんですか、お二人?」
そう真壁がいった。
からかうような響きがあった。峡さんがベータだから? それとも歳が離れているから? ムッとして口をひらきかけたそのとき、峡さんから緊張の匂いがするどく立ち上がった。うかがうような、さぐるような視線が僕を見た。僕としては冗談のように「もちろんデートですよね」といいたかった。実際ハウスでアルファと戯れるときなら、この程度は社交辞令だ。でも峡さんはどうだろうか。冗談でも嫌かもしれない。
迷っている僕に、おいどうしたと内心がガミガミ小言をいう。いつもはうるさいくらい喋るキャラのくせに、何をいい子ぶってるんだ。
もたもたしているうちに峡さんが先を越した。
「いいや。今日は最近甥が世話になっているお礼に『たべるんぽ』の食レポ取材を手伝うんですよ。私が気に入っている店を紹介するんです」
「そうなんですか」
真壁の声は呑気な調子だったが、視線がまた僕に降りてくる。僕はまずいと直感した。これは予防線を張って逃げなくてはいけないパターンだ――なのに僕の反応はまた少し遅く、真壁は先を越すようにさらりという。
「だったら俺も混ざっていいですか? 報告もすんだし、もう帰るだけだから」
「え?」
峡さんの声がすこし高くなる。真壁は彼の困惑した視線を追い、僕の方へ顔を向ける。
「もちろんどうしても駄目だというのなら引き下がりますが。どうかな?」
峡さんは首を振った。
「いや、真壁さん。今日は――」
「佐枝さんの歓迎会もまだできてませんし。デートなら邪魔するわけにもいかないけど、そうでないなら。三波君はどう?」
真壁はいきなり僕に話を振る。引き下がるつもりなど微塵も感じられない、けろっとした声だ。
「俺は邪魔ものかな?」
そんな尋ねかたがあるか、と返したくなるのを僕は反射的に抑える。このアルファめ。でも峡さんからまた焦りと途惑いの気配が漂ってきて(たぶん彼の汗の匂いだ)僕はどうしたものかと思案する。
真壁は十中八九、僕に興味があるのだが(峡さんに興味があるのならもっとまずいが)どっちにせよこの男をうまくあしらわないと、あとあと峡さんが嫌な気分にさせられるか、面倒な立場になるかもしれない。彼が峡さんの上司で、しかもさっきの話からすると峡さんの転職――引き抜きにも関わっているのならなおのこと。
峡さんの微妙な仕草や困惑の匂いが気になってたまらなかった。それにしても、ベータとアルファのあいだに緊張を感じると反射的にどうにかしなければと思ってしまうのはオメガの本能なのだろうか。まあ、そんなものが本当にあるとして。
急に僕は投げやりな気持ちになった。風船がしぼむように高揚が消滅していく。
「今日は峡さんに取材に付き合ってくれとお願いしたんですよ」
「ああ、そういってたね」
「普通に食事を楽しむ感じにはならないかもしれませんけど、いいんですか?」
「もちろん」
真壁の口調はあっけらかんとしたものだった。
「佐枝さん、どうです?」
三人で並んで噴水を回っていくとき、偶然かそうでないのか、峡さんの腕が一瞬触れた。横を向くと彼は僕をみつめて首をかすかに傾ける。唇が動いたが、声は水音にかき消された。
きらきらと明るいレストランの前を通りすぎて小さな路地へ入り、裏側の道を少し進んで右に曲がる。ぼんぼりのような丸い小さな灯りが置かれた玉砂利のとなりに引き戸の入り口。構えは小さく、白地に紺で大きな円を染めた暖簾が一枚下がっている。峡さんは慣れた手つきで引き戸を開けた。
「こんばんは」
「いらっしゃい」
入口付近にいた前掛けのおじさんが峡さんへ笑顔を向ける。
「おう、久しぶり。電話くれてたな。二人だっけ?」
「それが三人になった。大丈夫かな」
「奥のテーブルをとっておいたから大丈夫だろ。あ、きれいなお兄さん、足元に気をつけて」
間口が狭く、奥に長い店だ。だしの香りがふわっと漂って食欲をそそる。長いカウンターに座る客のほとんどはベータの男性だろうか? オメガの匂いはまったくしない。
