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第1部 カフェ・キノネ

10.紅葉の傘(後編)

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 車が敷石を乗り越えた衝撃で俺は目を覚ました。
「零、もう着くぞ」

 峡の眸がミラーごしにのぞいていた。俺が生まれたときからすぐ近くにいる顔だ。見慣れてなんともおもわないが、俺とまったく似ていない。車は佐井家の門を通り抜けたところだった。道に沿って竹の生垣がのび、外の景色をさえぎっている。太陽はちょうど中天にあり、空は高く抜けるようだ。生垣を通り過ぎた先で、真紅の紅葉が白い砂利の上に枝をのばす。母屋がその先へあらわれる。
 車寄せにすばやくいつもの世話係が寄ってきて、キーを預かった。祖父の家の使用人は何年も変わらない。顔はよく知っているが、俺は一度も名前を聞いたことがなかった。

「大丈夫か?」と峡がきく。
 過保護だな、といつものように俺は思うが、峡に気遣われるとほっとした。家族の中で守られている安心感は何にも代えがたい。
「ああ。少しふらつくだけ」
「まったく、藤野谷に飴を舐めさせられたって? あとで話をきかせてもらうからな」
「じいちゃんに余計なことをいうなよ」

 俺は峡と並んで母屋へ向かう。峡の背丈は俺とあまり変わらない。俺は峡を叔父と呼ぶが、これは書類の上の話にすぎない。戸籍上の俺は、いまでは物故者となった峡の兄の子供として生まれ、直後に峡の両親、つまり佐枝家の養子になったとされている。しかし実際は峡と俺に血のつながりはない。これらの書類の操作は俺の本当の出自――佐井銀星の実の孫――を世間から隠すため、オメガ保護に関する法律を利用して、生後間もなく行われた。

 それにもかかわらず、正直なところ、俺は峡を年の離れた兄のように思っている。佐枝の両親、つまり峡の実の親は俺を実子のように育てたからだ。

 佐枝家は佐井家の家来筋で、何世代も佐井家の乳母や家令をつとめたベータの家系だ。俺はベータの家庭に久しぶりに生まれたベータの次男として、ごく当たり前に育てられた。定期的な通院や検査、服薬が欠かせないことをのぞけば、他の子供と変わりなかった。
 すこし違っていたのは、鉛筆やクレヨンを持たせたら最後、ずっと絵を描きつづけていたことくらいか。十四歳の夏休み、俺にサマースクールのアートキャンプへ参加しないかと勧めたのは母だった。
 そしてその夏の出会いが、いろいろなことを変えてしまった。

「零、元気か?」
 祖父の銀星はいつも碁盤の前に座っている。碁盤には石が並んでいるが、祖父の手はほとんど動かない。きちんとなでつけた髪は生糸のような艶のある白で、背筋がまっすぐ伸びている。痩せて、眼のまわりこそくぼんでいるが、まだかくしゃくとしてみえる。

 銀星は佐井の現当主で、なおかつオメガだ。佐井は一応名族、つまりアルファと同様のクランの一員だが、世間にはあまり知られていない。佐井家のような家系があることを著名なアルファの名族はずっと伏せている。

 もっとも、俺にはそんなことはどうでもよかった。銀星は俺の祖父だ。これは何があっても変わらないし、彼は佐枝の両親と同様、子供のころから俺を可愛がってくれた。俺はみんなに守られているのだ。
「元気だよ」と俺はいう。祖父は碁盤から視線をはずし、俺をみて、また碁盤に戻す。

「まだベータのふりをしているな。私はもういいといったのに」
「もとはじいちゃんの考えだろう」
「おまえが十六になるまでは。その先はおまえが決めただろう」

 最近、銀星は高齢のせいか、何度も同じ話を繰り返すようになった。この会話はたぶん三度か四度目だ。祖父の言葉は正しい。佐井家がオメガの子供をベータに偽装したのはアルファから―ー正確にいえば特定の一家から隠すためだったが、それも結婚可能年齢に達するまでのことだった。十六を過ぎた後もベータを偽装する処置を続けたのは、俺自身が望んだからだ。

「そろそろ、零も考えますよ。もういい歳だ」
 俺の後ろで峡がさりげなく口をはさむ。俺は黙ってうなずく。自分でもどうしたらいいのかわからないものについては黙っておくに限る。本音のところでは、俺は絵を描いたり制作ができる環境にいられれば、それだけでいいのだった。ベータにみせかけるためのホルモン剤や中和剤には俺にとって都合の良い副作用がある。ヒートの回数や影響が減るのだ。

「つい何日か前、藤野谷藍晶ふじのやらんしょうから連絡があった」
 祖父がぽつりといった。
 俺はどきりとする。藍晶は藤野谷の父親で、いまの当主だ。
「息子が結婚を考えているらしい、という話だ。和解のつもりかもしれん」
「息子というと、藤野谷天藍の?」
 峡が眉をひそめた。
「子供が生まれれば、過去は水に流そう、といいたいのかもしれないな」
「いつまでもこだわっているのはあっちでしょうが」

 祖父の前に峡が身を乗り出す。憤慨したような勢いだった。佐枝家は佐井家からは遠縁にあたるが、峡は俺と同様祖父の名づけ子だったから、俺よりも実の孫のようにみえるときがある。
「そうなれば零は完全に自由になれる。これをいいたかっただけだ」
「いや、零はもうとっくにそんな必要はないんです。ただ――」

 峡はあわてたように言葉を切った。俺はちらりと視線を投げ、もどす。兄弟同然のこの男にしか教えていないことがある。祖父も知らないのだ。
「まあ、藤野谷が遺恨を忘れてくれるなら、文句はありませんけどね」
 どうみても文句がないとは思えない口調で峡はいい、それでこの話は終わりになった。

 母屋のキッチンは改装して近代的になっている。中から賑やかな声が聞こえる。のぞくと佐枝の両親が大騒ぎしながら餃子の皮を包んでいた。といっても、騒がしいのは母ひとりだったが。

「峡、零! 手伝いなさい、餃子よ」
「母さん。零の調子が悪いっていったろ…」
「え?」
 母は目を丸くした。父はその横で黙々と餃子を包んでいる。機械のような正確さだ。ふたりとも外見は峡によく似ている。俺に対して過保護なところもだ。
「零、そうなの?」
「あ、うん、ちょっと……峡に診てもらうから」
「じゃあ餃子はそのあとね。いいわ」

 俺たちは廊下をへだてた向かいの洋間へ行った。ドアを締め切り、峡は「服を脱げ」とぶっきらぼうにいう。俺は椅子に腰をおろしてシャツを脱ぐ。峡は簡易診察キットを広げ、俺の手首や胸に器械をセットした。

「で、飴がなんだって?」という。
 俺はしぶしぶ答えた。
「藤野谷が舐めたあとの飴を……食べた」
 峡は舌打ちした。
「馬鹿か。そいつの唾液がついてるだろうが」
「逆らえなかった」
 小さなためいきが聞こえた。

「アルファで、おまえの運――いや、適合者だからな。まあ、そうだろう」
 ピピっと峡の手元から音が鳴る。峡は〈運命のつがい〉という言葉を使いたがらない。
「周期はまだ先なのに、ヒートの前兆が来たのはそのせいか?」と俺はきく。
「たぶんな」
 峡は器械から伸びた白いテープを破った。

「気分に左右されるから一概にいえないが。にしても零、どうして藤野谷の息子と会ったりしているんだ」
 俺は返事を渋った。これを聞けば峡はもっと怒りそうだ。
「偶然だよ。あいつの会社のプロジェクトに参加することになったんだ」
「なんだって?」
「たぶん春頃までかかる仕事だ」
「なんだって……」
「いや、今後はあいつと会うことはほとんどないと思うから、大丈夫だ。飴の件はたまたまなんだ。じいちゃんがいってたとおり、結婚する気があるようだったし」

 峡は奇妙な目つきで俺をみつめた。
「いいのか?」
「何が」
「だから、そいつが誰かさんと結婚してもだよ」
「いいも悪いもない。藤野谷の勝手だろう。俺は関係ない」
「いや、こっちはそういうことを聞いてるのでなくて……」

 峡はひたいに手をあて、また嘆息した。俺は肌にくっついたままの計器を指でいじる。
「これ取っていいか?」
「ん? ああ……」
「藤野谷もいろいろ大変なんだ。あいつの家がろくでもない話はむかし何度か話しただろう」
 俺はシャツのボタンをはめた。指にほてりを感じ、すこし頭がぼんやりしているようだ。典型的なヒートの前兆だった。

「元当主だった伯父さんの相手が運命のつがいと出奔して、いざこざのあげく当主は最終的に行方不明、代わって当主の弟である藤野谷のおやじが継いだのはいいとしても、その、あまり……雰囲気のいい家じゃないんだ。うちとちがって」
「うちはとてもいい家だ。もちろん」
 峡は誇らしげにうなずき、俺は先を続ける。
「……だから藤野谷が運命のつがいなんてものはゴミ以下だと思ってたのも無理はないし、長いことオメガ嫌いだったのもしかたない。後者は宗旨替えしたみたいだけどな。結婚するらしいから」
「零……身も蓋もないことを自分でいうなよ」
 そんなつもりはなかった。
「身も蓋もなくても藤野谷はそうだった」
 そう俺はダメ押しした。峡は俺の顔をのぞきこむように体をかがめる。

「なのに、こともあろうにおまえがどうして藤野谷んとこの息子と――アレなんだ」
「俺に聞かないでくれよ。一生会わなければよかったんだ」
「それ、元はといえば母さんのせいだからな……」
 ロールの回る音がしてキットから処方箋が出力された。峡は器械をしまいこむ。

「零、帰りに薬をもらって帰ろう。今日は念のため零のところへ泊まる」
「過保護な叔父さんだよな。助かるけど」
 峡はじろじろ俺をみつめた。
「うん。我ながらそう思う」
「藤野谷がいまだに俺をベータだと信じていられるのも、母さんや峡のおかげだよ」
「零――」峡の眸には真剣な色があった。
「それでほんとうによかったのか、俺にはわからんよ」




「峡? 零は大丈夫なの?」
 廊下に出ると母の明るい声が響いている。
「早く焼かれたいか蒸されたいか茹でられたいかを決めて。お父さんが待ちかねているわよ」
「母さん、餃子の話だよね? 俺が地獄行きみたいないい方、よしてくれよ」

 佐枝家は明るい家庭なのだ。暖かい傘に守られるように、実の両親がいなくても、俺はまったく寂しい思いをしないで育った。一方、藤野谷の家は……。

 一度だけあいつの家に行ったことがある。高校のときだった。新しい大きな家で、広いガレージが手前にあった。階段や廊下は白を基調にしたデザインで、封を切ったばかりの品物のようなプラスチックの匂いが薄く漂っていた。外では陽気だった藤野谷は家に入ると固い表情になり、黙ってすたすたと歩いていった。そして奥の白い扉を開けて、俺を中に入れた。

 とたんに俺は色の奔流に息をとめた。部屋の壁じゅうびっしり、天井に届くまで、ポスターや雑誌の切り抜きやシルクスクリーンといったアートワークが貼られていたのだ。壁だけでなく、部屋はパソコンやビデオカメラをはじめ、様々なガジェットでいっぱいだった。まるで息苦しく感じるほどだ。

 でも藤野谷は色と線の洪水に埋もれながら、やっと肩の力を抜いたようにみえた。とまどって部屋じゅうを見回している俺に、嬉しそうに笑った。
「なあ、サエ」と藤野谷はいった。
「何か描いてくれよ」



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