103 / 107
番外編&後日談
飛行するリボン
しおりを挟む
腕にのしかかる重みのおかげで目が覚めた。
俺は反射的に目覚ましを探る。時間を確認してほっとした。まだ大丈夫だ。今日は遅刻が許されない行事がある。
カーテンのすきまから白い光がもれているが、寝室は薄暗かった。腕はあいかわらず重いし、首筋に触れる髪の毛がくすぐったい。
「天」
「……ん?」
「重い」
藤野谷は俺の腕に頭を半分のせたまま薄眼をあける。
「ごめん」
くぐもった声のあとで腕から重みは消えたものの、一瞬だけだった。今度は胸の上に移動して、おまけに両腕が俺の肩をがっしり囲いこむ。
「あのな、天……」
「ん? まだ重い?」
「そうじゃなくて――」
俺は息をのむ。動きたいから離せといいたかったのに、肩をひきよせられ、首のうしろを舐められたからだ。即座に背筋から腰、足先まで震えが走る。
「ちょっと――」
藤野谷は答えない。かわりに背中に回った腕が腰にさがり、パジャマの上から尻や太ももを撫ではじめる。俺のうなじに唇をあてたまま片方の手が布地の下に入りこみ、へそからさらに下をまさぐる。
「おい、天――起きないと……」
「まだ大丈夫だ」
あっ――と俺は声をあげそうになり、あわててこらえる。うなじにチリッと痛みが走り、動けないまま甘い感覚に捕らえられた。頭の芯が一瞬かすむ。馬鹿、と俺は思う。これだから――
「大丈夫ったって……シャワーとか着替えとか」
「ん?」
藤野谷の声は眠そうだった。いつのまにかうなじから唇が離れ、俺は彼の胸に抱き寄せられている。唇が重なってきて、舌のからむキスになる。パジャマの下に入りこんだ藤野谷の両手が尻を揉み、俺の息は荒くなるが、藤野谷の手はそれ以上何をするでもない。前のふくらみが擦れるだけでどっちつかずのまま焦らされる。また唇が離れていき、中途半端に体をよじったとき、俺の頭の上ですうっと寝息が聞こえてきた。
「馬鹿天」
俺はもがいた。
「いいかげん――寝てるのか起きてるのかはっきりしろって――あ……」
藤野谷の指がまた動き、ボクサーパンツの上をかする。
「起きてる」
「だったらもう準備しないと――間に合わない……」
「まだ大丈夫……」
首筋に落ちたささやきはため息のようだった。チュッチュッと音がして、藤野谷の唇が首筋から肩をさがり、指が俺の尻のあいだをまさぐっていく。甘い匂いに圧倒されて俺の体から力が抜けた。たまらず眼をつぶったとたん、シーツの上で体を反転させられ、背中からぴったり横抱きにされる。うなじにまた歯が立てられ、今度は強く噛まれた。同時に腰のうしろに熱い楔があたり、俺の中に入ってくる。痛みと甘い衝撃が背中をつらぬき、跳ね上がりそうになる体が藤野谷の腕で押しとどめられた。
「あ、あああ――て――ん……」
藤野谷はくりかえし首のうしろを舐め、歯を立てる。俺はそのたびに腰をゆらして彼をもっと深く受け入れた。溶ける――溶けるなんてもんじゃない。もう何も――何も……。
ふわりと宙に投げ出されたようになって、俺の意識は白く飛びたつ。
「サエ、急がないと」
揺り起こされて時計をみると、もう時間の余裕はほとんどなかった。俺は恨めしい気分で藤野谷をみるが、ダークスーツに着替えた彼は涼しい顔だ。カフスボタンを選びながら鼻歌をうたっている。俺はやっと立ち上がり、用意していたシャツをひっつかんだ。
「お寝坊さんだな」
藤野谷がにやにやしながらいった。
