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彷徨う二つの心⑰
無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。
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マンソンと呼ばれた女中は露骨に顔をしかめた。
「全く、人使いが荒いったら、ありゃしない。ここのお屋敷は若さまだけじゃなく、女中頭まで常識ってものがないんだから、やってられやしない」
今だ、と、サヨンは咄嗟に両手で顔を覆った。しくしくと世にも哀しげな声で泣く。
「あんた、何? いきなりどうしたのよ」
人の好さそうな女中を騙すのは気が引けるが、この際、やむを得ない。
「おばさん、私はこんなところにいつまでもいるわけにはゆかないの。家には病気で寝たきりのお母さんとまだ小さな妹たちがいるから、私が早く帰ってやらないと、家族が飢え死にしてしまう」
「まぁ、何てこった。若さまも酷いことをなさるもんだ。よりにもよって、そんな家の娘を攫ってくるなんて」
女中は早くもサヨンの偽身の上話にほだされたようで、眼を赤くしている。
「あんたが働いて、家計を支えているの?」
サヨンは泣く真似をしながら、頷いた。
と、サヨンはしゃくりあげ、上目遣いに女中を見上げた。
「おばさん、私、何でもおばさんの言うことを聞くから、味方になってくれる?」
女中はギョッとした顔で言った。
「だ、駄目だよ。逃がしてくれって頼まれたって、そいつはできない相談だからね。あたしにも亭主と子どもがいるんだ。一時の情にほだされて、あんたを逃がしたことがバレたら、若さまにどんな酷い罰を食らうことになるかしれやしないからね」
サヨンは首を振った。
「大丈夫、おばさんに迷惑はかけないから。ただ、私がここのお屋敷にいる間、味方になってくれるだけで良いの。その代わり、何でもおばさんの頼みをきいてあげるわ」
「判ったよ。そういうことなら、味方になろうじゃないか」
女中は頷き、両手に持っていた小卓を眼で指した。
「じゃあ、早速、頼むよ。これを客間に運んで」
「えっ、私なんかが運んでも良いの?」
「女中頭さまに見つかったら大変だけど、今はお屋敷中が大忙しだから、まず見つからない。大丈夫だよ」
「判った、おばさんの言うとおりにする。どうしたら良い?」
「簡単なことさ。この小卓を客間に持ってくだけ」
「今夜は忙しいの? あの若さまがさっき来た時、お客が大勢来るんだとか何とか言ってたけど」
「そうだよ。今日が若奥さまのお誕生日だっていうんで、お祝いにお客がわんさか来てるんだ」
「若奥さま?」
サヨンが不思議そうに訊くと、女中は小声で教えてくれた。
沈勇民が去年、迎えたばかりの妻が今の中(チユン)殿(ジヨン)、つまり国王の后の妹であること、勇民は美しいが気位の高いこの妻を持て余し、結婚してから余計に女漁りが烈しくなったこと。
「まっ、若奥さまはご実家や姉君さまのご威光をを笠に着て若さまを馬鹿にしてばかりだから、若さまが若奥さまに寄りつかなくなるのも無理はないと思うよ」
それで、今夜は大勢の祝い客が来るため、屋敷内がざわつき、女中も下男も飛び回っているのだという。
「客間には、どんな方がいらっしゃるの?」
無邪気に訊ねれば、声をなおいっそう潜めて〝義(ウィ)承(スン)大君(テーグン)さま(マーマ)だよ〟と教えてくれた。
義承大君というのは現国王の実弟で、町の外れに邸宅を構えている。都でも名の通った風流人で政治よりも書画や管弦に親しみ、自身も笛の名手として知られていた。かねてから田舎で自然を愛でながら暮らすのが夢で、今から数年前、兄王に頼み込んで、この鄙びた地方都市に移り住んだのだそうだ。
「義承大君さまは国王さまの弟君で、若奥さまさまは王妃さまの妹君だからね。だから、今夜もお祝いにお見えになってるんだ」
と、向こうから再び呼び声が聞こえた。今度は先刻より更に苛立しげに焦れている。
「マンソン、マンソン! この猫の手も借りたいほど忙しいってときに、どこで油を売ってるんだろうね。全く、肝心のときに役立たずなんだから」
女中がしかめ面で肩をすくめた。
「ああ、いやだ、いやだ。それじゃ、頼むよ」
彼女は慌てて〝はい、はーい〟と返事しながら駆けていった。
