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幕間2
双子の虹(後編)
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自転車の転倒事故で怪我をした佐枝を拾ったあとの展開は、私の予想をいささか超えていた。車中で彼がほんとうはオメガだったと持ち物や医療タグから判明し(とはいえその直前の調査で私はそれを推測してはいたが)病院で怪我の処置をした佐枝が眠ったあとで、天藍が私に打ち明けた。ふたりが〈運命のつがい〉だと。
というわけで、私はいま、最近新たに集めた佐枝の資料をもう一度見直しているところだ。今晩ひさしぶりにこの日記を――いささか長すぎるが――書きはじめたのもこれがきっかけである。
もっとも、昨年の終わりから、私はふたたび佐枝零について個人的に調査を開始していた。
ひとつは現在天藍が進めているプロジェクトの準備段階で、アーティストとして佐枝零を後押しするか売り出したいという意向を天藍がみせており、投資対象としての予備調査は害になるまいと思ったためである。その後、天藍が結婚をめぐって母の紫とやりとりを繰り返しつつも、佐枝との接触を深めようとしているのをみて、さらにアンテナが動いたのもあった。
さらに先月になって、天藍がハウス・デュマーで「佐枝零にそっくりのオメガ」をみたから調べてほしいと頼んできたのはちょうどよい符合だった。ハウス・デュマーでの調査には完全に合法とはいえない手段を使ってしまったが、名族の使用人にはままあることだ。
それにしてもだ。
私が〈運命のつがい〉をめぐる事象に関わるのはこれで二回目だ。ただのベータが生涯で二回も〈運命のつがい〉にぶつかるのも珍しいのではないだろうか?
そして二回目であっても、私にとって〈運命のつがい〉はあいかわらず、ただの謎である。
天藍の佐枝零に対する執着は、彼らが〈運命のつがい〉だからなのだろうか? しかし佐枝零は長年、中和剤と抑制剤の併用でオメガの匂いを隠してベータに偽装していたわけだから、もとより自分たちがアルファとオメガの〈運命のつがい〉だったとは、天藍にはわからなかったはずだ。
では天藍の佐枝零への執着は、純然たる恋――もっとも匂いによって人々が惹かれあうこの世界で純然たる恋心なるものをどこまで信じられるのか、私には疑問だ――だったのだろうか? あるいは薬品を使った佐枝零のベータへの偽装は、藤野谷家の追及や周囲の人間をあざむくには効果があったが、運命のつがいの相手である天藍には通用しなかったということなのだろうか?
もっとも中和剤の偽装が解けた現在、天藍はまさしく眼のまえにニンジンをぶら下げられた馬のようなもので、佐枝零しかみえていない。
佐枝の方はどうなのだろう。彼にはずっと天藍が〈運命のつがい〉だとわかっていたはずだ。そうと知りつつも天藍をあしらう努力は大変なものだっただろう。
今の私には、佐枝が偽装しながらも近くにいた天藍を完全にはねつけられなかった理由がわかるし、同時に逃げようとした理由もよくわかる。佐枝本人は家来筋の養子になっているが、産みの親である葉月の実家、佐井家と藤野谷家の関係は、面倒以外の何物でもないからだ。
おまけに現在藤野谷家を実質的に支配しているのは、当主の藍晶というより、妻のオメガ、紫である。
藤野谷天藍の母親、藤野谷紫は、佐井葉月とはさまざまな意味で対照的なオメガである。
旧姓を水津といい、夫の藍晶より年上の彼女は、大学では兄の藍閃の同級生だった。同じゼミに所属していたが、特に親しかったわけではないらしい。成績優秀だったにも関わらず、当時のオメガをめぐる環境のおかげで院への進学も能力に見合った就職もできず、学部卒業後は指導教官の研究室で助手として働いていた。
紫を藤野谷兄弟の父、藤野谷天青に紹介したのはその教官だ。要するに見合いの仲介をしたのだろう。大学教授が優秀なオメガ学生を裕福なアルファ家系に紹介するのは、当時の典型的な「玉の輿」だったし、社会進出の機会を制限されていたオメガにとって、名族に見初められるのは自己実現の手段にもなっていた。
紫はベータの庶民の家庭に生まれたオメガだ。名族に一切係累を持たなかったが、優秀なだけでなく野心と意欲のある女性だった。いまでもそれは変わらないし、野心の方は三十数年前の結婚当時より強くなっているかもしれない。
