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第3部 ギャラリー・ルクス
24.鷲の爪痕(前編)
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薄闇の中でふるえるように音が響く。
三六〇度、上と下と左右の壁から音が降ってくる。壁の上方にならんだ液晶モニターに光の図形が描かれる。奥の暗がりに大きな影が座っている。ゆっくり近づくと、鍵盤の上に自動演奏の装置を仕掛けたピアノだった。部屋の一部にスポットが当たると観客はみなそちらを向く。暗い照明に照らされた古いラジオ、音響装置が途切れがちの音を鳴らす。突然ピアノの鍵盤が動いて和音を鳴らし、頭上から降る音楽とまざった。
もし自分の作品を三次元に展開するとしたら、俺もこんなインスタレーションを考えるだろうか。
影がちらちらと動くのをみつめながら想像してみたが、それ以上の思考は動かなかった。展示は国内ではマニアックすぎてあまり知られていないが海外では著名な音楽家と技術者のチームによる作品で、ギャラリー・ルクスの空間にぴったりはまっている。TEN‐ZEROがプレス発表をした、同じ場所だった。
俺は通路を抜け、ギャラリーの吹き抜けの階段をおりた。踊り場にしつらえられたテーブルで黒崎さんと向かい合っていた藤野谷がふりむく。俺に付き合って一緒に来たのだ。
「カフェにいる」
俺は短く告げた。藤野谷はちらりと俺をみてうなずいただけだが、問題がないのはわかった。
このごろ藤野谷が以前より格段に近くなった気がする。ほぼ毎晩隣にいるせいかもしれない。すぐ近くにいるのが当たり前だと思っている自分に気づいてはっとすることもあるくらいだ。
一週間ほど前、藤野谷が出張で三日現れなかったことがあった。俺は視界に何かが足りないような気分で、ずっと部屋の中を歩き回っていた。三日目はじっとしていられず、渡来に頼んで(今の俺は藤野谷家に護衛を手配してもらわないと外へ出られないのだ)丸一日博物館と美術館にいたが、何を見てもぱっとしなかった。スケッチブックもクロッキー帳も白いままだ。
俺は描いていない。あれからずっと。
「いくらゼロでも、描かなかった時期くらいあったんじゃないの?」
Cafe Nuitのカウンターでカップの持ち手をくるくる回していると、マスターが慰めるような声で訊ねる。コーヒーに注いだミルクが渦を巻くのを俺はみつめていた。
「……ない気がする」
「ゼロ、それいつから数えてる?」
「最初にチョークをもらったときから……覚えているかぎりだけど」
「チョーク?」
「家かな? それとも保育園か幼稚園か、どこかで……地面に描いていいって渡されたんだ。ピンクと白と黄色で、線を引きまくって……楽しかったな、あれ」
マーブル模様が半分茶色の霧に変わったところで、俺は角砂糖をおとし、スプーンでかき混ぜた。そういえばマスターにもらったスプーンは俺の家に置いたままだ。もったいない。俺は何も考えずに頭に浮かんだことを口に出す。
「渦の回転の方向って、北半球と南半球で変わるとかそんな話、なかった?」
返事はなかった。忙しいのだろうと俺は気にしなかった。客はそこそこ入っているが、店内は静かだ。ここはカフェ・キノネとはかなり雰囲気がちがう。甘ったるいコーヒーを口にふくみ、ふと見上げるとマスターの眼と眼があった。
「ゼロ、大丈夫?」
「何が?」
「――大丈夫じゃなさそうだね」
「そんなことないよ。仕事もしていないし……何もする気になれないだけで」
描かないというより、むしろ描けないのだ――とは口に出したくなかった。物心ついてからずっと、呼吸をするのも同様に線を引いて生きてきたはずなのに、例の事件以来まったくその気にならない上、白い紙を前にしても自分を奮い立たせることもできないし、指がぴくりとも動かない、とは。
スケッチブックを開いてもまるで他人のもののような気がする。今日に至っては、以前自分が描いた絵を見るのもいやになって、俺は落書き用のノートを持ち歩くのもやめていた。
