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第3部 ギャラリー・ルクス
9.錯視の迷路
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Cafe Nuitの扉を開けるとコーヒーのいい香りが鼻をくすぐった。午後の早い時間だが、窓の少ないカフェは名前の通り夜の雰囲気だ。中央に置かれたコの字型のカウンターを回った時「ゼロ」と声をかけられた。
「来たね。こっち」
カウンターの内側からマスターの顔がのぞく。ゆびさされた奥のソファ席に黒崎さんの大きな影があった。テーブルに、先週TEN‐ZERO本社で受けたインタビューの後で寄ったとき、マスターに軽い調子で頼まれて預けた俺のポートフォリオが置かれていた。数日前に黒崎さんからメールで連絡があり、それで今日俺はここにきたのだった。
「どうもありがとう。お返しする」
黒崎さんに改まって礼をいわれ、俺はとまどった。
「何年も前から知り合いなのに作品を見せてもらったのははじめてだった。申し訳ない」
「いえ、とんでもない」
「ところでひとつ提案があるんだが、今後季節ごとに、新人作家をあつめた企画展を考えている。審査した上で扱うことになるが、出して見ないか? 新作でも旧作でもいい」
俺は口をあけ、馬鹿っぽくみえることに気づいて閉じた。
「それは……光栄ですが」
「絵画展や個展を考えたことは一度もないのかい?」
「趣味でしたから」
俺はぼそぼそと答えた。
「仕事じゃないし、人に見てもらおうとも思っていなくて。ポートフォリオも今回のTEN‐ZEROで取材が来たのであわてて作ったんです」
「デジタル作品はネットで発表していたんだろう?」
「デジタルは……元の絵がわからなくなるので、俺としては問題がなくて」
「面白いことをいうね。ともかくゆっくり考えてくれないか」
どきどきする心臓を抑えて俺はうなずいた。きっと長年ベータを偽装していたせいだろう。俺はまったく自分の絵を世間に見せて評価を受けようとは考えなかった。むしろそうなるのが怖くて動画は匿名で公開していたくらいなのだ。
黒崎さんは考え深そうな眼つきで俺を眺めていたが、よろしく、と手を出した。俺も手を出して握手する。体の大きさにふさわしい大きな手だった。
するとちょうどモバイルが震えだした。取り出すと藤野谷からだ。俺は軽く頭を下げて出た。
『サエ、いまどこにいる?』
何かまずいことが起きたと俺は直観した。きっと、これまで聞いたことがないくらい低い響きだったせいだろう。
「ギャラリー・ルクスのカフェ」
『急ぎの話がある。渡来さんがそこへ行くから待っていてくれないか。外に出ないで』
「なぜ?」
『お願いだ。本当は俺が行きたいんだが』
「わかった」
俺は意識せずに顔をしかめていたようだ。通話を切ると怪訝な眼つきをしている黒崎さんにあわてていう。
「すみません。急にここで待ち合わせをすることになって」
「ああ。ゆっくりしていくといい」
いったい何が起きたのだろうか。動悸が速くなり、いましがたの黒崎さんの話でふくらんだ気分があっという間にしぼんで落ちた。急に甘いものが食べたくなった。俺は入口に面した透明なケースにはキッシュやスコーン、ケーキが陳列されていたのを思い出し、ウエイターにチョコレートのタルトとコーヒーを頼んだ。
ナッツがまぶされたタルトを半分ほど食べたところで渡来が到着した。前も見たツイードのジャケットを着た姿はこのカフェの雰囲気にぴったりで、海外の探偵ドラマに登場しそうな雰囲気だ。
「すまないね」
渡来は俺のところまで来て確認するようにちらりと辺りを見回すと、さっきまで黒崎さんが座っていた場所に腰をおろした。メニューを眺めてウエイターに「ほうじ茶」という。
落ちついた渡来の様子に俺が安心したかというと、その逆だった。モバイルで話したときの藤野谷の声を思い出して、胸騒ぎがひどくなった。
「何かありました?」
「先にいっておくが、あまりショックを受けないでほしい」
俺は眉をひそめた。
「何です?」
