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第3部 ギャラリー・ルクス

2.鉄と銀(中編)

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 理事会はすこし延長され、扉がひらいてあらわれた祖父の表情は疲労で少し暗かった。書類の束のいちばん上には「オメガ性拉致誘拐事件の阻止と予防」という文字が踊っている。オメガが拉致誘拐にあうのは昔から階級を問わない。ここ数十年は数が減ったとはいえ、名族ですら身代金を請求されるケースも後を絶たなかった。誘拐する側にとってもされる側にとっても、アルファを産む可能性がもっとも高いオメガは貴重な「財産」なのだ。

 拉致誘拐のような直接の暴力の前には、個人の身体の所有はそのひと自身に属し、他の誰かのものにはならない、というのはきれいごとになる。今のような世の中になる前から続く問題で、オメガ性の自立や権利獲得にも障害となるテーマだった。オメガ系の当主である祖父には辛い議題だっただろう。

「零、おまえの昼食はどうなってる?」
「控室で軽食をもらえるらしい。食べて戻ってくる。書類は預かるよ」

 銀星はステッキを握り、俺は書類をブリーフケースに入れた。昼食会に指定された部屋へ祖父を連れて行き、控室でケータリングをつまんで、ついでに少し周辺を探検する。午後なかばだが、絨毯がしきつめられた廊下につながる広いロビーの先では大広間のシャンデリアが光っていた。中は総会とそれに続く親睦会の準備で忙しそうだ。親睦会といっても実態は大規模なパーティで、ここで知己を増やすのは名族の仕事のようなものだ。

 俺は祖父と弁護士のおかげで佐枝姓になっていることをひそかに感謝した。正直な話、あまりこんな世界に関わりたくなかった。なにしろ上流にすぎて、俺がふだんささやかにこなしているデザインやイラストの仕事とも接点がない。
 しかし人間関係は何がどうつながるか、予想がつかないところがある。祖父を迎えに戻る途中、背中で意外な声を聞いた。

「ゼロ?」
「マスター?」

 カフェ・キノネのマスターが俺をびっくりしたように見開いた眼でみつめていた。俺と同様にスーツを着ているが、俺と同様に着慣れていないらしく、とても居心地が悪そうだ。
「奇遇っていうかどうしてこんなところにいるのさ。仕事?」
「いや、祖父の付き添い。マスターこそ」
「僕は黒崎の手伝い。あいつの画商仕事の」

 マスターは窓を指さした。午後の逆光のなかに熊のようにがっちりした黒崎さんの姿がたたずんでいる。その隣にもうひとり長身の影がある。
 黒崎さんはマスターの様子に気づいたのか、会話を中断してこちらに視線を向け、連れの男も俺の方を見た。締まった背中が高級な仕立てのスーツをぴしりと着こなしている。彫りの深い顔に魅力的な笑みがうかぶ。
「零」
「加賀美さん」

 思わず名前を呼んでいた。加賀美はまっすぐ俺に向かってきた。長身を少しかがめ、正面から俺の顔をのぞきこんだが、逆光で眼のあたりはよく見えなかった。

「ひさしぶりだ。ここで会えるとは思わなかった。怪我は大丈夫?」
 急に唇が渇いたような気がした。
「ええ。連絡をくれたのに……すみません」
「他人行儀だな」加賀美はふっと唇をほころばせて笑った。
「大事なさそうでよかった。安心したよ」

 背後がざわつき、大広間に人が集まってくるのがわかった。総会がはじまるのだ。俺は銀星がいるはずの昼食会の会場へ視線を走らせる。加賀美は俺のそんな様子に気づいたように「僕はどのみちあそこに行かなければならないが」と大広間をさした。
「零は?」
「俺は付き添いで来ているだけなので、迎えにいかないと」
「親睦会のとき、話ができるとうれしい。かまわない?」
 ためらいながらうなずくと、加賀美は俺の顔をみつめたまま微笑んだ。逆光がはずれ、正面から彼の眸に内心を見透かされたように感じて顔をそむけようとすると、加賀美は俺の肩に一度手を置き、それから大股に歩き去った。

「加賀美さんと知り合いなの?」
 マスターがすぐ横に立っていた。黒崎さんはみあたらない。
「ええ、まあ……。黒崎さんとも?」
「加賀美家はもともと黒崎の親父さんの画廊の顧客なんだ」
 マスターの視線の先に黒崎さんの大柄な姿があった。数人の輪の中に立ち、名刺を差し出している。

「コレクターの家系らしいね。特にアルファはみんな専門分野を持ってる。黒崎の親父さんの専門は絵画でクラシックだけど、黒崎は主にコンテンポラリーで、絵のほかに写真も扱うし、モダンも一応得意だから、加賀美さんは独立したとき黒崎の客になってくれたらしいよ。新しくオープンするギャラリーでも力になってくれている」

