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疑惑④
「潮騒鳴り止まず~久遠の帝~」
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数人の村人が立ち会い、間違いなく先帝の亡骸だと確認した後、亡骸はすぐに荼毘にふされた。
「それから、朕は漁師夫婦の倅として育った。元々、養父は一徹な人で通っていて村からも離れた場所で夫婦だけで、ひっそりと暮らしていた。だから、突如として遠縁の子どもが引き取られてきたと聞いても、誰も訝しむ者はいなかったし、わざわざ朕の顔を見に来る者もいなかった」
そうやって、身代わりを帝に仕立てて埋葬した後、寺の老僧は義経に事の次第を書き送った。すぐに義経の近臣だという武士がやってきたものの、既に亡骸がない状態では、どうにもならない。念のため、先帝の亡骸を見たという村人すべてが呼び集めれ、一人一人尋問を受けたが、皆一様に、自分たちが見たのはお労しくも幼くして海に散った帝の亡骸だと口を揃えた。
源氏の武士はその言葉を鵜呑みにし、そのまま帰京していった。
当時、帝は六歳だった。我が身が何者で、何故、このような目に遭うことになったのか。朧には理解し記憶していた。
それから九年が流れた。養父母となった漁師は彼を〝トキ〟と呼び、大切に育ててくれた。何故なら、帝の名は〝言仁(ときひと)〟だったから。
せめて幸薄い帝に本来の名で接してくれようとしたのか。
時繁は養父母のことを語る時、とても温かい笑顔になる。たとえ生きながら死んだことになっていても、間違いなくその養父母の許で過ごした時間は時繁にとって温かく思いやりに満ちたものだったのだ。壮絶な過去を持つ彼が束の間でも人間らしい幸せを得たことが彼のために、楓は嬉しかった。
養父母との暮らしでささやかな幸せを得ても、彼は自分が何者であるかを忘れたことは片時たりともなかった。近くの寺に通い、老僧から学問を教わり、高度な教養をも身につけた。彼の学問の師匠となったその老僧こそ、養父母の他に先帝が生きていると知る唯一の人間だったのである。
十五歳を迎えたある日、時繁は養父に鎌倉に行きたいのだと申し出た。ただひと言それを伝えただけなのに、養父は息子の意図を正しく理解してくれた。
―あなたさまを今まで我が子としてお育てして参りましたが、本来なら遠い都におわす天子さまはその竜顔さえ我ら賤しき民は拝することも叶わぬ尊(たつと)き身。子のない我らに子を育てる歓び、親となる歓びを与えて下された。勿体なくも畏れ多いことにございます。
その時、既に五十を過ぎようとしていた養父の髪は白いものが大半だった。平家の生き残り、しかも先帝という特殊な立場にも拘わらず、源氏に売り渡すようなこともせず、我が子として慈愛深く育てくれた恩を思えば、これより先も子として孝養を尽くし、その恩義に報いるのが筋であることは判っていた。
しかし、時繁には、是が非でも果たしたい悲願があった。無念の想いを抱いて壇ノ浦に散っていった平家一門の宿敵頼朝を討つ。一族の恨みを晴らすまでは、自分がこの世に生き残った意味はないとさえ思える。
養父の皺に埋もれた眼には光るものがあった。
出立の日、時繁はその場に座り、養父母の前で手をついて深々と頭を垂れた。この人たちがいてくれたからこそ、今日の自分があり、天涯孤独の身が温かな人の温もりを知ったのだ。
―私の方こそ、長らく慈しんで下さり、ありがとうございます。私にとってこの世に父母と呼べるのは四人、私をこの世に送り出して下された高倉の帝と建礼門院さま、そして、あなたたちです。
時繁も養父母と実の親子のように接した日々を思い、泣きそうになった。養父に手ずから漁を教わったこと、母と並んで芋の皮を剥いたこと。九年という月日はけして短くはない。彼らは時繁の人間形成に大きな影響を与えた。
大切には育ててくれたけれど、けして特別扱いはされなかった。〝トキ、トキや〟と呼び、実の子のように厳しく温かく教え導いてくれたのだ。
旅立つ彼に、養父は家の奥からぼろ布にくるまれた包みを差し出した。
―これは?
物問いたげに見つめる時繁に対し、養父は応えた。
―これは神器にございます。
流石に時繁もこのときばかりは度肝を抜かれた。二つの神器は確かに祖母二位の尼が幼帝である彼と共に腕に抱き入水した。しかし、その一つ草薙剣はいまもって不明とされているからだ。
―もし、あなたさまが漁師としてこの地で生涯を終えるおつもりならば、一生お渡しすることはあるまいと思うておりました。けれど、ここを出てゆかれるというのならば、これはあなたさまにお返し致します。この神器があなたと一緒に流れ着いたのは恐らくは天の導きでございましょう。我々はあなたさまこそが正当なる帝であると信じております。
時繁は震える両手でその包みを押し頂いた。
―父上、母上。長らくお世話になりました。
九年間を過ごした海辺の小屋は、この由比ヶ浜に建てた小屋とよく似ていた。わざと似たように時繁が建てたのだ。
その懐かしい我が家を出た時繁に養母の哀しげな声が追いかけてきた。
―行ってはなりません。今、ここを出たら、あなたは茨の道を歩むことになる。
泣き崩れる養母を養父が横から支え、時繁はもう一度、二人に頭を下げ未練を振り切るようにその場を立ち去った。
鎌倉の地に来て五年、漁師の時繁としてひっそりと生きながら、頼朝暗殺の好機を窺っていた。ひそかに平家残党の一味を探し出し、かつて祖父清盛が手足として使っていた諜報部隊〝落ち椿〟の生き残りと接触、彼らと繋ぎを取りながら時期が来るのを辛抱強く待ち続けた。
更に運命はまた彼を思わぬ方へと導いた。源氏の娘との出逢い、生まれて初めての恋。
楓とめぐり逢ってから、彼はつくづく今、我が身の生命があることを感謝した。叶わぬと諦めていた恋が叶い、楓は彼の妻となった。時繁はあろうことか頼朝の重臣河越恒正の婿となり、頼朝に仕えることになる。
そして、平家が壇ノ浦で悲運の最期を遂げてから実に十四年を経て、時繁は一門の恨みを晴らした。
すべてを話し終えた後、時繁はあたかも憑きものが落ちたような、むしろ晴れ晴れとした表情をしていた。
「お労しい」
楓の眼から透明な雫が次々と滴り落ちた。
「そなたは朕のために泣いてくれるのか」
時繁は微笑み、楓の涙を人差し指でぬぐう。
「そなたに出逢って、人生はまだまだ棄てたものではないと思えたよ。こうして生き存えているからこそ、そなたにめぐり逢えた。不思議な宿命が朕をそなたへと導いてくれたのだ」
時繁は笑い、傍らの小枝をパキリと二つに折り、焔の中に投げ込んだ。それで火勢が一気に強くなり、パチパチと小気味の良い音がする。火の粉が一斉に舞い上がり、漆黒の闇に舞う。
「綺麗」
眼を輝かせる楓を時繁は愛情のこもった眼で見つめた。
「養父が言ったように、朕が今日まで生き存えたのにも何か意味があるのだろう。朕はこれからの生涯はその自分が生かされた意味を探していこうと思う。楓はそんな朕についてきてくれるか?」
「はい。楓はどこまでも時繁さまについてゆきます」
楓が明るい声音で応えるのに、時繁がふっと淋しげな笑みを見せた。
「時繁さま?」
不安げに見つめる楓に、彼は笑った。
「朕の方こそ、そなたには済まないと思うている。世が世なら、そなたは女御として内裏で時めいていたであろうに」
楓は彼の愁いを吹き飛ばすような屈託ない笑顔で言った。
「いいえ、以前にも申し上げたように、私はこの世の栄耀栄華などには何の魅力も感じません。あなたの傍にこうしていられるだけで幸せなのですから」
「そなたがそう申してくれたら、ありがたい」
楓は子どもが甘えるように時繁の肩に身を預けた。触れ合った箇所が温かい。これが人を愛すること、温もりなのだと改めて時繁の傍にいられる幸せを噛みしめた。
楓には彼が何者であろうが、関係はないのだ。彼女にとって時繁は出逢ったときから今も時繁であり、愛する男、それ以上でもそれ以下でもないのだから。ただ、時繁と同様、彼を今日まで生かして下された神仏には心から感謝した。
二人はいつまでも燃え盛る焔を見つめながら、止むことのない海鳴りを聞いていた。
夜も更けてから、楓は時繁に伴われて小屋に戻り、再び明け方まで時繁に抱かれた。
翌朝、二人はまた浜辺へと行った。昨夜、焚き火をした後がまだくっきりと残っている。
時繁は先刻から、携えてきた例の布包み―草薙剣をずっと眺めている。彼が何を考えているのか、楓には見当も付かなかった。
突如として、彼は布包みを解き始めた。固唾を呑んで見守る楓の前で、時繁は幾重にも包まれた布を丁寧に解き、ひとふりの剣を手にした。
帝位を象徴する神器だというから、どのようにきらびやかなものかと想像していたのだが、楓の印象では何の変哲もない長剣のように見える。銀色に鈍く光る刃は長く優美で、柄も特に変わった細工はない。豪華という形容は一切当てはまらず、むしろ地味と言いたい。
時繁はその長剣を握り、感慨深そうな表情で試す眇めつしている。と、彼が突然、剣を片手に捧げ持ち天に向かって突き上げた。
その瞬間、奇蹟は起こった。明るい太陽が輝き惜しみない光を海へと降り注ぎ、海は眩しくきらめいていた―はずだった。なのに、俄に空には暗雲が立ちこめ始めたのだ。
更に墨を溶き流したような不気味な空には時折閃光までひらめき始めた。突然、大音声が響き渡り、天からひとすじの光が降りてくる。その光は時繁の掲げた長剣へと流れ込み、その瞬間、草薙剣はこの世のものとは思われぬほどのまばゆい光を放った。
眩しくて、到底眼を開けていられない。楓は思わず手のひらで視界を覆ったが、当の時繁は悠然と微笑んでいた。漸く剣の光が徐々に弱まり始めた時、楓は小さく声を上げた。
相変わらず薄墨色に染まった空を透き通った銀の鱗を持った龍が泳いでいる。
「時繁さま、あれは私が初めてあなたさまの小屋で過ごした夜、夢で見た水龍です」
楓が興奮した口調で告げると、時繁は頷いた。
「天も朕が考えたことをお許し下さったようだ」
水龍はしばらく悠々と気持ちよさそうに空を翔けていたが、やがて、空が少しずつ明るさを取り戻してくるのに従い、その姿は薄くなり見えなくなった。
楓はハッと我に返る。慌てて周囲を見回すと、先刻まで暗かった空は元どおりの蒼穹となり、太陽が輝いて、すべてのものを明るく照らしている。まるで今し方、眼にしたものはすべて夢幻だったかのようだ。
時繁は何事もなかったかのように、既に光を失い元の姿に戻った剣を握りしめていた。
「楓、これはもう、朕には無用のものだ」
時繁は呟き、草薙剣の刀身を愛おしむかのように撫でた。
「ゆえに、この宝剣は海に帰そうと思う」
楓は愕き、時繁を見た。
「良いのですか? これは、あなたさまが主上であらせられると証(あか)す、たった一つのよすがでは」
時繁は笑いながら首を振った。
「既に都には新しい帝が立って久しい。朕は既に亡くなり、あくまでももう過去の人間だ。今は新しい剣が造られ、神器として祀られていると聞いた。今更、これが本物の神器だと主張しても、何の意味もないんだ。楓、朕はもうただ人として生きたい。それが唯一の望みだ。そのためには、これはもうかえって邪魔なんだよ」
幼いときから平家に利用され、平家のために生きたといえる安徳帝だからこそ、言えることなのかもしれなかった。
時繁の手から剣が離れた。勢いつけて投げられたそれは、瞬く間に海中へと落ち、波にさらわれ沈んでいった。
第八十一代の帝、安徳帝の手により、草薙剣は今度こそ本当に海へと還っていった。この瞬間、安徳帝は本当にいなくなったのだ。帝は自ら自分自身の存在を海に葬った。自らの〝死〟とともに不遇の帝が得たのは永遠の魂の安息だった。
ひそかに生きてきたこの年月、安徳帝の心が安らいだことはかつてなかった。復讐と憎しみだけに生きてきた彼は楓という存在を得て、初めて人を愛すること、心の安らぎを知ったのだ。
「もし、お祖母さまの言われるとおり、真にこの波の下に都があるのなら、きっと剣は平家一門が暮らすとこしえの都に辿りつくだろう。朕は今日この時をもって、帝であることも平家であることも止める」
「それならば、私も今日限り、源氏とは縁を絶ちます」
二人は眼線を合わせ、頷き合った。
時繁が晴れ晴れと言う。
「最早、我らは源氏でも平家でもない。すべてのこの世の柵から解き放たれた」
ここまですっきりとした良い表情の時繁を見るのは初めてだ。
「憎しみはもう、剣と共に、あの海の底へと消えた。楓よ。俺は積年の復讐をやり遂げて、しみじみと感じたのだ。俺は確かに宿願を果たし一族の無念を晴らしたが、少しも心は晴れなかった。ただ自分も源氏と同じ、結局は謀略で相手を陥れたという虚しさだけが残った」
「それから、朕は漁師夫婦の倅として育った。元々、養父は一徹な人で通っていて村からも離れた場所で夫婦だけで、ひっそりと暮らしていた。だから、突如として遠縁の子どもが引き取られてきたと聞いても、誰も訝しむ者はいなかったし、わざわざ朕の顔を見に来る者もいなかった」
そうやって、身代わりを帝に仕立てて埋葬した後、寺の老僧は義経に事の次第を書き送った。すぐに義経の近臣だという武士がやってきたものの、既に亡骸がない状態では、どうにもならない。念のため、先帝の亡骸を見たという村人すべてが呼び集めれ、一人一人尋問を受けたが、皆一様に、自分たちが見たのはお労しくも幼くして海に散った帝の亡骸だと口を揃えた。
源氏の武士はその言葉を鵜呑みにし、そのまま帰京していった。
当時、帝は六歳だった。我が身が何者で、何故、このような目に遭うことになったのか。朧には理解し記憶していた。
それから九年が流れた。養父母となった漁師は彼を〝トキ〟と呼び、大切に育ててくれた。何故なら、帝の名は〝言仁(ときひと)〟だったから。
せめて幸薄い帝に本来の名で接してくれようとしたのか。
時繁は養父母のことを語る時、とても温かい笑顔になる。たとえ生きながら死んだことになっていても、間違いなくその養父母の許で過ごした時間は時繁にとって温かく思いやりに満ちたものだったのだ。壮絶な過去を持つ彼が束の間でも人間らしい幸せを得たことが彼のために、楓は嬉しかった。
養父母との暮らしでささやかな幸せを得ても、彼は自分が何者であるかを忘れたことは片時たりともなかった。近くの寺に通い、老僧から学問を教わり、高度な教養をも身につけた。彼の学問の師匠となったその老僧こそ、養父母の他に先帝が生きていると知る唯一の人間だったのである。
十五歳を迎えたある日、時繁は養父に鎌倉に行きたいのだと申し出た。ただひと言それを伝えただけなのに、養父は息子の意図を正しく理解してくれた。
―あなたさまを今まで我が子としてお育てして参りましたが、本来なら遠い都におわす天子さまはその竜顔さえ我ら賤しき民は拝することも叶わぬ尊(たつと)き身。子のない我らに子を育てる歓び、親となる歓びを与えて下された。勿体なくも畏れ多いことにございます。
その時、既に五十を過ぎようとしていた養父の髪は白いものが大半だった。平家の生き残り、しかも先帝という特殊な立場にも拘わらず、源氏に売り渡すようなこともせず、我が子として慈愛深く育てくれた恩を思えば、これより先も子として孝養を尽くし、その恩義に報いるのが筋であることは判っていた。
しかし、時繁には、是が非でも果たしたい悲願があった。無念の想いを抱いて壇ノ浦に散っていった平家一門の宿敵頼朝を討つ。一族の恨みを晴らすまでは、自分がこの世に生き残った意味はないとさえ思える。
養父の皺に埋もれた眼には光るものがあった。
出立の日、時繁はその場に座り、養父母の前で手をついて深々と頭を垂れた。この人たちがいてくれたからこそ、今日の自分があり、天涯孤独の身が温かな人の温もりを知ったのだ。
―私の方こそ、長らく慈しんで下さり、ありがとうございます。私にとってこの世に父母と呼べるのは四人、私をこの世に送り出して下された高倉の帝と建礼門院さま、そして、あなたたちです。
時繁も養父母と実の親子のように接した日々を思い、泣きそうになった。養父に手ずから漁を教わったこと、母と並んで芋の皮を剥いたこと。九年という月日はけして短くはない。彼らは時繁の人間形成に大きな影響を与えた。
大切には育ててくれたけれど、けして特別扱いはされなかった。〝トキ、トキや〟と呼び、実の子のように厳しく温かく教え導いてくれたのだ。
旅立つ彼に、養父は家の奥からぼろ布にくるまれた包みを差し出した。
―これは?
物問いたげに見つめる時繁に対し、養父は応えた。
―これは神器にございます。
流石に時繁もこのときばかりは度肝を抜かれた。二つの神器は確かに祖母二位の尼が幼帝である彼と共に腕に抱き入水した。しかし、その一つ草薙剣はいまもって不明とされているからだ。
―もし、あなたさまが漁師としてこの地で生涯を終えるおつもりならば、一生お渡しすることはあるまいと思うておりました。けれど、ここを出てゆかれるというのならば、これはあなたさまにお返し致します。この神器があなたと一緒に流れ着いたのは恐らくは天の導きでございましょう。我々はあなたさまこそが正当なる帝であると信じております。
時繁は震える両手でその包みを押し頂いた。
―父上、母上。長らくお世話になりました。
九年間を過ごした海辺の小屋は、この由比ヶ浜に建てた小屋とよく似ていた。わざと似たように時繁が建てたのだ。
その懐かしい我が家を出た時繁に養母の哀しげな声が追いかけてきた。
―行ってはなりません。今、ここを出たら、あなたは茨の道を歩むことになる。
泣き崩れる養母を養父が横から支え、時繁はもう一度、二人に頭を下げ未練を振り切るようにその場を立ち去った。
鎌倉の地に来て五年、漁師の時繁としてひっそりと生きながら、頼朝暗殺の好機を窺っていた。ひそかに平家残党の一味を探し出し、かつて祖父清盛が手足として使っていた諜報部隊〝落ち椿〟の生き残りと接触、彼らと繋ぎを取りながら時期が来るのを辛抱強く待ち続けた。
更に運命はまた彼を思わぬ方へと導いた。源氏の娘との出逢い、生まれて初めての恋。
楓とめぐり逢ってから、彼はつくづく今、我が身の生命があることを感謝した。叶わぬと諦めていた恋が叶い、楓は彼の妻となった。時繁はあろうことか頼朝の重臣河越恒正の婿となり、頼朝に仕えることになる。
そして、平家が壇ノ浦で悲運の最期を遂げてから実に十四年を経て、時繁は一門の恨みを晴らした。
すべてを話し終えた後、時繁はあたかも憑きものが落ちたような、むしろ晴れ晴れとした表情をしていた。
「お労しい」
楓の眼から透明な雫が次々と滴り落ちた。
「そなたは朕のために泣いてくれるのか」
時繁は微笑み、楓の涙を人差し指でぬぐう。
「そなたに出逢って、人生はまだまだ棄てたものではないと思えたよ。こうして生き存えているからこそ、そなたにめぐり逢えた。不思議な宿命が朕をそなたへと導いてくれたのだ」
時繁は笑い、傍らの小枝をパキリと二つに折り、焔の中に投げ込んだ。それで火勢が一気に強くなり、パチパチと小気味の良い音がする。火の粉が一斉に舞い上がり、漆黒の闇に舞う。
「綺麗」
眼を輝かせる楓を時繁は愛情のこもった眼で見つめた。
「養父が言ったように、朕が今日まで生き存えたのにも何か意味があるのだろう。朕はこれからの生涯はその自分が生かされた意味を探していこうと思う。楓はそんな朕についてきてくれるか?」
「はい。楓はどこまでも時繁さまについてゆきます」
楓が明るい声音で応えるのに、時繁がふっと淋しげな笑みを見せた。
「時繁さま?」
不安げに見つめる楓に、彼は笑った。
「朕の方こそ、そなたには済まないと思うている。世が世なら、そなたは女御として内裏で時めいていたであろうに」
楓は彼の愁いを吹き飛ばすような屈託ない笑顔で言った。
「いいえ、以前にも申し上げたように、私はこの世の栄耀栄華などには何の魅力も感じません。あなたの傍にこうしていられるだけで幸せなのですから」
「そなたがそう申してくれたら、ありがたい」
楓は子どもが甘えるように時繁の肩に身を預けた。触れ合った箇所が温かい。これが人を愛すること、温もりなのだと改めて時繁の傍にいられる幸せを噛みしめた。
楓には彼が何者であろうが、関係はないのだ。彼女にとって時繁は出逢ったときから今も時繁であり、愛する男、それ以上でもそれ以下でもないのだから。ただ、時繁と同様、彼を今日まで生かして下された神仏には心から感謝した。
二人はいつまでも燃え盛る焔を見つめながら、止むことのない海鳴りを聞いていた。
夜も更けてから、楓は時繁に伴われて小屋に戻り、再び明け方まで時繁に抱かれた。
翌朝、二人はまた浜辺へと行った。昨夜、焚き火をした後がまだくっきりと残っている。
時繁は先刻から、携えてきた例の布包み―草薙剣をずっと眺めている。彼が何を考えているのか、楓には見当も付かなかった。
突如として、彼は布包みを解き始めた。固唾を呑んで見守る楓の前で、時繁は幾重にも包まれた布を丁寧に解き、ひとふりの剣を手にした。
帝位を象徴する神器だというから、どのようにきらびやかなものかと想像していたのだが、楓の印象では何の変哲もない長剣のように見える。銀色に鈍く光る刃は長く優美で、柄も特に変わった細工はない。豪華という形容は一切当てはまらず、むしろ地味と言いたい。
時繁はその長剣を握り、感慨深そうな表情で試す眇めつしている。と、彼が突然、剣を片手に捧げ持ち天に向かって突き上げた。
その瞬間、奇蹟は起こった。明るい太陽が輝き惜しみない光を海へと降り注ぎ、海は眩しくきらめいていた―はずだった。なのに、俄に空には暗雲が立ちこめ始めたのだ。
更に墨を溶き流したような不気味な空には時折閃光までひらめき始めた。突然、大音声が響き渡り、天からひとすじの光が降りてくる。その光は時繁の掲げた長剣へと流れ込み、その瞬間、草薙剣はこの世のものとは思われぬほどのまばゆい光を放った。
眩しくて、到底眼を開けていられない。楓は思わず手のひらで視界を覆ったが、当の時繁は悠然と微笑んでいた。漸く剣の光が徐々に弱まり始めた時、楓は小さく声を上げた。
相変わらず薄墨色に染まった空を透き通った銀の鱗を持った龍が泳いでいる。
「時繁さま、あれは私が初めてあなたさまの小屋で過ごした夜、夢で見た水龍です」
楓が興奮した口調で告げると、時繁は頷いた。
「天も朕が考えたことをお許し下さったようだ」
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楓はハッと我に返る。慌てて周囲を見回すと、先刻まで暗かった空は元どおりの蒼穹となり、太陽が輝いて、すべてのものを明るく照らしている。まるで今し方、眼にしたものはすべて夢幻だったかのようだ。
時繁は何事もなかったかのように、既に光を失い元の姿に戻った剣を握りしめていた。
「楓、これはもう、朕には無用のものだ」
時繁は呟き、草薙剣の刀身を愛おしむかのように撫でた。
「ゆえに、この宝剣は海に帰そうと思う」
楓は愕き、時繁を見た。
「良いのですか? これは、あなたさまが主上であらせられると証(あか)す、たった一つのよすがでは」
時繁は笑いながら首を振った。
「既に都には新しい帝が立って久しい。朕は既に亡くなり、あくまでももう過去の人間だ。今は新しい剣が造られ、神器として祀られていると聞いた。今更、これが本物の神器だと主張しても、何の意味もないんだ。楓、朕はもうただ人として生きたい。それが唯一の望みだ。そのためには、これはもうかえって邪魔なんだよ」
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時繁の手から剣が離れた。勢いつけて投げられたそれは、瞬く間に海中へと落ち、波にさらわれ沈んでいった。
第八十一代の帝、安徳帝の手により、草薙剣は今度こそ本当に海へと還っていった。この瞬間、安徳帝は本当にいなくなったのだ。帝は自ら自分自身の存在を海に葬った。自らの〝死〟とともに不遇の帝が得たのは永遠の魂の安息だった。
ひそかに生きてきたこの年月、安徳帝の心が安らいだことはかつてなかった。復讐と憎しみだけに生きてきた彼は楓という存在を得て、初めて人を愛すること、心の安らぎを知ったのだ。
「もし、お祖母さまの言われるとおり、真にこの波の下に都があるのなら、きっと剣は平家一門が暮らすとこしえの都に辿りつくだろう。朕は今日この時をもって、帝であることも平家であることも止める」
「それならば、私も今日限り、源氏とは縁を絶ちます」
二人は眼線を合わせ、頷き合った。
時繁が晴れ晴れと言う。
「最早、我らは源氏でも平家でもない。すべてのこの世の柵から解き放たれた」
ここまですっきりとした良い表情の時繁を見るのは初めてだ。
「憎しみはもう、剣と共に、あの海の底へと消えた。楓よ。俺は積年の復讐をやり遂げて、しみじみと感じたのだ。俺は確かに宿願を果たし一族の無念を晴らしたが、少しも心は晴れなかった。ただ自分も源氏と同じ、結局は謀略で相手を陥れたという虚しさだけが残った」
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「初めまして、お兄さん。これからよろしくお願いしますね」
父の再婚によって現れた義理の妹・水瀬 凛(みなせ りん)。
清楚なワンピースを纏い、非の打ち所がない笑顔で挨拶をする彼女を見て、僕は息が止まるかと思った。
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学校では誰もが憧れる高嶺の花。
家では親も感心するほど「理想の妹」を演じる彼女。
しかし、二人きりになった深夜のキッチンで、彼女は冷たい瞳で僕を射抜く。
「……私の仕事のこと、親に言ったらタダじゃおかないから」
秘密を共有したことで始まった、一つ屋根の下の奇妙な生活。
彼女は「さらなるスキルアップ」を名目に、僕の部屋を訪れるようになる。
「ねえ、もっと本気で抱きしめて。……そんなんじゃ、次のデートの練習にならないでしょ?」
これは、仕事(レンタル)か、演技(家族)か、それとも――。
完璧すぎる義妹に翻弄され、理性が溶けていく10日間の物語。
『著者より』
もしこの話が合えば、マイページに他の作品も置いてあります。
https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/658724858
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