渡来はウエイターがテーブルに並べた急須と湯呑みを端にずらした。ブリーフケースから、表紙にどぎつい色とロゴが踊る雑誌を取り出して置く。
「もう裁断に回っているから、心配しなくていい。ざっと見なさい」
付箋が貼られたページの半分に写真が載っていた。隠し撮りらしいガラス越しのぼやけた像だが、藤野谷と俺の横顔だとはっきりわかる。藤野谷の腕が俺の背中にまわされている。唇の重なりはドア枠でさえぎられて、なおさら思わせぶりな写真だった。
テーブルの上で俺は指を握りしめた。あの名族の会合だろう。
『藤野谷家の跡継ぎ、藤野谷天藍といえば、オーダーメイドフレグランスで他社と一線を画したTEN‐ZEROの……』
急いで記事に眼を走らせたが、俺の名前が登場したところでさっと渡来に下げられた。彼は不満げな俺をじっとみてゆっくりと首を左右にふる。
「すべて回収済みだ。カメラマンもライターも特定したし、二度はないように対策をとる」
「何が書かれているんです?」
「天藍の結婚についてのゴシップと、TEN‐ZEROのプロモーション映像は盗作作家によるものらしい、という話だ」
俺は言葉に詰まった。渡来は落ちつけ、というようにテーブルの上で手を組み合わせる。
「大丈夫かね?」
うなずいた俺を確認するようにみつめて渡来は湯呑みを置く。急須のふたを開けて中をのぞき、もとに戻した。
「会合の写真はマスコミ公開はNGと決まっている。押さえるのは難しくなかった。写真を撮られたのは我々の落ち度だ。もっとも会合での行動は少し軽はずみだったといえるが」
「すみません」
うなだれて食べかけのタルトをみつめる。コーヒーカップをまわし、底に残った茶色の液体をゆるく回転させた。渡来の視線を感じて眼をあげると、彼はしらっとした顔でほうじ茶を湯呑みに注いでいる。香ばしい匂いがあたりに広がる。
「ひとの目には欠点がたくさんある」
渡来は穏やかな声でいった。
「絵画のことはよく知らないが、私は騙し絵が好きだ。盲点や錯視を使った絵や、永久に続く階段のようなものを描いた絵が好きだ。自分の眼でじかに見たものがかならず真実ではないこと、ひとはすべてを見ることができないのを思い出すからね。とはいえ、みんながそう考えるわけではないし、見たものを考え無しに信じる者は多い。私は無用な問題が起きるのを阻止したいし、天藍ときみをつまらない問題から遠ざけたいと思っている。だから申し訳ないんだが、しばらくひとりでの都内の外出は控えてくれないか。用心してほしい」
俺はうつむいたまま返事をした。
「ええ」
「すまないな。きみにしてみればとばっちりもいいところだろう。藤野谷家に含むところがたくさんあるのは見当がつく。だが……」
俺は即答した。
「そんなことはありません。それに俺は藤野谷の足をひっぱりたくないので」
「ありがとう。天藍に代わって礼をいう」
急に肩が凝った。せっかくのチョコタルトの味もよくわからなくなってしまった。会計をすませると渡来は家まで送るといい、俺は黙って従った。
カフェのすぐ前につけられたセダンに乗り込み、俺の家まで車を走らせる間、渡来は藤野谷のようにラジオを流し続けていた。家の門扉の前に車がとまり、俺が礼をいってドアをあけたとき、彼はふと思い出したように唐突にいった。
「今度、きみに渡したいものがある」
俺はもう車の外に体半分出していたところだった。あわてて問い返す。
「何ですか?」
「渡すもの、いや返すものというべきかもしれないな。写真が出てきたのでね」
「写真?」
「藤野谷家に残されていた佐井葉月の遺品だ」
俺は驚いて運転席の男を見返した。渡来は俺の困惑を見てとったのか、落ちつかせるように手をあげた。
「私が保管しているから、つぎの機会に必ず渡そう。では、気をつけて」
気をつけるといっても、家に帰れば特にすることはない。
まだ夜にもなっていなかった。穏やかな気分にはまったくなれなかったが、何ができるわけでもない。隠し撮り画像や本社のまえをうろついていた男のことを心から締め出し、俺はまず残った仕事を片づけることに専念した。エージェントAI経由で受けた仕事のチェックをすませて納品する。先の予定はあまりなかった。思い出してもう一度暁にメールを入れる。
