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第1部 カフェ・キノネ

12.楽園の棘

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 未明になるころ、アレがやってきた。

 ベッドに横になったまま、俺は眠ったのかそうでないのかわからないような時間を過ごしていた。いつものヒート以上に頭の芯がぼうっとして、自分の内部から熱が湧き出すようだ。ほとんど息苦しい感覚をおぼえたとき、ふいにはっきりと眼がさめた。 何も覚えていないのに夢をみていたような気がした。

 ゆっくり立ち上がる。軽く汗をかいていた。体がふらつき、肌をこするパジャマの布を意識する。過敏になっている。触れる空気に腕やうなじの毛がざわめく感覚にぞくぞくする。いつのまにか胸のまえで両腕を組んでいた。布の上からなぞる自分の指が他人のもののようだ。

 リビングの奥で峡が寝ているはずだ。俺は物音を立てないようにそっとキッチンへ入り、水のボトルをとった。蓋を開ける手に力が入らず、あきらめて蛇口から直接水を飲む。ひやりとした感触が喉をくだって渇きがやむ。
 ほっとするものの体のほてりは冷めない。それどころかもっと強くなる気がする。

 ――足りない。

 頭の内側でいらいらとわめきちらす何かを押さえつけたかった。俺は足早にベッドにもどり、サイドランプの横にいつも置いてあるノートを膝にひらく。白いページをみて息を吐く。描け、と自分に命令した。
 描け。
 何かを描け。
 描かないと終わりだ。

 震える手が鉛筆を握る。感覚がおかしい。俺はなんとか線を引いた。かたち。かたちだ。何を描こうとしているのか、自分自身にすらわからなくても。
 鉛筆の芯が折れた。体の奥底からあがってくる熱が俺の背中をくだり、腕の毛がそそけ立つ。目を開けていることができない。

 気づかぬうちに俺の手から何もかもがこぼれおちている。体がふわりと浮遊しているようだ。

 欲しい。
 ――触って……ほしい。

「あ……あっ――ふ……」
 いつのまにかパジャマの前をあけていた。ベッドの上で俺は自分自身をまさぐり、接触をもとめてシーツの上に転がっている。うつぶせで膝立ちになり、白い布に胸をこすりつける。下着の中はぐっしょり濡れ、なにもしていないのに前からしずくが垂れてくる。俺は荒い息を吐きながらはりつめたペニスを握った。何度かしごいただけであっという間に達する。

 精の匂いが漂う。けだるく、重かった。なのに俺の内側の熱はおさまるどころかさらにひどくなる。背中から腰にかけて熱があがる。もっと強い刺激を求めて俺はシーツに胸の尖りや脇腹、また立ち上がってきたペニスをこすりつける。渇望で頭の中がいっぱいになる。欲しい。欲しくてたまらない。前からうしろへと指でなぞり、濡れた穴をまさぐる。

 どこかで誰かがあえぎ、高い声で叫んでいるようだ。自分の指がもどかしい。もっと――もっと大きなのが欲しい。この濡れたところに――もっと強い力で――

(サエ)

 耳元でささやく声を聞いたような気がした。藤野谷が俺の背後にのしかかり、胸に腕をまわして抱きしめている。熱に浮かされた体を確実に抱きとめられて、俺は安堵しながらその重みに身をゆだねた。熱い手が尻を撫で、奥へ入りこもうとする。

「……天!」

 自分自身の声にいきなり意識がはっきりした。俺はシーツの上でうつぶせになっている。肩で息をして、体じゅうがどくどくと脈打つのを聞いた。
 甘ったるい汗とつんとした精液の匂いのむこうに藤野谷のまぼろしがいるような気がした。体の熱さとうらはらに胸のうちが寒くなる。

 俺はおぼつかない足で立つとバスルームへ歩いた。下着の残骸をひきずりながらシャワーの栓をひねる。冷たい水に息がとまりそうになる。
 ほんとうに今、この瞬間だけはとまってしまえばいいと思った。藤野谷の腕の記憶を消してしまいたい。熱を帯びたあの夢にあったもの。俺が欲しいもの。
 壁に手をついてうつむくと足のあいだを水が流れていく。このまますべて流してしまいたい。俺も、この欲望も。
 どのくらいそうしていたのかわからない。寒くて凍りそうだ。がくんと膝が崩れた。

