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第5章 七夕
5.蜘蛛の網
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一週間も休んだというのに、鏡にうつる顔はすっきりしているとはいえなかった。
七星は頬をぺちぺち叩き、笑顔をつくってみる。顔ぜんたいが腫れぼったいし、目つきはぼんやりして眠そうだ。何日もベッドでごろごろしていたのに、中途半端につづいたヒートのせいでろくに眠れた気がしなかった。
七月二十九日、土曜日。あいにくと外は雨。あと三十分でユーヤへ出勤しなければならないのに、景色が白く変わるほどの大雨が降っている。熱帯低気圧の影響らしいが、朝方から断続的に降ったりやんだりしているのだ。
七星は鏡をにらみながら何度目かの後悔をした。やっぱりヒートがはじまってすぐ、どこかの〈ハウス〉に飛びこんで、相手をしてくれるアルファを探せばよかったのかもしれない。そこまでの勇気はなくても、ハウス・デュマーに行ってもよかったのかも。
高級なハウスなら、ヒートのオメガがひとりでも快適に過ごせる設備が整っていると聞いたこともある。器具を自分で使うより、楽だったかも……。
七星は憂鬱な気分のまま洗面台の引き出しをながめた。
オメガのヒートはアルファに抱かれないと解消しない、というのは主としてベータが信じている都市伝説だ。昔はともかく、今の時代のオメガは十代のころ、最初のヒートがくるまえに、どうやってこの時期を過ごせばいいかを教わる。ディルドを使うのは恥ずかしいことではなく、欲望を処理する安全な方法だということもだ。
アルファとつがいになったあとは人それぞれだ。オモチャのたぐいを好まないアルファもいるし、逆にいろいろ試そうとする場合もある。彰は後者で、ヒートのあいだ七星をアナルプラグやディルドで焦らすのが好きだった。だから彰が死んだあとも、ヒートのときはそうしていた。今回もそうだ。
どんなセックスが好きなのかなんて、七星はこれまで考えたこともなかった。彰と一緒にいたときは彼が求めるようにするべきだと思いこんでいた。それにヒートの熱にうかされているときは、どんなセックスがいいのかなんてあまり考えられなくなる。
それなのに今回のヒートは何かが――何かがこれまでとちがっていた。淫猥な熱はいつもよりずっと長く七星のなかに留まって、何度自分で慰めても引いてくれない。おまけに目を閉じると伊吹の声や吐息の記憶がおしよせて、そのたびに股間がぐっしょり濡れた。
いや、ほんとうは自分に何が必要なのか、七星は本能でわかっていたのだ。でも最初からそれを認めるのはあまりにもうしろめたかった。二晩苦しんだあげく、七星はクロゼットに駆けこむと、伊吹のスーツを抱きしめて寝室に持ちこんだ。
――あれ、どうしたらいいんだろう。
つがいのアルファの匂いに包まれようとするのはオメガの本能だ。
もう、ぜったいに返せなくなってしまった。七星はそろりと洗濯機の横に目をやる。濡れたところは一応拭いたが、きっとしみになってしまうだろう。巣作りするみたいにくるまって、くしゃくしゃにしてしまったうえ、ところどころ爪でひっかいてしまった。
だからといってクリーニングに出すには恥ずかしすぎる。でも捨てられるかといえば――
七星はこれで何度目になるのかわからないため息をついた。
――無理にきまってる。
正気に戻った今はちゃんと思い出していた。伊吹さんにはつがいがいる。運命がどうとかいっても、それはただ体の相性の話でしかない。伊吹さんが友達――いや、〈ユーヤ〉のお客さんでいてくれるだけでも十分すぎるくらいだ。
