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第3部 ギャラリー・ルクス
25.鷲の爪痕(後編)
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藤野谷の部屋に居ついて、俺はあいかわらず葉月のポートフォリオを眺めながら無為に過ごしている。窓からは電波塔や公園が見下ろせた。景色はいいが天気はぱっとしなかった。空に厚く雲が垂れる日が続いている。
渡来が以前俺に渡してくれた写真――藤野谷本家に残されていた葉月のもの――はポートフォリオの最後のページへ入れた。どれも風景写真だから、空良と出会う前に撮ったものかもしれない。望遠レンズで撮影された蓮のシリーズは悪くなかった。
藤野谷は生活必需品の買い物をすべて宅配ですませている。ふだんの夕食はTEN‐ZEROの社内か外食、あるいは弁当を買って持ち帰るかで、朝と休日に多少料理をする程度だという。キッチンには包丁、鍋、まな板、フライパンといった基本的な道具や最低限の調味料はあったが、スパイスはない。掃除を人に頼んでいるせいだろう、マンションは清潔で、IHコンロはピカピカだ。
最初の夜は俺も藤野谷も妙に緊張していた。しばらく続いた俺のゆるいヒートはほぼおさまっていて、俺たちはぎこちなくベッドに入り、もごもごと話をし、キスをかわし、いつのまにか眠っていた。
翌朝、俺はいつになくぱっちりと、藤野谷より早く目が覚めてしまった。ベッドもあたりにぶら下がった服も、当然のことながら藤野谷の匂いでいっぱいだし、すぐ隣では本人が寝息を立てている。
俺は横になったまま、この状態が当然のような、でも慣れないような、妙に矛盾した気持ちでぼんやりと視線をさまよわせた。藤野谷のジャケットが壁にかかっている。以前、あいつが俺の家に忘れていったもの。スーツケースに入れっぱなしになっていたのを昨夜やっと救出したのだ。
「うーん……」
藤野谷が唸った。起きたのだろうか?
寝返りをうとうとして、パジャマを着た下半身がぴったりくっついているのにあらためて気づく。藤野谷の目がうすく開いた。
「サエ……」
俺たちはまたキスをする。
昨夜とちがって唇をあわせるのはとても自然な感じがした。ついばむようなキスが深くなり、俺は舌をさしだし、藤野谷も俺を求めた。おたがいの口を探っている最中にモバイルが鳴り、藤野谷はあわててシャワーを浴びると、仕事に行った。
それにしても、料理をして藤野谷の帰りを待つなんて、俺は本来そんな性格じゃないと思う。でもあいかわらず何のやる気も感じなかったので、そっちの方がまだ、何となく一日が終わるよりはましだと思った。ありあわせの食材で夕飯をつくり、夜、玄関で「お帰り」と出迎えると、藤野谷は顔を崩し、心底嬉しそうに笑った。
そんな毎日がつづいた。藤野谷の帰宅はまちまちで、あいつの笑顔をみるのは悪くなかったが、これがずっと続けばどうなるのだろう、とも思う。俺のためにあけてくれた部屋にパソコンやデスクを持ち込めば仕事もできるはずだ。そろそろ社会復帰しないとまずい。
昼間はそんな焦りを感じる一方で、夜は自分でも驚くほど満たされたような、雲を踏むようにふわふわと暖かな気分だった。ゆるいヒートもおさまって、毎晩キスをしてベッドで抱きあって眠る以上のことはないが、たがいに腕を回して眠る瞬間の幸福は代えがたかった。
それなのに、昼と夜のギャップはしだいに俺を落ちつかなくさせた。葉月の写真を繰り返し眺めてしまうのはそのせいかもしれない。俺はいまだに線の一本もひいていない。おかしな話だ。眼の前に俺が長年描きたいと焦がれつづけた存在がいて俺に向かって笑うのに、描かない――描けないなんて。
スランプというのはこんなものなのかもしれない。俺はそう考えようとしたが、空良と出会ったあとのあまり出来のよくない葉月の写真をみるにつけ、心の奥に恐れが溜まるのを自覚した。だいたい、藤野谷は描かない俺をなんと思うだろう?
