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幻の村⑧

無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。

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 サヨンは先刻から何度目かになるか知れない溜息をついた。
 その日一日をサヨンは殆ど何もしないで過ごした。遠い町まで用足しに出かけたトンジュのために何か精の付くものをと考えたのだけれど、サヨンはトンジュの好物を知らない。
 悩んだ末、惣菜よりも菓子の方がわずかなりとも得意であったことを思い出して、焼き菓子を作ってみた。だが、夕方から始めた菓子作りは何時間経っても終わらず、結局は、またしても真っ黒になった菓子の残骸ができただけだった。
 今、彼女の眼前には、大皿に盛ったその菓子の残骸がある。とはいえ、その中の少しだけは何とか賞味に耐えるだけの出来のもの―要するに黒こげになっていないということ―が混じっている。そういうマシなものは、ちゃんといちばん上の方に乗せておいた。
 サヨンは、なおもしばらくその努力の結果を眺め、それから諦めの溜息をついた。予めトンジュが仕留めた猪を燻製にしてあったので、その猪肉を薄く切り、麦飯を炊いた。
 だが、陽が暮れて周囲が夜の闇に覆い尽くされる刻限になっても、トンジュは帰らなかった。
 森の夜は早い。しかも、山上の森である。昼間ですら、あまり陽が差さないのだから、暗くなるのが下界より早いのは当然ともいえた。
 ミミズクがホロホロと啼く声が余計に心細さを募らせるようで、サヨンは家の外まで何度も出てみた。
 トンジュに早く帰ってきて欲しかった。
 ずっと真っ暗な外にいても仕方ないので、家の中に戻った。
 狭い部屋の内を所在なげに行きつ戻りつしているうちに、サヨンの心に一つの疑念が浮かんだ。
 もしかしたら、トンジュはもう二度とここには戻らないのではと思ったのである。
 主家の娘を物珍しさも手伝って連れ出したものの、早々と飽きてしまったのかもしれない。いや、サヨンがあまりに役に立たないので、邪魔だと思い始めたのかもしれない。
 何しろ、自分は料理一つ、まともにできないのだ。今のところ何とかなっているのは飯を炊くことと、洗濯くらいだけ。トンジュに愛想を尽かされてしまったとしても、文句を言える筋合いではないのだ。
 トンジュが戻ってこなければ、サヨンはここに一人置き去りにされることになる。一人では何もできないのだし、山を下りるといっても、案内人がいなければ森で迷ってしまう。いずれにしても、トンジュは黙って姿を消すだけで、厄介払いはできる。
 都では今頃、いなくなったサヨンとトンジュの大がかりな捜索が行われているかもしれないが、トンジュさえ行方をくらませば、サヨンがどこにいるかは永遠の謎となるのだ。サヨンは都からはるか離れた山の森で、人知れず死ぬことになるだろう。
 後は、トンジュが黙って好きな場所にいけば、新しい暮らしを始められる。
 町に買い物にゆくと言っていたけれど、あれもサヨンをここに残して自分だけいなくなるための口実ではなかったのだろうか。
 その一方で、トンジュが絶対にそんなことはしないとも思った。トンジュは目的を遂げるためには冷酷になれるが、責任感のない男ではなかった。むしろ男気のある男だ。
 たとえサヨンの存在が重荷になったしても、ここに一人残しておけば餓死するのが判っていて、サヨンを置き去りにするようなことはしないだろう。
 いや、果たして、本当にそうなのだろうか。
 トンジュの責任感が幾ら強かろうが、彼も所詮は人間である。自分が身軽になって新しい人生を始めるためには、サヨンなど、あっさりと切り捨てるのではないだろうか。
 考え始めると、どうも悲観的になって悪い方へとばかり思考がいってしまう。
 サヨンは矢も楯もたまらず、再び扉を開けて外に出た。
 天を仰ぐと、はるか頭上に黄色い月がぼんやりと浮かんでいるのが見えた。太陽と同様、ここからでは月も朧にしか見えない。
 そういえば、トンジュと都を旅立った夜も満月だった。サヨンは首を振り、ふっくらとした丸い月から眼を逸らした。
 その時、風もないのに樹がザワリと揺れた。ハッと面を上げると、葉を茂らせた樹々の向こうから急ぎ足でこちらに向かってくる男の姿が見えた。
 トンジュの姿を眼に映すかやいなや、サヨンは男の名を呼び、走っていた。
「トンジュ」
 サヨンは矢のような勢いでトンジュに向かって走り、トンジュの広い胸に飛び込んだ。
 トンジュは驚愕の表情を浮かべ、唖然としてサヨンを見た。慌てて手を伸ばしかけるも、その手は中途半端に浮かんだままだ。
 それは、トンジュに触れられることを嫌がるサヨンへの気遣いだった。
「お帰りなさい。遅かったのね。途中で何かあったのかと心配していたのよ」
「遅くなってしまって、済みません。つい町に長居をしてしまったんです。あまり人眼についたらまずいと思いながらも、捜し物がなかなか見つからなくて、手こずりました」
「そうだったの? 必要なものが手に入らなかったの?」
 トンジュはサヨンを安心させるように微笑みかけた。
「いいえ、そちらは抜かりありません。これから一、二ヶ月はまた山に籠もって暮らせるだけのものは調達してきました」
「私、あなたが留守の間、馬鹿なことを考えてしまったわ」
 トンジュの顔に訝しげな表情が浮かんだ。
「―やはり逃げようと思ったのですか?」
 切れ長の双眸に、警戒の色が濃く浮かび上がる。サヨンは笑った。
「ううん、その反対よ。あなたの方がもうここには二度と帰ってこないかと思ったの」
 一瞬の間があり、トンジュが眼を瞠った。
「まさか、俺がそんなことをするはずないでしょう。あなたを一人残してゆくなんて」
「そうよね。あなたは責任感のある人だもの。私が邪魔になったって、ここに置き去りにしたりはしないわよね」
 サヨンが頷くと、トンジュが微笑んだ。
「埒のないことを考えないで下さいね。ここに残してゆくくらいなら、最初から連れてきたりはしませんよ」
「お疲れさま、遠い道程で、疲れたでしょう。ちゃんと夕ご飯を用意してあるのよ。信じられないかもしれないけれど、腕によりをかけたの。私の作ったものだから、お腹が痛くなったときのためのお薬もちゃんと呑んでね」
 ふざけて言った時、ふいに引き寄せられ、強く抱きしめられた。
「何て可愛いことを言うんだ、あなたは。お嬢さま、俺は助けてあげると何とか言って、お嬢さまを結局は騙す形でここに連れてきてしまいました。名家の令嬢を攫って逃げたこの罪は、自分が一生背負っていかなければならないと腹を括っていたんです。でも、今のあなたの言葉を聞いて、あなたには申し訳ありませんが、あなたをここに連れてきて良かったと思った」
 トンジュの胸に抱かれていると、どうしてだか胸の鼓動が速くなる。サヨンは照れくささのあまり、トンジュの胸を軽く押した。
「お腹が空いたでしょ? 早くお夕飯にしないと」
 紅くなった頬を見られたくなくて、サヨンは急いで先に立って家に入った。
 外に立つトンジュがサヨンの背に回していた手を握りしめ、悔しげに拳を見つめていたのにも気付かずに。―それが原因で、すべての歯車が噛み合わなくなってしまうとは、その時、想像だにしなかった。
 
