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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~㉟
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王女はまた他人事のように平坦な口調で話し始める。
「おっしゃる通りです。母に仕えていた尚宮は、母の乳母です。その者が言うには、母は幼い頃から桃アレルギーがありました。普段は健やかそのものなのに、何故か桃を少しでも食べると身体中に発疹が出て、苦しみ始めるのです。食べるだけでなく、桃の樹に近づいても食べるほどではなくても、身体がかゆくなったりするので、母の両親はかなり気を遣っていたとか」
チュソンは唸った。
「中殿さまは、お母上の桃アレルギーを知っていたのでしょうか」
王女はかすかに首を振った。
「判りません。何しろ、もう十七年前の出来事です。桃アレルギーについては、あまり外聞も良いことではないと母本人も母の両親も他人に語った憶えはないと乳母は話していました。ゆえに、王妃が母の秘密をどうやって知ったのかも謎ですし」
王妃という立場にある伯母だ、人を使えば淑媛の秘密を暴き出すことなぞ、造作もなかったろう。
だが、チュソンは到底、自分の口から言う気にはなれない。また聡明な王女のことだから、その可能性はとうに考えたはずだ。
チュソンは溜息交じりに言った。
「偶然にとしては、いささか出来すぎているのは確かだ」
重度の桃アレルギーを持つ側室。その側室に王妃が桃入り菓子を下賜し、側室は亡くなった。単なる偶然で片付けるには、きな臭い話だ。
しかし、当時、事件は大事にはならなかっただろう。たまたま贈った菓子に桃が入っていたとしても、死んだ側室が桃アレルギーであったのを知る者は身内以外にはいなかった。
ならば、王妃が側室を殺す意図があって、桃を贈ったはずもないと結論づけられるのは当然だ。不幸な偶然、悲劇として処理されてしまった。
王女がチュソンを見ながら言った。
「父が私に距離を置くようになったのは、そのときからです」
淑媛が変死するまで、国王はしばしば淑媛の許に通っていたそうだ。日ごとに愛らしく育つ娘の存在にも眼を細めていた。
しかし、淑媛の死を境に、お渡りは絶えた。王女はそこからは語らないが、チュソンにはすべて理解できた。
国王は愛娘が淑媛の二の舞になるのを怖れたのだ。自分が王女を可愛がれば可愛がるほど、王妃は嫉妬のほむらを燃やす。次は小さな淑媛の忘れ形見までもが王妃の毒牙にかかるかもしれない。
少なくとも、国王が娘に対して関心を失ったふりをすれば、王妃に余計な刺激を与えずには済む。だとすれば、国王は王妃が淑媛を殺害したと知っているか、そこまでゆかなくても、疑念を抱いているということになる。
「ある歳まで、身体の弱い母が私を産んだことで生命を早めたのだと信じていました。私に真実を教えてくれた尚宮も既にこの世の人ではありません」
チュソンは言葉もなかった。王女に比べて、両親も揃い、母にはいささか過保護なほど溺愛されていた。自分は何と贅沢な環境に身を置いていたのかと恥ずかしくなる。
王女が微笑んだ。
「吏曹正郎さまにとって、中殿さまは血の繋がった伯母君です。信じがたいどころか、気を悪くされるお話でしょう」
「いいえ」
真顔で言ったチュソンに、王女が瞠目する。
「翁主さまがご存じかどうか。私の父と中殿さまは同母の姉弟ではありません」
王女は首を振った。
「存じませんでした。そうなのですね」
チュソンは恥ずかしげに言った。
「領議政を務めている祖父は、まだ前の奥方の喪も明けやらぬ中に私の祖母と再婚したのです。しかも、私の父が生まれたのは祝言の三ヶ月後でした」
チュソンは肩をすくめた。
「翁主さまの前でこのような下品な話はするべきではないと思います。ですが、それが事実です。当時、世間では、祖父と祖母について耳を覆いたくなるような醜聞が広まっていたとか。確かに結果だけ見れば、言い逃れはできないことです」
彼は溜息をついた。
「中殿さまがお祖父さまや祖母を恨むのも満更、理解できなくもない心境です」
王女が黒い瞳で彼を見た。