「俺の家の機材とか、道具だけど……」
週末を控えた夜、早めに帰宅した藤野谷と夕食を囲みながら俺はためらいがちに話を持ち出した。藤野谷の反応は速かった。
「運ばせようか? いや、サエが自分でやった方がいいのか。車を手配して――」
「全部持ってくる必要はないんだ。多すぎる」
俺はあわてて口を挟む。
「最近――スランプ気味だから、気分を変えるものを持ってくればいいのかと思って。仕事も再開できるし……」
「サエ、有象無象が引き受けるような仕事ならする必要はない」
藤野谷がきっぱりという。
「才能を生かすものに絞るべきだ。ルクスの黒崎さんもアーティストとしてのサエを買ってる」
「でも」
俺はどんな風に話せばいいかと迷った。
「俺はしばらく描いてない。描く気に……なれなくて。それならルーティンワークみたいなデザイン仕事でも、ないよりはましだ」
藤野谷は箸を置き、俺をじっと見た。
「気が乗らないなら休んだっていいじゃないか。サエは何年もフリーでやってきただろう。充電だと思ってすこし休めばいい。無理しなくていい」
「無理しているわけじゃない」
俺は語気を強めた。
「ただ……不安になるんだ。俺はただの……絵描きで、フリーのデザイン稼業で飯を食ってきて、業界には俺みたいなのはたくさんいる。それにただの絵描きが描かなくなったら――」
「それでもサエには変わりない」
「おまえはTEN‐ZEROがあるからいいよ。俺はこれまでこんな風に描けなくなったことなんて、ない」
俺は自分でも思いがけず強い口調でいい放ち、すぐに後悔した。
箸を置いて立ち上がる。リビングのソファに腰をおろしてテレビをつけた。拉致されてから俺はネットをほとんど見なかった。モバイルでメールや通話の確認はするが、それだけだ。テレビで見るのは映画チャンネルばかりで、たいていはモノクロの古い映画を選ぶ。
適当に番組を探し、リモコンを置いて眼を閉じる。藤野谷に何をいってもやつあたりにしかならないのはわかっていた。子供じみていて、恥ずかしかった。
クッションの横に重みがかかった。藤野谷の匂いが俺を包む。
あいつがすぐそばにいる。
それだけで安心してしまう自分が怖かった。何もしなくても、描かなくなってもかまわないと納得しそうな自分が怖かった。頭の片隅にはそんなのは断然間違っていると叫ぶ俺がいる。どれだけ藤野谷が俺を好きだといい、運命のつがいなんて絆があるのだとしても、それだけではだめだ。
「天」
俺は目をとじたままつぶやいた。
「このままずっと……何もやる気になれなかったらどうしよう」
「サエ」
「おまえは休めばいいというけど、俺は……不安でたまらない。単におまえにくっついているだけなんて……」
「大丈夫だ」
俺は藤野谷の吐息をひたいで受ける。肩と背中に手のひらの温もりを感じる。
「十分休んでないからそんな風に思うんだ。サエがここ数カ月、どれだけ大変だったかわかってる。夏には俺も休暇をとるから、旅行にでもいこう。気分転換になる」
優しい声だ。それなのに俺は藤野谷の言葉を耳半分で聞いていた。
「天、俺は……葉月みたいになってしまうのかもしれない」
「葉月?」
「俺が……ろくに何も描けなくなっても、おまえは大丈夫?」
閉じた目尻に藤野谷の指がそっと触れた。抱きしめられ、耳の裏側を愛撫される。穏やかで心地よい。でも不安は消えない。
「馬鹿サエ。当たり前のことを聞くな」
きっと俺は、ほんとうはそんなことを聞きたかったわけではなかったのだ。ずっと長い間、離れていたあいだも、俺はひそかに藤野谷を自分が絵を描くための動機のように、導火線のように思っていた。いまだにそれは変わらないはずだ。藤野谷が話をもちかけ、俺はそれを実現するために描く。運命のつがいなんて関係なく、そんなつながりは何よりも俺にとって大切だったはずだ。
でも今、俺は何も――まったく何もやる気になれないと来ている。ただ藤野谷に抱きしめられて、それ以上は何もいらないと思っている。