 家に入ってきたトンジュはサヨンが並べた卓の上の夕飯には見向きもせず、背負って帰った袋を覗いている。
 少し大きめの卓には、丁度、二人が向かい合って食べるに手頃な大きさだ。卓の上には炊き上がった飯と猪肉の燻製、更にサヨンの奮闘の成果―例の焼き菓子が山盛りになっていた。
「トンジュ、話があるの」
 サヨンは居住まいを正した。
「何ですか?」
 トンジュはサヨンの方を見もせずに、気のない口ぶりで相槌を打つ。
「ここのところのあなたを見ていて、私なりに考えたのよ。あなたは私のために毎日、身を粉にして働いている。でも、私はといえば、家で安穏に暮らしているだけ。それでは、いくら何でも、あなたに申し訳ないわ。私にもやればできることがあると思うの。だから、自分が得意なものの中で仕事になりそうなものを考えて―」
 しかし、トンジュはサヨンに皆まで言わなかった。
「その必要はありません。あなたは今も食事の支度や洗濯といった女の仕事をしている。今更、他に仕事をする必要もないでしょう」
 不運にも、サヨンはその台詞を誤解してしまった。
「大丈夫、他の仕事を始めたからといって、家事をおろそかにしたり手抜きはしないから、安心して。もっとも、今だって、食事は殆ど、あなたに作って貰ってるし、私がしていることといえば洗濯と掃除くらいのものだけどね。お料理もトンジュに教えて貰って、これからは、まともなものが作れるように頑張るわ」
「頑張る必要なんて、ないんですよ」
 サヨンはトンジュの口から出た冷ややかな台詞に硬直した。
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