おまえのせいじゃないかと返しそうになったが、見上げた藤野谷の顔は嬉しそうにほころんでいたので、俺は黙った。シャワーを浴びて戻ってきたときも藤野谷はまだ鼻歌をうたっている。俺もネクタイを締めてダークスーツに袖を通した。
車庫からみあげた空は薄青く、春のぼんやりした霞がかかっていた。藤野谷はいつものように運転席にすわり、俺は助手席にのりこんだ。
日中は四月中旬の暖かさになるでしょうと天気予報が教える。三月も下旬にさしかかり、桜はまだ咲いていないが、蕾は大きくふくらんでいた。俺の実家――佐井家へ向かうあいだも、藤野谷は音楽にあわせて時々ハミングを繰り返していた。
今日は婚約式なのだ。俺と藤野谷の。
二月のバレンタインデーのハプニングじみたいきさつから正式に結婚すると決めたあと、藤野谷の行動は素早かった。素早いというか、驚異的なスピードでその先の日取りや諸々の手配を進めてしまった。
挙式や披露宴は八月になった。藤野谷としては早ければ早いほどよかったというが、それなりの規模で行うとなるとさすがに半年の猶予は必要だった。今日の儀式はいわゆる略式結納で、内輪だけのものだ。
名族の伝統的な手順にはいろいろこみいった事柄があると聞いたものの、早く進めたいから大げさなことはしないといって藤野谷は両親を押し切った。儀式といっても佐井家で婚約指輪を渡すだけ、それだけのことだと。出席者は肉親だけ、つまり俺たちと、俺の実の祖父である銀星と藤野谷の両親の五人である。そのあとは佐枝の両親や峡もまじえてそのまま佐井家で会食をすることになっていた。
実際、婚約式といっても場所が勝手知ったる実家なので、藤野谷とふたりしてダークスーツを着て車に乗ったときですら、俺は気楽な気分だった。タイヤが佐井家の敷石を乗り越え、白い砂利の上をゆるゆると進んでいるときも、車寄せに止まったセダンから藤野谷の両親が降りるのを見た時もだ。藤野谷の父、藍晶はやはりダークスーツで、母親の紫はパールグレイのワンピースだった。藤野谷家の執事のような存在である渡来が少し離れて立っている。ごく普通に挨拶を交わして佐井家の玄関へ向かったとき、突然俺は気がついた。
藤野谷天藍以外の藤野谷家の人間が佐井家を訪れるのは、この三十年間一度もなかったことだ。
俺は急に緊張を感じて唾を飲んだ。
「サエ?」
藤野谷が怪訝そうに俺をみた。
「何か?」
「いや……」
俺は小さく首をふる。
「何でもない」
「何でもなくないだろう」
俺はまた首をふるが、もちろん藤野谷には隠せない。つがいになって以来、俺たちはおたがいの匂いにさらに敏感になっている。緊張や気分はすぐ匂いにあらわれる。おかげで些細な変化にもすぐに気がつくし、気づかれる。
「その……ちょっと思い出しただけだ」
「何を?」
「葉月のこと」
俺は短くこたえて砂利を踏む。どうして気づかなかったのだろう。つがいになって、藤野谷と一緒に暮らして、彼が横にいるのが当たり前になっていたからだろうか。何十年も両家のあいだにくすぶっていた緊張関係とその原因を俺はすっかり忘れていた。今日は「婚約指輪を渡すだけ」なんてものじゃない。
これは和解の儀式なのだ。
玄関や銀星が待つ座敷に飾られた花は佐枝の母が活けたものとすぐにわかった。とはいえ急に緊張してしまった俺はじっくり眺めることもできなかった。もっとも婚約式の手順そのものは簡単だったし、藤野谷の両親も銀星も穏やかに挨拶を交わして、つつがなく進行した。事情を知らない人間には彼らのあいだに何十年もわだかまりがあったなど、何もわからなかっただろう。
「零」