藤野谷家という名族の地位や格式を維持するためには強い意志と欲望が必要だ。これを当主の天青から受け継いだのは、血を分けた息子たちではなく、彼女のように見えるからだ。
人間というのは面白い。
この世界ではオメガはアルファを産むための存在として、長い間アルファに隷属し、抑圧され、搾取され、同時に保護されてきた。ヒートにともなう快楽(それはベータ間のセックスではなかなか想像できないものだ)は、ともすると暴力的になりがちなアルファの支配とトレードオフになっているし、つがいという関係は、オメガにとって特定のアルファ以外の支配を免れる防波堤として機能する。
そんな機能的側面のほかに、歴史上何かしらの業績を残したアルファには例外なくオメガのパートナーの影がある。この場合、オメガは単にアルファに支配されているわけではない。むしろアルファの強引で支配的、暴力的な側面を和らげたり補完することでアルファを影からコントロールしている場合が多く、結果としてアルファの目的達成に不可欠な調整役を果たしている。
アルファが持つ支配への情熱はさまざまな形や方向をもちうるが――政治や企業経営のような対象に向けられる場合もあれば、発明や学術研究のような目標へ向けられる場合も、またスポーツ競技や芸術のような個人的達成へ向けられる場合も――アルファだけでそれを実現するのは困難だ。
というのも、世の中の集団の大半は我々ベータという凡人が占めており、我々ベータはアルファの極端な情熱をときに嫌い、彼らの意思をサボタージュしたり、反抗する場合もあるからだ。オメガのパートナーはアルファとベータの関係を仲介する上でも重要で、まわり回って、アルファの自己実現に不可欠な存在にもなるわけである。
とはいえ、オメガがつねにアルファと対照をなす柔和さや柔軟性を持っているとは限らない。アルファの支配性格や貪欲さをより強く内面化して、自分で自分を抑圧している場合もあるし、アルファによるオメガへの一方的な強制や支配を正当だと信じている場合もある。
こんな思想は現代では古い考え方だといわれ、公然と口に出す人も少なくなった。しかし建前はそういわなくても、いまだにそう信じてふるまう人々はアルファ、オメガ、ベータのそれぞれに存在するのだ。
藤野谷天藍の母親はそういうタイプだった。これは私の推測にすぎないが、彼女が義父の天青の意思を受け継いだ原因のひとつは、夫の藍晶にもあると思う。藍晶は紫に結婚当初から感情的な興味をまったく示さなかった。紫も新婚当時はまだ藍晶との結婚生活に甘い夢をみていたかもしれないが、藍晶は義務として彼女と結婚したにすぎず、つがいになっても愛情はなかった。
その一方でアルファの名族の妻であることは、名族間の社交と政治と経営に関わることでもあって、紫はその方面に才能を発揮した。義務としてのつがいの庇護を得られても、パートナーの真の関心が得られないのなら、情熱をそちらに注ぐのは人間として自然な事だろう。
天青は才気にあふれた嫁を気に入り、息子より紫を社会的なパートナーとして尊重した。結果、藤野谷家の一員として家のために役割を果たすのが紫の生きがいになったのは、これまたよくわかる。人間には仕事が必要なのだ。
だが彼女はその過程で、天青の狂信的なまでの家中心主義を映しとった上に、生まれながらにして藤野谷家に嫁するべく育てられたような葉月の不自由や、彼が運命のつがいを求めた情熱をついに理解しなかった。
葉月をめぐる何年ものごたごたと、死後の藍閃の失踪は、藤野谷家にとってトラブルの塊でしかなかった。紫は名族の間で家名の評判を取り戻すために尽力していたから、葉月を憎んだとしてもおかしくない。
それに庶民出身の紫からみれば、オメガ系とはいえ名族のはしくれである葉月は、生まれながらに家柄を保証された恵まれた存在だった。葉月と天青との確執や、まして彼が求めた運命のつがい、柳空良との関係がどんなものかなど、紫にはまったく想像が及ばなかったにちがいない。
そんな紫も私と同様、あと四年もすれば六十歳だ。オメガの例にもれず、彼女は年齢よりも若々しく、まだ十分美しい。名族の社交界での長年の努力もあって、いまでは各所に隠然たる権力を持っている上、私とちがうルートで豊富な情報も手に入れている。