勝手知ったる様子で歩く峡さんのあとからカウンターの横をすり抜けて奥へ進むと、グレーに紺で円を染め抜いた長い暖簾の向こうに清潔な白木のテーブルがあった。椅子は四つ。
峡さんは「予約席」の札を勝手に脇へ押しやって椅子を引いたが、僕はどこに座るか迷った。峡さんの顔を見たかったけれど、真壁の隣に座るのは嫌だ――などと僕が思い悩んでいた一方で、他のふたりが何を考えていたのかはわからない。
結局三人で三方に分かれて座ると、僕は小型カメラで壁のお品書きを撮影した。
正直にいえば、噴水からここまで来る間に僕はとっくに開き直っていたのだった。こうなったらものすごく気合いの入ったレビューを書いてやる、出るときは店主に表の暖簾を撮影していいかたずねよう、などと心の中で復唱していた。
食事は美味しかった。僕は日本酒や焼酎の銘柄リストを横目に生ビール一杯だけで我慢することにして(その後一杯追加されたが)そのかわり料理を奮発する。峡さんと真壁は二杯目から日本酒に変えた。
魚が美味しいという峡さんの話は大当たりだった。最初は雰囲気もぎこちなく、僕らは料理が来るたびに写真を撮り、味を見て、話す(食べ物の話しかしない)を繰り返していたが、ふと気がつくと僕は、最近峡さんとチャットで交わしているような会話をそのままこの席でも展開していた。
「何年も前から不思議に思ってたんですが、天ぷらのサクサク感は究極的には職人の腕がモノをいうのかコロモの配合がモノをいうのか、どっちなんですか? ああいや、僕が聞きたいのは、最終的に誰が揚げてもサクサクの天ぷらができるコロモの作り方、方法、やり方が存在するのか、それとも微細で名人的な調整がないと無理なのかって話なんですが」
「レシピはあると思うが――どうして究極なんて知りたいの?」
峡さんはすでに僕より二杯は多く飲んでいて、当初の緊張はゆるんでいた。実際、酒とうまい飯は偉大だ。
「それはですね――僕がまだ学生だった頃のことですが、バイト先のすぐ隣にうどん屋ができたんです」
「ずいぶんさかのぼるね」
真壁が茶々を入れてくるのを僕は無視する。
「どこにでもあるセルフうどん屋なんですけど」
僕は讃岐うどんブームを全国に広げたチェーンの名を上げる。
「オープン記念で天ぷら割引券を配っていたのでエビ天を取ったら、これが信じられないくらいの美味しさで。コロモは薄くてサクサク、中はぷりぷり、天ぷら専門店じゃないかと思うくらい美味しくて、バイトの時はしばらく通いました」
「バイトって何?」
また真壁が口をはさんでくる。今度は無視できなかった。
「虫取りです」
「え?」
「ソフトハウスで雑用やってたんです。僕は一応理系で」
「あ、そうなんだ……」
「何やってたと思いました?」
「いやほら、学生のバイトなら接客とかさ。三波君可愛いし、ウエイターみたいなのでも人気あっただろうなって……」
僕は真壁の言葉を聞こえなかったことにした。
「それでそのうどん屋の天ぷらが、本当に感動的な天ぷらだったんで、結局エビだけでなく全種類試したんですが――二週間後に変わったんですよ! ぱたっと! 完全に!」
「どう変わったの?」
峡さんが聞いた。モバイルごしではない生の声が嬉しかった。
「ケーキみたいなぶ厚いコロモになったんですよ」
僕はため息をついた。
「――いや、いつものセルフうどんクオリティです。だから文句をいう筋合いではないんですが……でも一度美味い天ぷらを食べたら、またいつかそれが食べられるかもしれないって期待するんですよね。なのでその後もしばらく通いましたが、あのエビ天は帰ってきませんでした。僕の中ではまぼろしのエビ天事件になっています」
「まぼろしのエビ天ね」真壁が腕を組む。
「ワンコインもせずにあんな美味いエビ天うどんが食べられるなんて奇跡みたいだと思っていましたが、実際、一時の夢でした。これどういうことだと思います? オープン記念の間だけ別のもの出してたわけじゃないでしょう?」