「まあ、ゼロは去年の冬から根詰めて働いていたんだし、例の彼のせいで人生ががらりと変わることもあったわけだし、その後は巻き込まれて大変だったわけだよね。休めってサインなんじゃないの? 最近あのうるさい連中は?」
「マスコミならいなくなった。少なくとも俺の見える範囲には」
アルファ名族の伴侶を襲撃していた一団が逮捕されたことでマスコミの視線は一気にそちらへ向いた。おまけに藤野谷グループとライバル関係にある製薬会社の社員が犯罪グループに関わっていたことがわかったとか、派手な言動で有名なベータの議員が新薬承認がらみの汚職問題でスクープされた上にオメガ差別発言でさらに槍玉に挙げられているなど、話題には事欠かない。
その一方で名族は、俺や、他の名族の伴侶が拉致された原因――オメガがアルファ名族の金融セキュリティ上の弱点になる――を解決するために、まるっと他のシステムに変更することを決めたらしい。こういった情報は慎重にコントロールされた範囲でマスコミに流されている。
そして俺の周辺は忘れ去られたかのように静かだった。もちろんそこには藤野谷家の意向も関わっているのだろうが、俺は考えないようにしていた。
気にすれば最後、行き場のない考えが止まらなくなるのは目に見えていた。いつまで俺はだらだらと「休養」することになるのか。閉め切ったままの俺の家はどうするのか。俺は藤野谷とこの先どうするのか。あいつの家は俺をどうするつもりなのか。
「藤野谷家」について考えはじめると、自然と自分の産みの親、葉月の連想も浮かんでくるが、彼のこともできるだけ意識から締め出したかった。
それなのに俺は最近、ひとりになると家から持ち出してきた葉月のポートフォリオを繰り返し眺めている。何回みても同じことなのに。
アマチュア写真家としては悪くない線をいっていたはずの葉月は、運命のつがいの空良に出会ってから、ろくな写真を残していなかった。そして空良と一緒に行方をくらまし、俺を産んだあとで藤野谷家に連れ戻されてから、葉月はあまり長く生きなかった。
「これからどうするの?」とマスターがたずねる。
「ゼロの家に帰る?」
俺は首を振る。
「荷物は置きっぱなしだけど……あそこは離れすぎだから」
「彼と?」
俺は小さくうなずいた。
「しばらくはあいつの部屋に居候することにした。俺の実家はもっと遠いし、叔父には迷惑かけてばかりだ」
マスターはしげしげと俺を眺めた。
「ほんとに大丈夫?」
俺はコーヒーカップのふちを指でなぞった。一周、二周、三周。
「たぶん……あいつに寄生していいのかどうか、わからないけど……そばにいたいし……」
「ゼロ」
マスターはカウンターに乗り出すように顔を突き出す。俺のカップを手のひらで覆う。
「前にいったよね? ここに来てもいいよ。スペースは空いてる」
「まさか」俺は思わず笑った。
「そんな」
「いや、本気だって。アルファがどんなに面倒な生き物か僕はよく知ってるからさ――あの実例のおかげで」
そういったマスターの視線の先で扉がひらき、黒崎さんと藤野谷が並んでこちらへ向かってくるところだった。以前黒崎さんに誘われた、秋のはじめに予定された新人作家展についても俺は考えないようにしていた。もうすぐ梅雨に入る時期なのに、今このていたらくなら、見送りになりそうだ。
「何かあったらいつでも連絡して」
マスターの声は真剣だった。俺はうなずき返して席を立つ。藤野谷が大股で俺のそばまで来て左側に立った。肘を軽くつかまれる。
「待たせてごめん。行こう」
俺はコーヒーの代金を払おうとしたが、マスターは首をふった。
藤野谷の住むマンションは、以前渡来に匿われた寺を見下ろす一等地にあった。
広いロビーを横切って、藤野谷は受付カウンターのコンシェルジュと話し、受け取ったカードキーを俺に渡した。セキュリティ完備のマンションで、ドアマン兼警備員がロビーの先に立っているし、居住者以外はカードキーなしだとエレベーターにも乗れないという。
