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闇に咲く花~王を愛した少年~㊵

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 その一瞬、凶暴な手負いの獣の中に、傷ついた男の顔がかいま見えた。
「殿下、国王殿下。お願いです、どうか、どうか、許して下さい、お止め下さい」
 誠恵は、このときとばかりに懸命に繰り返す。
 欲望に歪んだ凶悪な表情が束の間、消えた。
 素顔の光宗は哀しげに誠恵を見つめている。
 嗚呼、私がこのお方の心をここまで追いつめたのだ。
 光宗の言葉は正しいのかもしれない。たとえ、その気はなくても、結果として自分が若い王の心を弄んだことに変わりはない。
 誠恵は最後の力を振り絞った。すべての力を込めて光宗の身体を両手で押すと、今度は呆気なく逞しい身体は離れた。
 ガタガタと戸を揺らしていると、心張り棒が外れたのか、戸が開いた。
 誠恵はもう、後も振り返らず、夢中で走った。途中で立ち止まれば、光宗が追いかけてきそうで怖かった。
 漸く殿舎まで帰って自室に行こうと廊下を歩いていた時、趙尚宮が息を呑んで自分を見ているのに気付いた。
 あまりにも怯えていて、我が身が今、どんな酷い格好をしているか―半裸に近い姿になっているかも認識できていないのだ。人眼を気にしている余裕など到底ない。
「張女官、その有様は、いかがしたのですか? 殿下のご寵愛をひとたびお受けした女官を宮殿内で辱めようとする不逞な輩がいるとは―」
 言いかけた趙尚宮がはたと口をつぐんだ。
 他ならぬその国王から度重なる召し出しを受けても、誠恵が応じなかったことを趙尚宮は知っている。
「まさか、張女官」
 趙尚宮は絶句した。後宮の女官は王の女と見なされ、王が望めば、何があろうと閨に上がらねばならない。この娘は幾度も光宗の相手をしたにも拘わらず、王の誘いを真っ向から拒んだのだ。
 聖君と国中の民から慕われる世に並びなき賢君光宗。そんな彼ですらも、恋をしてしまえば、ただ一人の若い男になる。欲しい女を得たいと、つい力をもって女を我が物にしようとしたのだろう。
「―趙尚宮さま」
 誠恵は趙尚宮の胸に飛び込み、号泣した。
 趙尚宮は、これ以上人眼につかぬよう、誠恵を自分の部屋に連れていった。新しいチョゴリをそっと肩から羽織らせてやり、その肩を宥めるように叩く。
「国王殿下のお心を疑ってはなりませんよ。殿下は今もあなたを大切に思っておいででしょう。ただ、あなたは殿下のお心をあまりにも長い間、そのままにしておきすぎました。あなたがどうしても殿下の御意を受け容れられないというのなら、あなたは潔く身を退き、宮殿を去るべきだったのです。お心を受け容れられぬのに、殿下のお目に止まる場所にいるのは、あまりに酷ではありませんか?」
 趙尚宮の言葉は、もっともだ。誠恵は自分が光宗に対して取った仕打ちがいかに残酷だったか、初めて知った。
 泣きじゃくる誠恵の背を撫でながら、趙尚宮が小声で呟いたのを、誠恵は聞かなかった。
「可哀想に、誰が見ても似合いのご夫婦になるだろうと思うのに、あなたが殿下の御意を受け容れられない、どのような理由があるというのですか―?」

 そのとき以来、誠恵の脳裡から趙尚宮の言葉が離れなかった。
―あなたは殿下のお心をあまりにも長い間、そのままにしておきすぎました。あなたがどうしても殿下の御意を受け容れられないというのなら、あなたは潔く身を退き、宮殿を去るべきだったのです。
 趙尚宮の言葉は鋭く誠恵の心を突いた。それがあまりにも的を射ていたからだ。
 あのときに聞かされた科白が何度も耳奥でこだまし、誠恵の心を苛み、誠恵は我と我が身を責めた。
 食欲もめっきりと落ち、沈み込むことの多くなった誠恵を、趙尚宮はいつも気遣わしげに眺めていた。
 王に乱暴されそうになったあの事件から数日後、誠恵は一人、殿舎と殿舎の間の広場に佇んでいた。ここは世子誠徳君と初めて出逢った場所でもある。
―あなたがどうしても殿下の御意を受け容れられないというのなら、あなたは潔く身を退き、宮殿を去るべきだったのです。
 また、趙尚宮の言葉が甦る。
 誠恵は深い吐息をつき、思わず小さく首を振る。
 英邁な王も恋をすれば、血気盛んな年頃の若者にすぎなくなる。王をあそこまで追い込んだのは、他ならぬ自分だ。
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