膝下に暖かいものが触れた。僕はしゃべりながらちらっと足元を見た。峡さんのプレーントゥの靴先が僕の靴にカツンと当たり、あわてたようにひっこめられた。僕はわざと脚を伸ばした。膝がまた触れる。峡さんが顎をわずかに引き、ちらっと僕をみた。僕は軽く目配せした。峡さんの唇の端がすこし上がり、眸がいたずらっぽく光った気がした。僕はまた脚を動かす。スラックスごしに一瞬体温を感じるが、すぐ離れていく。
「三波君はどう考えているの?」と峡さんが聞いた。
「僕は神が降臨したと思っています」
ゴホっと真壁が咳をした。僕は無視した。
「あのチェーンには天ぷらの神様みたいな従業員がいて、開店直後だけ応援に来ていたのかなと。チェーンだから素材も調理もマニュアル化されているはずですよね。でも従業員でこれだけ違いが出るなら、やっぱり究極は職人の腕なのかなぁ……と」
「でも今は寿司もロボットが握る時代だからね」
「あれも実用化までは大変だったし、そもそも人間がどこで『美味しい』と感じているかというのは――」
「三波君の学生時代ってどんな感じだったの?」
いきなり真壁がたずね、僕は話の腰を折られた。
「どんな感じって?」
「楽しそうだなと思ってさ。いろいろ面白いことがあったんじゃない?」
「まさか。普通でしたよ」
言外に含まれたアルファとしてのほのめかしに僕はすこし苛立つ。
「普通なんてないさ。みんな違って当たり前だろう? 三波君はオメガだからなおさら」
「真壁さんみたいなアルファとはそこそこ楽しくやりましたよ」
僕は早口でいった。
「しょせん学生の遊びだし、飽きますけどね。アルファってほら、オメガ相手だと深く考えない人多いでしょ? つまらないんですよ」
「キツイこというなぁ。じゃあ」
いきなり真壁の前に銘柄リストが差し出された。峡さんだ。
「真壁さん、お酒なくなってますよ。この店、蔵元と直接取引しているから、かなり珍しい地酒もあるんです。これちょっと試してみませんかね……」
僕は生ビールを飲み干すとトイレへ立った。
僕の足は一瞬止まったが、その時峡さんがこちらを見た。
「三波君」
彼の声は人混みの中でもちゃんと聞こえた。生身で会うのは佐枝さんの事件時以来だが、日頃のチャットでのやりとりのせいか、もっと頻繁に顔を合わせていたような気分だった。でも今日の彼はあの時のように疲れた表情はしておらず、僕はまずそのことに安心した。
「遅れてごめん」
「たった五分ですよ。遅刻に入りません」
モバイルで話したときと同じ、すこしかすれた響きだった。峡さんのスーツは艶感のある薄いグレーで、ライトブルーのシャツの首元から下がるタイはダークグレーだ。斜めに入れられた臙脂色のアクセントが効いている。
近づくとほのかに汗とほろ苦さのまじったシダーの香りが漂った。僕は無意識に近づこうとする自分にはっとして、抑える。犬じゃないんだから!
峡さんは僕より少し背が高いが、見上げるほどでもない。きれいに撫でつけた前髪のひと房だけが乱れてひたいにかかっているのがセクシー――いや、ダメだって。そんなことを考えるのをやめろ。
そうやって頭の中をめまぐるしく飛び交う考えにかかりきりだったせいで、上から降ってきた陽気な声に反応するのがすこし遅れた。
「佐枝さん、彼が待ち合わせの?」
「あ――そうです。今日はどうも、申し訳ない」
「まさか。俺も直帰にできて楽だった」
僕はあわてて峡さんの横に視線をやる。アルファの男が正面から僕をみた。見下ろすようにまっすぐに(不躾にといってもいい)こっちを見つめるのはアルファあるあるで、僕は反射的に睨みつけそうになって眼をそらす。
男はスーツのジャケットを片手に持ち、洒落たボタンデザインシャツにノータイ、ちらっと見えた足元はウイングチップの靴だ。うちのボスよりも年上だろうが峡さんよりは若造だ。僕は男に軽く会釈して、峡さんに「どっちの方向ですか?」と聞く。
「あっちなんだが――」
峡さんは手を軽くあげて公園の向こうを指しながら、すこし困ったように目尻を下げた。隣のアルファを見上げて「真壁さん、今日はどうも――」といいかけたところを、くだんの男が無邪気な声で遮る。
「佐枝さん、もう行きます?」
「何か?」