 考えてみれば当然のつながりだった。数年のあいだカフェ・キノネに通って何度も顔を合わせているのに、俺は黒崎さんを画商だと考えた事はなかった。キノネは貸しギャラリーだが、都内では企画展を開催していると聞いたこともあったはずだ。
 俺はぼうっと大広間の入り口を眺め、杖をついた銀星が他の名族の当主に挟まれて歩いているのをみてあわてた。急いでそちらへ向かおうとしたとたん、祖父は俺に顔を向け、首を振った。来なくていいということらしい。

「ゼロ、大丈夫?」
 マスターがたずねた。
「今のところ俺は用無しみたいだ」

 それでも俺は増えてくる人に紛れて大広間の入り口近くまで行った。暇なのか、釣られたのか、マスターも隣にいる。俺は銀星が着席するのを見届け、またロビーの窓際へ戻った。来場者の服装はみるからに上質なものばかりだ。俺のスーツも今日はそれなりだが、あきらかに見劣りがする。とはいえ家来筋の付き添いならこんなものだろう。

「ゼロ、やめたんだね」
 ひとの流れをぼうっとみていると、マスターがぽつりといった。
「え……」
「ベータのさ。薬、使ってた?」
 俺はどきりとして横をむいた。

 いまのいままで失念していた自分自身に驚いていた。ヒートがはじまった十代からは特にずっと神経をはりつめて暮らしてきたのに、藤野谷と――ああなってから、俺は完全におかしくなっている。

「いつ気づきました?」

 口の中がからからにかわいていた。マスターは窓枠にもたれ、ポケットからガムを取り出している。俺にパッケージをさしだして「いる?」とたずねる。
 いつもの柔らかで気軽な雰囲気に変わりはなかった。黙ったまま俺がひとつガムを取ると、マスターは自分も銀紙を剥いて口に入れ、噛む。

「最初に変だなと思ったのは去年の十二月かな。それまでは考えもしなかったし、ゼロの匂いなんて気にしたこともなかった。僕はコーヒー屋だしね。十二月、ツリー置くの手伝ってもらったときがあったでしょ? あのときに違和感を感じて、今年になって二月に例の彼が何度も店に来てから、いろいろ考えちゃってさ……そして先週の夜、確信したのはあの時で……ゼロの顔が変わったなと思って、しばらく考えていたら、ひらめいた」
 辛いミントが舌の上ではじけた。
「ごめん、詮索して。ほんとに悪かった」
 マスターはそういってガムを噛む。
「どうして」
 俺はつぶやいた。マスターとは何年もの知りあい――友人だった。うしろめたいのは俺の方だ。

「いろいろ余計なことをいったから。あとで黒崎にマジで怒られた。いやほんと」
「そんなことないですよ。俺も……すみません。その……」
「謝ることじゃないよ。偽装パッチを使っていた知り合いは何人かまわりにいてね。だいたい事情があるんだ。ゼロみたいに完璧にごまかしていたのなら、なおさらだろう?」

 マスターのミントは俺には辛すぎた。まだ味が残っているガムを俺は紙の上に吐き出す。
「物分かりよすぎませんか」
「そうかな」
 マスターは横目で俺をみて、視線を戻した。
「何もない人なんていないんじゃない? 僕だって一足飛びで今みたいになったわけじゃないし。黒崎ともよくもめてるし」

 ふっとため息をつく様子がマスターにしては珍しかった。あの夜カフェ・キノネへ行ったとき、彼が黒崎さんと「徹底討論中」だと冗談めかしていったのを俺は思い出した。
「何をもめてるんですか」
「新しいギャラリー。……あいつの念願なのは昔からよく知ってるんだけどね」
 声とともにミントの香りがふわりと立った。

「ただの貸し画廊屋でも、単に商品の取り次ぎをする行商人でもない、作家と世間のまともな橋渡しとして、海外にあるような本格的な画廊にする。いずれは自分が見込んだ新しい作家を世に送り出したいっていうのが黒崎の夢なんだ。コンテンポラリーはいい作品でも知られていないことが多いし、新しい作品には既存の市場がないから自分で作らないと、だって。これ全部黒崎の受け売り」
 マスターは紙にガムを吐き出して丸め、俺をちらっと見て照れくさそうに笑った。
「熊みたいな外見のくせに、繊細なことをいうよね」
「いや――すごくいい夢だと思いますけど……何がまずいんです?」

 大広間の扉が閉まり、総会がはじまったようだ。次の親睦会に向けてだろうか、スタッフがロビーで待機している。マスターはぼんやりした眼つきで黒服のウエイターを追っていた。

