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幕間2
双子の虹(前編)
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私が佐枝零に初めて会ったのは、天藍が大学を卒業した年、のちに盗作疑惑が起きた例のコンペの授賞式だった。といっても私は単なる出席者にすぎず、会話も交わさなかったから、遠目に見かけた程度のものだ。
藤野谷グループの本業とは毛色が異なる企業プロモーションのコンペだったせいもあるだろうが、天藍の両親はどちらも息子の成果に無関心だった。私はその代わりに見届けることにして会場へ行った。
佐枝零の第一印象にきわだったものはなかった。痩せて端正で繊細そうな外見ではあるが、強い印象を受けたとはいえない。受賞した天藍との共同作品は面白く、感心はした。
興味深かったのは佐枝零本人より、彼に対する天藍の態度だった。本人が隠そうと必死になっているのも同時にわかったが、あきらかにそれは庇護対象、つまり、つがいをみつけたアルファの視線と仕草だった。対して佐枝の態度はそっけなく、天藍の片思いのように見えた。
もっともそれは天藍を生まれた時から見ている私だから察したことにすぎず、周囲にはふたりは普通の友人同士と思われていたはずだ。受賞後のパーティでは、天藍は主に他の友人たちと談笑しており、一方佐枝は共同受賞にもかかわらず、天藍の友人とはほとんど関わらずに会場の隅にひとりでいた。その静かで孤独な雰囲気は印象に残った。友人たちから解放された天藍が佐枝の横に立ったとき、ふたりの間に一瞬張りつめた気配が漂ったが、私がそれに気づいたのは、かつて何年も藍閃と葉月の緊張関係を間近で見ていたせいだろう。
子供のころから、天藍にとっての私は、藤野谷の家中で働く遠縁の男、といった存在だったはずだ。もちろん私と藤野谷家に血縁は一切なく、藤野谷家当主の長男である藍閃と、たまたま学友であったという縁にすぎない。
はじめは藍閃の秘書として働いていた私は、彼の失踪の後は当主である天青に見込まれて、藤野谷家の執事のような立場になった。天青が亡くなって次男の藍晶が藤野谷家を継ぐと、その妻の紫が藤野谷家を仕切り、以後、私は執事というより藍晶の個人秘書として藤野谷家で働いていた。藍晶の息子の天藍が大学に入った後は、父親の希望もあって天藍のお目付け役のような係になった。
私がそんな役どころに回されたのは、私が家族を持たなかったことと、藤野谷藍閃と葉月が困難な数年を過ごしていた間ずっと、藤野谷家にいたせいだと思う。私は口が堅く信用のおける他人という、ある意味都合がよい立場だった。
そんな私にうっかり余計な話をする人もけっこういて、私の元には藍閃と葉月の一件にとどまらず、藤野谷家周辺の情報が集まるようになった。それを外部に漏らしたことはこれまでただ一度もない。私のような存在は名族の「家来筋」と呼ばれるらしい。
家名のない庶民のベータには不思議に感じられるが、古くから続くアルファの名族は、家中にプライベートまで見聞きできる使用人を置くことにさしたる抵抗がない。彼らにとって「家」とは小さな企業のようなもので、信頼できる使用人をどのくらい抱えられるかはステータスでもあるのだ。「家来筋」として代々同じベータの一族を使用人に置く名族もいるという。
なお当時の私は、オメガ系の佐井家もそんな家来筋を持っていたなど、まったく知らなかった。
ところで、藤野谷藍晶が息子天藍の世話を私に託したのは、なぜか息子に関心を持てなかった彼の、罪滅ぼしのようなものだったのかもしれない。藍晶自身の精神的な支えは父の天青ではなく兄の藍閃だった。彼は父の天青にとって自分は無価値な存在だと長年信じていたふしがある。
兄が失踪したあとも藍晶のその態度は変わらなかった。妻の紫に対する関心のなさと裏腹に、ほんとうに藍晶が情愛を感じていたのは兄の藍閃だけだとでもいうように。
後付けの考えではあるが、藍晶はそんな自分が息子に関心を持てないのを業のように感じ、代わりの役割を他人に負わせることにしたのか、と思う。
そういえば、自分は身代わり、代替要員にすぎないという感覚は、藤野谷藍晶にも、その息子天藍にも、深くつきまとっているようだ。藍晶は父の天青にとって、自分は兄藍閃の代わりにすぎないと私に何度か漏らしたことがあるし、天藍は天藍で、自分が生まれなかった伯父の子供――葉月が流産したアルファの子供――の代わりなのだと感じていたふしがある。
