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本編

8.地上の隅で待つ

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 Saedakai:
 それじゃ昨日はどうしたの?

 Haru3WAVE:
 会社の裏に新しいカレー屋がオープンしたんですよ。サモサのようなスナックもテイクアウトできるので走って買いに行きました。


 僕は今日の昼に撮った写真を送信する。会社のカフェテリアに広げた「カレー弁当」ワンセット、ラッシーつき。テイクアウトランチの写真を撮る時はだいたい同じ場所で似たような構図で撮るようにしている。比較がしやすいためだ。

 片手でモバイルを握りつつアパートの鍵を開けると、湿った匂いがあふれだした。黄色い照明に狭い部屋が照らしだされる。気温はそれほど上がらないが、日中締め切っている部屋に夜もどってくると、不快指数は文句なく高い。僕は除湿器のスイッチを入れ、コンビニの袋をテーブルに置く。

 カーテンをあけると窓から大家さんの庭が見下ろせた。ここはオメガ専用のアパートで、斜面を利用して建てているから、一階の部屋も位置が少し高い。オメガの大家さんは別棟に住んでいて、庭には小さな池があり、金色とオレンジ色の鯉が三匹ほど泳いでいる。
 モバイルをみるともう返事が来ていた。


 Saedakai:
 走って買いに行くって?

 Haru3WAVE:
 エレベーター待ちで会社の建物を出入りするのに往復十分、店について順番待ちに見積もり五分かかるので、時間を稼ぐには会社から店までの所要時間をいかに少なくするかがポイントで。


 ちょっと間があって、子熊が玉の上で跳ねているスタンプが返ってきた。返事に困ったのかな、と僕は思いながら買い物の中身を取り出す。峡さんとのチャットで送られるスタンプはこの子熊のシリーズだけだが、彼はどんな顔をしてこれを選んでいるのだろうか。やたらと可愛いクマなのだ。僕はチャットでスタンプを使わない主義だったのに、峡さんとやり取りするうちにこのクマが気に入ってしまい、この前ついにインストールしてしまった。

 先日の僕の失態――あくまでも僕がひとりの空間でやってしまった失態――について、峡さんはむろんあずかり知らない。そして僕と峡さんはこのごろ、三日に一度くらいの頻度でモバイルチャットで会話している。話題は食べ物の話がほとんどだが、僕はものすごく、ものすごくほっとしていた。

 峡さんは料理が趣味というだけあって、返事が鷹尾とは一味ちがう。鷹尾はだいたい見た目重視で、おいしそうとかきれいとか通りいっぺんのことしかいってこないのだが(もちろんそんなコメントだってありがたいし、それに鷹尾にこんなことを思ってるなんて知られるのは少し怖い)峡さんは調理法に言及する。一度茹でてから炒めているのでどうとか、下味になんとかいうスパイスが入っているとか。


 Saedakai:
「たべるんぽ」の三波君の投稿、ついに全部読んでしまいました。ひとつ不思議なんだが、聞いていいかな?

 Haru3WAVE:
 なんですか?

 Saedakai:
 どうしてランチやテイクアウトばかりなんだい? 夕食レビューもきっと面白いと思う、三波君のレポなら。


 モバイルの画面の上で僕はとまどって指をとめた。どう返事をしたものだろう? 似たようなことはたまにレビューのコメントに書かれていた。そういうポリシーなんですと返せばいいのか。それとも少し踏みこんだことを書くべきか。たとえば夕食のレビューはいろいろと……ハードルが高いことについて。

 レビューしたくなるような店に僕ひとりでは入りづらかった。誰かと一緒に外食する時はたいていある種のデートか歓送迎会のようなイベントだから、レビュー用の写真なんか撮っていられないし、ひとりでいると鬱陶しい出来事も多かった。
 ひとりのオメガとみると必ず声をかけてくるアルファ(あれを礼儀だとでも思っているのだろうか)や、最初から連れがいるものと思いこんでかかる店の人、通りすがりに振り向いてじっと見てくるベータ――こんなのには慣れっこだが、顔のまわりに虫が飛んでいるのが当たり前だからといって、それを快適と思うわけじゃない。「たべるんぽ」の投稿はただの趣味なのだ。楽しくやれなければ意味がない。

 それに僕は「たべるんぽ」では自分がオメガだとは明かしていないから、ハウスの中にあるレストランについては書けなかった。たべるんぽを見る人の半分以上はベータなのだ。自分が入れない店のレビューなんか誰が読むだろう?


 Haru3WAVE:
 じゃあ今度、僕にレビュー用の「取材」をさせてくださいよ。峡さんのおススメに連れて行ってください。


 送信をタップしながら僕は緊張で息を飲んでいた。血がどくどくと脈打つのを聞きながら返事を待つ。まだ来ない。まだ。やめておけばよかった? いや、こんなによく食べ物の話をしているんだから、このくらい普通のつきあいの範囲だろう――悶々としながら僕はモバイルをみつめる。ああ、待てない。ビールを開けるか。


 Saedakai:
 わかった。どこがいいか、考えてみよう。


 やった! 内心で盛大な拍手を送りながら僕はビールのプルタブを引いた。心臓がぱくぱく跳ね上がる。


 Haru3WAVE:
 峡さんセレクトを楽しみに待ってます。

 Saedakai:
 最近職場が変わって予定が組みにくい。待たせてしまうかもしれないけど。

 Haru3WAVE:
 いつでもかまいませんよ。

 Saedakai:
 他のレビューのアイデアもあるの?

