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闇に咲く花~王を愛した少年~㉙
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緑花は後ろめたさの全くない晴れやかな瞳で王を見た。その心の奥底を幾ら覗き見ようとしても、何も見つけられず、澄んだ双眸には、ひとかけらの嘘も浮かんではいなかった。
感情の窺えない瞳の奥で、一瞬、王の眼が閉じられた。それから彼は眼を開けて、すべてを受け容れるように微笑んだ。
「そなたの申すとおりだ。運命は、そなたを予に与えてくれた。そなたという、かけがえのなき想い人を手に入れただけで、予は十分幸せだ。たとえ、そなたが側室の立場にあろうとなかろうと、我が妻は緑花、そなた一人だけなのだ」
それを聞いて、緑花の顔に明るい笑みがひろがった。
やはり、毒を盛ったのは緑花ではなかった。当然だ、自分たちはこれほど愛し合っているのだから、女が恋い慕う男をどうして毒殺しようなどと考えるだろう?
王の胸に安堵がひろがる。束の間でも緑花を疑ったことを恥じた。
自分は愛する女を信じることさえできないのか。そんなことで、緑花のように心清らかな女を愛する資格があるのかと自問自答する。
光宗は懐から手巾を取り出し、緑花の眼に溜まった涙の雫を拭った。
「畏れ多いことにございます」
緑花が恐縮するのに、光宗は笑った。
「予とそなたは、いずれ夫婦となる。ならば、さしずめ、今は婚約期間中ということか? 許婚者同士であれば、恥ずかしがらずとも良かろう」
〝婚約者〟、その言葉が王の心に甘いときめきと幸福をもたらす。改めて緑花への愛おしさが込み上げてきて、王は腕の中の緑花を力一杯抱きしめた。
「殿下?」
愕いた緑花が身を捩るのに、光宗は笑いながら言った。
「せめて今だけは、そなたが予のものである悦びに存分に浸らせてくれぬか。予の気が済めば、また伽耶琴をつま弾いて、予を愉しませてくれ」
腕の中に閉じ込めた緑花が抗うのを止めて、大人しくなる。
しばらくして、夜の闇に再び伽耶琴の深い音色が響き渡った。
こうして、誠恵は無邪気な娘のふりを装い王に近づき、次第に王の心を掴んでいった。彼女の企みは大いに功を奏し、若き国王光宗は張緑花に傾倒し、ますます寵愛は深まった。
国王毒殺事件は、内密裡に処理された。何しろ、公にするには証拠がなさすぎる。それに、柳内官の言を引用すれば、疑いは当然ながら緑花に向けられる。光宗がそれを最も怖れたのは明らかだった。
それから十日ほどを経たある日の朝、誠恵は趙尚宮の遣いで大妃殿に赴いた。孫大妃は今年、二十七歳、先代永宗の中殿であり、領議政孫尚膳の娘に当たる。尚膳は永宗の在世中は中殿の父として、更に永宗の崩御後、娘が大妃となって以後は、大妃の父、世子の外祖父として朝廷でも絶大なる権力を誇っている。通称は〝清心(チヨンシン)府(プ)院(インクン)君〟、特に許された称号である。
趙尚宮からの用向きというのは、永宗の第三王女貞祐翁主の結婚に関するものだった。永宗は子宝に恵まれ、十一人の后妃との間に十六人の子女を儲けた。二十四歳の若さで崩御した際、既にそれだけの数の子どもの父であったのである。
貞祐翁主は現在、貴人の位を賜っていた生母とともに母の実家の金(キム)氏の屋敷で暮らしている。光宗は早くに逝った兄の代わりとして、また、兄の遺児たちの身の処し方にも気を配った。姪には相応の嫁入り先を見つけ、十分な持参金と支度を整え送り出した。
貞祐翁主は今年、十二歳になる。永宗に初めての御子が誕生したのは、永宗が十五歳の春であった。第一王女誕生の翌年、それぞれ別の妃から第一王子、第二王女がほぼあい前後して生誕、更にその翌年に生まれたのが貞祐翁主だ。
その頃、巷では、こんな抗議文が記され、都の至る所に貼られていたという。
―国王殿下の寝所には夜毎、違う妃が侍り、女の喘ぎ声が聞こえる。宮殿では常に産室が儲けられ、毎年、複数の妃から何人もの御子が生まれる。
大臣たちに政を任せきりで暗愚だとさえ囁かれた永宗の好色な一面を皮肉ったものだが、当時の若い王の乱れた生活を偲ばせる。
つまり、兄が今の光宗の歳には既に十人近い子どもの父となっていたわけで、同じ両親を持つ兄弟で、何故、兄と自分がこれほどまでに違うのかと光宗自身が苦笑してしまうことがある。
兄は無類の好色な王、自分は堅物どころか、緑花を寵愛するようになるまでは
―国王殿下は、もしや男としての機能をお持ちではないのでは?