藤野谷が俺の名前を呼んだ。俺ははっとして眼の前の箱に意識をもどす。指輪がふたつ並んでいる。どちらも淡い金色で、ひとつはリボンを思わせる平織のモチーフと細かいダイヤの列が二連に並んだもの。もうひとつはダイヤの列がない、リボンのみのリング。ダイヤの方がエンゲージリングで、もうひとつはリザーブドリングだった。アルファが自分は婚約済み――予約済み――と宣言するために身につける。
俺はそろりと左手をさしだす。指輪の感触はかすかにひやりとしてなめらかだった。ふだん指輪をはめたりしないから、慣れるまでに時間がかかりそうな気がする。でもサイズはぴったりだ。
「天……藍」
俺の番になって、藤野谷の名前を呼ぼうとしたのにおかしな感じになった。藤野谷が微笑んで俺をみる。彼の手は俺より大きく、指はしなやかにまっすぐ伸びている。ゴールドの細い輪が指におさまると藤野谷は逆に俺の左手をとり、薬指の関節にキスをした。あまりにも自然な仕草だったので俺は何とも思わなかった――が、それも一瞬だけだ。すぐ近くに祖父や藤野谷の両親がいるのを意識したとたん、顔がほてった。
藤野谷はそんな俺をみて微笑んでいる。彼の両親も、銀星も。
なぜか急に安堵して、俺はほっと息をつく。
そのあとは広い座敷で会食となった。佐枝の両親と峡がすでに待っていて、最後に末席に渡来が加わった。だが藤野谷藍晶の隣の席があいている。他に誰が? そう思ったとき襖が開いた。一瞬ふわりと風が通る。長身の影が落ち、声が響いた。
「遅れて申し訳ない」
ランセン――藤野谷藍閃が立っていた。
「伯父はサエに何を話していたんだ?」
その夜、俺たちの家のリビングで、藤野谷が俺の左手を握ったままたずねた。
「ん? 祝福してくれたんだ。あとは、あっちへ行くことがあったら寄ってくれとか、そういう話」
藤野谷がたずねているのは会食のあと藍閃と庭で話をしたときのことだろう。ふたりだけで話したのはその時しかなかったからだ。
天気予報通り戸外は四月の気候で、暖かい風が吹いていた。藍閃に向かいあっているときも俺は無意識に左手の薬指をいじっていたにちがいない。彼はどこか愉快そうな目つきで俺をみた。
「気になるかね?」
「あ……慣れなくて……」
「葉月は指輪が嫌いだった。こんなもので何かを証明するなんて馬鹿馬鹿しいといっていたよ」
淡々とそう話した彼に、俺はあわてて答える。
「いえ、俺はそうは思いません」
「それならいい。内実がなければ意味がないものだしね。指輪は枷じゃない、鍵だ。それで甥と……」
藍閃は一瞬ためらったようだった。
「――先に進んでくれると嬉しいが」
「はい。そうします」
俺は短くこたえた。そのとたん午後の光に指輪の金属が反射して、ふわりと宙に舞い上がるような錯覚をおぼえた。
いま、藤野谷は俺にぴったり肩をあわせ、指輪をはめた俺の指をまるで自分のおもちゃであるかのようになぞっている。ソファに隣あわせに座ったまま、俺は彼の好きにさせていた。アクセサリーのたぐいにこだわる男とは思っていなかったので、こんな側面があるとは意外だった。子供みたいだ。
「葉月は指輪が嫌いだったんだそうだ」
ためしにそういってみると、藤野谷はぎょっとしたように俺の指を落とした。
「サエは?」
「俺はそんなことない」
「それならいい」
藤野谷も揃いの指輪をはめたままだった。そのときふと、昼間彼に名前を呼ばれたことを思い出した。
「天」
「ん?」
「どうして『サエ』なんだ?」
藤野谷は眉をあげた。
「変えた方がいいか?」
「昼間――いや」
俺は首をふる。
「いまさらおまえに零なんて呼ばれても違和感あるし……でも前から不思議だったから」
