上 下
45 / 56
彷徨う二つの心⑯

無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。

しおりを挟む
 後ろ手に手を組み、偉そうに立っているこの男の顔を忘れるはずもなかった。
「私の顔を憶えているか?」
 相変わらずきらびやかなパジチョゴリに身を包み、鐔広の帽子は顎の部分に紫水晶を連ねたものが垂れ下がっている。もっとも、その派手な衣装がちっとも似合ってない、むしろ貧相な容貌を余計に強調しているのを当の本人は全く理解していない。
「何のつもりで、こんなことを?」
 サヨンは気取り返ったアヒルのような男を下から睨んでやった。
 若い男―沈勇民は薄い胸を傲然と反らした。
「フン、身の程知らずの生意気な女め。まあ、良い。その美貌と私をさぞかし愉しませてくれるであろう身体に免じて、今のところは大目に見てやろう」
 勇民はサヨンの身体を無遠慮にじろじろと眺め回す。まるで衣服の下の素肌をなで回されているような嫌らしい視線がおぞましい。
「お前の亭主にもたっぷりと先日の礼をしてやらねばな。お陰で今もこのザマだ。今宵は大勢の来客があるというに、ええい、口惜しい」
 勇民はさも悔しそうに歯がみする。なるほど、妙に生白い顔のあちこちにまだアザが残っている。半月前、トンジュに殴られたときのものだろう。両眼の周囲に青あざがあるので、子どもの頃に絵本で見た〝大熊猫〟に似ている。大熊猫というのは何でも清国に生息する珍しい動物だという。真っ白な毛並みに耳や手足、身体の一部分だけが黒く、外見が可愛い割には性格は獰猛なのだとか。
 もっとも、絵本の挿絵は愛らしかったが、こちらの大熊猫は可愛いどころか不気味で滑稽だ。
 勇民がせかせかとした足取りで近づき、サヨンの顎に手をかけてクイと仰のけた。
「ふむ、やはり見れば見るほど、良い女だ。あのような貧しい若造に与えておくのは勿体ない。いかに美しき玉とて、それなりの場所を与えられねば、本来の美しさを発揮して光り輝くことはできぬ。私の側妾になれば、その雪肌に映える極上の衣(きぬ)と宝飾品を与えようぞ。今宵は客が多く多忙ゆえ、相手をしてやれぬが、明日の夜は愉しみにしておくが良い」
 全く、よく喋る男である。
「何もかも脱ぎ棄てた姿に、きらめく玉の首飾りと腕輪だけを身につけたそなたの姿。さぞ美しかろう」
 その様を想像しているのか、嫌らしげな眼でサヨンを見てから、満足そうな表情で笑った。
 勇民は一人で喋るだけ喋ると、さっさと出ていった。扉が元どおり閉まった後、サヨンは汚物に触れたように、勇民の触った顎を手のひらでごしごしと拭った。
 自分こそが世界の中心だと自惚(うぬぼ)れきっているあの増上慢! あの男はトンジュを〝貧乏な若造〟と言ったが、あの男こそ、みっともないくらい着飾った貧相なアヒルではないか。苦労して難しい学問を身につけ、日々汗を流して働くトンジュの足下にも寄れやしない。
 何の能もなく、ただ日々を遊んで暮らしているような腑抜けにトンジュを罵倒されたのが腹立たしくてならない。
 更にそれから幾ばくかの刻を経た頃になって外側から厳重にかけてある鍵が開く音が聞こえてきたかと思うと、今度は先刻の女中が再び顔を覗かせた。
「おや、何も食べてないじゃないかい」
 女中は大袈裟に愕いた。
「それにしても、うちの若(トル)さま(ニム)にも困ったものだよねえ。女好きだといったって、人間なんだから、節操ってものくらい持ち合わせてると思うのに、どうやら、奥さまのお腹から出てくるときに、それをどこかに落っことしてきちまったみたいだ」
 どうも、木彫り職人の女房といい、この女中といい、この町にはお喋り好きの女が多いらしい。
 女中は、サヨンの視線にやっと気づいた様子だ。
「あら、いやだ。あたしったら」
 女中がわざとらしい咳払いでごまかした。
「おばさん、ここの若さまって、そんなに悪さばかりしてるんですか?」
 訊ねると、女中は訳知り顔で首を振った。
「さ、さあね。お仕えするお屋敷の内輪のあれこれを無闇に喋るもんじゃないって女中頭さまがよく言ってるから」
 とはいえ、彼女の顔には〝本当は喋りたい〟と書いてある。そこで、サヨンは作戦を変更することにした。
 その時、運良くというべきか、向こうから大きな声が響いてきた。
「萬娍(マンソン)、萬娍、」
「はーい、今、行きます」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

