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彷徨う二つの心⑮
無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。
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二人はまだ懲りずにやり合っている。
光王は見た目は良い加減だが、商人としてはきっちりとしていた。サヨンの縫った刺繍入り巾着を検分し、〝これなら十分売り物になる〟と請け負ってくれた。その場ですぐに値段交渉も成立して、賃金まで貰った。
これからは良人が月に一度、薬草を卸しにくる際、ついでに仕上がった巾着を光王に届けにくるだろうと言うと、光王は心底残念そうな顔をした。
「残念だなぁ、サヨンのような良い女がもう人妻だなんて」
どこまでが本気か判らない台詞を溜息混じりに口にする。
「旦那と喧嘩したら、俺のところに来いよ。泊まる場所くらいあるからさ」
帰り際、呑気に声をかけてくる光王を鶏肉屋が呆れ顔で見ていた。
その場所から二つ、三つの店を隔てた履き物屋と筆屋では、履き物屋の主人と筆屋の女房が商売もそっちのけで口角泡飛ばして話し込んでいる。サヨンは筆屋の前で足を止め、しばし迷った。巾着が思ったよりも高く売れたので、トンジュに良質な筆を買い求めて帰りたかったのだ。
が、今日はあちこちに寄ったため、時間も予定よりは遅れている。山で一人待っているトンジュのことを考えると、一刻でも早く帰りたい。筆をゆっくりと選ぶのは、次回に延ばすことにした。
当座に必要な食糧も買い揃え、念願の巾着も売れた。後は山に帰るだけだ。サヨンは食料品を詰め込んだ袋をよっこらしょと背負い、歩き出した。大荷物だから時間はかかるだろうが、今から帰途につけば、陽暮れ刻にはトンジュの待つ我が家に帰れるだろう。
我が家、サヨンは思った。トンジュと共に都を出てから、何度も彼から逃げようとしたり、彼の一途な恋情を拒んだ。だが、自分はやはり、トンジュを愛している。
いつのまにか、あの男はサヨンの心に入り込み、しっかりとその存在を刻みつけていたのだ。最早、サヨンの帰るべき場所は山の上のあの小さな家―トンジュの側にしかなかった。
目抜き通りを外れると、周囲の風景は打って変わった。路地裏が伸び、小さなみずぼらしい家がぽつぽつと並んでいる。トンジュの建てた家の方がまだ見られるほど粗末な住まいである。
路地裏に脚を踏み入れた刹那、サヨンは急に背後から羽交い締めにされた。
―なに、一体、どうしたの?
烈しく暴れたが、拘束しようとする相手は男、しかもかなりの巨漢らしく、サヨンが少々刃向かったくらいではビクともしない。
男はこういったことには手慣れているのか、サヨンの口に猿轡をかませると、手足を縛り上げ大きな袋に放り込んだ。袋ごと担ぎ上げられ、荷馬車に乗せられたようだ。
砂利道を通る車輪の音と揺れがサヨンの置かれている状況を伝えてくれた。
袋から出されたのは、それから半刻くらい経てからのことだ。すぐに猿轡は取られたが、手足の縄は外して貰えなかった。
サヨンが連れてゆかれたのは、どこかのお屋敷だった。荷馬車に乗っていた間はほんのわずかだ。時間から考えて、まだ町の中にいると思って間違いはないだろう。
サヨンは狭くて暗い部屋に閉じ込められた。一日中、陽もろくに差さない部屋である。以前は物置として使用していたのか、掃除もろくにしておらず、埃だらけ、挙げ句にはネズミまで走り回ってサヨンを愕かせた。
薄暗い部屋でも、太陽の動き程度は判る。日没が過ぎて宵の口になった頃。
サヨンは壁にもたれ、両膝を抱えて丸まっていた。つい先刻、三十半ばくらいの女中が小卓を運んできたばかりだ。小卓の上には結構なご馳走が並んでおり、漢陽で暮らしていた頃の豪勢な食事を思い出したほどだ。
この扱いを見ても、自分が粗略に扱われているのではないと思ったが、では何故、こんなことになったのかは皆目見当もつかなかった。
久しぶりのご馳走ではあったが、当然ながら、食べる気にはなれなかった。今頃、戻ってこないサヨンをトンジュが心配しているに違いない。あの男のことゆえ、町までサヨンを探しにくるかもしれない。無茶をすれば、また傷口が開いてしまう。
トンジュのためにも一刻も早くここを出たい。しかし、ここがどこで、何の目的で自分が連れてこられたのかすら判らない状況では、下手に動くのは賢明とはいえない。
せめて手がかりでもあればと思ったけれど、閉じ込められたままの身では知りようもなかった。ところが、状況が動き始めた―しかも急転化―のである。