藤野谷の匂いが強くなるのを感じた。唇が重なってくる。おたがいの舌が触れあい、口の中を愛撫される。背筋がぞくぞくし、うなじの奥をひくひくと押されるような感覚がやってくる。俺はソファに沈みこみ、藤野谷の髪に指をからめてキスをもっと深くする。ずれた藤野谷の唇が俺の耳のうしろから首のうしろにおりてくる。甘い匂いに包まれて俺の中に渇望が頭をもたげた。もっと激しくそこ、うなじの――
「天……?」
目を閉じたまま俺はつぶやいた。
「何?」
藤野谷の吐息は熱かった。
「前におまえ――いったよな……落ち着いたら……俺たち――」
ふいに藤野谷のモバイルが鳴った。
目をあけると藤野谷はいらだちを隠しもせずに機械を取り出した。一瞬ためらったようにみえた。眉をひそめて体を起こし、通話に出る。
「はい。めずらしいですね。ええ。え? ――そうですか。でもまだはや……待ってください。確認して折り返します」
通話を切った藤野谷の表情はこわばって、困惑した様子だった。
「どうした?」と俺はたずねる。
「今のは……父からだ。明日はふたりとも本家にいるから、サエと一緒に来ないかと」
「……藤野谷家の当主?」
自分の父親なのに、藤野谷の口調はひどくよそよそしかった。
「ああ。サエの診断が出たら報告に来いとは一度いわれていたんだ」
「――俺の検査結果のことか?」
最後に病院を出る前に、俺はオメガ性機能について最先端の検査を受けていた。
「サエが嫌なら断る。まだ休養中だといってある」
俺は体を起こした。乱れたシャツの裾をひいて直す。
「大丈夫だよ。行こう」
「いいのか?」
俺はうなずいた。
「どうせいつかは会わないと。おかしいだろう?」
藤野谷は黙ったまま目を細め、俺の髪を撫でた。立ち上がると棚で仕切った書斎スペースへ歩きながらモバイルをタップする。俺は首のうしろを手でこする。ついさっきまでここを噛んでほしいと思っていたのに、すっかりそんな雰囲気でなくなってしまった。
俺と藤野谷はまだ、本来の意味でつがいになっていなかった。
キッチンへ汚れた皿を運びながら、俺はまた葉月のことを考えていた。藤野谷の両親――当主と妻の紫は俺のことをどう思っているのだろう。俺は一度藤野谷家に嫁ぎながら、藤野谷家の子供を産まなかった葉月の息子だ。葉月は本人の希望で、亡くなる直前に佐井家の姓に戻っている。もし葉月が藤野谷藍閃との間にアルファの子供を産んでいれば、現当主――藤野谷藍晶や紫の立場は今とはまったく違っていただろう。
最近の俺には葉月の亡霊がつきまとっているような気がする。痕跡はわずかなのに、彼はいたるところにいる。
渡来が以前俺に渡してくれた写真――藤野谷本家に残されていた葉月のもの――はポートフォリオの最後のページへ入れた。どれも風景写真だから、空良と出会う前に撮ったものかもしれない。望遠レンズで撮影された蓮のシリーズは悪くなかった。
藤野谷は生活必需品の買い物をすべて宅配ですませている。ふだんの夕食はTEN‐ZEROの社内か外食、あるいは弁当を買って持ち帰るかで、朝と休日に多少料理をする程度だという。キッチンには包丁、鍋、まな板、フライパンといった基本的な道具や最低限の調味料はあったが、スパイスはない。掃除を人に頼んでいるせいだろう、マンションは清潔で、IHコンロはピカピカだ。
最初の夜は俺も藤野谷も妙に緊張していた。しばらく続いた俺のゆるいヒートはほぼおさまっていて、俺たちはぎこちなくベッドに入り、もごもごと話をし、キスをかわし、いつのまにか眠っていた。
翌朝、俺はいつになくぱっちりと、藤野谷より早く目が覚めてしまった。ベッドもあたりにぶら下がった服も、当然のことながら藤野谷の匂いでいっぱいだし、すぐ隣では本人が寝息を立てている。
俺は横になったまま、この状態が当然のような、でも慣れないような、妙に矛盾した気持ちでぼんやりと視線をさまよわせた。藤野谷のジャケットが壁にかかっている。以前、あいつが俺の家に忘れていったもの。スーツケースに入れっぱなしになっていたのを昨夜やっと救出したのだ。
「うーん……」
藤野谷が唸った。起きたのだろうか?