「サエだって俺を天藍とよぶわけじゃない」
「それはその……名前の一部だし……」
俺は口ごもる。どうしてこんな話をはじめてしまったんだろう。十四歳で出会ったときから藤野谷は俺をサエと呼び、俺は天と呼んできた。急に照れくさくなって俺は話すのをやめた。藤野谷はそんな俺をみつめていた。ろくでもないことを考えている目つきだ。そう思ったときは遅かった。
「最初に会った時、サエは俺の名前をうまくいえなかっただろう?」
「それで」
「可愛かった」
とたんに顔が赤くなったのがわかった。俺は藤野谷の肩から離れようとしたが、藤野谷はすかさず俺の腰に片腕をまわし、首筋に息を吹きかけてくる。
「それに最初から名前呼びなんて、なれなれしすぎて引かれるかなと思って」
「そうか?」
「サエは他の連中とちがって、いつもすこし引いているところがあった」
「そうか」
俺は繰り返す。こいつはどうしてそんな昔のことを覚えているんだろう。
「ふつうは逆なんだ。頼まなくても近寄ってくるのに……サエはちがった」
「天邪鬼だな」
「それはサエのほうだ」
藤野谷の指が俺の手のひらをさぐり、指輪をさぐる。俺たちはそのまま手を絡ませる。藤野谷の首が俺の肩におち、吐息とともに小さな声が聞こえてきた。
「だから――かな。俺も俺だけの何かがほしかった」
俺は藤野谷の背中に片腕をまわした。このまま夜がふけるのを待ちたい、そんな気分だった。
俺は反射的に目覚ましを探る。時間を確認してほっとした。まだ大丈夫だ。今日は遅刻が許されない行事がある。
カーテンのすきまから白い光がもれているが、寝室は薄暗かった。腕はあいかわらず重いし、首筋に触れる髪の毛がくすぐったい。
「天」
「……ん?」
「重い」
藤野谷は俺の腕に頭を半分のせたまま薄眼をあける。
「ごめん」
くぐもった声のあとで腕から重みは消えたものの、一瞬だけだった。今度は胸の上に移動して、おまけに両腕が俺の肩をがっしり囲いこむ。
「あのな、天……」
「ん? まだ重い?」
「そうじゃなくて――」
俺は息をのむ。動きたいから離せといいたかったのに、肩をひきよせられ、首のうしろを舐められたからだ。即座に背筋から腰、足先まで震えが走る。
「ちょっと――」
藤野谷は答えない。かわりに背中に回った腕が腰にさがり、パジャマの上から尻や太ももを撫ではじめる。俺のうなじに唇をあてたまま片方の手が布地の下に入りこみ、へそからさらに下をまさぐる。
「おい、天――起きないと……」
「まだ大丈夫だ」
あっ――と俺は声をあげそうになり、あわててこらえる。うなじにチリッと痛みが走り、動けないまま甘い感覚に捕らえられた。頭の芯が一瞬かすむ。馬鹿、と俺は思う。これだから――
「大丈夫ったって……シャワーとか着替えとか」
「ん?」
藤野谷の声は眠そうだった。いつのまにかうなじから唇が離れ、俺は彼の胸に抱き寄せられている。唇が重なってきて、舌のからむキスになる。パジャマの下に入りこんだ藤野谷の両手が尻を揉み、俺の息は荒くなるが、藤野谷の手はそれ以上何をするでもない。前のふくらみが擦れるだけでどっちつかずのまま焦らされる。また唇が離れていき、中途半端に体をよじったとき、俺の頭の上ですうっと寝息が聞こえてきた。
「馬鹿天」
俺はもがいた。
「いいかげん――寝てるのか起きてるのかはっきりしろって――あ……」
藤野谷の指がまた動き、ボクサーパンツの上をかする。
「起きてる」
「だったらもう準備しないと――間に合わない……」
「まだ大丈夫……」