突然、眼前の引き戸が両側から開いた。サヨンは膝に伏せていた顔を弾かれたように上げた。自分の前に立つ男の顔を茫然として見上げた。
光王は見た目は良い加減だが、商人としてはきっちりとしていた。サヨンの縫った刺繍入り巾着を検分し、〝これなら十分売り物になる〟と請け負ってくれた。その場ですぐに値段交渉も成立して、賃金まで貰った。
これからは良人が月に一度、薬草を卸しにくる際、ついでに仕上がった巾着を光王に届けにくるだろうと言うと、光王は心底残念そうな顔をした。
「残念だなぁ、サヨンのような良い女がもう人妻だなんて」
どこまでが本気か判らない台詞を溜息混じりに口にする。
「旦那と喧嘩したら、俺のところに来いよ。泊まる場所くらいあるからさ」
帰り際、呑気に声をかけてくる光王を鶏肉屋が呆れ顔で見ていた。
その場所から二つ、三つの店を隔てた履き物屋と筆屋では、履き物屋の主人と筆屋の女房が商売もそっちのけで口角泡飛ばして話し込んでいる。サヨンは筆屋の前で足を止め、しばし迷った。巾着が思ったよりも高く売れたので、トンジュに良質な筆を買い求めて帰りたかったのだ。
が、今日はあちこちに寄ったため、時間も予定よりは遅れている。山で一人待っているトンジュのことを考えると、一刻でも早く帰りたい。筆をゆっくりと選ぶのは、次回に延ばすことにした。
当座に必要な食糧も買い揃え、念願の巾着も売れた。後は山に帰るだけだ。サヨンは食料品を詰め込んだ袋をよっこらしょと背負い、歩き出した。大荷物だから時間はかかるだろうが、今から帰途につけば、陽暮れ刻にはトンジュの待つ我が家に帰れるだろう。
我が家、サヨンは思った。トンジュと共に都を出てから、何度も彼から逃げようとしたり、彼の一途な恋情を拒んだ。だが、自分はやはり、トンジュを愛している。
いつのまにか、あの男はサヨンの心に入り込み、しっかりとその存在を刻みつけていたのだ。最早、サヨンの帰るべき場所は山の上のあの小さな家―トンジュの側にしかなかった。
目抜き通りを外れると、周囲の風景は打って変わった。路地裏が伸び、小さなみずぼらしい家がぽつぽつと並んでいる。トンジュの建てた家の方がまだ見られるほど粗末な住まいである。
路地裏に脚を踏み入れた刹那、サヨンは急に背後から羽交い締めにされた。
―なに、一体、どうしたの?
烈しく暴れたが、拘束しようとする相手は男、しかもかなりの巨漢らしく、サヨンが少々刃向かったくらいではビクともしない。
男はこういったことには手慣れているのか、サヨンの口に猿轡をかませると、手足を縛り上げ大きな袋に放り込んだ。袋ごと担ぎ上げられ、荷馬車に乗せられたようだ。
砂利道を通る車輪の音と揺れがサヨンの置かれている状況を伝えてくれた。
袋から出されたのは、それから半刻くらい経てからのことだ。すぐに猿轡は取られたが、手足の縄は外して貰えなかった。
サヨンが連れてゆかれたのは、どこかのお屋敷だった。荷馬車に乗っていた間はほんのわずかだ。時間から考えて、まだ町の中にいると思って間違いはないだろう。
サヨンは狭くて暗い部屋に閉じ込められた。一日中、陽もろくに差さない部屋である。以前は物置として使用していたのか、掃除もろくにしておらず、埃だらけ、挙げ句にはネズミまで走り回ってサヨンを愕かせた。
薄暗い部屋でも、太陽の動き程度は判る。日没が過ぎて宵の口になった頃。
サヨンは壁にもたれ、両膝を抱えて丸まっていた。つい先刻、三十半ばくらいの女中が小卓を運んできたばかりだ。小卓の上には結構なご馳走が並んでおり、漢陽で暮らしていた頃の豪勢な食事を思い出したほどだ。
この扱いを見ても、自分が粗略に扱われているのではないと思ったが、では何故、こんなことになったのかは皆目見当もつかなかった。
久しぶりのご馳走ではあったが、当然ながら、食べる気にはなれなかった。今頃、戻ってこないサヨンをトンジュが心配しているに違いない。あの男のことゆえ、町までサヨンを探しにくるかもしれない。無茶をすれば、また傷口が開いてしまう。
トンジュのためにも一刻も早くここを出たい。しかし、ここがどこで、何の目的で自分が連れてこられたのかすら判らない状況では、下手に動くのは賢明とはいえない。
せめて手がかりでもあればと思ったけれど、閉じ込められたままの身では知りようもなかった。ところが、状況が動き始めた―しかも急転化―のである。
突然、眼前の引き戸が両側から開いた。サヨンは膝に伏せていた顔を弾かれたように上げた。自分の前に立つ男の顔を茫然として見上げた。
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