暁には先日から何度かメールを送っているのだが、返事がなかった。以前は仕事がなくてもメールで雑談めいたやりとりや情報交換をしていたのに。
ずっと気にかかっていたのはTEN‐ZEROのプレス会見だ。暁は俺がオメガと知って、それをよく思わなかったのだろうか。あるいはずっとベータのふりをして接していたことを気に入らなかったのかもしれない。
一部のベータの男にはオメガの男を激しく嫌悪する傾向がある。同性のベータが好きな者もその中には含まれた。よくある説明は、オメガの男は彼らから見ると中途半端な存在で、そこが我慢できないのだ、といったものだ。
しかし理由なんてどうでもいいことではあった。第一、騙していたのは俺の方なのだ。エージェントといっても専属契約を結んでいるわけでもない。単に返事をするほどの用事がないと思われているだけなのかもしれない。
妙にくよくよした気分なのは昼間の話をひきずっているからにちがいない。頭がうまく働いていないようにも思う。
俺はためいきをつき、今度は藤野谷にモバイルでつないでみた。話中だった。帰ったときも一度かけたが、やはり話中だった。渡来が見せた雑誌の件もあるし、忙しいのだろう。
キーボードを叩き、TEN‐ZERO/Singularityのサイトへつなぐ。プロモーション動画は動画サイトにもアップされていた。何の気なしに俺はコメント欄まで画面をスクロールした。最新の書きこみに目がとまる。
『スピフォトから飛んだけど、この映像は面白いです。ゴシップ興味ないから』
『見かけ倒しでしょ』
『カッコイイ』
『何かに似てない?』
『ニュース?』
スピフォト。嫌な予感がした。コメントの返信に貼られたリンクをクリックする。スピードフォトニュースは画面いっぱいの大きな写真が売りのニュースサイトだが、内容は玉石混交だ。芸能人や名族のゴシップから犯罪シーンに暴動事件、自然災害まで、手に入る最良の画像で報道すると宣言しているが、よく方々から訴えられてもいる。
俺は切り替わった画面をみつめ、まばたきした。
映っていたのはギャラリー・ルクスのエントランスだ。粗悪な写真ではなかった。むしろ良い写真だろう。映っているのが俺と――俺の耳元に唇をよせている藤野谷でなければ。
俺は画面を下にスクロールした。画像は藤野谷が俺の背中に腕を回した、その瞬間の連写だった。カメラマンの腕はよかった。トップに使われた一枚はほとんど芸術写真といってもいいようなスナップだ。渡来が持ってきた雑誌の写真とは段違いだ。最後の一枚は緑道公園を歩く俺の背中だった。
サイトの上に大きく見出しが載っている。
『新薬開発投資でトップを走る藤野谷グループの御曹司、藤野谷天藍についに恋人?』
心臓がばくばく鳴った。俺は公の場所に晒された自分の顔をみつめ、落ち着け、といいきかせた。顔なんてもともとメディアに出ているのだから、驚くことはない。プレス会見に出たし、何度か取材も受けた。こんなところで出くわすと思っていなかっただけだ。
写真の下に続く詳細を読むのが怖かった。俺は立ちあがり、部屋の中を歩き回り、リビングから廊下へ出て、キッチンを回り、玄関からガレージへ出た。明かりをつけ、ガレージの真ん中で静かに待機しているロードバイクをみつめる。足がふらついて、どうもおかしいなと思った。熱でもあるのだろうか。それともこの感じは、もしかすると……。
外でタイヤが小石を蹴散らす音が聞こえた。
心臓がまた跳ね上がり、俺は大げさにびくっとした。門扉のカメラ画像には見慣れない軽乗用車が映っていて、心臓の鼓動がさらに大きくなる。ポケットのモバイルが震えた。
『サエ。開けて』
藤野谷の声が聞こえる。
俺は大きく息をつき、ガレージの壁にもたれた。全身を安堵が駆けめぐり、ほとんどへたりこみそうだった。同時に別の熱が体をぐるりとめぐるのも感じる。
いいかげんにしろよ、と自分自身に俺は毒づいた。今年に入って何回目だ? 四回目? ほぼ毎月なんて、どうかしてる――
『サエ』
つながったままのモバイルから藤野谷の声が聞こえた。