七星は鏡に目をやり、もういちど自分の頬を叩いた。洗面台のドレッサーを開けてオーデコロンをふきかけると、Tシャツのえりをひっぱって胸もとの匂いをかぐ。大丈夫だ。ヒートはおわっている。あれをどうするかは……帰ってから考えよう。
リビングに戻るとつけっぱなしのテレビでアナウンサーが「熱中症に気をつけてください」とくりかえしていた。このあと天気は回復し、気温が急上昇するという。猛暑で熱せられた地面をすこしでも冷やしてくれたのなら、この雨も悪くないのかもしれない。
どしゃ降りの雨は玄関を出る直前にやみ、ユーヤについた時は青空がみえていた。日差しはたちまち熱暑を呼びこんだが、七星の気分はすこしましになっていた。
「大丈夫?」
声をひそめて祥子がたずねる。オメガのヒート休みは一般企業でも法定休暇になるが、そうと知っているのは魚居と祥子だけだ。魚居には直接連絡しているし、祥子には前日にそれと察せられていた。
「思ったより長引いちゃって」
「暑いせいかな? もしまだきつかったら、いってね」
「大丈夫ですよ」
一週間休んでいたあいだにカフェの中央の笹飾りの形が変わっている。天井に沿ってワイヤーがひろがり、笹の葉のあいだで短冊がひらひら揺れていた。七星の休みと入れちがいに学生アルバイトが数人ふえていた。みな美大生で、八月末まで交代で受付や雑用を手伝ってもらうことになっている。
最近の七星の主な仕事は、九月末のユーヤのクローズにあわせて発行する記念書籍の作成だった。七月中旬にも小冊子を作ったが、これはそれなりの厚さの本になる。企画立案や原稿依頼は魚居が早くから――まだユーヤのクローズを決定する前から――やっていたので、七星の担当は届いた原稿をチェックしたり、ユーヤの創設以来の関係者から短いコメントを集めたり、古いパンフレットやチラシを整理して年表を作ったりといった細かい作業だった。
できあがった冊子は関係者やメンバーズ、地元の図書館や大学に配られる。アート関係の出版物を引き受ける書店やミュージアムショップにも少しは並ぶはずだ。
「〈ユーヤ〉がなくなったあと、この本がいちばん最後までこの場所の記憶を残すものになるのかもしれない。そう考えればやりがいがあるだろう?」
この作業を七星に頼んだとき魚居はそんなことをいった。たしかにそうかもしれないが、七星はどこか納得がいかなかった。ユーヤの二十年分がたったこれだけになってしまうなんて、へんじゃないかと思ったのだ。
でも、この気分も、七月になってからずっと感じているさびしさの感覚がおよぼしたものかもしれない。
今日は夜に地下ホールで音楽とトークのイベントが予定されていたから、他のスタッフはそっちをやっていた。七星はトイレに立つとき以外、静かな事務所でこつこつと作業をすすめた。
夕方近くになって、装幀を頼んだデザイナーから、二十年前〈ユーヤ〉を立ち上げた頃の写真がないかと連絡があった。デジタル化した記録を参考資料として渡していたが、立ち上げ時の写真データは入っていないという。
紙の記録は一階の倉庫にある。七星はたちあがってのびをした。ブラインドのむこうの空は晴れわたっている。涼しい事務所でみているぶんにはいいが、どれほどの暑さになっていることか――そう思いながら事務所を出たら、カフェはいつもの土曜日より混んでいた。
例年、夏休みになると駅近くのカフェは週末人でいっぱいになるので、ユーヤが穴場だと知っている地元の人々がこぞって流れてくるのである。笹飾りの横には学生アルバイトが立って、願いごとの短冊を客のかわりにつるしてやっている。
倉庫は一階の奥にある。鍵をまわし、ドアをあけたとたん七星はしまった、と思った。
――ここ、空調ないんだっけ?