首筋に落ちたささやきはため息のようだった。チュッチュッと音がして、藤野谷の唇が首筋から肩をさがり、指が俺の尻のあいだをまさぐっていく。甘い匂いに圧倒されて俺の体から力が抜けた。たまらず眼をつぶったとたん、シーツの上で体を反転させられ、背中からぴったり横抱きにされる。うなじにまた歯が立てられ、今度は強く噛まれた。同時に腰のうしろに熱い楔があたり、俺の中に入ってくる。痛みと甘い衝撃が背中をつらぬき、跳ね上がりそうになる体が藤野谷の腕で押しとどめられた。
「あ、あああ――て――ん……」
藤野谷はくりかえし首のうしろを舐め、歯を立てる。俺はそのたびに腰をゆらして彼をもっと深く受け入れた。溶ける――溶けるなんてもんじゃない。もう何も――何も……。
ふわりと宙に投げ出されたようになって、俺の意識は白く飛びたつ。
「サエ、急がないと」
揺り起こされて時計をみると、もう時間の余裕はほとんどなかった。俺は恨めしい気分で藤野谷をみるが、ダークスーツに着替えた彼は涼しい顔だ。カフスボタンを選びながら鼻歌をうたっている。俺はやっと立ち上がり、用意していたシャツをひっつかんだ。
「お寝坊さんだな」
藤野谷がにやにやしながらいった。
おまえのせいじゃないかと返しそうになったが、見上げた藤野谷の顔は嬉しそうにほころんでいたので、俺は黙った。シャワーを浴びて戻ってきたときも藤野谷はまだ鼻歌をうたっている。俺もネクタイを締めてダークスーツに袖を通した。
車庫からみあげた空は薄青く、春のぼんやりした霞がかかっていた。藤野谷はいつものように運転席にすわり、俺は助手席にのりこんだ。
日中は四月中旬の暖かさになるでしょうと天気予報が教える。三月も下旬にさしかかり、桜はまだ咲いていないが、蕾は大きくふくらんでいた。俺の実家――佐井家へ向かうあいだも、藤野谷は音楽にあわせて時々ハミングを繰り返していた。
今日は婚約式なのだ。俺と藤野谷の。
二月のバレンタインデーのハプニングじみたいきさつから正式に結婚すると決めたあと、藤野谷の行動は素早かった。素早いというか、驚異的なスピードでその先の日取りや諸々の手配を進めてしまった。
挙式や披露宴は八月になった。藤野谷としては早ければ早いほどよかったというが、それなりの規模で行うとなるとさすがに半年の猶予は必要だった。今日の儀式はいわゆる略式結納で、内輪だけのものだ。
名族の伝統的な手順にはいろいろこみいった事柄があると聞いたものの、早く進めたいから大げさなことはしないといって藤野谷は両親を押し切った。儀式といっても佐井家で婚約指輪を渡すだけ、それだけのことだと。出席者は肉親だけ、つまり俺たちと、俺の実の祖父である銀星と藤野谷の両親の五人である。そのあとは佐枝の両親や峡もまじえてそのまま佐井家で会食をすることになっていた。
実際、婚約式といっても場所が勝手知ったる実家なので、藤野谷とふたりしてダークスーツを着て車に乗ったときですら、俺は気楽な気分だった。タイヤが佐井家の敷石を乗り越え、白い砂利の上をゆるゆると進んでいるときも、車寄せに止まったセダンから藤野谷の両親が降りるのを見た時もだ。藤野谷の父、藍晶はやはりダークスーツで、母親の紫はパールグレイのワンピースだった。藤野谷家の執事のような存在である渡来が少し離れて立っている。ごく普通に挨拶を交わして佐井家の玄関へ向かったとき、突然俺は気がついた。
藤野谷天藍以外の藤野谷家の人間が佐井家を訪れるのは、この三十年間一度もなかったことだ。
俺は急に緊張を感じて唾を飲んだ。
「サエ?」
藤野谷が怪訝そうに俺をみた。