「せっかくお会いしたから、待ち人に紹介してもらえないかなって。だめですか?」
「ああ――そうですね……」
なんだこいつ。
屈託ないふりで自分の好きなように物事を運ぼうとするアルファの雰囲気に僕はいらついたが、おとなしく黙っていた。峡さんにそんな態度を見せるわけにもいかない。峡さんは困惑した表情で、それでもごく普通に僕とアルファを引き合わせた。
「上長の真壁さんだ。社用で二人で出ていたんだが、遅れそうだったので都合をつけてもらってね」
「上長はやめてくださいよ。佐枝さんが先輩ですから、さんづけで呼ばれるのも慣れませんよ。真壁英輔です」
真壁は爽やかな笑顔をみせる。
「俺は昔、佐枝さんが大学で研修していた頃に学生だったんです」
「それがいまやこちらを引き抜く立場だからな」
峡さんはかすかに肩をすくめた。アルファあるあるだな、とまた僕は思った。彼らの方が出世が早いのはトップダウンが得意なタイプが多いからだ。
「彼は三波朋晴君。甥と仲がよくて」
「三波です」
僕は真壁と眼をあわせた。真壁の喉仏が下がって、上がった。
「よく、モデルかタレントかって聞かれませんか?」
真壁の問いかけに僕は思わず笑った。
「ただの会社員です」
「三波君はブロガーでね。グルメサイトでとても楽しいレビューを書く人です」
峡さんはふと眉をあげた。「ごめん、話してよかったかな」
「かまいませんよ」
「それで今日はデートなんですか、お二人?」
そう真壁がいった。
からかうような響きがあった。峡さんがベータだから? それとも歳が離れているから? ムッとして口をひらきかけたそのとき、峡さんから緊張の匂いがするどく立ち上がった。うかがうような、さぐるような視線が僕を見た。僕としては冗談のように「もちろんデートですよね」といいたかった。実際ハウスでアルファと戯れるときなら、この程度は社交辞令だ。でも峡さんはどうだろうか。冗談でも嫌かもしれない。
迷っている僕に、おいどうしたと内心がガミガミ小言をいう。いつもはうるさいくらい喋るキャラのくせに、何をいい子ぶってるんだ。
もたもたしているうちに峡さんが先を越した。
「いいや。今日は最近甥が世話になっているお礼に『たべるんぽ』の食レポ取材を手伝うんですよ。私が気に入っている店を紹介するんです」
「そうなんですか」
真壁の声は呑気な調子だったが、視線がまた僕に降りてくる。僕はまずいと直感した。これは予防線を張って逃げなくてはいけないパターンだ――なのに僕の反応はまた少し遅く、真壁は先を越すようにさらりという。
「だったら俺も混ざっていいですか? 報告もすんだし、もう帰るだけだから」
「え?」
峡さんの声がすこし高くなる。真壁は彼の困惑した視線を追い、僕の方へ顔を向ける。
「もちろんどうしても駄目だというのなら引き下がりますが。どうかな?」
峡さんは首を振った。
「いや、真壁さん。今日は――」
「佐枝さんの歓迎会もまだできてませんし。デートなら邪魔するわけにもいかないけど、そうでないなら。三波君はどう?」
真壁はいきなり僕に話を振る。引き下がるつもりなど微塵も感じられない、けろっとした声だ。
「俺は邪魔ものかな?」
そんな尋ねかたがあるか、と返したくなるのを僕は反射的に抑える。このアルファめ。でも峡さんからまた焦りと途惑いの気配が漂ってきて(たぶん彼の汗の匂いだ)僕はどうしたものかと思案する。
真壁は十中八九、僕に興味があるのだが(峡さんに興味があるのならもっとまずいが)どっちにせよこの男をうまくあしらわないと、あとあと峡さんが嫌な気分にさせられるか、面倒な立場になるかもしれない。彼が峡さんの上司で、しかもさっきの話からすると峡さんの転職――引き抜きにも関わっているのならなおのこと。
峡さんの微妙な仕草や困惑の匂いが気になってたまらなかった。それにしても、ベータとアルファのあいだに緊張を感じると反射的にどうにかしなければと思ってしまうのはオメガの本能なのだろうか。まあ、そんなものが本当にあるとして。
急に僕は投げやりな気持ちになった。風船がしぼむように高揚が消滅していく。