「中殿さまが吏曹正郎さまのお父君に対して複雑な感情を抱いていたとしても、何の不思議もないですね」
複雑な感情とは、随分と手加減した表現だ。チュソンは自嘲気味に笑った。
「おっしゃる通りです。母に仕えていた尚宮は、母の乳母です。その者が言うには、母は幼い頃から桃アレルギーがありました。普段は健やかそのものなのに、何故か桃を少しでも食べると身体中に発疹が出て、苦しみ始めるのです。食べるだけでなく、桃の樹に近づいても食べるほどではなくても、身体がかゆくなったりするので、母の両親はかなり気を遣っていたとか」
チュソンは唸った。
「中殿さまは、お母上の桃アレルギーを知っていたのでしょうか」
王女はかすかに首を振った。
「判りません。何しろ、もう十七年前の出来事です。桃アレルギーについては、あまり外聞も良いことではないと母本人も母の両親も他人に語った憶えはないと乳母は話していました。ゆえに、王妃が母の秘密をどうやって知ったのかも謎ですし」
王妃という立場にある伯母だ、人を使えば淑媛の秘密を暴き出すことなぞ、造作もなかったろう。
だが、チュソンは到底、自分の口から言う気にはなれない。また聡明な王女のことだから、その可能性はとうに考えたはずだ。
チュソンは溜息交じりに言った。
「偶然にとしては、いささか出来すぎているのは確かだ」
重度の桃アレルギーを持つ側室。その側室に王妃が桃入り菓子を下賜し、側室は亡くなった。単なる偶然で片付けるには、きな臭い話だ。
しかし、当時、事件は大事にはならなかっただろう。たまたま贈った菓子に桃が入っていたとしても、死んだ側室が桃アレルギーであったのを知る者は身内以外にはいなかった。
ならば、王妃が側室を殺す意図があって、桃を贈ったはずもないと結論づけられるのは当然だ。不幸な偶然、悲劇として処理されてしまった。
王女がチュソンを見ながら言った。
「父が私に距離を置くようになったのは、そのときからです」
淑媛が変死するまで、国王はしばしば淑媛の許に通っていたそうだ。日ごとに愛らしく育つ娘の存在にも眼を細めていた。
しかし、淑媛の死を境に、お渡りは絶えた。王女はそこからは語らないが、チュソンにはすべて理解できた。
国王は愛娘が淑媛の二の舞になるのを怖れたのだ。自分が王女を可愛がれば可愛がるほど、王妃は嫉妬のほむらを燃やす。次は小さな淑媛の忘れ形見までもが王妃の毒牙にかかるかもしれない。
少なくとも、国王が娘に対して関心を失ったふりをすれば、王妃に余計な刺激を与えずには済む。だとすれば、国王は王妃が淑媛を殺害したと知っているか、そこまでゆかなくても、疑念を抱いているということになる。
「ある歳まで、身体の弱い母が私を産んだことで生命を早めたのだと信じていました。私に真実を教えてくれた尚宮も既にこの世の人ではありません」
チュソンは言葉もなかった。王女に比べて、両親も揃い、母にはいささか過保護なほど溺愛されていた。自分は何と贅沢な環境に身を置いていたのかと恥ずかしくなる。
王女が微笑んだ。
「吏曹正郎さまにとって、中殿さまは血の繋がった伯母君です。信じがたいどころか、気を悪くされるお話でしょう」
「いいえ」
真顔で言ったチュソンに、王女が瞠目する。
「翁主さまがご存じかどうか。私の父と中殿さまは同母の姉弟ではありません」
王女は首を振った。
「存じませんでした。そうなのですね」
チュソンは恥ずかしげに言った。
「領議政を務めている祖父は、まだ前の奥方の喪も明けやらぬ中に私の祖母と再婚したのです。しかも、私の父が生まれたのは祝言の三ヶ月後でした」
チュソンは肩をすくめた。
「翁主さまの前でこのような下品な話はするべきではないと思います。ですが、それが事実です。当時、世間では、祖父と祖母について耳を覆いたくなるような醜聞が広まっていたとか。確かに結果だけ見れば、言い逃れはできないことです」
彼は溜息をついた。
「中殿さまがお祖父さまや祖母を恨むのも満更、理解できなくもない心境です」
王女が黒い瞳で彼を見た。
「中殿さまが吏曹正郎さまのお父君に対して複雑な感情を抱いていたとしても、何の不思議もないですね」
複雑な感情とは、随分と手加減した表現だ。チュソンは自嘲気味に笑った。
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