「何か?」
「いや……」
俺は小さく首をふる。
「何でもない」
「何でもなくないだろう」
俺はまた首をふるが、もちろん藤野谷には隠せない。つがいになって以来、俺たちはおたがいの匂いにさらに敏感になっている。緊張や気分はすぐ匂いにあらわれる。おかげで些細な変化にもすぐに気がつくし、気づかれる。
「その……ちょっと思い出しただけだ」
「何を?」
「葉月のこと」
俺は短くこたえて砂利を踏む。どうして気づかなかったのだろう。つがいになって、藤野谷と一緒に暮らして、彼が横にいるのが当たり前になっていたからだろうか。何十年も両家のあいだにくすぶっていた緊張関係とその原因を俺はすっかり忘れていた。今日は「婚約指輪を渡すだけ」なんてものじゃない。
これは和解の儀式なのだ。
玄関や銀星が待つ座敷に飾られた花は佐枝の母が活けたものとすぐにわかった。とはいえ急に緊張してしまった俺はじっくり眺めることもできなかった。もっとも婚約式の手順そのものは簡単だったし、藤野谷の両親も銀星も穏やかに挨拶を交わして、つつがなく進行した。事情を知らない人間には彼らのあいだに何十年もわだかまりがあったなど、何もわからなかっただろう。
「零」
藤野谷が俺の名前を呼んだ。俺ははっとして眼の前の箱に意識をもどす。指輪がふたつ並んでいる。どちらも淡い金色で、ひとつはリボンを思わせる平織のモチーフと細かいダイヤの列が二連に並んだもの。もうひとつはダイヤの列がない、リボンのみのリング。ダイヤの方がエンゲージリングで、もうひとつはリザーブドリングだった。アルファが自分は婚約済み――予約済み――と宣言するために身につける。
俺はそろりと左手をさしだす。指輪の感触はかすかにひやりとしてなめらかだった。ふだん指輪をはめたりしないから、慣れるまでに時間がかかりそうな気がする。でもサイズはぴったりだ。
「天……藍」
俺の番になって、藤野谷の名前を呼ぼうとしたのにおかしな感じになった。藤野谷が微笑んで俺をみる。彼の手は俺より大きく、指はしなやかにまっすぐ伸びている。ゴールドの細い輪が指におさまると藤野谷は逆に俺の左手をとり、薬指の関節にキスをした。あまりにも自然な仕草だったので俺は何とも思わなかった――が、それも一瞬だけだ。すぐ近くに祖父や藤野谷の両親がいるのを意識したとたん、顔がほてった。
藤野谷はそんな俺をみて微笑んでいる。彼の両親も、銀星も。
なぜか急に安堵して、俺はほっと息をつく。
そのあとは広い座敷で会食となった。佐枝の両親と峡がすでに待っていて、最後に末席に渡来が加わった。だが藤野谷藍晶の隣の席があいている。他に誰が? そう思ったとき襖が開いた。一瞬ふわりと風が通る。長身の影が落ち、声が響いた。
「遅れて申し訳ない」
ランセン――藤野谷藍閃が立っていた。
「伯父はサエに何を話していたんだ?」
その夜、俺たちの家のリビングで、藤野谷が俺の左手を握ったままたずねた。
「ん? 祝福してくれたんだ。あとは、あっちへ行くことがあったら寄ってくれとか、そういう話」
藤野谷がたずねているのは会食のあと藍閃と庭で話をしたときのことだろう。ふたりだけで話したのはその時しかなかったからだ。
天気予報通り戸外は四月の気候で、暖かい風が吹いていた。藍閃に向かいあっているときも俺は無意識に左手の薬指をいじっていたにちがいない。彼はどこか愉快そうな目つきで俺をみた。
「気になるかね?」
「あ……慣れなくて……」
「葉月は指輪が嫌いだった。こんなもので何かを証明するなんて馬鹿馬鹿しいといっていたよ」