詳しいことなど知りもしないのに、いつのまにか天藍が「伯父を捨てたオメガ」や、ひいてはオメガ性そのものに対して反感を育んでいたのは、母の紫の影響が大きいとはいえ、この身代わりの感覚も作用していたのかもしれない。
だがアルファである以上、ひとたびオメガのヒートに出会えば、たとえ感情的に否定していたとしても発情するのはどうしようもない。これは天藍にとって大きな葛藤になったにちがいなかった。
彼が問題を抱えているのは、長年つかず離れずみていた私には見当はついたが、しょせんは他人で使用人である。多少の助言や協力がせいぜいのところだ。しかし父親の藍晶にしてみれば、まさにそれこそ私に期待したことらしい。
一方私はというと、藤野谷家の中で自分に課せられた役割をたいして重く受けとめていなかった。私のある種の呑気さは、天藍にとって悪い作用はしなかったようだ。
この日記は、すでに回想録のようなものとなりつつある。とはいえ一度、私の考えや記憶を書き残すのは現在の事態を整理する上で悪くないように思える。そのうち焼き捨てるかもしれないが、とりあえず今は先を進めよう。
八年前にコンペの授賞式が終わり、天藍が大学を卒業した後、父の藍晶の依頼で私は佐枝零について多少調査した。というのも、受賞作品の盗作疑惑(疑惑の対象となったのは天藍ではなく佐枝零ひとりだった)のせいか、佐枝は天藍にひとことも告げず行方をくらましてしまったからだ。
天藍が佐枝に対して持つ執着はそこでいったん明確になった。父親の無関心と呼応するように天藍も父親に関心がなかったが、佐枝の行方については力のある父へ直接調査を頼んだのである。ちなみに天藍をよく知っている私にとっては、これは尋常でないことだった。
盗作疑惑自体は、藤野谷家の跡継ぎになる人間に「特に何の背景もないただのベータ」が近づくことを嫉妬した筋のいいがかりだと最終的に証明された。だがたとえ疑惑であっても、まだ実績がない佐枝のキャリアにこの件は致命的だっただろう。彼が藤野谷家に関わるのを嫌って行方をくらましたのも無理はない。
しかし佐枝の消え方は徹底的だった。私の調査にかすりもしなかったことに対して、当時多少疑問を抱いたのはたしかだ。私の推測は海外へ出たのではないかというものだった。もしかしたら私の念頭には、空良と逃げた葉月が海外へ行こうとした記憶がかすかに浮かんでいたのかもしれない。もう八年前のことで、今はよく思い出せないが。
もっとも佐枝がベータの「男」である以上――当時はいくら調べてもそれ以上のことは出てこなかった――たとえ佐枝が消えなくても、天藍の執着は実りそうになかった。
同じ年齢のころ、人生にさしたる目的も野心も持たなかった私のような人間なら、使用人として藤野谷家に佐枝を迎えることもできたかもしれず、そうすれば天藍も、もっと深い関係に持ち込めたかもしれない。だが佐枝零はクリエイターで、そんな立場を許容しそうになかった。
それに仮に天藍が佐枝とそんな関係になれたとしても、ベータの男がアルファの跡継ぎの執着の対象として家中にいることを、母親の紫は許さなかっただろう。
佐枝零が実際はオメガで、しかも藤野谷天藍の適合者、いわゆる〈運命のつがい〉だと当時彼女が知っていたらどうなっただろうか。それはそれで問題になった可能性は高い。何しろ佐枝零は、紫と一度もそりのあったことがないオメガ、葉月の息子である。
紫の葉月に対する感情は複雑だ。一種のライバル心――そもそも身代わりというなら紫こそが、藤野谷家のために子供を産まなかった葉月の身代わりだったといえる――それに〈運命のつがい〉がらみで、葉月が藤野谷家のトラブルメーカーになっていたことからくる憎悪、これらが混ざりあっているようだ。
紫の感情は傍観者である私にはとても興味深い。そこにはオメガ性の本能への嫌悪と同時に、自分だけはオメガであってもそんなものに左右されない規律を持つのだという、圧倒的な自尊心と自負がある。息子の天藍に「伯父を捨てたオメガ」――つまり葉月と〈運命のつがい〉の厄介な側面について、子供の頃に教えこんだのは、この紫だった。