蛍光灯のスイッチをいれるとジジジ、と鳴った。積み上げられた段ボールと棚のあいだの狭い通路を奥までいく。高いところに小さなエアコンがあったが、リモコンがみあたらない。
リモコンを探すのと写真を探すのと、どっちが早いか。
数秒で七星はリモコンをあきらめた。昔のパンフレットもここで探したので、どこにあるのかだいたいの見当はつく。
踏み台にのぼり、棚のいちばん上の年号が書かれたファイルケースをひとつひとつ確認して、やっと古いネガと写真がぎっしり詰まった箱をみつけた。みかん箱程度の大きさだが、かなり重い。中身をばらまかないよう気をつけながら踏み台をおり、倉庫の外に持ち出したときには汗びっしょりだった。でも、まだ三十分も経っていない。
一階の通路は涼しかったのでほっとした。誰もいないのをいいことに、七星は体にはりついたTシャツをつまみ、手であおいで涼しい空気を送った――が、入口のドアが押し開けられたとたん、はっと硬直した。
この香り――伊吹、さん――
七星はあわててTシャツの裾をひっぱった。はちあわせしたわけでもなく、入口と七星がいる通路の奥は何メートルも離れているのに、向こうもまっすぐ七星をみて、目があった。だが伊吹の口がひらくまえに七星は頭を軽くさげ、床においた箱を両手でかかえた。二階の事務所へ運ばなければ。
今日は伊吹の顔をみたくなかった。この数日ひとりでしていたことを思い出してしまう――いや、もう思い浮かべてしまった。それだけで恥ずかしくて、足が震えそうになる。
いそいで階段をのぼろうとして、甘い香りに頭がくらっとした。マンションにあるスーツの残り香とはくらべものにならない、強い香りだ。
「手伝おうか」
背中で声がした。七星はしかたなくふりむいた。伊吹は階段の下にいる。土曜日なのにワイシャツにネクタイ姿だ。マンションに残してきたスーツがまた七星の頭にうかんだ。
「いえ。大丈夫ですから」
なんとか答えて、七星はまた階段を上った。
「七星君、でも……重そうだし」
伊吹が階段をのぼってくる。七星にむかってのびた手で指輪が光った。思わず七星は語気を強めた。
「いいから、伊吹さんはかまわないでください!」
伊吹がびくっとして手をひっこめ、とたんに七星は後悔した。僕は何をやってるんだ。頭のなかは自己嫌悪でいっぱいで、箱を抱えている腕はしびれかけているのに、伊吹の周囲にただよう香りはたまらなく――甘くて……
「あ、あの……」
「いや、私がよけいなことをいった。すまない」
伊吹が穏やかな声でいった。七星は箱を抱えなおし、いそいで段を上った。伊吹の香りが遠くなったのに気づいてふりむくと、長身のアルファは階段をおりてしまっていた。
「一週間ぶりだね」
カフェでぼんやりしていると、ひょろりとした影がすぐ横におちた。ついさっきイベントがはじまったので、カフェで開始を待っていた客はみな地下ホールに行ったはずだ。七星は顔をあげた。
「安西さん」
細身のベータはまじめな目つきで七星をみつめた。
「風邪でもひいてた? 今週ずっといなかったよね」
「ちょっと調子が悪くて。でも今日は大丈夫ですよ」
「そう? それならよかったけど」
安西はうっすら微笑んだ。頬にちいさなえくぼができる。
「座っていいかな? 邪魔だったらやめとくけど」
「いえ――まさか」
「ありがとう」
安西は横の椅子をひくと、長い足を折りたたむようにして腰をおろした。
「あの、イベント見に来たんじゃないんですか? はじまったばかりですよ」
「そう思った?」
「だってユーヤに来る理由、他にあります?」
「あるよ。七星君と話をしたいとか」
「はは、何いってんですか」
「え、嘘だと思ってる? 連絡先をきいてなかったの、本気で後悔してたところだよ」
「安西さん――」
どう続ければいいかわからなくなり、七星は黙った。
安西徹は七日のオープニングのとき、春日武流に紹介されたベータである。七日はあれから三人で駅の近くの居酒屋へ行って、それから小さなカフェバーにも行った。
七星はその手の店に入ったことが数えるほどしかなかったが、安西はアルコールに弱い七星を最後まで気遣ってくれて、豪放に飲んで酔っぱらう武流とはぜんぜんちがった。