「いま行く」
俺はガレージのシャッターをあけた。車の窓がさがり、藤野谷の腕が振られるのをみる。あの〈色〉が視界を覆った。まぶしく光る夜の藍色にちらちらと光が舞っている。
「来たね。こっち」
カウンターの内側からマスターの顔がのぞく。ゆびさされた奥のソファ席に黒崎さんの大きな影があった。テーブルに、先週TEN‐ZERO本社で受けたインタビューの後で寄ったとき、マスターに軽い調子で頼まれて預けた俺のポートフォリオが置かれていた。数日前に黒崎さんからメールで連絡があり、それで今日俺はここにきたのだった。
「どうもありがとう。お返しする」
黒崎さんに改まって礼をいわれ、俺はとまどった。
「何年も前から知り合いなのに作品を見せてもらったのははじめてだった。申し訳ない」
「いえ、とんでもない」
「ところでひとつ提案があるんだが、今後季節ごとに、新人作家をあつめた企画展を考えている。審査した上で扱うことになるが、出して見ないか? 新作でも旧作でもいい」
俺は口をあけ、馬鹿っぽくみえることに気づいて閉じた。
「それは……光栄ですが」
「絵画展や個展を考えたことは一度もないのかい?」
「趣味でしたから」
俺はぼそぼそと答えた。
「仕事じゃないし、人に見てもらおうとも思っていなくて。ポートフォリオも今回のTEN‐ZEROで取材が来たのであわてて作ったんです」
「デジタル作品はネットで発表していたんだろう?」
「デジタルは……元の絵がわからなくなるので、俺としては問題がなくて」
「面白いことをいうね。ともかくゆっくり考えてくれないか」
どきどきする心臓を抑えて俺はうなずいた。きっと長年ベータを偽装していたせいだろう。俺はまったく自分の絵を世間に見せて評価を受けようとは考えなかった。むしろそうなるのが怖くて動画は匿名で公開していたくらいなのだ。
黒崎さんは考え深そうな眼つきで俺を眺めていたが、よろしく、と手を出した。俺も手を出して握手する。体の大きさにふさわしい大きな手だった。
するとちょうどモバイルが震えだした。取り出すと藤野谷からだ。俺は軽く頭を下げて出た。
『サエ、いまどこにいる?』
何かまずいことが起きたと俺は直観した。きっと、これまで聞いたことがないくらい低い響きだったせいだろう。
「ギャラリー・ルクスのカフェ」
『急ぎの話がある。渡来さんがそこへ行くから待っていてくれないか。外に出ないで』
「なぜ?」
『お願いだ。本当は俺が行きたいんだが』
「わかった」
俺は意識せずに顔をしかめていたようだ。通話を切ると怪訝な眼つきをしている黒崎さんにあわてていう。
「すみません。急にここで待ち合わせをすることになって」
「ああ。ゆっくりしていくといい」
いったい何が起きたのだろうか。動悸が速くなり、いましがたの黒崎さんの話でふくらんだ気分があっという間にしぼんで落ちた。急に甘いものが食べたくなった。俺は入口に面した透明なケースにはキッシュやスコーン、ケーキが陳列されていたのを思い出し、ウエイターにチョコレートのタルトとコーヒーを頼んだ。
ナッツがまぶされたタルトを半分ほど食べたところで渡来が到着した。前も見たツイードのジャケットを着た姿はこのカフェの雰囲気にぴったりで、海外の探偵ドラマに登場しそうな雰囲気だ。
「すまないね」
渡来は俺のところまで来て確認するようにちらりと辺りを見回すと、さっきまで黒崎さんが座っていた場所に腰をおろした。メニューを眺めてウエイターに「ほうじ茶」という。
落ちついた渡来の様子に俺が安心したかというと、その逆だった。モバイルで話したときの藤野谷の声を思い出して、胸騒ぎがひどくなった。
「何かありました?」
「先にいっておくが、あまりショックを受けないでほしい」
俺は眉をひそめた。
「何です?」
渡来はウエイターがテーブルに並べた急須と湯呑みを端にずらした。ブリーフケースから、表紙にどぎつい色とロゴが踊る雑誌を取り出して置く。
「もう裁断に回っているから、心配しなくていい。ざっと見なさい」