ここ数年、彼女は息子の天藍をオメガと結婚させようと手を尽くしてきた。この件ではずっと息子といさかいを繰り返していたが、最近になって彼がその気になったようなそぶりを見せていたから、少し関係は軟化していた。
ここで――まさか葉月の息子が自分の息子と〈運命のつがい〉だと知れば、彼女はどう出るだろうか。葉月に対して持っていたような感情をその息子にも持つのだろうか。あるいは藤野谷家に跡継ぎができる可能性が増えて喜ぶのだろうか。なにしろ〈運命のつがい〉のオメガは妊娠しやすいといわれている。とはいえ佐枝零は年齢も高く、長年ベータに偽装するため服薬を続けた影響もあるはずだが……。
たぶん紫に――そして私にも――わかっていることがひとつある。運命のつがいは、当人の意思と関係なく、周囲の人々に大きな影響を及ぼすからこそ「運命」と呼ばれるのだ。そして天藍と佐枝零が再会したなら、トラブルであれ幸運であれ、何らかの出来事は起きるだろう。
はじめて話した佐枝零は、学生の頃に調査した時にくらべると、かなり雰囲気が変わっていた。
今日隠し撮りした写真をみていると、繊細な艶めかしい顔立ちに葉月の面影がいくばくかあるものの、控えめな印象に潜む芯の通った頑固さは私の記憶にある葉月とは一致しなかった。葉月も頑固だったが、同時にすこし投げやりでもあった。
今朝、天藍が彼を送る前に話をしたときは、妙に新鮮な初々しさを間近で感じて、私としたことが少し驚かされたものだ。佐枝零は天藍と同い年で、格別童顔というわけでもないのに。
いま思い返すとあの雰囲気は、最初のヒートを迎えたあと急速に成熟していくオメガの雰囲気に似ていた。オメガなら男女問わず、春が来て花がひらくように、いっせいに華やかな気配をまとう季節がある。今回は中和剤の効果が切れていたからそう感じたのかもしれないが、二月にハウス・デュマーの一件から天藍の依頼で彼の調査をして、遠目に見た時にも似たようなことを思ったので、原因は他にあるのだろうか。
すでに夜になったが、天藍からは連絡がない。
彼らがこの先どうなろうと、私は状況に応じて最善と思われることをするしかない。ともあれ、佐枝零に今度会ったときは、以前書庫で発見した葉月の写真を渡すつもりだ。
あの日以来、書庫からは空や虹を映した写真が何枚もみつかり、私は保管のためのファイルを作った。天青と紫が抹消したはずの葉月の名残がまだこんなに残っていたのかと、私は内心驚いている。
というわけで、私はいま、最近新たに集めた佐枝の資料をもう一度見直しているところだ。今晩ひさしぶりにこの日記を――いささか長すぎるが――書きはじめたのもこれがきっかけである。
もっとも、昨年の終わりから、私はふたたび佐枝零について個人的に調査を開始していた。
ひとつは現在天藍が進めているプロジェクトの準備段階で、アーティストとして佐枝零を後押しするか売り出したいという意向を天藍がみせており、投資対象としての予備調査は害になるまいと思ったためである。その後、天藍が結婚をめぐって母の紫とやりとりを繰り返しつつも、佐枝との接触を深めようとしているのをみて、さらにアンテナが動いたのもあった。
さらに先月になって、天藍がハウス・デュマーで「佐枝零にそっくりのオメガ」をみたから調べてほしいと頼んできたのはちょうどよい符合だった。ハウス・デュマーでの調査には完全に合法とはいえない手段を使ってしまったが、名族の使用人にはままあることだ。
それにしてもだ。
私が〈運命のつがい〉をめぐる事象に関わるのはこれで二回目だ。ただのベータが生涯で二回も〈運命のつがい〉にぶつかるのも珍しいのではないだろうか?
そして二回目であっても、私にとって〈運命のつがい〉はあいかわらず、ただの謎である。
天藍の佐枝零に対する執着は、彼らが〈運命のつがい〉だからなのだろうか? しかし佐枝零は長年、中和剤と抑制剤の併用でオメガの匂いを隠してベータに偽装していたわけだから、もとより自分たちがアルファとオメガの〈運命のつがい〉だったとは、天藍にはわからなかったはずだ。
では天藍の佐枝零への執着は、純然たる恋――もっとも匂いによって人々が惹かれあうこの世界で純然たる恋心なるものをどこまで信じられるのか、私には疑問だ――だったのだろうか? あるいは薬品を使った佐枝零のベータへの偽装は、藤野谷家の追及や周囲の人間をあざむくには効果があったが、運命のつがいの相手である天藍には通用しなかったということなのだろうか?