淡々とそう話した彼に、俺はあわてて答える。
「いえ、俺はそうは思いません」
「それならいい。内実がなければ意味がないものだしね。指輪は枷じゃない、鍵だ。それで甥と……」
藍閃は一瞬ためらったようだった。
「――先に進んでくれると嬉しいが」
「はい。そうします」
俺は短くこたえた。そのとたん午後の光に指輪の金属が反射して、ふわりと宙に舞い上がるような錯覚をおぼえた。
いま、藤野谷は俺にぴったり肩をあわせ、指輪をはめた俺の指をまるで自分のおもちゃであるかのようになぞっている。ソファに隣あわせに座ったまま、俺は彼の好きにさせていた。アクセサリーのたぐいにこだわる男とは思っていなかったので、こんな側面があるとは意外だった。子供みたいだ。
「葉月は指輪が嫌いだったんだそうだ」
ためしにそういってみると、藤野谷はぎょっとしたように俺の指を落とした。
「サエは?」
「俺はそんなことない」
「それならいい」
藤野谷も揃いの指輪をはめたままだった。そのときふと、昼間彼に名前を呼ばれたことを思い出した。
「天」
「ん?」
「どうして『サエ』なんだ?」
藤野谷は眉をあげた。
「変えた方がいいか?」
「昼間――いや」
俺は首をふる。
「いまさらおまえに零なんて呼ばれても違和感あるし……でも前から不思議だったから」
「サエだって俺を天藍とよぶわけじゃない」
「それはその……名前の一部だし……」
俺は口ごもる。どうしてこんな話をはじめてしまったんだろう。十四歳で出会ったときから藤野谷は俺をサエと呼び、俺は天と呼んできた。急に照れくさくなって俺は話すのをやめた。藤野谷はそんな俺をみつめていた。ろくでもないことを考えている目つきだ。そう思ったときは遅かった。
「最初に会った時、サエは俺の名前をうまくいえなかっただろう?」
「それで」
「可愛かった」
とたんに顔が赤くなったのがわかった。俺は藤野谷の肩から離れようとしたが、藤野谷はすかさず俺の腰に片腕をまわし、首筋に息を吹きかけてくる。
「それに最初から名前呼びなんて、なれなれしすぎて引かれるかなと思って」
「そうか?」
「サエは他の連中とちがって、いつもすこし引いているところがあった」
「そうか」
俺は繰り返す。こいつはどうしてそんな昔のことを覚えているんだろう。
「ふつうは逆なんだ。頼まなくても近寄ってくるのに……サエはちがった」
「天邪鬼だな」
「それはサエのほうだ」
藤野谷の指が俺の手のひらをさぐり、指輪をさぐる。俺たちはそのまま手を絡ませる。藤野谷の首が俺の肩におち、吐息とともに小さな声が聞こえてきた。
「だから――かな。俺も俺だけの何かがほしかった」
俺は藤野谷の背中に片腕をまわした。このまま夜がふけるのを待ちたい、そんな気分だった。
34
お気に入りに追加
628
あなたにおすすめの小説
虐げられ聖女(男)なので辺境に逃げたら溺愛系イケメン辺境伯が待ち構えていました【本編完結】(異世界恋愛オメガバース)
美咲アリス
BL
虐待を受けていたオメガ聖女のアレクシアは必死で辺境の地に逃げた。そこで出会ったのは逞しくてイケメンのアルファ辺境伯。「身バレしたら大変だ」と思ったアレクシアは芝居小屋で見た『悪役令息キャラ』の真似をしてみるが、どうやらそれが辺境伯の心を掴んでしまったようで、ものすごい溺愛がスタートしてしまう。けれども実は、辺境伯にはある考えがあるらしくて⋯⋯? オメガ聖女とアルファ辺境伯のキュンキュン異世界恋愛です、よろしくお願いします^_^ 本編完結しました、特別編を連載中です!
