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闇に咲く花~王を愛した少年~⑩
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若者は忙しなげに行き来する人々に頓着せず、ゆっくりとした脚取りで歩いてゆく。時折立ち止まっては、満足げに周囲を眺めていた。
と、向こうから小さな女の子が駆けてきた。五歳くらいであろうその子は庶民の娘らしく、慎ましやかないでたちをしていた。が、暮らし向きはそう悪くはない家庭で育っているようだ。質素ではあるけれど、きちんとした身なりをしていた。
「危ない」
女の子は脇目もふらず、野兎のように疾駆している。危うく若者はその子にぶつかりそりになってしまった。
「どうしたのだ? こんな人通りの多い往来でそのように走っていては、怪我をするぞ」
優しい質らしく、若者はしゃがみ込むと、幼児と同じ眼線の高さになった。
言い聞かせるように言ってやっても、女の子は首を振るばかりだ。
「どうした、何かあったのか?」
彼は辛抱強く訊ねる。
しばらく肩で息をしていた女の子が漸く口を開いた。
「お姉ちゃんが、お姉ちゃんが大変なの」
「お姉ちゃん―? そなたの姉がいかがしたのだ」
女の子が彼の手を掴み、引っ張る。
どうやら付いて来いという意思表示だと判った彼は、手を引かれるままに女の子に付いて走った。
女の子は人混みを器用にかいくぐってゆく。もっとも、上背のある彼はそういうわけにはゆかなかった。途中で何度か通行人にぶつかりそうになったが、両班の若さまらしい上等の衣服を纏う彼を見て、文句を唱える者はいなかった。この国では身分制度が何より重んじられる。極端なことを言えば、一般の民が両班に逆らうこと自体が罪とされるのだ。
それでも、若者は律儀にぶつかった人に〝済まない、急いでいるのだ〟と謝っていた。
女の子はやがて人混みを抜け、町外れまで彼を連れてきた。この辺りになると、商家や民家もぽつりぽつりと点在するだけで、人どころか、犬の子一匹さえ通らない。
ちらほらと家が建つ様は、まるで、あちこち欠けた櫛の歯のようだ。家々が途切れた四ツ辻まで来ると、小さな川にゆき当たった。名も知られてはいない小さな川に、これまた小さな橋がかかっている。
女の子が荒い息を吐きながら立ち止まり、彼に手で前方を示す。その視線の先には、人が倒れていた。丁度、橋のたもとに若い女が倒れ伏している。
彼は急いで女の傍に駆け寄った。
「大丈夫か? おい、しっかり致せ」
若者は女を抱え起こし、軽く身体を揺さぶってみる。しかし、女は身じろぎもせず、固く眼を瞑ったままだ。或いは、可哀想だが、既に息絶えているのかもしれない。彼は咄嗟にそう思った。都には地方から流れ込んできた貧しい民が溢れている。そうした人々は大抵、それまで暮らしていた土地では暮らしてゆけなくなり、都にゆけば何か仕事があるのではないかと当てにして来るのだ。
しかし、都にもそうそう仕事があるはずもなく、結局は、家すらも失い、完全に流民となり果ててしまうのである。
この女も地方から出てきた田舎娘なのだろう。現に、着ている衣服は泥や埃にまみれ、あちこち破れている。彼をここに案内した少女の方がまだはるかにマシな、きちんとした身なりをしていた。
恐る恐る娘の口許に手をかざすと、息遣いが感じられる。念のため、細い手首を掴み、脈を検めると、こちらも規則正しい。
心配そうに二人を見守る女の子に、若者は微笑んだ。
「大丈夫だ。この女人は一時、気を失っているだけだ。そなたが私をここに連れてきてくれたお陰で、最悪の事態は避けられたようだ。ありがとう、礼を申すぞ」
若者が言うと、女の子ははにかんだような笑顔になる。とても愛らしい笑顔だ。彼は懐から小さな巾着を取り出すと、女の子の手に握らせた。
「これで、何か好きなものでも買って貰いなさい」
巾着の中には、幾ばくかの金が入っている。贅沢に慣れた両班にとっては、はした金でしかないが、女の子の両親が二、三ヵ月は働かなくても良いほどの額はあるだろう。
女の子は嬉しげに笑い、ペコリと頭を下げると、また兎のように飛び跳ねながら走り去った。