中層階の奥のドアを藤野谷が開けたとたん、俺は息をのんだ。前にいる藤野谷は俺の様子に気づいていない。当たり前だ――自分の匂いなんて、自分では気づかない。でも俺はというと、閉じた空間に漂う藤野谷の香りに酔いそうになっていた。まるでギャラリー・ルクスの音響空間のように上下左右から包み込んでくる。もう慣れたと思っていたのに。
「サエ?」
藤野谷が靴を脱ぎながら怪訝な顔をする。玄関は片付いていたが殺風景だった。廊下の突き当りのドアをあけると、広い窓から光が差しこむLDKだった。一方の隅に雑誌や本が積まれた棚とパソコン、デスクがあり、もう一方の隅はテレビにステレオセットとソファ、ローテーブルが占めている。小島のようなシンクにつながるキッチンカウンターには汚れたカップが置きっぱなしだった。
「コンシェルジュに頼んで週に一度掃除を入れているけど、気になる?」
「いや……掃除くらいなら俺がするけど」
「そんなつもりでサエを連れてきたわけじゃない」
藤野谷の口調は硬かった。俺と同じように緊張しているように思えた。LDKの奥、ブルーグレイに塗られた扉のひとつをあけ、早口でいう。
「ここに荷物を入れた。掃除はしてもらったが、物置みたいなものだったから家具が何もなくて……」
「天」
「寝室はこっちだけど、もし自分のベッドが欲しかったらすぐにでも――」
「天、こっち向けよ」
俺は藤野谷のジャケットの袖をつかんだ。ふりむいた藤野谷は初めて見る表情をしていた。こわばって、自信なさげだった。
「なんて顔してるんだ」
俺は思わず笑った。藤野谷の口元がゆるんだ。
「ふつうの顔」
「嘘つけ」
「ちょっと……緊張してる」
「なんで」
「サエにがっかりされたらどうしようと思って」
「何にがっかりするんだよ」
「俺の家は……感じがよくないから。サエの家は感じがいいし、サエの匂いがするけど」
俺はいささか呆れながら藤野谷の手首をにぎる。
「何いってるんだ。住んでいる人間の匂いがするのはあたりまえだろう」
「そうとも限らない。俺が育った家はこんな感じじゃなかった。藤野谷の本宅もそうだ。父の部屋も……無趣味というか、無色無臭だな。昔から」
「でもおまえの部屋、高校の時すごくなかったか? 壁じゅうにポスターを貼ってさ……大学のときもパネルがたくさん置いてあって……」
藤野谷は意外そうに俺を見返した。
「覚えてるのか」
「そりゃ、覚えてるよ」
寝室はブルーグレーの落ちついた色合いでまとめられている。ベッドの横の壁にかけられた絵に俺の視線は止まった。
「あれ――もしかして高校のときの俺の……おまえが持ってたのか? なくなったと思ってた」
とたんに藤野谷はしまったといいたげな、うしろめたそうな顔をした。それは美術の授業で俺が描いた水彩で、校内コンクールの優秀賞をもらったあと、文化祭で他の作品に混じって掲示されたものだ。撤収のとき誰かがへまをして、俺の手元に戻ってこなかった。
たしか藤野谷もあのとき一緒に探したのに、みつからなかった。自画像の課題だ。窓ガラスに映った俺の顔と背景に映りこむクラスメイトが描かれている。藤野谷の姿も俺の近くに影のかたちで描きこまれている。
「サエが転校したあと……二年の春に生徒会の倉庫から出てきた」
「え?」
「文化祭でクラスの出し物とかサエの絵、話題になっただろう。生徒会周りの誰かが盗んで隠していたらしい。返すべきだとは思ったんだ。でもサエの行方はわからなかったし、痕跡が何もなかったから」
藤野谷の声が小さくなる。
「当時はその……俺が……預かっていてもいいだろうと思った。なのに大学で再会した時は実家に置きっぱなしで、ずっと忘れていたんだ。で、卒業してこの部屋に越したときは――サエにまた会えるかどうかわからないから、せめて持っていようと思った。ただこんなに時間が空くと……」
「たしかに今さらって感じはあるな。いいよ。おまえが持っているのなら」
ずっと昔に忘れていた自分の影が眼の前に立っているような気分だった。絵に描かれた高校生の俺はかすかにうつむいているが、視線がどこを向いているのかはわかっている。窓ガラスに映った藤野谷の影を見ているのだ。