「今日は峡さんに取材に付き合ってくれとお願いしたんですよ」
「ああ、そういってたね」
「普通に食事を楽しむ感じにはならないかもしれませんけど、いいんですか?」
「もちろん」
真壁の口調はあっけらかんとしたものだった。
「佐枝さん、どうです?」
三人で並んで噴水を回っていくとき、偶然かそうでないのか、峡さんの腕が一瞬触れた。横を向くと彼は僕をみつめて首をかすかに傾ける。唇が動いたが、声は水音にかき消された。
きらきらと明るいレストランの前を通りすぎて小さな路地へ入り、裏側の道を少し進んで右に曲がる。ぼんぼりのような丸い小さな灯りが置かれた玉砂利のとなりに引き戸の入り口。構えは小さく、白地に紺で大きな円を染めた暖簾が一枚下がっている。峡さんは慣れた手つきで引き戸を開けた。
「こんばんは」
「いらっしゃい」
入口付近にいた前掛けのおじさんが峡さんへ笑顔を向ける。
「おう、久しぶり。電話くれてたな。二人だっけ?」
「それが三人になった。大丈夫かな」
「奥のテーブルをとっておいたから大丈夫だろ。あ、きれいなお兄さん、足元に気をつけて」
間口が狭く、奥に長い店だ。だしの香りがふわっと漂って食欲をそそる。長いカウンターに座る客のほとんどはベータの男性だろうか? オメガの匂いはまったくしない。
勝手知ったる様子で歩く峡さんのあとからカウンターの横をすり抜けて奥へ進むと、グレーに紺で円を染め抜いた長い暖簾の向こうに清潔な白木のテーブルがあった。椅子は四つ。
峡さんは「予約席」の札を勝手に脇へ押しやって椅子を引いたが、僕はどこに座るか迷った。峡さんの顔を見たかったけれど、真壁の隣に座るのは嫌だ――などと僕が思い悩んでいた一方で、他のふたりが何を考えていたのかはわからない。
結局三人で三方に分かれて座ると、僕は小型カメラで壁のお品書きを撮影した。
正直にいえば、噴水からここまで来る間に僕はとっくに開き直っていたのだった。こうなったらものすごく気合いの入ったレビューを書いてやる、出るときは店主に表の暖簾を撮影していいかたずねよう、などと心の中で復唱していた。
食事は美味しかった。僕は日本酒や焼酎の銘柄リストを横目に生ビール一杯だけで我慢することにして(その後一杯追加されたが)そのかわり料理を奮発する。峡さんと真壁は二杯目から日本酒に変えた。
魚が美味しいという峡さんの話は大当たりだった。最初は雰囲気もぎこちなく、僕らは料理が来るたびに写真を撮り、味を見て、話す(食べ物の話しかしない)を繰り返していたが、ふと気がつくと僕は、最近峡さんとチャットで交わしているような会話をそのままこの席でも展開していた。
「何年も前から不思議に思ってたんですが、天ぷらのサクサク感は究極的には職人の腕がモノをいうのかコロモの配合がモノをいうのか、どっちなんですか? ああいや、僕が聞きたいのは、最終的に誰が揚げてもサクサクの天ぷらができるコロモの作り方、方法、やり方が存在するのか、それとも微細で名人的な調整がないと無理なのかって話なんですが」
「レシピはあると思うが――どうして究極なんて知りたいの?」
峡さんはすでに僕より二杯は多く飲んでいて、当初の緊張はゆるんでいた。実際、酒とうまい飯は偉大だ。
「それはですね――僕がまだ学生だった頃のことですが、バイト先のすぐ隣にうどん屋ができたんです」
「ずいぶんさかのぼるね」
真壁が茶々を入れてくるのを僕は無視する。
「どこにでもあるセルフうどん屋なんですけど」
僕は讃岐うどんブームを全国に広げたチェーンの名を上げる。
「オープン記念で天ぷら割引券を配っていたのでエビ天を取ったら、これが信じられないくらいの美味しさで。コロモは薄くてサクサク、中はぷりぷり、天ぷら専門店じゃないかと思うくらい美味しくて、バイトの時はしばらく通いました」
「バイトって何?」
また真壁が口をはさんでくる。今度は無視できなかった。
「虫取りです」
「え?」
「ソフトハウスで雑用やってたんです。僕は一応理系で」
「あ、そうなんだ……」
「何やってたと思いました?」