この人の良い女中は、あまり頭の回転が良くないようだ。サヨンを閉じ込めた部屋から出して、逃げるとは考えないのだろうか。
「全く、人使いが荒いったら、ありゃしない。ここのお屋敷は若さまだけじゃなく、女中頭まで常識ってものがないんだから、やってられやしない」
今だ、と、サヨンは咄嗟に両手で顔を覆った。しくしくと世にも哀しげな声で泣く。
「あんた、何? いきなりどうしたのよ」
人の好さそうな女中を騙すのは気が引けるが、この際、やむを得ない。
「おばさん、私はこんなところにいつまでもいるわけにはゆかないの。家には病気で寝たきりのお母さんとまだ小さな妹たちがいるから、私が早く帰ってやらないと、家族が飢え死にしてしまう」
「まぁ、何てこった。若さまも酷いことをなさるもんだ。よりにもよって、そんな家の娘を攫ってくるなんて」
女中は早くもサヨンの偽身の上話にほだされたようで、眼を赤くしている。
「あんたが働いて、家計を支えているの?」
サヨンは泣く真似をしながら、頷いた。
と、サヨンはしゃくりあげ、上目遣いに女中を見上げた。
「おばさん、私、何でもおばさんの言うことを聞くから、味方になってくれる?」
女中はギョッとした顔で言った。
「だ、駄目だよ。逃がしてくれって頼まれたって、そいつはできない相談だからね。あたしにも亭主と子どもがいるんだ。一時の情にほだされて、あんたを逃がしたことがバレたら、若さまにどんな酷い罰を食らうことになるかしれやしないからね」
サヨンは首を振った。
「大丈夫、おばさんに迷惑はかけないから。ただ、私がここのお屋敷にいる間、味方になってくれるだけで良いの。その代わり、何でもおばさんの頼みをきいてあげるわ」
「判ったよ。そういうことなら、味方になろうじゃないか」
女中は頷き、両手に持っていた小卓を眼で指した。
「じゃあ、早速、頼むよ。これを客間に運んで」
「えっ、私なんかが運んでも良いの?」
「女中頭さまに見つかったら大変だけど、今はお屋敷中が大忙しだから、まず見つからない。大丈夫だよ」
「判った、おばさんの言うとおりにする。どうしたら良い?」
「簡単なことさ。この小卓を客間に持ってくだけ」
「今夜は忙しいの? あの若さまがさっき来た時、お客が大勢来るんだとか何とか言ってたけど」
「そうだよ。今日が若奥さまのお誕生日だっていうんで、お祝いにお客がわんさか来てるんだ」
「若奥さま?」
サヨンが不思議そうに訊くと、女中は小声で教えてくれた。
沈勇民が去年、迎えたばかりの妻が今の中(チユン)殿(ジヨン)、つまり国王の后の妹であること、勇民は美しいが気位の高いこの妻を持て余し、結婚してから余計に女漁りが烈しくなったこと。
「まっ、若奥さまはご実家や姉君さまのご威光をを笠に着て若さまを馬鹿にしてばかりだから、若さまが若奥さまに寄りつかなくなるのも無理はないと思うよ」
それで、今夜は大勢の祝い客が来るため、屋敷内がざわつき、女中も下男も飛び回っているのだという。
「客間には、どんな方がいらっしゃるの?」
無邪気に訊ねれば、声をなおいっそう潜めて〝義(ウィ)承(スン)大君(テーグン)さま(マーマ)だよ〟と教えてくれた。
義承大君というのは現国王の実弟で、町の外れに邸宅を構えている。都でも名の通った風流人で政治よりも書画や管弦に親しみ、自身も笛の名手として知られていた。かねてから田舎で自然を愛でながら暮らすのが夢で、今から数年前、兄王に頼み込んで、この鄙びた地方都市に移り住んだのだそうだ。
「義承大君さまは国王さまの弟君で、若奥さまさまは王妃さまの妹君だからね。だから、今夜もお祝いにお見えになってるんだ」
と、向こうから再び呼び声が聞こえた。今度は先刻より更に苛立しげに焦れている。
「マンソン、マンソン! この猫の手も借りたいほど忙しいってときに、どこで油を売ってるんだろうね。全く、肝心のときに役立たずなんだから」
女中がしかめ面で肩をすくめた。
「ああ、いやだ、いやだ。それじゃ、頼むよ」
彼女は慌てて〝はい、はーい〟と返事しながら駆けていった。
この人の良い女中は、あまり頭の回転が良くないようだ。サヨンを閉じ込めた部屋から出して、逃げるとは考えないのだろうか。
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