三六〇度、上と下と左右の壁から音が降ってくる。壁の上方にならんだ液晶モニターに光の図形が描かれる。奥の暗がりに大きな影が座っている。ゆっくり近づくと、鍵盤の上に自動演奏の装置を仕掛けたピアノだった。部屋の一部にスポットが当たると観客はみなそちらを向く。暗い照明に照らされた古いラジオ、音響装置が途切れがちの音を鳴らす。突然ピアノの鍵盤が動いて和音を鳴らし、頭上から降る音楽とまざった。
もし自分の作品を三次元に展開するとしたら、俺もこんなインスタレーションを考えるだろうか。
影がちらちらと動くのをみつめながら想像してみたが、それ以上の思考は動かなかった。展示は国内ではマニアックすぎてあまり知られていないが海外では著名な音楽家と技術者のチームによる作品で、ギャラリー・ルクスの空間にぴったりはまっている。TEN‐ZEROがプレス発表をした、同じ場所だった。
俺は通路を抜け、ギャラリーの吹き抜けの階段をおりた。踊り場にしつらえられたテーブルで黒崎さんと向かい合っていた藤野谷がふりむく。俺に付き合って一緒に来たのだ。
「カフェにいる」
俺は短く告げた。藤野谷はちらりと俺をみてうなずいただけだが、問題がないのはわかった。
このごろ藤野谷が以前より格段に近くなった気がする。ほぼ毎晩隣にいるせいかもしれない。すぐ近くにいるのが当たり前だと思っている自分に気づいてはっとすることもあるくらいだ。
一週間ほど前、藤野谷が出張で三日現れなかったことがあった。俺は視界に何かが足りないような気分で、ずっと部屋の中を歩き回っていた。三日目はじっとしていられず、渡来に頼んで(今の俺は藤野谷家に護衛を手配してもらわないと外へ出られないのだ)丸一日博物館と美術館にいたが、何を見てもぱっとしなかった。スケッチブックもクロッキー帳も白いままだ。
俺は描いていない。あれからずっと。
「いくらゼロでも、描かなかった時期くらいあったんじゃないの?」
Cafe Nuitのカウンターでカップの持ち手をくるくる回していると、マスターが慰めるような声で訊ねる。コーヒーに注いだミルクが渦を巻くのを俺はみつめていた。
「……ない気がする」
「ゼロ、それいつから数えてる?」
「最初にチョークをもらったときから……覚えているかぎりだけど」
「チョーク?」
「家かな? それとも保育園か幼稚園か、どこかで……地面に描いていいって渡されたんだ。ピンクと白と黄色で、線を引きまくって……楽しかったな、あれ」
マーブル模様が半分茶色の霧に変わったところで、俺は角砂糖をおとし、スプーンでかき混ぜた。そういえばマスターにもらったスプーンは俺の家に置いたままだ。もったいない。俺は何も考えずに頭に浮かんだことを口に出す。
「渦の回転の方向って、北半球と南半球で変わるとかそんな話、なかった?」
返事はなかった。忙しいのだろうと俺は気にしなかった。客はそこそこ入っているが、店内は静かだ。ここはカフェ・キノネとはかなり雰囲気がちがう。甘ったるいコーヒーを口にふくみ、ふと見上げるとマスターの眼と眼があった。
「ゼロ、大丈夫?」
「何が?」
「――大丈夫じゃなさそうだね」
「そんなことないよ。仕事もしていないし……何もする気になれないだけで」
描かないというより、むしろ描けないのだ――とは口に出したくなかった。物心ついてからずっと、呼吸をするのも同様に線を引いて生きてきたはずなのに、例の事件以来まったくその気にならない上、白い紙を前にしても自分を奮い立たせることもできないし、指がぴくりとも動かない、とは。
スケッチブックを開いてもまるで他人のもののような気がする。今日に至っては、以前自分が描いた絵を見るのもいやになって、俺は落書き用のノートを持ち歩くのもやめていた。
「まあ、ゼロは去年の冬から根詰めて働いていたんだし、例の彼のせいで人生ががらりと変わることもあったわけだし、その後は巻き込まれて大変だったわけだよね。休めってサインなんじゃないの? 最近あのうるさい連中は?」