付箋が貼られたページの半分に写真が載っていた。隠し撮りらしいガラス越しのぼやけた像だが、藤野谷と俺の横顔だとはっきりわかる。藤野谷の腕が俺の背中にまわされている。唇の重なりはドア枠でさえぎられて、なおさら思わせぶりな写真だった。
テーブルの上で俺は指を握りしめた。あの名族の会合だろう。
『藤野谷家の跡継ぎ、藤野谷天藍といえば、オーダーメイドフレグランスで他社と一線を画したTEN‐ZEROの……』
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「すべて回収済みだ。カメラマンもライターも特定したし、二度はないように対策をとる」
「何が書かれているんです?」
「天藍の結婚についてのゴシップと、TEN‐ZEROのプロモーション映像は盗作作家によるものらしい、という話だ」
俺は言葉に詰まった。渡来は落ちつけ、というようにテーブルの上で手を組み合わせる。
「大丈夫かね?」
うなずいた俺を確認するようにみつめて渡来は湯呑みを置く。急須のふたを開けて中をのぞき、もとに戻した。
「会合の写真はマスコミ公開はNGと決まっている。押さえるのは難しくなかった。写真を撮られたのは我々の落ち度だ。もっとも会合での行動は少し軽はずみだったといえるが」
「すみません」
うなだれて食べかけのタルトをみつめる。コーヒーカップをまわし、底に残った茶色の液体をゆるく回転させた。渡来の視線を感じて眼をあげると、彼はしらっとした顔でほうじ茶を湯呑みに注いでいる。香ばしい匂いがあたりに広がる。
「ひとの目には欠点がたくさんある」
渡来は穏やかな声でいった。
「絵画のことはよく知らないが、私は騙し絵が好きだ。盲点や錯視を使った絵や、永久に続く階段のようなものを描いた絵が好きだ。自分の眼でじかに見たものがかならず真実ではないこと、ひとはすべてを見ることができないのを思い出すからね。とはいえ、みんながそう考えるわけではないし、見たものを考え無しに信じる者は多い。私は無用な問題が起きるのを阻止したいし、天藍ときみをつまらない問題から遠ざけたいと思っている。だから申し訳ないんだが、しばらくひとりでの都内の外出は控えてくれないか。用心してほしい」
俺はうつむいたまま返事をした。
「ええ」
「すまないな。きみにしてみればとばっちりもいいところだろう。藤野谷家に含むところがたくさんあるのは見当がつく。だが……」
俺は即答した。
「そんなことはありません。それに俺は藤野谷の足をひっぱりたくないので」
「ありがとう。天藍に代わって礼をいう」
急に肩が凝った。せっかくのチョコタルトの味もよくわからなくなってしまった。会計をすませると渡来は家まで送るといい、俺は黙って従った。
カフェのすぐ前につけられたセダンに乗り込み、俺の家まで車を走らせる間、渡来は藤野谷のようにラジオを流し続けていた。家の門扉の前に車がとまり、俺が礼をいってドアをあけたとき、彼はふと思い出したように唐突にいった。
「今度、きみに渡したいものがある」
俺はもう車の外に体半分出していたところだった。あわてて問い返す。
「何ですか?」
「渡すもの、いや返すものというべきかもしれないな。写真が出てきたのでね」
「写真?」
「藤野谷家に残されていた佐井葉月の遺品だ」
俺は驚いて運転席の男を見返した。渡来は俺の困惑を見てとったのか、落ちつかせるように手をあげた。
「私が保管しているから、つぎの機会に必ず渡そう。では、気をつけて」
気をつけるといっても、家に帰れば特にすることはない。
まだ夜にもなっていなかった。穏やかな気分にはまったくなれなかったが、何ができるわけでもない。隠し撮り画像や本社のまえをうろついていた男のことを心から締め出し、俺はまず残った仕事を片づけることに専念した。エージェントAI経由で受けた仕事のチェックをすませて納品する。先の予定はあまりなかった。思い出してもう一度暁にメールを入れる。
暁には先日から何度かメールを送っているのだが、返事がなかった。以前は仕事がなくてもメールで雑談めいたやりとりや情報交換をしていたのに。