ここで俗称〈運命のつがい〉と呼ばれる関係について、すこしメモしておくことにしよう。重要なことだが、この関係はアルファの名族の場合、トラブルの原因となりこそすれ、大っぴらに歓迎されることはめったにない。
〈運命のつがい〉がベータ向けの娯楽として映画や小説で消費されるのは、我々ベータが原則として、アルファとオメガの間に交わされる情熱の単なる傍観者、観客にすぎないからだ。アルファの名族もその事情を理解していて、逆にアルファ支配の神秘化や伝説作りに〈運命のつがい〉という現象を利用している側面もある。
アルファの指導力がどれだけのものであろうとも、この世界の大勢を占めるのは数の多いベータなのだ。いくつかの社会変動をのりこえて、現代の世界はそれをよく理解している。ベータの民衆の間で評判を損なわないためにアルファの男性、ことに名族に生まれた者は、みずからの衝動の管理を厳しく教育される。レイプはいうにおよばず、たとえオメガのヒートにあてられたのだとしても、同意なく妊娠させるなど考えられない。
さらにこの事情を逆手にとったオメガに陥れられる場合もあるため、名族に生まれたアルファ男性は予定がなくても避妊具を持ち歩くのが普通だった。社会的地位のあるアルファ男性がオメガと結婚し、つがいをもつのが奨励される理由のひとつも、不慮の事故を防ぐためだ。ベータとの結婚ではつがい関係を持つことができないので、アルファ男性はヒートの誘惑にさらされ続けてしまう。
「つがい」は、ベータでかつ独身の私にとっては、実感の湧かない現象でもある。性交中、オメガのうなじ付近の皮下にある受容体にアルファの体液が混ぜること、つまりアルファが噛むことで、この両者はつがいになる。これは、アルファがオメガにマーキングして外部に対し自分の所有権や縄張りを示し、一方でオメガに対し自分の庇護を約束する行為という解釈も可能だ。
つがいになると日常的にアルファに存在を主張するオメガの強い匂いは消え、程度の差はあってもヒートが穏やかになるといわれる。相手のアルファも他のオメガの匂いに発情することがなくなる。ベータのカップルでも、結婚して長年同居していれば雰囲気や顔つきが似てくる、といわれるように、つがいとなったアルファとオメガには共通する雰囲気があり、それは私のようなベータにも何となくわかる。
ただしつがいは一度成立すれば終生そのまま続くような絆ではない。長期にわたり接触がないと自然に解消されるし、片方の病気や事故で消滅するケースもあるという。だが通常は、多少感情的な行き違いがあってもつがいになっていれば、アルファとオメガのカップルはなんとかやっていくものだ。藤野谷藍晶と紫の夫婦がそうであるように。
ところが、番狂わせ、という言葉がある。
〈運命のつがい〉はまさにこれに当たるといえるだろう。運命のつがいのふたりは、通常のつがい関係で作られた秩序を壊してしまう。たとえ片方、もしくは双方にすでにつがいの相手がいたとしても、〈運命のつがい〉の前では壊れてしまう、というのはよくいわれることだ。
藍閃と葉月がいい例である。柳空良に出会った葉月を藍閃は強引な方法で先につがいにしたが、葉月が空良へ逃げるのを止められなかった。藍閃は葉月をつがいにしたとき、禁止されているヒート誘発剤を使ったのではないかと私は推測しているが、真偽は定かでない。
ヒート誘発剤は抵抗するオメガを囲い込むために大昔はよく使われた薬だが、このころはすでに、不妊治療以外の目的では手に入れられなくなっていた。相手に承諾なく使用すると重大な人権侵害として重犯罪扱いになる。
だが何を使おうとどのみち、葉月を止めることはできなかった。空良から連れ戻して、藍閃が何度葉月をつがいにしようと噛んでも、葉月のヒートは安定しなかった。
教訓はひとつだ。〈運命のつがい〉が出会うと、その当事者だけでなく、関係するものがみな、振り回されることになる。
ドラマの材料としてはもってこいだが、当事者や巻きこまれる周辺には困った話だ。それこそ「運命」としかいいようがないわけだが……。
近年は〈運命のつがい〉同士は稀有なホルモン適合型の一致によって惹かれあうと判明したが、どうやってたがいを認識するのか、詳細はよくわかっていない。大半は匂いだというが、それは通常アルファとオメガが認識しあう匂いとどう違うのか。それは普通のつがい関係が強固になっただけなのか、もっと特殊なしるしがあるのか。ともあれ〈運命のつがい〉はお互いを見分ける。天藍と佐枝零が互いをどのように見ているのか、他の人間にはけっしてわからないとしても。
