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闇に咲く花~王を愛した少年~⑧

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 五月の初めとはいえ、夜はまだまだ冷える。冷気が流れ込んできた室内はやけに温度が下がったように思え、誠恵は自分でも知らぬ中に身震いした。
 尚善が窓を元どおりに閉め、傍に戻ってきた。客用にしつらえられた華やかな鶯色の座椅子にゆったりと腰を下ろし、おもむろに背後を振り返る。その視線を辿ると、小机の上に飾られた大ぶりの花器が眼に入った。大輪の黄薔薇が数本投げ入れられていて、夜目にも鮮やかだ。尚善の背後に置かれている屏風が墨絵の蓮であるだけに、花の派手やかさがよりいっそう際立っている。
「美しいものには棘があるとは、よく言ったものだ」
 尚善はひとり言のように呟き、さり気ない仕種で青磁の壺から一輪を抜き取った。
 まるで恋する男が愛する女に捧げるかのような恭しい手つきで、その薔薇を誠恵に差し出して寄越す。
 誠恵は知らず手を伸ばしていた。
「暗闇に艶(あで)やかに咲き誇る花となり、その色香で若き国王を虜にし、意のままに操るのだ。そして生命を奪え。そなたの標的は国王だけだ。左議政の始末は私が引き受ける」
「国王(チユサン)殿下(チヨナー)を弑(しい)し奉れとおっしゃるのか?」
 国王は朝鮮の民にとって至高の存在だ。しかも現国王光宗はまだ十九歳の若き王ながら、早くも聖(ソン)君(グン)としての呼び声も高く、民を思う心優しく賢明な青年だという。実際のところ、先代の永宗(エンジヨン)の御世よりも光宗の代になってからというもの、国情は穏やかで民心も安定していた。
 誠恵の住まう都から離れた鄙びた小さな農村ですら、聖君として崇められる光宗の名声は轟き渡っていた。永宗のときは日照りが続いて秋の収穫がなかった年ですら、例年どおりの年貢を納めなければならなかったのに、光宗の即位後、そんなことはなくなった。今は飢饉になれば、逆に国が国庫を開き、飢えた民に粥をふるまってくれる。それもすべては国王(チユサン)殿下(チヨナー)のお優しい御心の賜(たまもの)だと民たちは皆、涙を流して宮殿に向かって手を合わせたほどだ。
 もっとも、七年前、兄王の突然の崩御に見舞われた時、光宗はわずか十四歳の若さであった。光宗の生母、仁彰王后は光宗が四歳のときに亡くなっていたため、光宗にとっては義母に当たる大王(テーワン)大妃(テービ)(先々代つまり永宗・光宗の父仲宗の継妃、実子はいない)が垂簾(すいれん)の政(まつりごと)を行い、光宗が十六歳になるのを待って親政が始まった。
 ゆえに、本当の意味で光宗の治世になって、まだ日は浅い。それでも、優れた為政者としての資質を生まれながらに持つ光宗を聖君として慕う民は朝鮮中に溢れている。
 若き王の下、この国は今、まさに最盛期を迎えようとしていることは誰の眼にも明白だ。
 そんな王を何故、殺す必要があるというのだろう?
「愚かで無能な民たちは何も知らぬくせに、世論に躍らされる。先代の永宗さまも今の国王に劣らぬ優れたお方であられた。あのように突如として病に倒れられるとは、さぞやご無念であられたに違いない」
 光宗が親政を始めたときに、真っ先に掲げた目標が民の負担を少しでも軽減することであったという。国王自らが華美贅沢を慎み、大臣を初めとする両班たちにもそれを命じた。
 だが、先の永宗のときは、どうだっただろう。一部の特権階級だけが利を貪り、国王や両班たちは民の困窮を知ろうともせず、日夜、享楽に耽った。自分たちの口にするすべてのものが民の血と涙の産物であることを考えもせず、ひたすら搾取しようとしたのだ。その結果、民心は大いに乱れ、民からは王や大臣に対する怨嗟の声がひきもきらなかった。
 今や暗雲垂れ込めた時代は過ぎ去り、漸くこの国にも穏やかな春が訪れたのだ。光宗はその慈悲の心と卓越した政治力で朝鮮という国を照らす太陽に他ならなかった。その太陽をこの男は消せというのか。
「先代の永宗さまは、私の娘聟に当たる方だった。今の東宮は、娘の生んだ孫だ」
 誠恵は思わず尚善を凝視した。
 領議政はこの国では最高位の官職で、朝廷の頂点に立つ重い立場だ。更に、この男の娘は先代永宗の王妃であり、今は大妃(テービ)と呼ばれる尊い身分にある。そして、彼の外孫が世子(セジヤ)の座についている―。
 それだけで、誠恵は尚善が光宗を殺す理由を察した。
「美しき花は棘を持つ。その棘には猛毒が潜んでいよう。この上なく甘美で、ひとたび刺されれば、二度と目ざめぬほど甘美な猛毒がな」
 尚善が低い声で言った。
「断る。朝鮮中の民が聖君として慕う賢明な国王を殺すだけの理由がない」
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