ずっと気にかかっていたのはTEN‐ZEROのプレス会見だ。暁は俺がオメガと知って、それをよく思わなかったのだろうか。あるいはずっとベータのふりをして接していたことを気に入らなかったのかもしれない。
一部のベータの男にはオメガの男を激しく嫌悪する傾向がある。同性のベータが好きな者もその中には含まれた。よくある説明は、オメガの男は彼らから見ると中途半端な存在で、そこが我慢できないのだ、といったものだ。
しかし理由なんてどうでもいいことではあった。第一、騙していたのは俺の方なのだ。エージェントといっても専属契約を結んでいるわけでもない。単に返事をするほどの用事がないと思われているだけなのかもしれない。
妙にくよくよした気分なのは昼間の話をひきずっているからにちがいない。頭がうまく働いていないようにも思う。
俺はためいきをつき、今度は藤野谷にモバイルでつないでみた。話中だった。帰ったときも一度かけたが、やはり話中だった。渡来が見せた雑誌の件もあるし、忙しいのだろう。
キーボードを叩き、TEN‐ZERO/Singularityのサイトへつなぐ。プロモーション動画は動画サイトにもアップされていた。何の気なしに俺はコメント欄まで画面をスクロールした。最新の書きこみに目がとまる。
『スピフォトから飛んだけど、この映像は面白いです。ゴシップ興味ないから』
『見かけ倒しでしょ』
『カッコイイ』
『何かに似てない?』
『ニュース?』
スピフォト。嫌な予感がした。コメントの返信に貼られたリンクをクリックする。スピードフォトニュースは画面いっぱいの大きな写真が売りのニュースサイトだが、内容は玉石混交だ。芸能人や名族のゴシップから犯罪シーンに暴動事件、自然災害まで、手に入る最良の画像で報道すると宣言しているが、よく方々から訴えられてもいる。
俺は切り替わった画面をみつめ、まばたきした。
映っていたのはギャラリー・ルクスのエントランスだ。粗悪な写真ではなかった。むしろ良い写真だろう。映っているのが俺と――俺の耳元に唇をよせている藤野谷でなければ。
俺は画面を下にスクロールした。画像は藤野谷が俺の背中に腕を回した、その瞬間の連写だった。カメラマンの腕はよかった。トップに使われた一枚はほとんど芸術写真といってもいいようなスナップだ。渡来が持ってきた雑誌の写真とは段違いだ。最後の一枚は緑道公園を歩く俺の背中だった。
サイトの上に大きく見出しが載っている。
『新薬開発投資でトップを走る藤野谷グループの御曹司、藤野谷天藍についに恋人?』
心臓がばくばく鳴った。俺は公の場所に晒された自分の顔をみつめ、落ち着け、といいきかせた。顔なんてもともとメディアに出ているのだから、驚くことはない。プレス会見に出たし、何度か取材も受けた。こんなところで出くわすと思っていなかっただけだ。
写真の下に続く詳細を読むのが怖かった。俺は立ちあがり、部屋の中を歩き回り、リビングから廊下へ出て、キッチンを回り、玄関からガレージへ出た。明かりをつけ、ガレージの真ん中で静かに待機しているロードバイクをみつめる。足がふらついて、どうもおかしいなと思った。熱でもあるのだろうか。それともこの感じは、もしかすると……。
外でタイヤが小石を蹴散らす音が聞こえた。
心臓がまた跳ね上がり、俺は大げさにびくっとした。門扉のカメラ画像には見慣れない軽乗用車が映っていて、心臓の鼓動がさらに大きくなる。ポケットのモバイルが震えた。
『サエ。開けて』
藤野谷の声が聞こえる。
俺は大きく息をつき、ガレージの壁にもたれた。全身を安堵が駆けめぐり、ほとんどへたりこみそうだった。同時に別の熱が体をぐるりとめぐるのも感じる。
いいかげんにしろよ、と自分自身に俺は毒づいた。今年に入って何回目だ? 四回目? ほぼ毎月なんて、どうかしてる――
『サエ』
つながったままのモバイルから藤野谷の声が聞こえた。
「いま行く」
俺はガレージのシャッターをあけた。車の窓がさがり、藤野谷の腕が振られるのをみる。あの〈色〉が視界を覆った。まぶしく光る夜の藍色にちらちらと光が舞っている。
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