そう、佐枝零と藤野谷天藍が〈運命のつがい〉だと、私が理解したのはつい昨日のことだ。
藤野谷グループの本業とは毛色が異なる企業プロモーションのコンペだったせいもあるだろうが、天藍の両親はどちらも息子の成果に無関心だった。私はその代わりに見届けることにして会場へ行った。
佐枝零の第一印象にきわだったものはなかった。痩せて端正で繊細そうな外見ではあるが、強い印象を受けたとはいえない。受賞した天藍との共同作品は面白く、感心はした。
興味深かったのは佐枝零本人より、彼に対する天藍の態度だった。本人が隠そうと必死になっているのも同時にわかったが、あきらかにそれは庇護対象、つまり、つがいをみつけたアルファの視線と仕草だった。対して佐枝の態度はそっけなく、天藍の片思いのように見えた。
もっともそれは天藍を生まれた時から見ている私だから察したことにすぎず、周囲にはふたりは普通の友人同士と思われていたはずだ。受賞後のパーティでは、天藍は主に他の友人たちと談笑しており、一方佐枝は共同受賞にもかかわらず、天藍の友人とはほとんど関わらずに会場の隅にひとりでいた。その静かで孤独な雰囲気は印象に残った。友人たちから解放された天藍が佐枝の横に立ったとき、ふたりの間に一瞬張りつめた気配が漂ったが、私がそれに気づいたのは、かつて何年も藍閃と葉月の緊張関係を間近で見ていたせいだろう。
子供のころから、天藍にとっての私は、藤野谷の家中で働く遠縁の男、といった存在だったはずだ。もちろん私と藤野谷家に血縁は一切なく、藤野谷家当主の長男である藍閃と、たまたま学友であったという縁にすぎない。
はじめは藍閃の秘書として働いていた私は、彼の失踪の後は当主である天青に見込まれて、藤野谷家の執事のような立場になった。天青が亡くなって次男の藍晶が藤野谷家を継ぐと、その妻の紫が藤野谷家を仕切り、以後、私は執事というより藍晶の個人秘書として藤野谷家で働いていた。藍晶の息子の天藍が大学に入った後は、父親の希望もあって天藍のお目付け役のような係になった。
私がそんな役どころに回されたのは、私が家族を持たなかったことと、藤野谷藍閃と葉月が困難な数年を過ごしていた間ずっと、藤野谷家にいたせいだと思う。私は口が堅く信用のおける他人という、ある意味都合がよい立場だった。
そんな私にうっかり余計な話をする人もけっこういて、私の元には藍閃と葉月の一件にとどまらず、藤野谷家周辺の情報が集まるようになった。それを外部に漏らしたことはこれまでただ一度もない。私のような存在は名族の「家来筋」と呼ばれるらしい。
家名のない庶民のベータには不思議に感じられるが、古くから続くアルファの名族は、家中にプライベートまで見聞きできる使用人を置くことにさしたる抵抗がない。彼らにとって「家」とは小さな企業のようなもので、信頼できる使用人をどのくらい抱えられるかはステータスでもあるのだ。「家来筋」として代々同じベータの一族を使用人に置く名族もいるという。
なお当時の私は、オメガ系の佐井家もそんな家来筋を持っていたなど、まったく知らなかった。
ところで、藤野谷藍晶が息子天藍の世話を私に託したのは、なぜか息子に関心を持てなかった彼の、罪滅ぼしのようなものだったのかもしれない。藍晶自身の精神的な支えは父の天青ではなく兄の藍閃だった。彼は父の天青にとって自分は無価値な存在だと長年信じていたふしがある。
兄が失踪したあとも藍晶のその態度は変わらなかった。妻の紫に対する関心のなさと裏腹に、ほんとうに藍晶が情愛を感じていたのは兄の藍閃だけだとでもいうように。
後付けの考えではあるが、藍晶はそんな自分が息子に関心を持てないのを業のように感じ、代わりの役割を他人に負わせることにしたのか、と思う。
そういえば、自分は身代わり、代替要員にすぎないという感覚は、藤野谷藍晶にも、その息子天藍にも、深くつきまとっているようだ。藍晶は父の天青にとって、自分は兄藍閃の代わりにすぎないと私に何度か漏らしたことがあるし、天藍は天藍で、自分が生まれなかった伯父の子供――葉月が流産したアルファの子供――の代わりなのだと感じていたふしがある。
詳しいことなど知りもしないのに、いつのまにか天藍が「伯父を捨てたオメガ」や、ひいてはオメガ性そのものに対して反感を育んでいたのは、母の紫の影響が大きいとはいえ、この身代わりの感覚も作用していたのかもしれない。