「まずいっていうか……。あいつ、今は匿名の出品者から送られてきた写真のサンプルプリントに夢中なんだ。無名の写真家のネガをいくらで買うかで悩んでて、僕は毎晩それにつきあってるけどさ……ほら、パートナーの夢に黙ってついていきます、なんてのは美談というか、むしろ親族の間では当たり前に思われていたりもするけれど、パートナーの夢のために自分が何かを覚悟しなきゃいけないとか、試されるような状況になることもあるからね。それにキノネは――オーナーはあいつでも実際は僕の城だったから、勝手にやってたけど、ルクスじゃあいつが王様になる。今日みたいに僕も接待役に駆り出されるのが当たり前になるだろうし、これまでは黒崎がアートフェアでしばらく海外へ出かけても、店を開けて多少さびしいくらいに思っていればよかったけど、王様の城じゃあそうはいかないよね」
「ルクスって、新しいギャラリー?」
「そう。光。明るさの単位。名前はともかく、ハイハイ王様についていきますって思い切るには、僕もひねくれているところがある」

 マスターは窓枠にもたれなおし、ふと俺を上から下までじろじろみた。
「そういえばゼロはどうなの」
「どうって」
「どうもなにも、ゼロも絵を描くでしょ。その――広告のイラストみたいな仕事じゃなくて、美術家として作品展を開いたり、こういう場所にいる名族のお屋敷や会社の社屋に飾る作品をさ」
「俺?」

 俺は苦笑した。
「俺のは――そんなのじゃないよ。絵の先生についたことも美大を出たわけでもないし――公募に出すのを考えたことも昔はあったけど、今はもう……ネットにあげてたのは映像だし……」
「でも今はメディアアートの公募もあるんじゃないの? それに例の彼が持ってきた仕事はゼロの名前で作品が出るんじゃない? だったら作家デビューってわけだ」
「だけどあれは結局広告だよ。新製品に向けた……」
「それだけじゃないでしょう。新興の会社が若手のアートを取り上げるなんて、冒険じゃない」
 俺は返事に困ってあいまいに笑った。

 たしかに、エージェントの暁が紹介する企画のデザインやAIを介して請け負っている仕事――名前が出ない仕事――と、TEN‐ZEROのプロモーション映像のクレジットにアーティストとして名前が載ることは、俺にとってかなり次元がちがった。なぜなら藤野谷がここで拾い上げたのは、眠れない夜に俺がひたすら線を引き、皺をなぞった結果できた断片だったからだ。

 藤野谷はあの作品を俺が作ったものと知らずにオファーしてきた。運命だのオメガだのといった、もともと藤野谷と俺のあいだにある因縁じみた話と、このオファーは一切関係がない。

 加えてTEN‐ZEROの企画について、俺は別の意味での緊張も感じてもいた。いちスタッフではなくクレジットに大きく自分の名前が出るのは、盗作騒動でもめた学生時代のコンペ以来で、きっとそのせいだろう。来月の製品発表ではプレスリリースと記者会見が予定されているとの連絡は昨日メールで届いた。記者会見には俺も出席することになっている。

 そのせいか俺は今週、紙の皺をなぞり線を描く作業を一度もやっていなかった。スケッチは習慣で描いているが、肋骨を折ったおかげで、長時間同じ姿勢で線を引くのがつらいからでもあった。ここ数日は、ビデオ通話で藤野谷と話した後になるとなぜかその気になれなかったから、というのもある。

 黙ってしまった俺をマスターが面白そうにみた。
「これも黒崎の受け売りなんだけど、美術に関わる商売をする人間が失ってはならないのは、ゆとりや距離感なんだってさ。ゆとりって、お金の話だけじゃなくて精神的なゆとりのことで、距離を置いて作品をみることが大事らしいよ。面白いことに人間もそうでさ。黒崎やあいつの親父さんとか、画廊主って変な人が多くて、おまけに客も作家も変わったのが多いから、表面的なところだけ見ているとあまり本当の良さはみえてこない」
「結局、のろけみたいに聞こえますけど」
「そうかな」

 はぐらかすようにマスターは肩をすくめ、実際話をそらすことにしたのかもしれない。突然「そういえばゼロ、今日はいい匂いがするね」という。
「それって」
「オメガらしいとかではなくて、単にいい匂いだよ。似合ってる」
「新しい香水を試してるから、そのせいかな」
「そうなの? ゼロらしい感じだ」
 マスターはそういってから、うまくない冗談でも聞いたような苦笑いをする。
「ごめん。ゼロらしいって何なのか、僕にもわかってないな」



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