王命を忘れた恋

須木 水夏
恋愛
『君はあの子よりも強いから』  そう言って貴方は私を見ることなく、この関係性を終わらせた。  強くいなければ、貴方のそばにいれなかったのに?貴方のそばにいる為に強くいたのに?  そんな痛む心を隠し。ユリアーナはただ静かに微笑むと、承知を告げた。

婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。

束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。 だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。 そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。 全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。 気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。 そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。 すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。

【完結】従者に恋した話

ゆー
恋愛
「バカなお嬢様……」 アーノルドは呟くように言った。 使用人相手に本気の恋をしたお嬢様は大馬鹿者だ。そして……主人を好きになった自分も馬鹿だった。 自分の性癖を満たすためのものなので展開が早いです。 ご都合主義

やり直すなら、貴方とは結婚しません

わらびもち
恋愛
「君となんて結婚しなければよかったよ」 「は…………?」  夫からの辛辣な言葉に、私は一瞬息をするのも忘れてしまった。

【完結】伯爵の愛は狂い咲く

白雨 音
恋愛
十八歳になったアリシアは、兄の友人男爵子息のエリックに告白され、婚約した。 実家の商家を手伝い、友人にも恵まれ、アリシアの人生は充実し、順風満帆だった。 だが、町のカーニバルの夜、それを脅かす出来事が起こった。 仮面の男が「見つけた、エリーズ!」と、アリシアに熱く口付けたのだ! そこから、アリシアの運命の歯車は狂い始めていく。 両親からエリックとの婚約を解消し、年の離れた伯爵に嫁ぐ様に勧められてしまう。 「結婚は愛した人とします!」と抗うアリシアだが、運命は彼女を嘲笑い、 その渦に巻き込んでいくのだった… アリシアを恋人の生まれ変わりと信じる伯爵の執愛。 異世界恋愛、短編:本編(アリシア視点)前日譚(ユーグ視点) 《完結しました》

【完】あの、……どなたでしょうか?

桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー  爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」 見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は……… 「あの、……どなたのことでしょうか?」 まさかの意味不明発言!! 今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!! 結末やいかに!! ******************* 執筆終了済みです。

【完結】婚約者に忘れられていた私

稲垣桜
恋愛
「やっぱり帰ってきてた」  「そのようだね。あれが問題の彼女?アシュリーの方が綺麗なのにな」  私は夜会の会場で、間違うことなく自身の婚約者が、栗毛の令嬢を愛しそうな瞳で見つめながら腰を抱き寄せて、それはそれは親しそうに見つめ合ってダンスをする姿を視線の先にとらえていた。  エスコートを申し出てくれた令息は私の横に立って、そんな冗談を口にしながら二人に視線を向けていた。  ここはベイモント侯爵家の夜会の会場。  私はとある方から国境の騎士団に所属している婚約者が『もう二か月前に帰ってきてる』という話を聞いて、ちょっとは驚いたけど「やっぱりか」と思った。  あれだけ出し続けた手紙の返事がないんだもん。そう思っても仕方ないよでしょ?    まあ、帰ってきているのはいいけど、女も一緒?  誰?  あれ?  せめて婚約者の私に『もうすぐ戻れる』とか、『もう帰ってきた』の一言ぐらいあってもいいんじゃない?  もうあなたなんてポイよポイッ。  ※ゆる~い設定です。  ※ご都合主義です。そんなものかと思ってください。  ※視点が一話一話変わる場面もあります。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

処理中です...