だがアルファである以上、ひとたびオメガのヒートに出会えば、たとえ感情的に否定していたとしても発情するのはどうしようもない。これは天藍にとって大きな葛藤になったにちがいなかった。
彼が問題を抱えているのは、長年つかず離れずみていた私には見当はついたが、しょせんは他人で使用人である。多少の助言や協力がせいぜいのところだ。しかし父親の藍晶にしてみれば、まさにそれこそ私に期待したことらしい。
一方私はというと、藤野谷家の中で自分に課せられた役割をたいして重く受けとめていなかった。私のある種の呑気さは、天藍にとって悪い作用はしなかったようだ。
この日記は、すでに回想録のようなものとなりつつある。とはいえ一度、私の考えや記憶を書き残すのは現在の事態を整理する上で悪くないように思える。そのうち焼き捨てるかもしれないが、とりあえず今は先を進めよう。
八年前にコンペの授賞式が終わり、天藍が大学を卒業した後、父の藍晶の依頼で私は佐枝零について多少調査した。というのも、受賞作品の盗作疑惑(疑惑の対象となったのは天藍ではなく佐枝零ひとりだった)のせいか、佐枝は天藍にひとことも告げず行方をくらましてしまったからだ。
天藍が佐枝に対して持つ執着はそこでいったん明確になった。父親の無関心と呼応するように天藍も父親に関心がなかったが、佐枝の行方については力のある父へ直接調査を頼んだのである。ちなみに天藍をよく知っている私にとっては、これは尋常でないことだった。
盗作疑惑自体は、藤野谷家の跡継ぎになる人間に「特に何の背景もないただのベータ」が近づくことを嫉妬した筋のいいがかりだと最終的に証明された。だがたとえ疑惑であっても、まだ実績がない佐枝のキャリアにこの件は致命的だっただろう。彼が藤野谷家に関わるのを嫌って行方をくらましたのも無理はない。
しかし佐枝の消え方は徹底的だった。私の調査にかすりもしなかったことに対して、当時多少疑問を抱いたのはたしかだ。私の推測は海外へ出たのではないかというものだった。もしかしたら私の念頭には、空良と逃げた葉月が海外へ行こうとした記憶がかすかに浮かんでいたのかもしれない。もう八年前のことで、今はよく思い出せないが。
もっとも佐枝がベータの「男」である以上――当時はいくら調べてもそれ以上のことは出てこなかった――たとえ佐枝が消えなくても、天藍の執着は実りそうになかった。
同じ年齢のころ、人生にさしたる目的も野心も持たなかった私のような人間なら、使用人として藤野谷家に佐枝を迎えることもできたかもしれず、そうすれば天藍も、もっと深い関係に持ち込めたかもしれない。だが佐枝零はクリエイターで、そんな立場を許容しそうになかった。
それに仮に天藍が佐枝とそんな関係になれたとしても、ベータの男がアルファの跡継ぎの執着の対象として家中にいることを、母親の紫は許さなかっただろう。
佐枝零が実際はオメガで、しかも藤野谷天藍の適合者、いわゆる〈運命のつがい〉だと当時彼女が知っていたらどうなっただろうか。それはそれで問題になった可能性は高い。何しろ佐枝零は、紫と一度もそりのあったことがないオメガ、葉月の息子である。
紫の葉月に対する感情は複雑だ。一種のライバル心――そもそも身代わりというなら紫こそが、藤野谷家のために子供を産まなかった葉月の身代わりだったといえる――それに〈運命のつがい〉がらみで、葉月が藤野谷家のトラブルメーカーになっていたことからくる憎悪、これらが混ざりあっているようだ。
紫の感情は傍観者である私にはとても興味深い。そこにはオメガ性の本能への嫌悪と同時に、自分だけはオメガであってもそんなものに左右されない規律を持つのだという、圧倒的な自尊心と自負がある。息子の天藍に「伯父を捨てたオメガ」――つまり葉月と〈運命のつがい〉の厄介な側面について、子供の頃に教えこんだのは、この紫だった。
ここで俗称〈運命のつがい〉と呼ばれる関係について、すこしメモしておくことにしよう。重要なことだが、この関係はアルファの名族の場合、トラブルの原因となりこそすれ、大っぴらに歓迎されることはめったにない。
〈運命のつがい〉がベータ向けの娯楽として映画や小説で消費されるのは、我々ベータが原則として、アルファとオメガの間に交わされる情熱の単なる傍観者、観客にすぎないからだ。アルファの名族もその事情を理解していて、逆にアルファ支配の神秘化や伝説作りに〈運命のつがい〉という現象を利用している側面もある。
アルファの指導力がどれだけのものであろうとも、この世界の大勢を占めるのは数の多いベータなのだ。いくつかの社会変動をのりこえて、現代の世界はそれをよく理解している。ベータの民衆の間で評判を損なわないためにアルファの男性、ことに名族に生まれた者は、みずからの衝動の管理を厳しく教育される。レイプはいうにおよばず、たとえオメガのヒートにあてられたのだとしても、同意なく妊娠させるなど考えられない。
さらにこの事情を逆手にとったオメガに陥れられる場合もあるため、名族に生まれたアルファ男性は予定がなくても避妊具を持ち歩くのが普通だった。社会的地位のあるアルファ男性がオメガと結婚し、つがいをもつのが奨励される理由のひとつも、不慮の事故を防ぐためだ。ベータとの結婚ではつがい関係を持つことができないので、アルファ男性はヒートの誘惑にさらされ続けてしまう。
「つがい」は、ベータでかつ独身の私にとっては、実感の湧かない現象でもある。性交中、オメガのうなじ付近の皮下にある受容体にアルファの体液が混ぜること、つまりアルファが噛むことで、この両者はつがいになる。これは、アルファがオメガにマーキングして外部に対し自分の所有権や縄張りを示し、一方でオメガに対し自分の庇護を約束する行為という解釈も可能だ。
つがいになると日常的にアルファに存在を主張するオメガの強い匂いは消え、程度の差はあってもヒートが穏やかになるといわれる。相手のアルファも他のオメガの匂いに発情することがなくなる。ベータのカップルでも、結婚して長年同居していれば雰囲気や顔つきが似てくる、といわれるように、つがいとなったアルファとオメガには共通する雰囲気があり、それは私のようなベータにも何となくわかる。
ただしつがいは一度成立すれば終生そのまま続くような絆ではない。長期にわたり接触がないと自然に解消されるし、片方の病気や事故で消滅するケースもあるという。だが通常は、多少感情的な行き違いがあってもつがいになっていれば、アルファとオメガのカップルはなんとかやっていくものだ。藤野谷藍晶と紫の夫婦がそうであるように。
ところが、番狂わせ、という言葉がある。
〈運命のつがい〉はまさにこれに当たるといえるだろう。運命のつがいのふたりは、通常のつがい関係で作られた秩序を壊してしまう。たとえ片方、もしくは双方にすでにつがいの相手がいたとしても、〈運命のつがい〉の前では壊れてしまう、というのはよくいわれることだ。
藍閃と葉月がいい例である。柳空良に出会った葉月を藍閃は強引な方法で先につがいにしたが、葉月が空良へ逃げるのを止められなかった。藍閃は葉月をつがいにしたとき、禁止されているヒート誘発剤を使ったのではないかと私は推測しているが、真偽は定かでない。
ヒート誘発剤は抵抗するオメガを囲い込むために大昔はよく使われた薬だが、このころはすでに、不妊治療以外の目的では手に入れられなくなっていた。相手に承諾なく使用すると重大な人権侵害として重犯罪扱いになる。
だが何を使おうとどのみち、葉月を止めることはできなかった。空良から連れ戻して、藍閃が何度葉月をつがいにしようと噛んでも、葉月のヒートは安定しなかった。
教訓はひとつだ。〈運命のつがい〉が出会うと、その当事者だけでなく、関係するものがみな、振り回されることになる。
ドラマの材料としてはもってこいだが、当事者や巻きこまれる周辺には困った話だ。それこそ「運命」としかいいようがないわけだが……。
近年は〈運命のつがい〉同士は稀有なホルモン適合型の一致によって惹かれあうと判明したが、どうやってたがいを認識するのか、詳細はよくわかっていない。大半は匂いだというが、それは通常アルファとオメガが認識しあう匂いとどう違うのか。それは普通のつがい関係が強固になっただけなのか、もっと特殊なしるしがあるのか。ともあれ〈運命のつがい〉はお互いを見分ける。天藍と佐枝零が互いをどのように見ているのか、他の人間にはけっしてわからないとしても。
そう、佐枝零と藤野谷天藍が〈運命のつがい〉だと、私が理解したのはつい昨日のことだ。
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