でも、そのときは感じのいい人だと思っただけだ。安西はユーヤの窓からみえる鉄橋をくぐって、すこし歩いたところに住んでいると話した。引っ越してきたばかりだったから、近くにいいカフェがあってよかったといわれ、七星はどうぞ通ってくださいと返した。べつに深い意味はない。
でもそれからというもの、安西は毎日のようにカフェに立ち寄って、七星をみると話しかけてきた。安西と話すのは気楽でよかった。伊吹はそこにいるだけで七星に影響を――さまざまな意味で――あたえてしまうのとは正反対で、何も気にならないのだ。
「――ああ、ごめんごめん。友達でいいんだ。そんなにかまえないでよ」
固まってしまった七星をみて、安西は困ったような笑顔をうかべる。
「あのさ、今ってまだ仕事中なの?」
「いえ。僕はイベントの担当じゃないから、帰ってもいいんですけど……」
「じゃあ一緒にごはん食べない? 俺、駅前の店を開拓してるところなんだ」
安西の指がスマホの上をすばやく動く。アプリの画面がいくつか開いては閉じた。
「ほら、こことか」
「……美味しそうですね」
「だよね。どう?」
七星はうなずいた。
「いいかも。あ、今日はちゃんと自分のぶん、払います」
七星は頬をぺちぺち叩き、笑顔をつくってみる。顔ぜんたいが腫れぼったいし、目つきはぼんやりして眠そうだ。何日もベッドでごろごろしていたのに、中途半端につづいたヒートのせいでろくに眠れた気がしなかった。
七月二十九日、土曜日。あいにくと外は雨。あと三十分でユーヤへ出勤しなければならないのに、景色が白く変わるほどの大雨が降っている。熱帯低気圧の影響らしいが、朝方から断続的に降ったりやんだりしているのだ。
七星は鏡をにらみながら何度目かの後悔をした。やっぱりヒートがはじまってすぐ、どこかの〈ハウス〉に飛びこんで、相手をしてくれるアルファを探せばよかったのかもしれない。そこまでの勇気はなくても、ハウス・デュマーに行ってもよかったのかも。
高級なハウスなら、ヒートのオメガがひとりでも快適に過ごせる設備が整っていると聞いたこともある。器具を自分で使うより、楽だったかも……。
七星は憂鬱な気分のまま洗面台の引き出しをながめた。
オメガのヒートはアルファに抱かれないと解消しない、というのは主としてベータが信じている都市伝説だ。昔はともかく、今の時代のオメガは十代のころ、最初のヒートがくるまえに、どうやってこの時期を過ごせばいいかを教わる。ディルドを使うのは恥ずかしいことではなく、欲望を処理する安全な方法だということもだ。
アルファとつがいになったあとは人それぞれだ。オモチャのたぐいを好まないアルファもいるし、逆にいろいろ試そうとする場合もある。彰は後者で、ヒートのあいだ七星をアナルプラグやディルドで焦らすのが好きだった。だから彰が死んだあとも、ヒートのときはそうしていた。今回もそうだ。
どんなセックスが好きなのかなんて、七星はこれまで考えたこともなかった。彰と一緒にいたときは彼が求めるようにするべきだと思いこんでいた。それにヒートの熱にうかされているときは、どんなセックスがいいのかなんてあまり考えられなくなる。
それなのに今回のヒートは何かが――何かがこれまでとちがっていた。淫猥な熱はいつもよりずっと長く七星のなかに留まって、何度自分で慰めても引いてくれない。おまけに目を閉じると伊吹の声や吐息の記憶がおしよせて、そのたびに股間がぐっしょり濡れた。
いや、ほんとうは自分に何が必要なのか、七星は本能でわかっていたのだ。でも最初からそれを認めるのはあまりにもうしろめたかった。二晩苦しんだあげく、七星はクロゼットに駆けこむと、伊吹のスーツを抱きしめて寝室に持ちこんだ。
――あれ、どうしたらいいんだろう。
つがいのアルファの匂いに包まれようとするのはオメガの本能だ。
もう、ぜったいに返せなくなってしまった。七星はそろりと洗濯機の横に目をやる。濡れたところは一応拭いたが、きっとしみになってしまうだろう。巣作りするみたいにくるまって、くしゃくしゃにしてしまったうえ、ところどころ爪でひっかいてしまった。