「いやほら、学生のバイトなら接客とかさ。三波君可愛いし、ウエイターみたいなのでも人気あっただろうなって……」
僕は真壁の言葉を聞こえなかったことにした。
「それでそのうどん屋の天ぷらが、本当に感動的な天ぷらだったんで、結局エビだけでなく全種類試したんですが――二週間後に変わったんですよ! ぱたっと! 完全に!」
「どう変わったの?」
峡さんが聞いた。モバイルごしではない生の声が嬉しかった。
「ケーキみたいなぶ厚いコロモになったんですよ」
僕はため息をついた。
「――いや、いつものセルフうどんクオリティです。だから文句をいう筋合いではないんですが……でも一度美味い天ぷらを食べたら、またいつかそれが食べられるかもしれないって期待するんですよね。なのでその後もしばらく通いましたが、あのエビ天は帰ってきませんでした。僕の中ではまぼろしのエビ天事件になっています」
「まぼろしのエビ天ね」真壁が腕を組む。
「ワンコインもせずにあんな美味いエビ天うどんが食べられるなんて奇跡みたいだと思っていましたが、実際、一時の夢でした。これどういうことだと思います? オープン記念の間だけ別のもの出してたわけじゃないでしょう?」
膝下に暖かいものが触れた。僕はしゃべりながらちらっと足元を見た。峡さんのプレーントゥの靴先が僕の靴にカツンと当たり、あわてたようにひっこめられた。僕はわざと脚を伸ばした。膝がまた触れる。峡さんが顎をわずかに引き、ちらっと僕をみた。僕は軽く目配せした。峡さんの唇の端がすこし上がり、眸がいたずらっぽく光った気がした。僕はまた脚を動かす。スラックスごしに一瞬体温を感じるが、すぐ離れていく。
「三波君はどう考えているの?」と峡さんが聞いた。
「僕は神が降臨したと思っています」
ゴホっと真壁が咳をした。僕は無視した。
「あのチェーンには天ぷらの神様みたいな従業員がいて、開店直後だけ応援に来ていたのかなと。チェーンだから素材も調理もマニュアル化されているはずですよね。でも従業員でこれだけ違いが出るなら、やっぱり究極は職人の腕なのかなぁ……と」
「でも今は寿司もロボットが握る時代だからね」
「あれも実用化までは大変だったし、そもそも人間がどこで『美味しい』と感じているかというのは――」
「三波君の学生時代ってどんな感じだったの?」
いきなり真壁がたずね、僕は話の腰を折られた。
「どんな感じって?」
「楽しそうだなと思ってさ。いろいろ面白いことがあったんじゃない?」
「まさか。普通でしたよ」
言外に含まれたアルファとしてのほのめかしに僕はすこし苛立つ。
「普通なんてないさ。みんな違って当たり前だろう? 三波君はオメガだからなおさら」
「真壁さんみたいなアルファとはそこそこ楽しくやりましたよ」
僕は早口でいった。
「しょせん学生の遊びだし、飽きますけどね。アルファってほら、オメガ相手だと深く考えない人多いでしょ? つまらないんですよ」
「キツイこというなぁ。じゃあ」
いきなり真壁の前に銘柄リストが差し出された。峡さんだ。
「真壁さん、お酒なくなってますよ。この店、蔵元と直接取引しているから、かなり珍しい地酒もあるんです。これちょっと試してみませんかね……」
僕は生ビールを飲み干すとトイレへ立った。
34
お気に入りに追加
155
あなたにおすすめの小説
虐げられ聖女(男)なので辺境に逃げたら溺愛系イケメン辺境伯が待ち構えていました【本編完結】(異世界恋愛オメガバース)
美咲アリス
BL
虐待を受けていたオメガ聖女のアレクシアは必死で辺境の地に逃げた。そこで出会ったのは逞しくてイケメンのアルファ辺境伯。「身バレしたら大変だ」と思ったアレクシアは芝居小屋で見た『悪役令息キャラ』の真似をしてみるが、どうやらそれが辺境伯の心を掴んでしまったようで、ものすごい溺愛がスタートしてしまう。けれども実は、辺境伯にはある考えがあるらしくて⋯⋯? オメガ聖女とアルファ辺境伯のキュンキュン異世界恋愛です、よろしくお願いします^_^ 本編完結しました、特別編を連載中です!