もっとも中和剤の偽装が解けた現在、天藍はまさしく眼のまえにニンジンをぶら下げられた馬のようなもので、佐枝零しかみえていない。
佐枝の方はどうなのだろう。彼にはずっと天藍が〈運命のつがい〉だとわかっていたはずだ。そうと知りつつも天藍をあしらう努力は大変なものだっただろう。
今の私には、佐枝が偽装しながらも近くにいた天藍を完全にはねつけられなかった理由がわかるし、同時に逃げようとした理由もよくわかる。佐枝本人は家来筋の養子になっているが、産みの親である葉月の実家、佐井家と藤野谷家の関係は、面倒以外の何物でもないからだ。
おまけに現在藤野谷家を実質的に支配しているのは、当主の藍晶というより、妻のオメガ、紫である。
藤野谷天藍の母親、藤野谷紫は、佐井葉月とはさまざまな意味で対照的なオメガである。
旧姓を水津といい、夫の藍晶より年上の彼女は、大学では兄の藍閃の同級生だった。同じゼミに所属していたが、特に親しかったわけではないらしい。成績優秀だったにも関わらず、当時のオメガをめぐる環境のおかげで院への進学も能力に見合った就職もできず、学部卒業後は指導教官の研究室で助手として働いていた。
紫を藤野谷兄弟の父、藤野谷天青に紹介したのはその教官だ。要するに見合いの仲介をしたのだろう。大学教授が優秀なオメガ学生を裕福なアルファ家系に紹介するのは、当時の典型的な「玉の輿」だったし、社会進出の機会を制限されていたオメガにとって、名族に見初められるのは自己実現の手段にもなっていた。
紫はベータの庶民の家庭に生まれたオメガだ。名族に一切係累を持たなかったが、優秀なだけでなく野心と意欲のある女性だった。いまでもそれは変わらないし、野心の方は三十数年前の結婚当時より強くなっているかもしれない。
藤野谷家という名族の地位や格式を維持するためには強い意志と欲望が必要だ。これを当主の天青から受け継いだのは、血を分けた息子たちではなく、彼女のように見えるからだ。
人間というのは面白い。
この世界ではオメガはアルファを産むための存在として、長い間アルファに隷属し、抑圧され、搾取され、同時に保護されてきた。ヒートにともなう快楽(それはベータ間のセックスではなかなか想像できないものだ)は、ともすると暴力的になりがちなアルファの支配とトレードオフになっているし、つがいという関係は、オメガにとって特定のアルファ以外の支配を免れる防波堤として機能する。
そんな機能的側面のほかに、歴史上何かしらの業績を残したアルファには例外なくオメガのパートナーの影がある。この場合、オメガは単にアルファに支配されているわけではない。むしろアルファの強引で支配的、暴力的な側面を和らげたり補完することでアルファを影からコントロールしている場合が多く、結果としてアルファの目的達成に不可欠な調整役を果たしている。
アルファが持つ支配への情熱はさまざまな形や方向をもちうるが――政治や企業経営のような対象に向けられる場合もあれば、発明や学術研究のような目標へ向けられる場合も、またスポーツ競技や芸術のような個人的達成へ向けられる場合も――アルファだけでそれを実現するのは困難だ。
というのも、世の中の集団の大半は我々ベータという凡人が占めており、我々ベータはアルファの極端な情熱をときに嫌い、彼らの意思をサボタージュしたり、反抗する場合もあるからだ。オメガのパートナーはアルファとベータの関係を仲介する上でも重要で、まわり回って、アルファの自己実現に不可欠な存在にもなるわけである。
とはいえ、オメガがつねにアルファと対照をなす柔和さや柔軟性を持っているとは限らない。アルファの支配性格や貪欲さをより強く内面化して、自分で自分を抑圧している場合もあるし、アルファによるオメガへの一方的な強制や支配を正当だと信じている場合もある。
こんな思想は現代では古い考え方だといわれ、公然と口に出す人も少なくなった。しかし建前はそういわなくても、いまだにそう信じてふるまう人々はアルファ、オメガ、ベータのそれぞれに存在するのだ。
藤野谷天藍の母親はそういうタイプだった。これは私の推測にすぎないが、彼女が義父の天青の意思を受け継いだ原因のひとつは、夫の藍晶にもあると思う。藍晶は紫に結婚当初から感情的な興味をまったく示さなかった。紫も新婚当時はまだ藍晶との結婚生活に甘い夢をみていたかもしれないが、藍晶は義務として彼女と結婚したにすぎず、つがいになっても愛情はなかった。