「零!」

 背後で声があがった。ぼんやりした頭でも峡の声だとわかった。ふいに背中を叩きつける水の冷たさが温もりに変わる。うしろから抱えられて俺は抵抗しようとしたが、力が入らない。

「零――零!」
 峡はびしょぬれになるのもかまわず俺を抱きおこし、温かい水の流れるバスルームの床に座らせた。シャワーの湯をかけながら俺の背中をさする。胸から腹、股のあいだを湯が流れていき、冷水に消えかけていた熱がぞくりと鎌首をもたげた。

「しっかりしろ」
「峡……叔父さん――緩和剤が――」
「立てるか?」
「効かない――たすけて……」

 湯の温度があがったのだろうか。皮膚のうえを流れる感触が心地よく、ふたたび自分の芯が持ち上がってくるのがわかった。またも頭に霞がかかったようだ。眼をとじたまま顔に触れたタオルを俺はやみくもにつかむ。

「零」
 腰を抱えられ、持ち上げられた。はっと目をみひらくと叔父の顔がすぐ近くにある。
「少し耐えてくれ」
 尻になめらかで堅いものがあてられた、と感じた次の瞬間、間髪入れずにそれは奥へ侵入した。中をこすられる感触に喘ぎがもれ、俺は身をよじらせる。峡の腕が背中に回っている。快感が俺の中心から湧きあがる。
「あっ――あ……峡――や――」

 声をあげながら俺はいつのまにか腰をゆすり、尻に侵入した異物をもっと奥へ誘いこもうとする。締めつけて内側の襞をこすり、奥を突く。
「あんっあ、あ、あ―――」

 頭の芯が白くなり、小さな爆発が起きる。俺ははあはあと息をつきながらうすく目をあける。ささえている峡のシャツが白濁で汚れていた。羞恥で顔をあげることができなかった。濡れた布がなかば透きとおって肌に張り付いているのを凝視する。声を出そうとして、枯れたような音しか出なかった。

「や――自分で……するから……」
 叔父の声は穏やかだった。
「大丈夫か?」
「ああ。大丈夫だ――行って……」

 峡は黙って俺の背中を抱き、壁にもたせかけた。奥へ入ったままのディルドに俺の指を誘導する。壁にそって温かい湯が流れる。
「零。ただの生理現象だ。シーツを替えてあげるからベッドへ戻りなさい」

 平静な医者の声だった。バスルームを立ち去る峡のまわりから湯気が流れ出し、俺は濡れたタオルやパジャマの中にみじめな恰好で座りこんだまま、尻の間に異物をつっこんでいる自分を意識する。なんて滑稽な、というささやきが頭をよぎる。なのにまだ俺は熱をもてあましているのだ。
 まだ。
 バスルームの扉が閉まった。

 ふたたびこもった湯気のなかで、熱い湯がなめらかに肌を流れる感触はまたも愛撫のように感じられた。俺はオモチャを弄りながらさらに何度か達し、よろよろになってバスルームを出て、きれいなシーツへ倒れこんだ。眠れたとしてもまだ終わらない。きっと数日は続くのだ。目覚めてまた同じことを繰り返す。
 この熱をわかちあってくれる誰かがほしかった。もう藤野谷の夢はみなかった。




 目覚めると峡はいなかったが、大量のスープの作り置きが鍋と冷凍庫に入っていた。
 今回のヒートは完全に抜けるのに五日かかった。前兆から数えると一週間は経っている。こんなにつらかったのは数年ぶりで、時間的にもずいぶんな損失だった。

 ヒートの間は記憶もはっきりしないのが困るのだ。やっとまともに頭と手が動く朝がきて、あたりをみまわすと、朦朧とした状態で描きなぐった紙がベッドの周囲に散らばっていたりする。俺は顔をしかめて拾い上げた。捨てようかとも思ったが、結局ろくに確認もせず、まとめて仕事場の棚につっこんだ。