と陰で囁かれたほどの潔癖な暮らしぶりであった。十九歳になる今まで結婚したこともなければ、妃の一人も置いたことがない。
感情の窺えない瞳の奥で、一瞬、王の眼が閉じられた。それから彼は眼を開けて、すべてを受け容れるように微笑んだ。
「そなたの申すとおりだ。運命は、そなたを予に与えてくれた。そなたという、かけがえのなき想い人を手に入れただけで、予は十分幸せだ。たとえ、そなたが側室の立場にあろうとなかろうと、我が妻は緑花、そなた一人だけなのだ」
それを聞いて、緑花の顔に明るい笑みがひろがった。
やはり、毒を盛ったのは緑花ではなかった。当然だ、自分たちはこれほど愛し合っているのだから、女が恋い慕う男をどうして毒殺しようなどと考えるだろう?
王の胸に安堵がひろがる。束の間でも緑花を疑ったことを恥じた。
自分は愛する女を信じることさえできないのか。そんなことで、緑花のように心清らかな女を愛する資格があるのかと自問自答する。
光宗は懐から手巾を取り出し、緑花の眼に溜まった涙の雫を拭った。
「畏れ多いことにございます」
緑花が恐縮するのに、光宗は笑った。
「予とそなたは、いずれ夫婦となる。ならば、さしずめ、今は婚約期間中ということか? 許婚者同士であれば、恥ずかしがらずとも良かろう」
〝婚約者〟、その言葉が王の心に甘いときめきと幸福をもたらす。改めて緑花への愛おしさが込み上げてきて、王は腕の中の緑花を力一杯抱きしめた。
「殿下?」
愕いた緑花が身を捩るのに、光宗は笑いながら言った。
「せめて今だけは、そなたが予のものである悦びに存分に浸らせてくれぬか。予の気が済めば、また伽耶琴をつま弾いて、予を愉しませてくれ」
腕の中に閉じ込めた緑花が抗うのを止めて、大人しくなる。
しばらくして、夜の闇に再び伽耶琴の深い音色が響き渡った。
こうして、誠恵は無邪気な娘のふりを装い王に近づき、次第に王の心を掴んでいった。彼女の企みは大いに功を奏し、若き国王光宗は張緑花に傾倒し、ますます寵愛は深まった。
国王毒殺事件は、内密裡に処理された。何しろ、公にするには証拠がなさすぎる。それに、柳内官の言を引用すれば、疑いは当然ながら緑花に向けられる。光宗がそれを最も怖れたのは明らかだった。
それから十日ほどを経たある日の朝、誠恵は趙尚宮の遣いで大妃殿に赴いた。孫大妃は今年、二十七歳、先代永宗の中殿であり、領議政孫尚膳の娘に当たる。尚膳は永宗の在世中は中殿の父として、更に永宗の崩御後、娘が大妃となって以後は、大妃の父、世子の外祖父として朝廷でも絶大なる権力を誇っている。通称は〝清心(チヨンシン)府(プ)院(インクン)君〟、特に許された称号である。
趙尚宮からの用向きというのは、永宗の第三王女貞祐翁主の結婚に関するものだった。永宗は子宝に恵まれ、十一人の后妃との間に十六人の子女を儲けた。二十四歳の若さで崩御した際、既にそれだけの数の子どもの父であったのである。
貞祐翁主は現在、貴人の位を賜っていた生母とともに母の実家の金(キム)氏の屋敷で暮らしている。光宗は早くに逝った兄の代わりとして、また、兄の遺児たちの身の処し方にも気を配った。姪には相応の嫁入り先を見つけ、十分な持参金と支度を整え送り出した。
貞祐翁主は今年、十二歳になる。永宗に初めての御子が誕生したのは、永宗が十五歳の春であった。第一王女誕生の翌年、それぞれ別の妃から第一王子、第二王女がほぼあい前後して生誕、更にその翌年に生まれたのが貞祐翁主だ。
その頃、巷では、こんな抗議文が記され、都の至る所に貼られていたという。
―国王殿下の寝所には夜毎、違う妃が侍り、女の喘ぎ声が聞こえる。宮殿では常に産室が儲けられ、毎年、複数の妃から何人もの御子が生まれる。
大臣たちに政を任せきりで暗愚だとさえ囁かれた永宗の好色な一面を皮肉ったものだが、当時の若い王の乱れた生活を偲ばせる。
つまり、兄が今の光宗の歳には既に十人近い子どもの父となっていたわけで、同じ両親を持つ兄弟で、何故、兄と自分がこれほどまでに違うのかと光宗自身が苦笑してしまうことがある。
兄は無類の好色な王、自分は堅物どころか、緑花を寵愛するようになるまでは
―国王殿下は、もしや男としての機能をお持ちではないのでは?
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