「マスコミならいなくなった。少なくとも俺の見える範囲には」
アルファ名族の伴侶を襲撃していた一団が逮捕されたことでマスコミの視線は一気にそちらへ向いた。おまけに藤野谷グループとライバル関係にある製薬会社の社員が犯罪グループに関わっていたことがわかったとか、派手な言動で有名なベータの議員が新薬承認がらみの汚職問題でスクープされた上にオメガ差別発言でさらに槍玉に挙げられているなど、話題には事欠かない。
その一方で名族は、俺や、他の名族の伴侶が拉致された原因――オメガがアルファ名族の金融セキュリティ上の弱点になる――を解決するために、まるっと他のシステムに変更することを決めたらしい。こういった情報は慎重にコントロールされた範囲でマスコミに流されている。
そして俺の周辺は忘れ去られたかのように静かだった。もちろんそこには藤野谷家の意向も関わっているのだろうが、俺は考えないようにしていた。
気にすれば最後、行き場のない考えが止まらなくなるのは目に見えていた。いつまで俺はだらだらと「休養」することになるのか。閉め切ったままの俺の家はどうするのか。俺は藤野谷とこの先どうするのか。あいつの家は俺をどうするつもりなのか。
「藤野谷家」について考えはじめると、自然と自分の産みの親、葉月の連想も浮かんでくるが、彼のこともできるだけ意識から締め出したかった。
それなのに俺は最近、ひとりになると家から持ち出してきた葉月のポートフォリオを繰り返し眺めている。何回みても同じことなのに。
アマチュア写真家としては悪くない線をいっていたはずの葉月は、運命のつがいの空良に出会ってから、ろくな写真を残していなかった。そして空良と一緒に行方をくらまし、俺を産んだあとで藤野谷家に連れ戻されてから、葉月はあまり長く生きなかった。
「これからどうするの?」とマスターがたずねる。
「ゼロの家に帰る?」
俺は首を振る。
「荷物は置きっぱなしだけど……あそこは離れすぎだから」
「彼と?」
俺は小さくうなずいた。
「しばらくはあいつの部屋に居候することにした。俺の実家はもっと遠いし、叔父には迷惑かけてばかりだ」
マスターはしげしげと俺を眺めた。
「ほんとに大丈夫?」
俺はコーヒーカップのふちを指でなぞった。一周、二周、三周。
「たぶん……あいつに寄生していいのかどうか、わからないけど……そばにいたいし……」
「ゼロ」
マスターはカウンターに乗り出すように顔を突き出す。俺のカップを手のひらで覆う。
「前にいったよね? ここに来てもいいよ。スペースは空いてる」
「まさか」俺は思わず笑った。
「そんな」
「いや、本気だって。アルファがどんなに面倒な生き物か僕はよく知ってるからさ――あの実例のおかげで」
そういったマスターの視線の先で扉がひらき、黒崎さんと藤野谷が並んでこちらへ向かってくるところだった。以前黒崎さんに誘われた、秋のはじめに予定された新人作家展についても俺は考えないようにしていた。もうすぐ梅雨に入る時期なのに、今このていたらくなら、見送りになりそうだ。
「何かあったらいつでも連絡して」
マスターの声は真剣だった。俺はうなずき返して席を立つ。藤野谷が大股で俺のそばまで来て左側に立った。肘を軽くつかまれる。
「待たせてごめん。行こう」
俺はコーヒーの代金を払おうとしたが、マスターは首をふった。
藤野谷の住むマンションは、以前渡来に匿われた寺を見下ろす一等地にあった。
広いロビーを横切って、藤野谷は受付カウンターのコンシェルジュと話し、受け取ったカードキーを俺に渡した。セキュリティ完備のマンションで、ドアマン兼警備員がロビーの先に立っているし、居住者以外はカードキーなしだとエレベーターにも乗れないという。
中層階の奥のドアを藤野谷が開けたとたん、俺は息をのんだ。前にいる藤野谷は俺の様子に気づいていない。当たり前だ――自分の匂いなんて、自分では気づかない。でも俺はというと、閉じた空間に漂う藤野谷の香りに酔いそうになっていた。まるでギャラリー・ルクスの音響空間のように上下左右から包み込んでくる。もう慣れたと思っていたのに。