その一方でアルファの名族の妻であることは、名族間の社交と政治と経営に関わることでもあって、紫はその方面に才能を発揮した。義務としてのつがいの庇護を得られても、パートナーの真の関心が得られないのなら、情熱をそちらに注ぐのは人間として自然な事だろう。
天青は才気にあふれた嫁を気に入り、息子より紫を社会的なパートナーとして尊重した。結果、藤野谷家の一員として家のために役割を果たすのが紫の生きがいになったのは、これまたよくわかる。人間には仕事が必要なのだ。
だが彼女はその過程で、天青の狂信的なまでの家中心主義を映しとった上に、生まれながらにして藤野谷家に嫁するべく育てられたような葉月の不自由や、彼が運命のつがいを求めた情熱をついに理解しなかった。
葉月をめぐる何年ものごたごたと、死後の藍閃の失踪は、藤野谷家にとってトラブルの塊でしかなかった。紫は名族の間で家名の評判を取り戻すために尽力していたから、葉月を憎んだとしてもおかしくない。
それに庶民出身の紫からみれば、オメガ系とはいえ名族のはしくれである葉月は、生まれながらに家柄を保証された恵まれた存在だった。葉月と天青との確執や、まして彼が求めた運命のつがい、柳空良との関係がどんなものかなど、紫にはまったく想像が及ばなかったにちがいない。
そんな紫も私と同様、あと四年もすれば六十歳だ。オメガの例にもれず、彼女は年齢よりも若々しく、まだ十分美しい。名族の社交界での長年の努力もあって、いまでは各所に隠然たる権力を持っている上、私とちがうルートで豊富な情報も手に入れている。
ここ数年、彼女は息子の天藍をオメガと結婚させようと手を尽くしてきた。この件ではずっと息子といさかいを繰り返していたが、最近になって彼がその気になったようなそぶりを見せていたから、少し関係は軟化していた。
ここで――まさか葉月の息子が自分の息子と〈運命のつがい〉だと知れば、彼女はどう出るだろうか。葉月に対して持っていたような感情をその息子にも持つのだろうか。あるいは藤野谷家に跡継ぎができる可能性が増えて喜ぶのだろうか。なにしろ〈運命のつがい〉のオメガは妊娠しやすいといわれている。とはいえ佐枝零は年齢も高く、長年ベータに偽装するため服薬を続けた影響もあるはずだが……。
たぶん紫に――そして私にも――わかっていることがひとつある。運命のつがいは、当人の意思と関係なく、周囲の人々に大きな影響を及ぼすからこそ「運命」と呼ばれるのだ。そして天藍と佐枝零が再会したなら、トラブルであれ幸運であれ、何らかの出来事は起きるだろう。
はじめて話した佐枝零は、学生の頃に調査した時にくらべると、かなり雰囲気が変わっていた。
今日隠し撮りした写真をみていると、繊細な艶めかしい顔立ちに葉月の面影がいくばくかあるものの、控えめな印象に潜む芯の通った頑固さは私の記憶にある葉月とは一致しなかった。葉月も頑固だったが、同時にすこし投げやりでもあった。
今朝、天藍が彼を送る前に話をしたときは、妙に新鮮な初々しさを間近で感じて、私としたことが少し驚かされたものだ。佐枝零は天藍と同い年で、格別童顔というわけでもないのに。
いま思い返すとあの雰囲気は、最初のヒートを迎えたあと急速に成熟していくオメガの雰囲気に似ていた。オメガなら男女問わず、春が来て花がひらくように、いっせいに華やかな気配をまとう季節がある。今回は中和剤の効果が切れていたからそう感じたのかもしれないが、二月にハウス・デュマーの一件から天藍の依頼で彼の調査をして、遠目に見た時にも似たようなことを思ったので、原因は他にあるのだろうか。
すでに夜になったが、天藍からは連絡がない。
彼らがこの先どうなろうと、私は状況に応じて最善と思われることをするしかない。ともあれ、佐枝零に今度会ったときは、以前書庫で発見した葉月の写真を渡すつもりだ。
あの日以来、書庫からは空や虹を映した写真が何枚もみつかり、私は保管のためのファイルを作った。天青と紫が抹消したはずの葉月の名残がまだこんなに残っていたのかと、私は内心驚いている。
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