 Haru3WAVE:
 今考えているのは、テレビを置いてるラーメン屋とそうでないラーメン屋のちがいの話です。

 Saedakai:
 なるほど。面白そうだね。

 Haru3WAVE:
 前から温めていたネタなんです。


 峡さんとのやり取りは終始こんな感じで他愛なかったが、これだけでも心が軽くなって、最近の僕は毎日充実した気分だった。それに今日はデート(の予感のする)布石を敷けたのでなおさら気分がいい。
 その陽気な気分のせいだろう。食事を終えてパソコンのメールを開いたとき、視界に飛びこんできた未読のメールを僕はうっかりクリックしてしまった。件名は「三波朋晴様」ただこれだけ。送信者は……。

 僕は顔をしかめた。それは長いメールで、途中で何度かやめたいと思ったのに、結局最後まで読んでしまった。気がつくとビールの淡い酔いが完全に抜けている。僕はキーボードに指をかける。考えをまとめるのにしばらくかかった。

   *

 件名 Re:三波朋晴様
 From Tomoharu.Minami
 To Hokuto

 メールを読みました。僕にできることは何もないと思う。昔のことも今回のことも。もう連絡しないでください。三波

   *


 送信する前に、これまで通り無視しておくべきかもしれないと迷った。返事をするのは間違っているかもしれない。むこうが僕にかまうのに飽き、どうでもよくなって忘れるまで放置するべきなのかもしれない。

 でもこれは僕にとって厚い皮に刺さった棘のようなものだった。ふだんは忘れているのに、たまに存在を主張するかすかな痛みに、僕は飽き飽きしていた。
 たかがメール一本。僕は送信ボタンをクリックした。




 おわかりのように僕はテクノロジー信者としてつねにIT化時代を賛美している。インターネットのいいところは匂いがしないことで、画面越しにはアルファもオメガもわからない。たまにネットでもおまえの性がわかると豪語する電波はいるが、電波はどこに飛ぼうが電波なのだ。
 それに僕は「たべるんぽ」で自分の性別について何ひとつ語ったことがないのに、みんな勝手にベータだと思いこんでいる。佐枝さんが長い間ベータのふりをして生活できたのも、ネットがあればこそだろう。

 たまたまそんなことを考えていた夕方、社用のアドレスに突然、当の佐枝さんから連絡が届いた。今年の梅雨は晴れ間が多く、僕は湿った青色の空を眺めながら、今晩は峡さんとチャットできるだろうかとぼんやり夢想していた。彼と夕食の「取材」の話をしてから三日経っていた。

『ごめん、藤野谷に連絡をとりたい』
 なんだ? 僕は一瞬困惑したが、すぐに社内ネットワークを確認した。ボスのステータスは「不在」だった。至急外出のサインが光っている。

『佐枝さんどうしたんです? ボスは今日社内にいないんです。朝はいたんですが、急用で消えて』
 画面の文字は簡潔だった。
『わかった。いいよ』
「わかった」か。僕に連絡するということはあきらかに急ぎのはずだから「わかった」といってもわからないよなぁ。

『どうしました?』と僕は打ちこむ。
『モバイルがつながらないんだ』

 まったく。僕は内心ため息をついた。このふたり、一緒に暮らしているんじゃなかったのか? 峡さんが前にそういっていたはずだ。

 なんだかんだいっても僕と峡さんとのチャットには佐枝さんがよく登場していた。彼がいなければ僕らが知り合うこともなかったのだし、峡さんにとっては佐枝さんはとても近い家族――甥というより弟のような存在なのだから、当然の話ではある。

『なんですかそれ』僕は急いでタイピングする。
『心当たりのありそうなところへ聞いて、佐枝さんに連絡とるように伝言しますよ』
『それが俺、いまモバイルなくて』
『はい?』
『ギャラリー・ルクスに連絡をくれ』

 僕は呆れかえった。佐枝さんはかなり天然のケがあると思っていたが、いったい何をしているのか。ボスはよく平気だな。いやいや、とあわてて思い直す。
 連絡をとりたいというのは、だ。

 運命のつがいのくせにどうしてテレパシーが使えないんですか。思わずそういいたくなるのを僕は自制する。

『わかりました。とにかくボスに投げておきます』
『ありがとう』

 画面に残ったギャラリーの番号とアドレスをコピーし、緊急タグをつけてボスにつながるアドレスへ連絡を送った。モバイルにも数カ月ぶりにメッセージを送った。

 運命のつがいというのなら、神様も彼らにテレパシーやテレポーテーション程度の力を授けてくれればいいものを。またそんなことを思ったが、もちろんメッセージには書かなかった。

 それによく考えてみれば、そんなすごい力があれば「運命」なんてわざわざいうまでもない。超能力がなくても、摩訶不思議でありえない偶然によって、どうにかなるのが真の運命というものでは?

 まあいいや。僕は残りの仕事に集中しようとデスクに向き直る。彼らは彼ら、僕は僕だ。
 ベータとオメガの関係に運命なんてエクスキューズは存在しない。偶然はただの偶然で、それを必然に変えるには自分で行動するしかない。誘うことでも、待つことでも。



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