 体を洗い、カプセルを飲み、パッチを貼り、香水をつけるという儀式をこなすと心底ほっとした。天気が良かったので窓を開け放して家じゅう掃除し、AIにまかせっきりだったメールやチャットのチェックを終え、昼前に自転車でカフェ・キノネへ行った。この時間にしては珍しく他に客がいなかった。

「ナポリタン」
 カウンターで注文すると、マスターはいつもの柔らかな表情をうかべて「おや、珍しい。ゼロはケチャップ苦手じゃなかったの?」という。
「何日か寝込んでいたから。人工的な甘さが恋しいんだ」
「そういえば今週見なかったね。調子悪かった?」
「うん。それに実家に帰ったりもしていたから」
 俺はカウンターに肘をつく。ごく当たり前の、近況を報告する会話が心を落ち着かせてくれる。

 キノネのマスターと知り合って何年にもなるが、俺は彼が店を休んだり、具合が悪そうな様子を見たことがなかった。アルファと安定した関係――つがいとしての定期的なセックス――を維持しているオメガは強いヒートに悩まされなくなるという。相手のアルファも、他のオメガのヒートに感応して発情(ラット)することもなくなるらしい。パートナーの黒崎さんとうまくいっているのだろう。
 ハウスへ行った方がいい、という叔父の忠告がまた頭をよぎった。昨夜ようやく落ち着いて、連絡したときにもいわれたのだった。

 マスターはハムと玉ねぎをフライパンに放りこんでいる。じゅうじゅうと音が鳴る。香ばしさにまじってケチャップの甘い匂いがカウンターまで流れる。
「ゼロの実家ってどこだっけ?」
 中太の麺をソースにからめ、器に盛りながら俺にたずねた。
「遠くはないよ。田舎だけど。車で一時間くらい」
「みんなそこなの?」
「祖父と養い親は。叔父がこのあたりに住んでる」
「ああ、実のご両親は亡くなられたって、前にいってたね」
「赤ん坊だったから、養ってくれた両親がほんとの親みたいな感じだよ」

 オレンジ色に染まったスパゲティは優しい味がした。ケチャップをあえただけのようなナポリタンをむかし佐枝の母さんが作ってくれたことを思い出す。あれだけ工作が得意なのに料理はさっぱりという面白いひとだが、佐枝の父は料理が得意なので、ぴったりな組み合わせというのはあるものだ。

(あなたのお父さんたちは本当に素敵な関係だったのよ。とてもぴったりの二人だった。お互いがお互いをどれだけ愛しているのか、はたから見てもすぐにわかった。憧れたものよ……)

 実の両親について、俺は佐枝の母さんにそう聞かされて育った。葉月はづき空良そら。出会った日、葉月は湖に一族と出かけていた。蓮の花を見に行く、当時の佐井家の恒例行事だ。柳空良は名族となんの関係もない、ただのアルファだった。天気がよいから湖までドライブに来たのだ。

 葉月が名族の跡継ぎと婚約していなければ、話は単純な「運命の出会い」で終わったにちがいなかったし、そうでなくても美しい物語といえなくもなかった。陳腐なメロドラマのように最後は悲劇的な結末を迎えたが、途中には幸福な時間がたくさんあったからだ。

 葉月は運命のつがいを忘れられず、結婚を目前にして空良の元へ走った。しかし名族の婚約者もあきらめなかった。彼は彼で葉月をずっと愛していたからだ。ふたりは幼馴染だった。葉月は連れ戻されて結婚し、空良は名族の圧力を受けて海外へ飛んだ。しかし三年後ふたりは偶然再会し、またも葉月は空良を選んだ……。

 葉月と空良のエピソードは子供の頃の俺にとってはただのお話だった。実の親と聞かされてはいても、直接関係があるとはまったく思えなかったからだ。それでも佐枝の母さんは俺に、俺を産んだ人たちは互いに愛し合っていて素晴らしかったのだとくりかえし教えこんだので、俺は幸福な子供時代をすごせたのだろう。

 年月が経っておとぎ話の背景を知ってみると、この物語は陳腐なメロドラマよりはるかにたちが悪かった。



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