子どもとは実に可愛いものだ。あの年頃であれば、彼の甥とさして変わらないだろう。早くに逝ってしまった兄の忘れ形見である甥を、彼は弟、或いは息子のように可愛がっている。
と、向こうから小さな女の子が駆けてきた。五歳くらいであろうその子は庶民の娘らしく、慎ましやかないでたちをしていた。が、暮らし向きはそう悪くはない家庭で育っているようだ。質素ではあるけれど、きちんとした身なりをしていた。
「危ない」
女の子は脇目もふらず、野兎のように疾駆している。危うく若者はその子にぶつかりそりになってしまった。
「どうしたのだ? こんな人通りの多い往来でそのように走っていては、怪我をするぞ」
優しい質らしく、若者はしゃがみ込むと、幼児と同じ眼線の高さになった。
言い聞かせるように言ってやっても、女の子は首を振るばかりだ。
「どうした、何かあったのか?」
彼は辛抱強く訊ねる。
しばらく肩で息をしていた女の子が漸く口を開いた。
「お姉ちゃんが、お姉ちゃんが大変なの」
「お姉ちゃん―? そなたの姉がいかがしたのだ」
女の子が彼の手を掴み、引っ張る。
どうやら付いて来いという意思表示だと判った彼は、手を引かれるままに女の子に付いて走った。
女の子は人混みを器用にかいくぐってゆく。もっとも、上背のある彼はそういうわけにはゆかなかった。途中で何度か通行人にぶつかりそうになったが、両班の若さまらしい上等の衣服を纏う彼を見て、文句を唱える者はいなかった。この国では身分制度が何より重んじられる。極端なことを言えば、一般の民が両班に逆らうこと自体が罪とされるのだ。
それでも、若者は律儀にぶつかった人に〝済まない、急いでいるのだ〟と謝っていた。
女の子はやがて人混みを抜け、町外れまで彼を連れてきた。この辺りになると、商家や民家もぽつりぽつりと点在するだけで、人どころか、犬の子一匹さえ通らない。
ちらほらと家が建つ様は、まるで、あちこち欠けた櫛の歯のようだ。家々が途切れた四ツ辻まで来ると、小さな川にゆき当たった。名も知られてはいない小さな川に、これまた小さな橋がかかっている。
女の子が荒い息を吐きながら立ち止まり、彼に手で前方を示す。その視線の先には、人が倒れていた。丁度、橋のたもとに若い女が倒れ伏している。
彼は急いで女の傍に駆け寄った。
「大丈夫か? おい、しっかり致せ」
若者は女を抱え起こし、軽く身体を揺さぶってみる。しかし、女は身じろぎもせず、固く眼を瞑ったままだ。或いは、可哀想だが、既に息絶えているのかもしれない。彼は咄嗟にそう思った。都には地方から流れ込んできた貧しい民が溢れている。そうした人々は大抵、それまで暮らしていた土地では暮らしてゆけなくなり、都にゆけば何か仕事があるのではないかと当てにして来るのだ。
しかし、都にもそうそう仕事があるはずもなく、結局は、家すらも失い、完全に流民となり果ててしまうのである。
この女も地方から出てきた田舎娘なのだろう。現に、着ている衣服は泥や埃にまみれ、あちこち破れている。彼をここに案内した少女の方がまだはるかにマシな、きちんとした身なりをしていた。
恐る恐る娘の口許に手をかざすと、息遣いが感じられる。念のため、細い手首を掴み、脈を検めると、こちらも規則正しい。
心配そうに二人を見守る女の子に、若者は微笑んだ。
「大丈夫だ。この女人は一時、気を失っているだけだ。そなたが私をここに連れてきてくれたお陰で、最悪の事態は避けられたようだ。ありがとう、礼を申すぞ」
若者が言うと、女の子ははにかんだような笑顔になる。とても愛らしい笑顔だ。彼は懐から小さな巾着を取り出すと、女の子の手に握らせた。
「これで、何か好きなものでも買って貰いなさい」
巾着の中には、幾ばくかの金が入っている。贅沢に慣れた両班にとっては、はした金でしかないが、女の子の両親が二、三ヵ月は働かなくても良いほどの額はあるだろう。
女の子は嬉しげに笑い、ペコリと頭を下げると、また兎のように飛び跳ねながら走り去った。
子どもとは実に可愛いものだ。あの年頃であれば、彼の甥とさして変わらないだろう。早くに逝ってしまった兄の忘れ形見である甥を、彼は弟、或いは息子のように可愛がっている。
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