寝返りをうとうとして、パジャマを着た下半身がぴったりくっついているのにあらためて気づく。藤野谷の目がうすく開いた。
「サエ……」
俺たちはまたキスをする。
昨夜とちがって唇をあわせるのはとても自然な感じがした。ついばむようなキスが深くなり、俺は舌をさしだし、藤野谷も俺を求めた。おたがいの口を探っている最中にモバイルが鳴り、藤野谷はあわててシャワーを浴びると、仕事に行った。
それにしても、料理をして藤野谷の帰りを待つなんて、俺は本来そんな性格じゃないと思う。でもあいかわらず何のやる気も感じなかったので、そっちの方がまだ、何となく一日が終わるよりはましだと思った。ありあわせの食材で夕飯をつくり、夜、玄関で「お帰り」と出迎えると、藤野谷は顔を崩し、心底嬉しそうに笑った。
そんな毎日がつづいた。藤野谷の帰宅はまちまちで、あいつの笑顔をみるのは悪くなかったが、これがずっと続けばどうなるのだろう、とも思う。俺のためにあけてくれた部屋にパソコンやデスクを持ち込めば仕事もできるはずだ。そろそろ社会復帰しないとまずい。
昼間はそんな焦りを感じる一方で、夜は自分でも驚くほど満たされたような、雲を踏むようにふわふわと暖かな気分だった。ゆるいヒートもおさまって、毎晩キスをしてベッドで抱きあって眠る以上のことはないが、たがいに腕を回して眠る瞬間の幸福は代えがたかった。
それなのに、昼と夜のギャップはしだいに俺を落ちつかなくさせた。葉月の写真を繰り返し眺めてしまうのはそのせいかもしれない。俺はいまだに線の一本もひいていない。おかしな話だ。眼の前に俺が長年描きたいと焦がれつづけた存在がいて俺に向かって笑うのに、描かない――描けないなんて。
スランプというのはこんなものなのかもしれない。俺はそう考えようとしたが、空良と出会ったあとのあまり出来のよくない葉月の写真をみるにつけ、心の奥に恐れが溜まるのを自覚した。だいたい、藤野谷は描かない俺をなんと思うだろう?
「俺の家の機材とか、道具だけど……」
週末を控えた夜、早めに帰宅した藤野谷と夕食を囲みながら俺はためらいがちに話を持ち出した。藤野谷の反応は速かった。
「運ばせようか? いや、サエが自分でやった方がいいのか。車を手配して――」
「全部持ってくる必要はないんだ。多すぎる」
俺はあわてて口を挟む。
「最近――スランプ気味だから、気分を変えるものを持ってくればいいのかと思って。仕事も再開できるし……」
「サエ、有象無象が引き受けるような仕事ならする必要はない」
藤野谷がきっぱりという。
「才能を生かすものに絞るべきだ。ルクスの黒崎さんもアーティストとしてのサエを買ってる」
「でも」
俺はどんな風に話せばいいかと迷った。
「俺はしばらく描いてない。描く気に……なれなくて。それならルーティンワークみたいなデザイン仕事でも、ないよりはましだ」
藤野谷は箸を置き、俺をじっと見た。
「気が乗らないなら休んだっていいじゃないか。サエは何年もフリーでやってきただろう。充電だと思ってすこし休めばいい。無理しなくていい」
「無理しているわけじゃない」
俺は語気を強めた。
「ただ……不安になるんだ。俺はただの……絵描きで、フリーのデザイン稼業で飯を食ってきて、業界には俺みたいなのはたくさんいる。それにただの絵描きが描かなくなったら――」
「それでもサエには変わりない」
「おまえはTEN‐ZEROがあるからいいよ。俺はこれまでこんな風に描けなくなったことなんて、ない」
俺は自分でも思いがけず強い口調でいい放ち、すぐに後悔した。
箸を置いて立ち上がる。リビングのソファに腰をおろしてテレビをつけた。拉致されてから俺はネットをほとんど見なかった。モバイルでメールや通話の確認はするが、それだけだ。テレビで見るのは映画チャンネルばかりで、たいていはモノクロの古い映画を選ぶ。
適当に番組を探し、リモコンを置いて眼を閉じる。藤野谷に何をいってもやつあたりにしかならないのはわかっていた。子供じみていて、恥ずかしかった。
クッションの横に重みがかかった。藤野谷の匂いが俺を包む。
あいつがすぐそばにいる。
それだけで安心してしまう自分が怖かった。何もしなくても、描かなくなってもかまわないと納得しそうな自分が怖かった。頭の片隅にはそんなのは断然間違っていると叫ぶ俺がいる。どれだけ藤野谷が俺を好きだといい、運命のつがいなんて絆があるのだとしても、それだけではだめだ。