β様のコイビト【β×Ω】
むらくも
BL
α、β、Ωの生徒が同じだけ集められる少し特殊な全寮制の男子校。
その生徒会長を務める通称『β様』こと仁科儀冬弥は、Ωの後輩である行家春真とパートナー関係にある。
けれど少しパートナーの行動が少しおかしい。
そう思っていたある日、αの弟と密かに会っている姿を目撃してしまった。
抱いていたαと弟へのコンプレックスが同時に刺激され、少しずつ暴走を始めてしまい……。
βでなければ。αであれば。
無理矢理にでも繋ぎ止める術があったのに。
学園オメガバース(独自設定あり)
【αになれないβ×βに近いΩ】の盛大で人騒がせな痴話喧嘩の話。
※「芽吹く二人の出会いの話」でくっついた二人のお話です。
森の中の華 (オメガバース、α✕Ω、完結)
Oj
BL
オメガバースBLです。
受けが妊娠しますので、ご注意下さい。
コンセプトは『受けを妊娠させて吐くほど悩む攻め』です。
ちょっとヤンチャなアルファ攻め✕大人しく不憫なオメガ受けです。
アルファ兄弟のどちらが攻めになるかは作中お楽しみいただけたらと思いますが、第一話でわかってしまうと思います。
ハッピーエンドですが、そこまで受けが辛い目に合い続けます。
菊島 華 (きくしま はな) 受
両親がオメガのという珍しい出生。幼い頃から森之宮家で次期当主の妻となるべく育てられる。囲われています。
森之宮 健司 (もりのみや けんじ) 兄
森之宮家時期当主。品行方正、成績優秀。生徒会長をしていて学校内での信頼も厚いです。
森之宮 裕司 (もりのみや ゆうじ) 弟
森之宮家次期当主。兄ができすぎていたり、他にも色々あって腐っています。
健司と裕司は二卵性の双子です。
オメガバースという第二の性別がある世界でのお話です。
男女の他にアルファ、ベータ、オメガと性別があり、オメガは男性でも妊娠が可能です。
アルファとオメガは数が少なく、ほとんどの人がベータです。アルファは能力が高い人間が多く、オメガは妊娠に特化していて誘惑するためのフェロモンを出すため恐れられ卑下されています。
その地方で有名な企業の子息であるアルファの兄弟と、どちらかの妻となるため育てられたオメガの少年のお話です。
この作品では第二の性別は17歳頃を目安に判定されていきます。それまでは検査しても確定されないことが多い、という設定です。
また、第二の性別は親の性別が反映されます。アルファ同士の親からはアルファが、オメガ同士の親からはオメガが生まれます。
独自解釈している設定があります。
第二部にて息子達とその恋人達です。
長男 咲也 (さくや)
次男 伊吹 (いぶき)
三男 開斗 (かいと)
咲也の恋人 朝陽 (あさひ)
伊吹の恋人 幸四郎 (こうしろう)
開斗の恋人 アイ・ミイ
本編完結しています。
今後は短編を更新する予定です。
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
初心者オメガは執着アルファの腕のなか
深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。
オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。
オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。
穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。
成り行き番の溺愛生活
アオ
BL
タイトルそのままです
成り行きで番になってしまったら溺愛生活が待っていたというありきたりな話です
始めて投稿するので変なところが多々あると思いますがそこは勘弁してください
オメガバースで独自の設定があるかもです
27歳×16歳のカップルです
この小説の世界では法律上大丈夫です オメガバの世界だからね
それでもよければ読んでくださるとうれしいです
くまさんのマッサージ♡
はやしかわともえ
BL
ほのぼの日常。ちょっとえっちめ。
2024.03.06
閲覧、お気に入りありがとうございます。
m(_ _)m
もう一本書く予定です。時間が掛かりそうなのでお気に入りして頂けると便利かと思います。よろしくお願い致します。
2024.03.10
完結しました!読んで頂きありがとうございます。m(_ _)m
今月25日(3/25)のピクトスクエア様のwebイベントにてこの作品のスピンオフを頒布致します。詳細はまたお知らせ致します。
2024.03.19
https://pictsquare.net/skaojqhx7lcbwqxp8i5ul7eqkorx4foy
イベントページになります。
25日0時より開始です!
※補足
サークルスペースが確定いたしました。
一次創作2: え5
にて出展させていただいてます!
2024.10.28
11/1から開催されるwebイベントにて、新作スピンオフを書いています。改めてお知らせいたします。
2024.11.01
https://pictsquare.net/4g1gw20b5ptpi85w5fmm3rsw729ifyn2
本日22時より、イベントが開催されます。
よろしければ遊びに来てください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる