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第2部 ハウス・デュマー

12.霧の虹(前編)

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『零』
 加賀美が画面のむこうで眉をひそめている。
『具合が悪そうだ』
「うん。少し」

 俺はそう答えたものの、逆にそこまでひどい顔色なのだろうかと不安になった。藤野谷と三波が帰ったあとで昼食を吐いたから、シャワーで体を洗ってしばらくリビングで眠り、そのせいか夕方になると気分はかなりよくなっていた。
 シャワーで中和剤のパッチを剥がすとましになったので、やはりこれが良くなかったのかもしれない。峡にガミガミいわれるわけだ。でも藤野谷は俺に触れても気づかなかった――たぶん、そうだろう。加えて俺はヒートの兆候があるのではないかと内心びくびくしていたのだが、いまのところ何も感じなかった。

『どうした? 仕事が忙しい?』
「そんなわけでも……」
『会わないか?』
 前触れなく加賀美はいった。彼の背後にはいつもの書棚があり、映像モニターは今日は暗いままだ。
『明日は土曜だろう? 暖かくなってきたし、零がよければふたりで出かけたいと思ったんだが』

 俺は無意識に顔をしかめていたらしい。加賀美がなだめるようにふっと笑ったからだ。彼はひとの表情を読むのが得意だった。加賀美と話すとほっとするのは、彼が俺を細かく気づかってくれるからだ。画面越しに話しているにもかかわらず、どれだけ繊細に加賀美が言葉を選んでいるのかに気づいてはっとするときが何度かあった。

 年上で余裕があるから、というわけでもないのだろう。藤野谷が加賀美の年齢になったところでこんな風になるとは思えない。大学生の藤野谷の声が浮かんでくる。高校の頃のように、彼はいつも俺を外へ誘い出そうとした。何度断ってもこりもせずに。

(サエ、***へ行かない?)
(俺はいいよ)
(どうして?)
(遠いだろ)
(俺が車出すよ。ついでにドライブしよう)

 何度藤野谷に誘われても俺は断りつづけた。その頃はもう、十六歳の時と同じではないとわかっていたからだ。
 藤野谷を頭から締め出したいのにそれができないのが辛かった。どうして今日、俺はあいつにいいかげんやめてくれといえなかったのだろう。おまけにうっかりおかしなことを口走りそうだった。また関わってしまったなら、せめて友人としてつかず離れずの距離でいられないのだろうか。そうすればあいつがもし本当のことを知ったとしても……。

『零、気が進まないか?』
 加賀美がいって、俺は不自然に黙りこんでしまったことに気づいた。
「ごめん、そんなわけじゃない」とあわてて答える。「考え事をしていて」
『こういうのはどう? 外へ出ない方がいいなら、明日の午後、デュマーのレストランでランチかアフタヌーンティーとしゃれこむんだ。それからシアタールームでゆっくり映画をみるというのは。予約しておくよ』
 デュマーのレストランといえば、峡が「レシピを聞いてくれ」なんて冗談をいっていた店だ。
 俺はおそるおそる言葉を探した。
「ええと――俺はデートに誘われている?」
『そう思ってくれて安心したよ』
 加賀美は微笑んだ。




 翌日、加賀美のいったとおり天気はよかったが、空はぼんやりと霞んでいる。約束の時間を前にして、俺は何を着るか迷った。なにしろデートと名のつく出来事に俺は縁がないのだ。悩むほど服を持っているわけでもないのに、ジャケットとシャツとパンツの組み合わせに悩み、峡に貰ったものの使う機会のなかったニットタイを試し、靴をどうするか悩んだあげく、しばらく履いていなかった革靴を磨いた。

 三波ならこういうときけっして困らないのだろう。そういえば彼は昨日、藤野谷のようなオレオレアルファはタイプじゃない、といっていなかったか。あらためて思い出し、俺は思わずふきだした。あんな風に藤野谷をぶった切れるのは三波くらいではないだろうか。

 迎えの車でハウス・デュマーにつき、AIエージェントのサムに挨拶する。昼間のハウスは夜とは雰囲気が少しちがうが、外部から完全に切り離された高級ホテルのような印象は変わらない。
 加賀美はもうロビーにいて、俺をみとめて立ち上がった。テーラードジャケットとスリムなタートルネックセーターというスタイルが休日の午後によく似合う。

「零」

 加賀美は満面の笑みを浮かべて横にならび、俺はごく自然に肩を抱かれた。今日はカーニバル・デイではない。中和剤も使っていないし、仮面もなく素顔をさらしているのに、ほっと息がつけるような気がした。昼間のデュマーが夜と違って落ち着いているせいか、それとも加賀美がまったく周囲を気にせずに堂々と立っているせいだろうか。

 レストランはパティオに面していた。テーブルは淡いグリーンのクロスが敷かれ、一輪挿しに黄色い花が飾ってある。遅いランチのコースは、最初に峡が喜びそうな手のこんだ前菜とスープが出た。メインは加賀美が魚を選び、俺は肉にした。最後はデザートのアイスクリーム。

 最近毎日のようにビデオを通じて顔をみているせいか、向かいに座る男と距離を感じなかった。食べながら昨日の続きのようにニュースや映画について話をして、食後のコーヒーを飲み、店を出たときだった。誰かに見られているような気がした。

 俺はガラスに映った自分を確認するように眺める。見慣れた自分と少しちがっているような気がしたのは、慣れないニットタイのせいだろうか。
「零?」加賀美が呼んだ。
 自意識過剰だと内心自分をわらって、俺は「なんでもない」と答えた。加賀美は長身をわずかにかがめ、俺の髪に触れた。指が耳のうしろをなぞり、首筋におりる。
「シアタールームへ行こうか」

 AIエージェントのサムが今回案内した部屋は、二月のあの日に加賀美を待った部屋よりも奥にあった。あのとき俺は映画どころではなく、設備もほとんど確認できなかったのだが、この中は豪華な貸切ミニシアターといった趣だ。スピーカーは高級品だし、ミニバーもある。
 ふかふかのソファに腰をおろすと自然と大きな画面を見上げるような姿勢になる。ついさっきレストランで話題にした作品を加賀美がリモコンで呼び出した。昨年アワードを受賞した海外の映画で、俺は見ていなかった。

 加賀美は照明を半分落とした。オープニングがはじまるとすぐそばに加賀美の体温を感じる。映画は、敵対する一族に生まれたアルファとオメガが〈運命のつがい〉だったという古典的な恋愛要素に、前世紀の大戦で起きた殺人事件を絡めたストーリーだ。ラストでは主人公ふたりが〈運命のつがい〉だからこそ謎が解ける、そんなからくりになっている。
 ありがちな物語だが、主人公ふたりの目線を生かしたユニークな映像構成や俳優の演技力、ラストに仕掛けられた驚きの種明かし、といった要素でヒットして、公開時は批評家にも高く評価された。
 黒の背景に白文字のクレジットが流れ、俺はソファの上で伸びをする。

「どうだった?」と加賀美がたずねた。
「まあまあかな。協力して謎を解く部分は好きだ」
 そう俺は答える。途中でソーダ割りを飲みはじめたせいで、少し酔いが回っていた。
「最後の仕掛けはどう思う?」

 加賀美は立ち上がってミニバーへ回った。クレジットはまだしばらく続きそうだった。エンディングテーマが一度変わり、ユニット毎にスタッフの名前が流れていく。
「アルファに見えた方がオメガで、オメガらしい方がアルファだったというオチ? 面白いといえば面白いし、外見ではわからない、というのが現代的なのかな」
「要するに、零はあまり気に入らなかった?」
「いや。ただこういう映画だと、運命のつがいって万能薬みたいに使われるな、と思って」
 ミニバーの方向から小さな笑い声が立った。
「たしかにそうだ」

 映画の中では、主人公のふたりは〈運命のつがい〉だからこそ、何でも乗り越えられることになっている。親世代の憎悪は主人公ふたりとは無縁で、どちらがアルファでオメガなのかも関係がない。

「俺の親は――運命のつがい同士だったらしいけれど、万能薬どころか、そのせいでむしろ面倒が増えたと思うよ」
 ぼそっとつぶやくと加賀美は眉をあげた。
「それは?」
 たぶんウイスキーのせいだろう。口が軽くなっているのを自覚したが、まあいいかと俺は思った。

「俺を産んだ人は夫がいたのに運命のつがいと出会った。一度その相手のもとに走ったけれど、夫のところへ連れ戻された。それが数年後にまた偶然再会して、彼の元に逃げた。そして俺が生まれたんだ」
「それなら零は〈運命のつがい〉の子供なのか。それはまた……」
「めずらしい?」
「運命のつがいなんて、それこそほとんどの人は映画の中でしか知らないんじゃないか?」

 グラスに氷の音を響かせながら加賀美が横に座る。膝が触れあって温かかった。
「この先の話を聞きたい?」と俺はたずねる。
「あらかじめいっておくけど、三流の怪談みたいになる」
 加賀美はうなずいた。
「聞きたいな」
「いつ知ったのかも覚えていないような話なんだ。俺もほんとうは信じていない」
「話してくれ」



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