森の中の華 (オメガバース、α✕Ω、完結)
Oj
BL
オメガバースBLです。
受けが妊娠しますので、ご注意下さい。
コンセプトは『受けを妊娠させて吐くほど悩む攻め』です。
ちょっとヤンチャなアルファ攻め✕大人しく不憫なオメガ受けです。
アルファ兄弟のどちらが攻めになるかは作中お楽しみいただけたらと思いますが、第一話でわかってしまうと思います。
ハッピーエンドですが、そこまで受けが辛い目に合い続けます。
菊島 華 (きくしま はな) 受
両親がオメガのという珍しい出生。幼い頃から森之宮家で次期当主の妻となるべく育てられる。囲われています。
森之宮 健司 (もりのみや けんじ) 兄
森之宮家時期当主。品行方正、成績優秀。生徒会長をしていて学校内での信頼も厚いです。
森之宮 裕司 (もりのみや ゆうじ) 弟
森之宮家次期当主。兄ができすぎていたり、他にも色々あって腐っています。
健司と裕司は二卵性の双子です。
オメガバースという第二の性別がある世界でのお話です。
男女の他にアルファ、ベータ、オメガと性別があり、オメガは男性でも妊娠が可能です。
アルファとオメガは数が少なく、ほとんどの人がベータです。アルファは能力が高い人間が多く、オメガは妊娠に特化していて誘惑するためのフェロモンを出すため恐れられ卑下されています。
その地方で有名な企業の子息であるアルファの兄弟と、どちらかの妻となるため育てられたオメガの少年のお話です。
この作品では第二の性別は17歳頃を目安に判定されていきます。それまでは検査しても確定されないことが多い、という設定です。
また、第二の性別は親の性別が反映されます。アルファ同士の親からはアルファが、オメガ同士の親からはオメガが生まれます。
独自解釈している設定があります。
第二部にて息子達とその恋人達です。
長男 咲也 (さくや)
次男 伊吹 (いぶき)
三男 開斗 (かいと)
咲也の恋人 朝陽 (あさひ)
伊吹の恋人 幸四郎 (こうしろう)
開斗の恋人 アイ・ミイ
本編完結しています。
今後は短編を更新する予定です。
一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!
当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。
しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。
彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。
このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。
しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。
好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。
※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*)
※他のサイトにも重複投稿しています。
貴方の事を心から愛していました。ありがとう。
天海みつき
BL
穏やかな晴天のある日の事。僕は最愛の番の後宮で、ぼんやりと紅茶を手に己の生きざまを振り返っていた。ゆったり流れるその時を楽しんだ僕は、そのままカップを傾け、紅茶を喉へと流し込んだ。
――混じり込んだ××と共に。
オメガバースの世界観です。運命の番でありながら、仮想敵国の王子同士に生まれた二人が辿る数奇な運命。勢いで書いたら真っ暗に。ピリリと主張する苦さをアクセントにどうぞ。
追記。本編完結済み。後程「彼」視点を追加投稿する……かも?
その溺愛は伝わりづらい!気弱なスパダリ御曹司にノンケの僕は落とされました
海野幻創
BL
人好きのする端正な顔立ちを持ち、文武両道でなんでも無難にこなせることのできた生田雅紀(いくたまさき)は、小さい頃から多くの友人に囲まれていた。
しかし他人との付き合いは広く浅くの最小限に留めるタイプで、女性とも身体だけの付き合いしかしてこなかった。
偶然出会った久世透(くぜとおる)は、嫉妬を覚えるほどのスタイルと美貌をもち、引け目を感じるほどの高学歴で、議員の孫であり大企業役員の息子だった。
御曹司であることにふさわしく、スマートに大金を使ってみせるところがありながら、生田の前では捨てられた子犬のようにおどおどして気弱な様子を見せ、そのギャップを生田は面白がっていたのだが……。
これまで他人と深くは関わってこなかったはずなのに、会うたびに違う一面を見せる久世は、いつしか生田にとって離れがたい存在となっていく。
【7/27完結しました。読んでいただいてありがとうございました。】
【続編も8/17完結しました。】
「その溺愛は行き場を彷徨う……気弱なスパダリ御曹司は政略結婚を回避したい」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/962473946/911896785
↑この続編は、R18の過激描写がありますので、苦手な方はご注意ください。
初心者オメガは執着アルファの腕のなか
深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。
オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。
オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。
穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる