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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~53
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接近
その夜を境に、央明はチュソンに対する警戒をかなり解いたようであった。依然として少しの距離感はあるものの、祝言までのよそよそしさはもうどこにもなかった。
王女と閨で腹を割って話したことがきっかけになったのは言うまでもない。チュソンが王女と同じ身分社会には否定的で、拓けた考えを持っていること、何より、彼女の化粧師になりたいという夢に理解を示したのが彼女には嬉しかったようだった。
央明との婚姻に際し、チュソンは勤務先の吏曹を退職した。わずか三ヶ月にも満たない勤務であった。最初こそ央明に恋い焦がれるあまり、仕事もおろそかになったものの、その後は英才らしい仕事ぶりをいかんなく発揮していたチュソンだった。
いよいよ勤務も最後のその日、彼を扱(しご)いた吏曹参判はチュソンの肩を親しげに叩いた。
ーこんなことを言うのは不敬かもしれんが、おめでとうと言うべきかどうか。附馬となったからには、今後もう昇進の望みもなかろう。
小声で言う上司に、チュソンは晴れやかな笑みを見せた。
ー私自身が望んだ人生です。ゆえに、後悔は片々たりともありません。
吏曹参判は笑った。
ー俺がそなたの親なら、王女の婿なんぞ断固として反対するがな。科挙首席合格の天才の名が泣くぞ。
吏曹参判はチュソンから見れば、父親ほどの歳の人だ。気は短いが、気の良い部下思いの上司であった。
こうして、チュソンは朝廷からは身を引いた。附馬として与えられた官職にちなみ、これ以降は〝附馬都尉〟と呼ばれることになる。ちなみに、これは名ばかりの名誉職であり、官位は従二品となる。
紫の官服を纏い王族並の待遇を受けるが、参内しても仕事はなく、ただ定められた場所で時間を潰すだけだ。
それでも、チュソンに悔いはなかった。愛する女と共に過ごせる歓びこそが、彼にとっては至福に他ならなかった。
吏曹に出向き、置いてあった荷物を纏め長官や次官、同輩連中に挨拶した二日後だ。
チュソンは王宮に参内して、国王に謁見を賜った。謁見は王自ら望んだものだ。
国王は呼び出したチュソンに事細かく近況を訊ねた。むろんチュソンのそれではなく、王が知りたいのは娘の央明翁主の生活ぶりなのは判っている。
ー翁主さまは日々、ご機嫌麗しく過ごされておいでですゆえ、どうぞご安心下さいませ。
央明の屋敷での生活ぶりを話した後、チュソンはそう言った。
ーあの不憫な娘は、この広い王宮で頼るものとてなく、淋しき身の上であった。何より中殿に遠慮ばかりしていたのが父として哀れでな。附馬都尉よ、どうか娘を末永く慈しんでやってくれ。
国王が謁見の終わりに告げたのは、嘉礼の日と同じ言葉であった。
王宮から戻ったチュソンは道から続く石段を登り、門をくぐった。と、広い前庭に露台が置かれているのが眼に入った。
露台には、総勢十人近くの女たちが集まっている。何事かとよくよく見れば、央明が女中たち相手に化粧を施しているのであった。
今は十五、六の小娘が神妙な面持ちで鏡の前に座っている。央明は自慢の化粧道具一式が収まる収納箱(メークボツクス)から必要に応じては小道具を取り出している。
綺麗なチマチョゴリでは動きにくいため、襷掛けに白い前掛け(エプロン)という勇ましい姿だ。
彼は露台の傍らまで歩いてくると、立って妻の働きぶりを眺めた。何人かの女中たちは主人の帰宅に気づき、慌てて頭を下げている。
央明の側で助手を務めているのは、元女官のミリョンである。彼女もいち早くチュソンに気づき、央明に知らせようとするのに、チュソンは目顔で首を振った。
今の央明を見るが良い。黒目がちの双眸は光を宿して生き生きと煌めき、白い頬は上気している。こんなに愉しげな妻の姿はついぞ見たことがなかった。
自分のせいで、せっかくの妻の楽しみを邪魔したくはなかったのだ。
「奥さま(マーニム)、私、この紅いのも付けて戴きたいんですけど」
小娘が遠慮がちに言うのに、央明は微笑んだ。
「チェリは元から血色が良いから、頬紅は必要ないわ。あまり頬が紅すぎると、田舎娘みたいになるわよ?」
「い、田舎娘ですかぁ? それは嫌です」
娘が泣きそうな表情で言うと、周囲を取り囲んでいた年かさの女中たちが一斉にドッと笑った。
央明が娘の顔を試す眇めすしつつ言った。
「その代わりに、ここに少し色を入れてあげるの」
その夜を境に、央明はチュソンに対する警戒をかなり解いたようであった。依然として少しの距離感はあるものの、祝言までのよそよそしさはもうどこにもなかった。
王女と閨で腹を割って話したことがきっかけになったのは言うまでもない。チュソンが王女と同じ身分社会には否定的で、拓けた考えを持っていること、何より、彼女の化粧師になりたいという夢に理解を示したのが彼女には嬉しかったようだった。
央明との婚姻に際し、チュソンは勤務先の吏曹を退職した。わずか三ヶ月にも満たない勤務であった。最初こそ央明に恋い焦がれるあまり、仕事もおろそかになったものの、その後は英才らしい仕事ぶりをいかんなく発揮していたチュソンだった。
いよいよ勤務も最後のその日、彼を扱(しご)いた吏曹参判はチュソンの肩を親しげに叩いた。
ーこんなことを言うのは不敬かもしれんが、おめでとうと言うべきかどうか。附馬となったからには、今後もう昇進の望みもなかろう。
小声で言う上司に、チュソンは晴れやかな笑みを見せた。
ー私自身が望んだ人生です。ゆえに、後悔は片々たりともありません。
吏曹参判は笑った。
ー俺がそなたの親なら、王女の婿なんぞ断固として反対するがな。科挙首席合格の天才の名が泣くぞ。
吏曹参判はチュソンから見れば、父親ほどの歳の人だ。気は短いが、気の良い部下思いの上司であった。
こうして、チュソンは朝廷からは身を引いた。附馬として与えられた官職にちなみ、これ以降は〝附馬都尉〟と呼ばれることになる。ちなみに、これは名ばかりの名誉職であり、官位は従二品となる。
紫の官服を纏い王族並の待遇を受けるが、参内しても仕事はなく、ただ定められた場所で時間を潰すだけだ。
それでも、チュソンに悔いはなかった。愛する女と共に過ごせる歓びこそが、彼にとっては至福に他ならなかった。
吏曹に出向き、置いてあった荷物を纏め長官や次官、同輩連中に挨拶した二日後だ。
チュソンは王宮に参内して、国王に謁見を賜った。謁見は王自ら望んだものだ。
国王は呼び出したチュソンに事細かく近況を訊ねた。むろんチュソンのそれではなく、王が知りたいのは娘の央明翁主の生活ぶりなのは判っている。
ー翁主さまは日々、ご機嫌麗しく過ごされておいでですゆえ、どうぞご安心下さいませ。
央明の屋敷での生活ぶりを話した後、チュソンはそう言った。
ーあの不憫な娘は、この広い王宮で頼るものとてなく、淋しき身の上であった。何より中殿に遠慮ばかりしていたのが父として哀れでな。附馬都尉よ、どうか娘を末永く慈しんでやってくれ。
国王が謁見の終わりに告げたのは、嘉礼の日と同じ言葉であった。
王宮から戻ったチュソンは道から続く石段を登り、門をくぐった。と、広い前庭に露台が置かれているのが眼に入った。
露台には、総勢十人近くの女たちが集まっている。何事かとよくよく見れば、央明が女中たち相手に化粧を施しているのであった。
今は十五、六の小娘が神妙な面持ちで鏡の前に座っている。央明は自慢の化粧道具一式が収まる収納箱(メークボツクス)から必要に応じては小道具を取り出している。
綺麗なチマチョゴリでは動きにくいため、襷掛けに白い前掛け(エプロン)という勇ましい姿だ。
彼は露台の傍らまで歩いてくると、立って妻の働きぶりを眺めた。何人かの女中たちは主人の帰宅に気づき、慌てて頭を下げている。
央明の側で助手を務めているのは、元女官のミリョンである。彼女もいち早くチュソンに気づき、央明に知らせようとするのに、チュソンは目顔で首を振った。
今の央明を見るが良い。黒目がちの双眸は光を宿して生き生きと煌めき、白い頬は上気している。こんなに愉しげな妻の姿はついぞ見たことがなかった。
自分のせいで、せっかくの妻の楽しみを邪魔したくはなかったのだ。
「奥さま(マーニム)、私、この紅いのも付けて戴きたいんですけど」
小娘が遠慮がちに言うのに、央明は微笑んだ。
「チェリは元から血色が良いから、頬紅は必要ないわ。あまり頬が紅すぎると、田舎娘みたいになるわよ?」
「い、田舎娘ですかぁ? それは嫌です」
娘が泣きそうな表情で言うと、周囲を取り囲んでいた年かさの女中たちが一斉にドッと笑った。
央明が娘の顔を試す眇めすしつつ言った。
「その代わりに、ここに少し色を入れてあげるの」
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