「サエ?」
藤野谷が靴を脱ぎながら怪訝な顔をする。玄関は片付いていたが殺風景だった。廊下の突き当りのドアをあけると、広い窓から光が差しこむLDKだった。一方の隅に雑誌や本が積まれた棚とパソコン、デスクがあり、もう一方の隅はテレビにステレオセットとソファ、ローテーブルが占めている。小島のようなシンクにつながるキッチンカウンターには汚れたカップが置きっぱなしだった。
「コンシェルジュに頼んで週に一度掃除を入れているけど、気になる?」
「いや……掃除くらいなら俺がするけど」
「そんなつもりでサエを連れてきたわけじゃない」
藤野谷の口調は硬かった。俺と同じように緊張しているように思えた。LDKの奥、ブルーグレイに塗られた扉のひとつをあけ、早口でいう。
「ここに荷物を入れた。掃除はしてもらったが、物置みたいなものだったから家具が何もなくて……」
「天」
「寝室はこっちだけど、もし自分のベッドが欲しかったらすぐにでも――」
「天、こっち向けよ」
俺は藤野谷のジャケットの袖をつかんだ。ふりむいた藤野谷は初めて見る表情をしていた。こわばって、自信なさげだった。
「なんて顔してるんだ」
俺は思わず笑った。藤野谷の口元がゆるんだ。
「ふつうの顔」
「嘘つけ」
「ちょっと……緊張してる」
「なんで」
「サエにがっかりされたらどうしようと思って」
「何にがっかりするんだよ」
「俺の家は……感じがよくないから。サエの家は感じがいいし、サエの匂いがするけど」
俺はいささか呆れながら藤野谷の手首をにぎる。
「何いってるんだ。住んでいる人間の匂いがするのはあたりまえだろう」
「そうとも限らない。俺が育った家はこんな感じじゃなかった。藤野谷の本宅もそうだ。父の部屋も……無趣味というか、無色無臭だな。昔から」
「でもおまえの部屋、高校の時すごくなかったか? 壁じゅうにポスターを貼ってさ……大学のときもパネルがたくさん置いてあって……」
藤野谷は意外そうに俺を見返した。
「覚えてるのか」
「そりゃ、覚えてるよ」
寝室はブルーグレーの落ちついた色合いでまとめられている。ベッドの横の壁にかけられた絵に俺の視線は止まった。
「あれ――もしかして高校のときの俺の……おまえが持ってたのか? なくなったと思ってた」
とたんに藤野谷はしまったといいたげな、うしろめたそうな顔をした。それは美術の授業で俺が描いた水彩で、校内コンクールの優秀賞をもらったあと、文化祭で他の作品に混じって掲示されたものだ。撤収のとき誰かがへまをして、俺の手元に戻ってこなかった。
たしか藤野谷もあのとき一緒に探したのに、みつからなかった。自画像の課題だ。窓ガラスに映った俺の顔と背景に映りこむクラスメイトが描かれている。藤野谷の姿も俺の近くに影のかたちで描きこまれている。
「サエが転校したあと……二年の春に生徒会の倉庫から出てきた」
「え?」
「文化祭でクラスの出し物とかサエの絵、話題になっただろう。生徒会周りの誰かが盗んで隠していたらしい。返すべきだとは思ったんだ。でもサエの行方はわからなかったし、痕跡が何もなかったから」
藤野谷の声が小さくなる。
「当時はその……俺が……預かっていてもいいだろうと思った。なのに大学で再会した時は実家に置きっぱなしで、ずっと忘れていたんだ。で、卒業してこの部屋に越したときは――サエにまた会えるかどうかわからないから、せめて持っていようと思った。ただこんなに時間が空くと……」
「たしかに今さらって感じはあるな。いいよ。おまえが持っているのなら」
ずっと昔に忘れていた自分の影が眼の前に立っているような気分だった。絵に描かれた高校生の俺はかすかにうつむいているが、視線がどこを向いているのかはわかっている。窓ガラスに映った藤野谷の影を見ているのだ。
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