だからといってクリーニングに出すには恥ずかしすぎる。でも捨てられるかといえば――
七星はこれで何度目になるのかわからないため息をついた。
――無理にきまってる。
正気に戻った今はちゃんと思い出していた。伊吹さんにはつがいがいる。運命がどうとかいっても、それはただ体の相性の話でしかない。伊吹さんが友達――いや、〈ユーヤ〉のお客さんでいてくれるだけでも十分すぎるくらいだ。
七星は鏡に目をやり、もういちど自分の頬を叩いた。洗面台のドレッサーを開けてオーデコロンをふきかけると、Tシャツのえりをひっぱって胸もとの匂いをかぐ。大丈夫だ。ヒートはおわっている。あれをどうするかは……帰ってから考えよう。
リビングに戻るとつけっぱなしのテレビでアナウンサーが「熱中症に気をつけてください」とくりかえしていた。このあと天気は回復し、気温が急上昇するという。猛暑で熱せられた地面をすこしでも冷やしてくれたのなら、この雨も悪くないのかもしれない。
どしゃ降りの雨は玄関を出る直前にやみ、ユーヤについた時は青空がみえていた。日差しはたちまち熱暑を呼びこんだが、七星の気分はすこしましになっていた。
「大丈夫?」
声をひそめて祥子がたずねる。オメガのヒート休みは一般企業でも法定休暇になるが、そうと知っているのは魚居と祥子だけだ。魚居には直接連絡しているし、祥子には前日にそれと察せられていた。
「思ったより長引いちゃって」
「暑いせいかな? もしまだきつかったら、いってね」
「大丈夫ですよ」
一週間休んでいたあいだにカフェの中央の笹飾りの形が変わっている。天井に沿ってワイヤーがひろがり、笹の葉のあいだで短冊がひらひら揺れていた。七星の休みと入れちがいに学生アルバイトが数人ふえていた。みな美大生で、八月末まで交代で受付や雑用を手伝ってもらうことになっている。
最近の七星の主な仕事は、九月末のユーヤのクローズにあわせて発行する記念書籍の作成だった。七月中旬にも小冊子を作ったが、これはそれなりの厚さの本になる。企画立案や原稿依頼は魚居が早くから――まだユーヤのクローズを決定する前から――やっていたので、七星の担当は届いた原稿をチェックしたり、ユーヤの創設以来の関係者から短いコメントを集めたり、古いパンフレットやチラシを整理して年表を作ったりといった細かい作業だった。
できあがった冊子は関係者やメンバーズ、地元の図書館や大学に配られる。アート関係の出版物を引き受ける書店やミュージアムショップにも少しは並ぶはずだ。
「〈ユーヤ〉がなくなったあと、この本がいちばん最後までこの場所の記憶を残すものになるのかもしれない。そう考えればやりがいがあるだろう?」
この作業を七星に頼んだとき魚居はそんなことをいった。たしかにそうかもしれないが、七星はどこか納得がいかなかった。ユーヤの二十年分がたったこれだけになってしまうなんて、へんじゃないかと思ったのだ。
でも、この気分も、七月になってからずっと感じているさびしさの感覚がおよぼしたものかもしれない。
今日は夜に地下ホールで音楽とトークのイベントが予定されていたから、他のスタッフはそっちをやっていた。七星はトイレに立つとき以外、静かな事務所でこつこつと作業をすすめた。
夕方近くになって、装幀を頼んだデザイナーから、二十年前〈ユーヤ〉を立ち上げた頃の写真がないかと連絡があった。デジタル化した記録を参考資料として渡していたが、立ち上げ時の写真データは入っていないという。
紙の記録は一階の倉庫にある。七星はたちあがってのびをした。ブラインドのむこうの空は晴れわたっている。涼しい事務所でみているぶんにはいいが、どれほどの暑さになっていることか――そう思いながら事務所を出たら、カフェはいつもの土曜日より混んでいた。
例年、夏休みになると駅近くのカフェは週末人でいっぱいになるので、ユーヤが穴場だと知っている地元の人々がこぞって流れてくるのである。笹飾りの横には学生アルバイトが立って、願いごとの短冊を客のかわりにつるしてやっている。
倉庫は一階の奥にある。鍵をまわし、ドアをあけたとたん七星はしまった、と思った。
――ここ、空調ないんだっけ?