「天」
俺は目をとじたままつぶやいた。
「このままずっと……何もやる気になれなかったらどうしよう」
「サエ」
「おまえは休めばいいというけど、俺は……不安でたまらない。単におまえにくっついているだけなんて……」
「大丈夫だ」
俺は藤野谷の吐息をひたいで受ける。肩と背中に手のひらの温もりを感じる。
「十分休んでないからそんな風に思うんだ。サエがここ数カ月、どれだけ大変だったかわかってる。夏には俺も休暇をとるから、旅行にでもいこう。気分転換になる」
優しい声だ。それなのに俺は藤野谷の言葉を耳半分で聞いていた。
「天、俺は……葉月みたいになってしまうのかもしれない」
「葉月?」
「俺が……ろくに何も描けなくなっても、おまえは大丈夫?」
閉じた目尻に藤野谷の指がそっと触れた。抱きしめられ、耳の裏側を愛撫される。穏やかで心地よい。でも不安は消えない。
「馬鹿サエ。当たり前のことを聞くな」
きっと俺は、ほんとうはそんなことを聞きたかったわけではなかったのだ。ずっと長い間、離れていたあいだも、俺はひそかに藤野谷を自分が絵を描くための動機のように、導火線のように思っていた。いまだにそれは変わらないはずだ。藤野谷が話をもちかけ、俺はそれを実現するために描く。運命のつがいなんて関係なく、そんなつながりは何よりも俺にとって大切だったはずだ。
でも今、俺は何も――まったく何もやる気になれないと来ている。ただ藤野谷に抱きしめられて、それ以上は何もいらないと思っている。
藤野谷の匂いが強くなるのを感じた。唇が重なってくる。おたがいの舌が触れあい、口の中を愛撫される。背筋がぞくぞくし、うなじの奥をひくひくと押されるような感覚がやってくる。俺はソファに沈みこみ、藤野谷の髪に指をからめてキスをもっと深くする。ずれた藤野谷の唇が俺の耳のうしろから首のうしろにおりてくる。甘い匂いに包まれて俺の中に渇望が頭をもたげた。もっと激しくそこ、うなじの――
「天……?」
目を閉じたまま俺はつぶやいた。
「何?」
藤野谷の吐息は熱かった。
「前におまえ――いったよな……落ち着いたら……俺たち――」
ふいに藤野谷のモバイルが鳴った。
目をあけると藤野谷はいらだちを隠しもせずに機械を取り出した。一瞬ためらったようにみえた。眉をひそめて体を起こし、通話に出る。
「はい。めずらしいですね。ええ。え? ――そうですか。でもまだはや……待ってください。確認して折り返します」
通話を切った藤野谷の表情はこわばって、困惑した様子だった。
「どうした?」と俺はたずねる。
「今のは……父からだ。明日はふたりとも本家にいるから、サエと一緒に来ないかと」
「……藤野谷家の当主?」
自分の父親なのに、藤野谷の口調はひどくよそよそしかった。
「ああ。サエの診断が出たら報告に来いとは一度いわれていたんだ」
「――俺の検査結果のことか?」
最後に病院を出る前に、俺はオメガ性機能について最先端の検査を受けていた。
「サエが嫌なら断る。まだ休養中だといってある」
俺は体を起こした。乱れたシャツの裾をひいて直す。
「大丈夫だよ。行こう」
「いいのか?」
俺はうなずいた。
「どうせいつかは会わないと。おかしいだろう?」
藤野谷は黙ったまま目を細め、俺の髪を撫でた。立ち上がると棚で仕切った書斎スペースへ歩きながらモバイルをタップする。俺は首のうしろを手でこする。ついさっきまでここを噛んでほしいと思っていたのに、すっかりそんな雰囲気でなくなってしまった。
俺と藤野谷はまだ、本来の意味でつがいになっていなかった。
キッチンへ汚れた皿を運びながら、俺はまた葉月のことを考えていた。藤野谷の両親――当主と妻の紫は俺のことをどう思っているのだろう。俺は一度藤野谷家に嫁ぎながら、藤野谷家の子供を産まなかった葉月の息子だ。葉月は本人の希望で、亡くなる直前に佐井家の姓に戻っている。もし葉月が藤野谷藍閃との間にアルファの子供を産んでいれば、現当主――藤野谷藍晶や紫の立場は今とはまったく違っていただろう。
最近の俺には葉月の亡霊がつきまとっているような気がする。痕跡はわずかなのに、彼はいたるところにいる。
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