蛍光灯のスイッチをいれるとジジジ、と鳴った。積み上げられた段ボールと棚のあいだの狭い通路を奥までいく。高いところに小さなエアコンがあったが、リモコンがみあたらない。
リモコンを探すのと写真を探すのと、どっちが早いか。
数秒で七星はリモコンをあきらめた。昔のパンフレットもここで探したので、どこにあるのかだいたいの見当はつく。
踏み台にのぼり、棚のいちばん上の年号が書かれたファイルケースをひとつひとつ確認して、やっと古いネガと写真がぎっしり詰まった箱をみつけた。みかん箱程度の大きさだが、かなり重い。中身をばらまかないよう気をつけながら踏み台をおり、倉庫の外に持ち出したときには汗びっしょりだった。でも、まだ三十分も経っていない。
一階の通路は涼しかったのでほっとした。誰もいないのをいいことに、七星は体にはりついたTシャツをつまみ、手であおいで涼しい空気を送った――が、入口のドアが押し開けられたとたん、はっと硬直した。
この香り――伊吹、さん――
七星はあわててTシャツの裾をひっぱった。はちあわせしたわけでもなく、入口と七星がいる通路の奥は何メートルも離れているのに、向こうもまっすぐ七星をみて、目があった。だが伊吹の口がひらくまえに七星は頭を軽くさげ、床においた箱を両手でかかえた。二階の事務所へ運ばなければ。
今日は伊吹の顔をみたくなかった。この数日ひとりでしていたことを思い出してしまう――いや、もう思い浮かべてしまった。それだけで恥ずかしくて、足が震えそうになる。
いそいで階段をのぼろうとして、甘い香りに頭がくらっとした。マンションにあるスーツの残り香とはくらべものにならない、強い香りだ。
「手伝おうか」
背中で声がした。七星はしかたなくふりむいた。伊吹は階段の下にいる。土曜日なのにワイシャツにネクタイ姿だ。マンションに残してきたスーツがまた七星の頭にうかんだ。
「いえ。大丈夫ですから」
なんとか答えて、七星はまた階段を上った。
「七星君、でも……重そうだし」
伊吹が階段をのぼってくる。七星にむかってのびた手で指輪が光った。思わず七星は語気を強めた。
「いいから、伊吹さんはかまわないでください!」
伊吹がびくっとして手をひっこめ、とたんに七星は後悔した。僕は何をやってるんだ。頭のなかは自己嫌悪でいっぱいで、箱を抱えている腕はしびれかけているのに、伊吹の周囲にただよう香りはたまらなく――甘くて……
「あ、あの……」
「いや、私がよけいなことをいった。すまない」
伊吹が穏やかな声でいった。七星は箱を抱えなおし、いそいで段を上った。伊吹の香りが遠くなったのに気づいてふりむくと、長身のアルファは階段をおりてしまっていた。
「一週間ぶりだね」
カフェでぼんやりしていると、ひょろりとした影がすぐ横におちた。ついさっきイベントがはじまったので、カフェで開始を待っていた客はみな地下ホールに行ったはずだ。七星は顔をあげた。
「安西さん」
細身のベータはまじめな目つきで七星をみつめた。
「風邪でもひいてた? 今週ずっといなかったよね」
「ちょっと調子が悪くて。でも今日は大丈夫ですよ」
「そう? それならよかったけど」
安西はうっすら微笑んだ。頬にちいさなえくぼができる。
「座っていいかな? 邪魔だったらやめとくけど」
「いえ――まさか」
「ありがとう」
安西は横の椅子をひくと、長い足を折りたたむようにして腰をおろした。
「あの、イベント見に来たんじゃないんですか? はじまったばかりですよ」
「そう思った?」
「だってユーヤに来る理由、他にあります?」
「あるよ。七星君と話をしたいとか」
「はは、何いってんですか」
「え、嘘だと思ってる? 連絡先をきいてなかったの、本気で後悔してたところだよ」
「安西さん――」
どう続ければいいかわからなくなり、七星は黙った。
安西徹は七日のオープニングのとき、春日武流に紹介されたベータである。七日はあれから三人で駅の近くの居酒屋へ行って、それから小さなカフェバーにも行った。
七星はその手の店に入ったことが数えるほどしかなかったが、安西はアルコールに弱い七星を最後まで気遣ってくれて、豪放に飲んで酔っぱらう武流とはぜんぜんちがった。
でも、そのときは感じのいい人だと思っただけだ。安西はユーヤの窓からみえる鉄橋をくぐって、すこし歩いたところに住んでいると話した。引っ越してきたばかりだったから、近くにいいカフェがあってよかったといわれ、七星はどうぞ通ってくださいと返した。べつに深い意味はない。
でもそれからというもの、安西は毎日のようにカフェに立ち寄って、七星をみると話しかけてきた。安西と話すのは気楽でよかった。伊吹はそこにいるだけで七星に影響を――さまざまな意味で――あたえてしまうのとは正反対で、何も気にならないのだ。
「――ああ、ごめんごめん。友達でいいんだ。そんなにかまえないでよ」
固まってしまった七星をみて、安西は困ったような笑顔をうかべる。
「あのさ、今ってまだ仕事中なの?」
「いえ。僕はイベントの担当じゃないから、帰ってもいいんですけど……」
「じゃあ一緒にごはん食べない? 俺、駅前の店を開拓してるところなんだ」
安西の指がスマホの上をすばやく動く。アプリの画面がいくつか開いては閉じた。
「ほら、こことか」
「……美味しそうですね」
「だよね。どう?」
七星はうなずいた。
「いいかも。あ、今日はちゃんと自分のぶん、払います」
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